コメントへの応答(不定期)

12/20/2009

コメントに対する応答コーナー(19日に頂いたものについて)

コメントに関する回答です。

憲法に定める正当な手続きで選ばれた者の発言こそが正しいというのなら、ヒトラ。ーのナチ政権も、戦前の我が軍国政権も皆正当な手続きによって行われた政治です。
 今回の事件も、問題は、単に手続きが正当と言う外見上の問題ではなくその発言の発端が、個人の政治家の思惑によって為されたという本質にあります。
 政治の場に於いて、外見が正当で真っ当な手続き等という者は当然にして当たり前のこととしてあります。
 独裁者は、常に、熱狂的に迎えられます。そして常に、定められた正当な手続きによって独裁者の意図は具現化してきました。
 憲法の定めがどう有れ、今回の発言の法的根拠がどう有れ、小沢独裁政治が露呈した最初の瞬間です。
 手続きが正しいかどうか出はなく、その実相が如何なるものかを見極めることこそ必要なことです。

投稿: 傍観者 | 2009年12月19日 (土) 09時55分

>傍観者さん

まず、「ヒトラーとナチ政権も、正当な手続きによって行われた」という認識には著しい事実誤認があると考え、私は賛同しかねます。

ヒトラーおよびナチは1923年にミュンヘン一揆を行っています。この時から、ヒトラーおよびナチは違法行為による政治手法に訴え始めます。実際、この事件で、ナチは非合法化されましたし、ヒトラーも逮捕され、終身刑が確定しました(Gilbert & Large, p251)。この時点において、既に、ヒトラーおよびナチが正当な手続きによっているとは評価できません。

そして、1933年には全権委任法が制定されました。この時点で、ワイマール憲法は実質的に、憲法たる存在意義を失い、死んでしまったわけです。つまり、全権委任法の制定行為も、当時のワイマール憲法との関係では、違憲な法だったといえます。

したがって、ヒトラーおよびナチ政権はその成立過程から、国民の自然権たる言論の自由や財産権等々を侵害する違憲なものでした。

さらに、貴殿はヒトラーが国民の大多数の熱狂的支持を受け、その首相(Chancellor)の地位についたと思われているようですが、これも歴史的事実と反します。

アラン・ブロック(Alan Bullock)の著書、「Hitler A Study In Tyranny」p137-138は、ヒトラーの首相就任につき、以下のように記述し、当時のドイツ国民の過半数以上の民意がヒトラーの首相就任に反対であったと評しています。

Before he came to power Hitler never succeeded in winning more than 37 per cent of the votes in a free election. Had the remaining 63 per cent of the German people been united in their opposition he could never hoped to become Chancellor by legal means; he would have been forced to choose between taking the risks of a seizure of power by force or the continued frustration of his ambition.

概略しますと、以下のようになるでしょう。

ヒトラーは、自由選挙において、37%以上の得票を獲得することは一度もなかった。残りの67%のドイツ国民は、一致してヒトラーが権力の座に就くことを反対していたのであり、このような状況で、ヒトラーが首相に合法的になることを望むことすらできなかった。そこで、ヒトラーは、強制力により権力を得るというリスクを取るのか、それとも野望による葛藤を続けるのかという選択に迫られていた。

また、私は、他のコメントに対しても述べましたが、形式的法治主義は危険であり、法の支配の理念こそが重要であると答えてきました。

これの意味するところは、ヒトラーおよびナチ政権が行ったような、違憲な法律、国民の有する自然権を侵害する法律を作り、それらの違憲な法律に従っていることのみで、政府の行為を正当化する考え方である形式的法治主義は許されないということです。

素晴らしい人権規定が謳われていたワイマール憲法があったにもかかわらず、ナチスの台頭を許してしまったのは、当時のドイツ国民の貧困等による無知が、その憲法の精神を理解せず、法の支配ではなく、形式的法治主義を容認してしまった、または容認せざるを得ない状況と作ってしまったことにあります。

