田原裁判官に対する評価(私見)

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※ 評価に当たっては、民事、刑事、公法関係事件という3つのカテゴリーに分けつつ、①具体的妥当性を図っているかどうか、②判断理由を丁寧に説明しているかどうか、③法規の実質的な趣旨解釈をしているかなどを中心に評価する。

経歴は弁護士出身であり、複数の反対意見および意見を積極的に示している。他方で、補足意見を示すことは少ないように私見は感じている。自分の考えを国民に対して示そうとしている姿勢は、一部の多数意見への同調を繰り返す裁判官より、独立して良心に従って行動しており、高く評価できる。

そこで、以下、田原裁判官の意見・反対意見を中心にその是非について、私見を示したい。



1.民事事件の判断について

民事事件においては、被害者救済という観点から、不法行為に基づく損害賠償請求の除斥期間の経過という問題点につき、田原裁判官は、そもそも、民法724条後段の期間についての規定を時効と考え、民法160条の直接適用をすべきという見解に立っている。

しかしながら、現在の実務は、除斥期間と解するのが通説であり、田原意見は、実務に与える影響は少ないとの論法から判例変更を説くが、この点には賛同できない。

長い年月により積み重ねられた法的安定性を害するものであって、論理を重視して、現状を軽視していると私見は評価する。

やはり、この問題においての解決は、那須裁判官や近藤裁判官の示した、除斥期間であることを前提に、民法160条の類推適用という論法が、実務に与える不必要な混乱は避けられるのであり、画期的な判断であると考える。

したがって、田原意見には賛同できない。

ヤミ金からの損益相殺の抗弁についても、被害者救済の観点から、不法原因給付の趣旨を優先させており、事件における具体的妥当性を図る姿勢が見て取れる。

しかしながら、多数意見が示すように、ヤミ金に不利な損益相殺の抗弁排斥という一般論を示すことに消極的な姿勢を示している。私見はできる限り最高裁として、同種事例に対する一般論を示すのが妥当だと考えるため、この点についても多数意見の方が明確であり、国民に対する基準を示すものとして、解りやすいと考える。

したがって、田原意見が特段評価に値するとは考えない。



2.刑事事件の判断について

刑事事件の判断で特に検討べきは、名倉防衛大教授が被告人となった満員電車での痴漢冤罪事件の田原反対意見である。

まず、那須補足意見(無罪判断)が、被害者の供述の信用性につき、具体的・真摯というような抽象的な評価で判断するのではなく、「合理的な疑いを超えた証明」の視点から、補強事実、補強証拠、および間接事実に照らした経験則判断のあり方を説き、安易に判決文において、供述を「具体的かつ詳細」と評価して、有罪判断の慎重さを欠く傾向にある下級審裁判官に向けて、警鐘と具体的な指針を発信しているのに対し、田原反対意見は、この点を軽視していると言わざるを得ない。

田原反対意見は、供述内容が首尾一貫している点のみを指摘し、信用性があるとの結論に至っているが、那須補足意見が指摘するように、安易な具体的・真摯という評価に対する批判について、十分な反論をしていない

那須補足意見が指摘するように、検察官との打ち合わせ過程を通じて、首尾一貫した供述をすることはかなり容易になるのであり、そうした捜査の現実を十分に考慮した常識的な判断とは言い難い

首尾一貫している点についても、どの点がどのように首尾一貫していると判断しているのか判然とせず、その説得力を欠く。

この事件における田原意見は、痴漢冤罪事件に代表される密室司法、人質司法と言われる刑事手続き上の問題を軽視していると評価できるのではないだろうか。

他方で、和歌山カレー毒物混入事件においては、多数意見に同調し、無罪推定という一般原則の運用にとりわけ慎重な姿勢を示している点は評価すべきである。

もっとも、最決平成20年11月10日のわいせつに関する反対意見は、私見は賛同できない。田原反対意見は、形式的に、ズボンの上から臀部を視ることがわいせつの定義に当たらないと判断している。

田原反対意見は、論理的には一見すると説得力があるようにもみえる。

しかし、本件で最も重要なのは、「女性の臀部をたとえズボンの上からであったとしても無断で撮影する行為が、社会通念に照らして許されるべき行為であるのか、それとも、被撮影者にとって、羞恥心を生じさせ、不安を覚える行為なのかどうか」という1点である。