このような考察からすれば、むしろ、「我が国の憲法が意味する象徴天皇制は何か」、「国事行為を内閣の助言と承認を必要とすると定めた精神は何なのか」、「天皇に国政に関する一切の権能を認めないと定めた精神は何か」を探求し、憲法学説の多数説が、天皇の国事行為および公的行為について、内閣の意思の下に置くべきとし、その観点から今回の政治問題を考察することは、法の支配の理念に即したあるべき姿なのではないでしょうか。

私は、宮内庁長官という一官僚に過ぎない立場の者が、形式的な30日ルールを盾にし、内閣のコントロールに反するような行為を行うこと、および、それに賛同する方が形式的法治主義の最たるものであり、不適切だと思います。

小沢幹事長も、小泉元首相もそうですが、彼らのリーダーシップは従来の日本の政治家に比べると、強いものであり、それを独裁的と評したくなるのは理解できますし、そういう批判は妥当なものだと思います。

しかし、ヒトラーが行ってきた違憲、違法な独裁政治状況と、小沢幹事長や小泉元首相の実践している独裁的リーダーシップによる政治状況とは、本質が違います。

後者は基本的に、ミュンヘン一揆のような違法性もなければ、全権委任法を制定するような違憲性もありません。これらを引き合いに出すことも、私は不適当であると考えます。

貴殿の「憲法の定めがどうであれ」という発言部分は、形式的法治主義のような思考であり、法の支配という現代憲法の根本原理に反する危険な考え方であると私は思います。

なお、上記に引用した本は以下のものです。英語ですが、バランスのとれた視点でヒトラーとナチドイツ時代をわかりやすく記している本です。

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12/19/2009

コメントに対する応答コーナー(18日に頂いたものについて)

引き続き、天皇の中国副主席との官兼問題に関する憲法的考察に関連して、18日中にいただいたコメントへの回答コーナーです。

こんばんわ。
丁寧なご回答ありがとうございます。

>ただ、これを「命令」といえるかは疑問です。少なくとも私が目を通した憲法の著名な本には、命令であるという記述はありません。
>命令というのは行政法上、私人に対して作為不作為を命じるものと定義され、天皇は私人ではありませんから、命令とは言わないと思います。

なるほど。
「法学的な用語としての命令」と「口語的な用法としての命令」の違いでしょうか。

内容につきましては納得しました。ありがとうございます。

>次に内閣法制局の話ですが、おっしゃる通り、一義的には、自民党の長期政権および政治的主導力の欠如に責任があったと思います。自民党の政治家が指導力を発揮して、内閣法制局の改革をすれば、現状のような官僚による解釈権の支配という非民主的な事態は生じていなかったでしょう。

いえ、責任論ではなく「法制局のあり方が民主的かあるいは非民主的か」について、

1.歴代自民党政権は選挙によって選出された議員の投票により選出組閣されているため(間接的ではあっても)民意の反映と言える。

2.内閣法制局長官の任免は内閣による。このため内閣法制局長官人事も民意の反映と言える。また、法制局職員の任免は長官の権限となっているのでこれも同じ。

3.内閣法制局の見解に内閣と著しい齟齬があった場合、内閣によって法制局長官を罷免し新たな長官を据える事で内閣の見解に沿った法制局見解を取り付けることが(制度上)可能。

という点から、「内閣法制局が頑なに抵抗し、行政府の解釈を事実上独占してきたこと」を(歴代自民党政権が)許してきた事は民意の発露としての内閣の意思であり、すなわち(間接的ではありながらも)民主的なコントロール下にあると考えるのが妥当ではないかと思います。

>しかし、他方で、内閣法制局が頑なに抵抗し、行政府の解釈を事実上独占してきたことも紛れもない事実で、これは官僚という立場をわきまえていない行為で、私は妥当ではないと考えます。

内閣法制局設置法3条(所掌事務)を見るに、閣議にはかられる法律案や条約案の審査修正し内閣に上申することは法制局の職務であり、さらに上で述べたように「内閣法制局は民意のコントロール下にある」とするならば、「官僚という立場をわきまえていない行為」とするのには違和感が残ります。

憲法の言うように最高裁判所が唯一違憲立法審査権を持つと言うことに異論はありませんが、そのことと内閣法制局の在り方に矛盾は無いように思われます。

以上より、内閣法制局の在り方について「非民主的である」との批判は妥当ではないように思われますがいかがでしょうか。

投稿: discon | 2009年12月18日 (金) 02時12分

>disconさん

こんばんは。再度のコメントに回答します。

私は内閣法制局のあり方が民主的ではないと言っているのではなく、官僚に内閣が左右される実態が民主的ではないと考えています。

内閣法制局の存在が問題なのではなく、内閣法制局の解釈にそれを統括すべき内閣が拘束されてしまっている実態が、本末転倒で、内閣ひいては国会による民主的コントロールが、政府の法令解釈に対しても果たして及んでいるのかということを問題にしています。

内閣法制局そのものは必要です。しかし、そこの官僚の示す見解と内閣の意思に齟齬があっても、官僚に押し切られてきた実態が政治家に責任があるにしても、非民主的ということです。

特に、憲法解釈は、違憲立法審査権の存在により、司法権が唯一の有権的解釈期間ですから、内閣法制局の示す見解は単なる意見に過ぎず、それに拘束され押し切られてきた実態が私は問題だと思っています。

違憲立法審査権への言及は、マスメディアの報道も内閣法制局の見解があたかも判例のように扱っていることもおかしな話なので、内閣法制局の見解と司法権の示す判例という有権的解釈との違いを明確にするために、司法権との対比をしているわけです。

形式的な判断ならそうかもしれません。「形式的」には。その内閣を実際に動かしてるのがいち政党の幹事長だ、ってことに目をつぶれば。小沢幹事長のあの逆ギレ会見を見れば、誰の指示だったかなんて一目瞭然でしょう。そういうところを考慮しないで形式だけに注目するというのは、現実を見てないんじゃないでしょうか。

与党とはいえ大臣でもない、ただの幹事長のごり押しで天皇陛下の行動が左右されて、それをマスコミが擁護する。30日ルールが憲法に則しているかどうか、なんて事よりはるかに「法治国家」としてのシステムを揺るがす事態だと思いますが。それでも「形式的には」整っているからいいんだ、というならもう何も言うことはないです。

投稿: aro | 2009年12月18日 (金) 03時13分

>aroさん

はじめまして。

私は形式的に考察したつもりはありません。記事やコメントに対する回答で何度も明確に述べていますが、この記事は憲法論としてどうなのかという視点から、発信している情報であって、小沢氏の政治的手法等々は別の問題であるとはっきり示しています。

むしろ憲法学の深い議論を念頭に、宮内庁長官の会見行為が内閣の天皇に対するコントロールという憲法上の要請を阻害するものであることを問題にしているわけです。

記事中にも、形式的に正しいので、すべて正しいなんていうことは一切言っていません。

30日ルールも現在の内閣の意思の下でそれが運用されるのであれば問題なく、私はそれが憲法に則していないなどという考察もしていません。

30日ルールを盾に、現在の内閣の意思に反するような羽毛田宮内庁長官の会見行為が問題であることを指摘しているわけです。

また、憲法の基本的理解に欠ける一部の新聞では、国事行為ではなく公的行為だから、助言と承認は必要がなく、宮内庁のルールが妥当するというかのような馬鹿げた議論をしています。公的行為でも当然内閣の意思の下に置くことが象徴天皇制の趣旨なのですから、こうした誤まった理解を頒布し、一定の危険な思想に誘導する現在のメディアには恐ろしさを感じたので、今回の記事を書きました。