さすがに、常識的な判断として、このような行為がわいせつに当たらず、撮影可能だと考える人間はごく少数に限られるのではないだろうか。

女性の被害感情を十分に考慮しておらず、社会的常識を欠く判断だと私見は評価する。



3.公法関係事件の判断について

憲法関係訴訟においても、多くの意見、反対意見を示しており、独自の思想・良心のみにい従い、裁判官の役割である憲法の番人としての機能を果たそうとする姿勢は、高く評価すべきと考える。

しかし、その内容については、疑問を感じる点が少なくない。

まず、広島市暴走族条例事件について見るに、確かに、憲法学的には、委縮効果に対する考慮を十分しており、その重要性を説いている点は高く評価すべきである。

しかしながら、精神的自由と言うだけで、厳格な審査基準を単純に用いることは躊躇されるべきであるし、集会といえども、他人の生命身体を害するような集会は、当然制約を受けなければならないはずである。

であるならば、法律の目的等から限定解釈をできるかどうかを十分に考慮すべきであり、多数意見(および那須補足意見)は、規定の文言からも、「暴走族」という表現から、社会通念に照らし、規制対象の範囲が明らかであるという実質的な判断をしているのに対し、田原反対意見はその点に対する言及が不十分である。

田原反対意見を見ると、多数意見はあたかも緩い審査をしているように思えるが、那須補足意見が示すように、規制対象を相当厳格に限定しているのであって、同条例の目的を考慮するとき、合憲限定解釈を放棄して、同条例を違憲無効と断するのは相当ではないと考える。

選挙訴訟に関しては、政党政治をどの程度重要視するかという価値判断に影響されるものであると考える。

私見は、現代民主主義国家においては、政党政治が政治の本質的な機能を担っていると考えるところ、ある程度、政党所属候補が事実上の優位に立つのは仕方ないことと見るのが相当であると考える。

また、政党に所属しない候補であっても、告示前であれば十分インターネット等の通信技術を通じて、自分の主義主張を訴える活動をすることができるのであり、従来のように、選挙カー、拡声器、政見放送と言った方法に、政治活動が限られる時代ではない。

そうすると、事実上の差異は未だ国会の立法裁量の範囲内にとどまっていると言うべきであろう。

次に、空港騒音訴訟では、被害者救済のために、一定期間の将来給付についても認めようとして、具体的妥当性を図った反対意見を示している。

これは、多数意見には欠けている視点であり、実質的な法律の解釈を行う姿勢が見て取れるのであり、この事件において、かかる反対意見を付したことは高く評価すべきと考える。

しかしながら、田原反対意見は、那須反対意見と異なり、将来給付の要件を定めた従来の判例を変更しようとするものであり、これは法的安定性との関係で、十分な考慮を要するところである。

那須反対意見のように、判例変更を生じなくとも、被害者救済が図れるのであれば、そちらの方が妥当であるのは、法的安定性との関係でも明らかであろう。

したがって、この事件における田原反対意見についても、結論的にはそれほどの評価には値しない。

君が代伴奏判決については、田原裁判官は、「伴奏拒否が一般的には歴史感に結び付かず、客観的に外部に表明する行為」なので制約に服するとした杓子定規な多数意見の理由づけにに同調しており、それ以上の補足意見等は示していない。

いつも、意見や反対意見を示す同氏の姿勢からすると意外性すら感じる。

那須補足意見が、原告の信念とその重要性に言及しつつ、他の参列者や学生の利益との関係、公務員であることの関係から制約を甘受すべきという丁寧な倫理展開をしており、高く評価すべきなのに対し、田原裁判官はそうした言及や那須補足意見に同調することなく、多数意見のみの浅い検討を持って足るという判断であり、精神的自由の中でも特に慎重に判断すべき、思想・良心の自由をあまりにも、軽視しているという評価も可能であろう。


4.結論

以上の考察から、独立して、自分の見解を示そうとする姿勢は十分伝わってくるし、具体的妥当性を図る姿勢もある程度て取れる。

しかしながら、田原裁判官の意見、反対意見を考察するに、私見の考える社会的常識、社会通念からは疑問が残る判断も多々ある。

また、民事事件を中心として、田原裁判官の判決理由をみると、法的安定性を軽視しているように思われる点も見受けられる。

したがって、私は、田原睦夫裁判官は、社会通念とのかい離している判断が散見され、法的安定性の軽視している判断が多いとの評価から、最高裁裁判官としてはふさわしくなく、罷免相当と考える。

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