 丁寧なご返答ありがとうございました。おかげ様でモヤモヤとしていた疑問が解消されました。
 要するに、矛盾する二つの要請をどう考えるかという問題に帰結するということですね。すなわち、日本国憲法の趣旨から象徴ないし天皇という存在をどう解釈するかによって、どちらの要請(助言と承認を経ているから政治利用が可能とするか、あくまで謙抑的にすべきと解するか)を重視するかが決定される。その意味で小沢氏の発言も正しく、他方批判の声も筋が通っている。憲法は矛盾を抱えているという共通認識を理解してほしいということですね。大変納得いたしました。

投稿: しげ | 2009年12月18日 (金) 17時36分

>しげさん

再度のコメント有難うございます。貴殿の疑問の解消になれば幸いです。

おっしゃるような理解で良いと思います。

ただ、一部メディアでは、公的行為は内閣の助言と承認が不要という部分だけを取り除いて、戦前の天皇制を認めるかのような議論がなされていることに私は強い危惧を感じます。

以前にも指摘しましたが産経新聞は、とりわけ、憲法議論を通説の理解するところから外れ、マイナーな見解をあたかも憲法学の共通認識かのように報じます。こういう誤まった情報が広まるのは非常に危険ですね。

公的行為を認めるにしても内閣の意思の下に置かなければならないことは憲法学上の共通理解です。

その上で、内閣が政治的色彩の強い行為を天皇に行わせる場合はどう考えるべきかかという次の問題点が出てくることになり、渋谷先生のような考え方があるわけです。

いずれにしましても、多数説、有力説(高橋和之先生の10号該当という見解)の考えからすれば、小沢幹事長の考え方は正しく、宮内庁長官による30日ルールを破ったという批判は、現在の内閣の意思よりも、宮内庁のルールを守れということにつながり、これは民主主義から大きく外れる危険な発想と私は思います。

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12/18/2009

コメントに対する応答コーナー(17日に頂いたものについて)

以下、17日までに頂いたコメントと私の回答です。

回答ありがとうございます。

>貴殿の言われる命令がどういう意味として使っているかが解りませんが

少し舌足らずで申し訳ありません。
「命令」は拒否権を与えない依頼とでも言いましょうか。

(ESQさんの追認になってしまいますが)憲法を読んでいますと、天皇は「国政に関する権能を有しない」かつ「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と書かれていますので、内閣の「助言と承認」があった場合「国政に関する権能を有しない」が故に天皇に拒否権は無い。

つまり内閣による「助言と承認」は実質的に天皇に対する「命令」(職務命令と言ったほうが近いかも)であると読めるのですが間違っていますでしょうか。

>法制局については、法制局の存在が問題といっているのではなく、政府の憲法解釈をそこが独占し、歴代内閣による変更を許さない状態にあることが非民主的だと言っているわけです。

ちょっとよくわからないのですが、「法制局の局長を時の内閣が任命できる」、かつ、「内閣法制局には憲法解釈の有権的権限を憲法が認めている規定は一切無い」のであれば、「時の内閣に有利な見解を出す法制局長を任命し内閣の見解に沿った法制局見解を出させれば良い」のではないでしょうか。
#制度上そうは出来ないようになっているのでしょうか・・・?

>しかし、それがあたかもすべての行政機関を拘束する解釈権限を有する組織として事実上扱われ、歴代内閣による変更を阻むことすらあることが非民主的だと考えるわけです。

前内閣までの歴代総理大臣を(一部の例外を除き)自民党の総裁が占めていましたので、歴代内閣による変更を「法制局見解を自民党見解としたことによって」阻まれ、さらにその自民党の内閣が行政府の長であったことによって、行政機関が法制局見解に縛られていたことは法制局の職能に帰する問題では無く、自民党による長期政権であったことに帰するべき問題であるかと思いますがいかがでしょうか。

投稿: discon | 2009年12月17日 (木) 0時38分

>disconさん

国事行為に内閣の助言と承認が必要とするのは、天皇の国事行為について、内閣の意思の下に置くという趣旨です。また、象徴に基づく天皇の公的行為も、内閣のコントロールの下に置くことが要請されています。

これに対し、天皇が拒否できるのかという点ですが、先ほども書きましたが、天皇は拒否しないという性善説を前提としており、憲法はそこまで想定していません。

象徴ですから、国民の選んだ国会議員により信任されている内閣の意思に反することはしないという暗黙の了解があるともいえそうです。

イギリスでも、こうした議論はされていて、イギリスの陸軍は、Royal Armyなどと王室の軍隊で、その指揮権は女王陛下にあることになっています。

女王陛下が首相の判断に逆らって、兵を出さないという事例は机上の議論としては面白いですが、そんなことをすれば、国民の選んだ内閣の判断に逆らうこととなり、民主主義の否定になるので、イギリス国民は許さないとイギリスの法律学者から学んだことがあります。

日本の天皇制についても同じことが言えるのではないでしょうか。

なお、国事行為の実質的決定権の所在については、他の条文との関係で、内閣または国会にあると考えていくことになると思います。

また、貴殿のおっしゃるように、憲法の明文に拒否できると読み込む余地はないですから、国事行為についての拒否権はないと考えるという考え方も説得力があり、妥当のように思います。

渋谷秀樹「憲法への招待」p151も「『国民=国政の最高決定権者、天皇=国民の決定に従う人ということを明示したのです』」と指摘しており、渋谷先生の考え方は貴殿の御考えの「天皇には拒否権がない」という理解と共通しているのだと思います。

ただ、これを「命令」といえるかは疑問です。少なくとも私が目を通した憲法の著名な本には、命令であるという記述はありません。

命令というのは行政法上、私人に対して作為不作為を命じるものと定義され、天皇は私人ではありませんから、命令とは言わないと思います。

次に内閣法制局の話ですが、おっしゃる通り、一義的には、自民党の長期政権および政治的主導力の欠如に責任があったと思います。自民党の政治家が指導力を発揮して、内閣法制局の改革をすれば、現状のような官僚による解釈権の支配という非民主的な事態は生じていなかったでしょう。

しかし、他方で、内閣法制局が頑なに抵抗し、行政府の解釈を事実上独占してきたことも紛れもない事実で、これは官僚という立場をわきまえていない行為で、私は妥当ではないと考えます。

法律学的見解から「公的行為」が「国事行為に準ずる行為」であることが証明されていませんが、法律学とはそのようなものなのでしょうか?そうだからそうなのだ、というように感じられました。さらに、「国事行為に準ずる行為」が「国
事行為」に当たるというようにも読めるところも解せません。
どのあたりが法律学に基づいているのか、法律の素人にも分かるように説明して頂けると助かります。

投稿:  | 2009年12月17日 (木) 2時36分

>無記名の方

名前の記載がない場合は今後回答しませんので、よろしくお願いします。

以下、多数説に従った見解を紹介します。

公的行為というのは象徴にという地位に基づく行為です。たとえば、旅行に行くとか、生物学的な研究を行うとかは、私的行為ですが、親善外交などは、私的行為とはいえず、7条各号に列挙された国事行為にも当たりません(この点、有力説は10号の儀式に当たると考えますが、なぜそう考えるのかは説明を省きます。興味があれば、高橋和之「立憲主義と憲法」p44をご参照ください)。

したがって、親善外交等は天皇の象徴という地位に基づく公的行為と解することになります。

公的行為は、私的行為と違う以上、内閣のコントロールを及ぼす必要があります。なぜなら、これらの行為を野放しにするのは、戦前の明治憲法下の君主制に回帰することにもなり危険で妥当ではないからです。

そこで、国事行為に準じるものとして、内閣のコントロールを及ぼしていく考えるというのが憲法学の多数説の見解です。

前掲渋谷p156は、「天皇が憲法で規定された国事行為ではないが現実には公的な行為をしているのですから、そのような行為を現行憲法の基本的な理念と制度にふさわしいものとするために、内容を限定し、それを内閣、そして最終的には国会のコントロールの下におくということが重要でしょう」と述べています。

渋谷先生の御著者は丁寧にこの辺の議論を整理して、多数説の問題点も指摘されています。

興味が御有りでしたら、渋谷先生の御本や既に何回かこのブログで紹介している長谷部先生や高橋先生、芦部先生、さらには、四人本と呼ばれる憲法の本がありますので、参考にされると良いと思います。下記に掲示しておきます。

一番詳しいのが、左から3つ目の四人本と呼ばれるものです。私として、一番左にある渋谷先生の御著書がコンパクトで読みやすく、この問題を理解する上でも必要十分だと思います。

論理的には正しいと思います。ヒットラーやスターリン、古くはジャコバンの政治が法的に正しいのと同じくらいに。
しかし、多分、「法匪の論理」としか働かないと思います。

投稿: KU | 2009年12月17日 (木) 6時52分

>KUさん

はじめまして。

私は、ヒトラーやスターリンが法的に正しかったという貴殿の御意見には賛同いたしかねます。彼らについては国際法上の違法行為(Crime Against Humanityなど)があったと考えております。また自国民への虐殺行為は国内法における殺人罪を構成し、到底法的に正しいことを行ったとは言えません。

法律論はともかく、今回の状況として。
百数十名の自派の国会議員を引き連れて彼の国の元首に拝謁し、記念写真を撮る栄に浴し、膝を折って友好親善を要請してきた身としては、例えそれが慣例に反する以来であったとしても、受けざるを得なかったというのが今回の事件の有様ですね。
 だから、俺のメンツを潰すかと恫喝して、強行を迫る。
 それは明らかに、内閣の助言と承認という原理とは遙かにかけ離れて逸脱していると言わざるを得ません。
 形式論で考えると誤ります。

投稿: 傍観者 | 2009年12月17日 (木) 8時24分

>傍観者さん

はじめまして。

記事の最初でも断ったように、憲法学的に考えればどうなるかということを示すことがこの趣旨です。間違ってほしくないのは、そのことと小沢幹事長の政治手法に対する評価は別物ということです。この点は記事に明確に示したつもりです。

また、法律的に物事を考えるのは重要です。法治主義は良くありませんが、法の支配は民主主義および自由主義を支える根本的な価値観です。

永住外国人の地方参政権の問題もそうですが、この種の話題においては、好き嫌いという感情論に走る前に、「憲法論的にはどうなのだろう」、「通説的理解はどうなっているのだろう」、「判例はどういう立場なのだろう」と立ち止まる姿勢が、嘘の情報に騙されないためにも、私は重要だと思います。

こんにちわ
とあるブログからこちらのブログを知り、今回の記事を読んで、明快な分析に非常に感銘を受けました。

さて先日以下のような事件が起きました。

http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-424.html

事件のくわしい背景や状況は以下のブログがくわしいようです。

http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20091215
http://d.hatena.ne.jp/kiimiki/20091208/1260279562

もしよろしければ、お暇なときにでもこちらで、朝鮮学校が公園を授業に使用していたことの違法性を分析していただけないでしょうか?
在特会という団体が、朝鮮学校が公園に設置したゴールポストを動かしたり、利用する子どもの安全のために設置されたスピーカーの線を切り、朝礼台と一緒に校門前に投げつける行為は法的に許されるのでしょうか?

投稿: とるねーど | 2009年12月17日 (木) 9時18分

>とるねーどさん

初めまして。コメント有難うございます。感銘を受けたとのコメント嬉しく思います。

ご質問の件ですが、このブログでは、私の気になったニュース等に対する私見の1つとして、法的観点からの意見を紹介することはありますが、そういう形ではなく、個別的事案の法律相談に該当するような質問には応じない方針としています。

個別具体的事案において、法的な問題がある場合は、地域の弁護士会や行政機関等が主催する無料法律相談、又は直接、弁護士等に相談することをお勧めします。

貴殿の御質問は、特定の団体の行為が含まれており、事実関係も現在進行中の具体的事件を対象にした質問となっていますから、インターネット上で御伺いした情報だけで、私が違法とか適法という判断を示すのは不適当であると考えます。

申し訳ありませんが御理解のほどよろしくお願いします。

日本人は過去の戦争を反省しているのです。だから、今回の件には感覚的に反対できるのです。多分、それを理解できないのは、その感覚が無いかわからない人だと思います。そして、いくら理論的に説明してもその感覚は動かないと思います。

今回の件について言えば、会った相手が重要かどうかだったということは基本的に関係ありません。法律ではないとはいえ、政権がルールを破ったことが問題と感じるわけです。反対している人は、こういう行為から過去の戦争につながったことを知っているからです。宮内庁長官が直接国民に訴えた理由も多分そういう感覚から生まれているのではないでしょうか。

憲法論等からはずれた内容になってしまっていますが、天皇制は非常にデリケートなものと言われているように、こういう感覚を大事に思っているかどうかで最終的に判断されているのではないかと思います。それこそ法律的には問題無い等の杓子定規で運用されることも同様に問題と思う人も多いはずですので、理論的に説明する場合でも、この観点は重要になるはずです。

投稿: bb | 2009年12月17日 (木) 16時30分

>bbさん

貴殿の御意見は御意見として理解しましたが、私は賛同しません。

なぜならば、そもそも1カ月ルールと称するものに、内閣のコントロールが及んでいないとすれば、これはもはや憲法の予定する象徴天皇制とはいえないからです。それこそ、戦前のように天皇の自律的な行動を認めることにつながります。このような考え方は現行憲法によりはっきりと否定されているはずです。

宮内庁という一行政機関が、内閣の意思に反するルールを盾にすることの方が、私は問題だと思います。宮内庁は国民の審判を受けていません。

他方、内閣は、国民により選ばれた国会議員により信任を受け、国会のコントロールが及んでいるわけです。

我が国が民主主義、自由主義を基調とする立憲国家であることからすれば、宮内庁の意思より、内閣の意思によるコントロールが天皇の国事行為および象徴としての公的行為に及ぶことの方が私ははるかに重要であると考えています。

はじめまして。リンクをたどってきたところ、丁寧な文章と明確な論理で書か
れており、興味深く拝見させていただきました。読んでいるなかで疑問が生じましたので、1点質問させていただきたく存じます。
 自主的に行うのではなく、内閣の助言と承認を経るから天皇の国事行為・公的行為が形式的・儀式的なものになるというのは理解できます。しかし、この結論から、形式的・儀式的な公的行為を内閣が政治的に利用できないと直ちにいえるのでしょうか。助言と承認は天皇側からの政治関与を防ぐものですが、内閣の側が天皇を政治の世界に引き込んでよいのかというのは別問題とも考えられます。
見る限り、大方の批判がこの点からでてきているように思われるからです。
 あるいは、助言と承認を経る以上純粋に政治性のない国事行為・公的行為は存在しないと考えた場合でも、憲法の趣旨から考えて上限は存在しないかが問題になりそうな気がします。どうも私自身が論理誤謬に陥っているように思えますので、ご指摘頂ければ幸いです。

投稿: しげ | 2009年12月17日 (木) 17時14分

>しげさん

はじめまして。コメント有難うございます。

なかなか鋭い視点ですね。結局、天皇が政治的色彩を帯びることへの懸念ということなのでしょうが、そもそもその懸念は、象徴という曖昧な地位を認めていることに内在する矛盾なのだと思います。

天皇は国事行為に列挙された行為以外はできないという規定があれば、たとえば、内閣による衆議院の解散権についても、内閣の助言と承認により内閣が責任を持つ以上、結果として、天皇の行為は形式的、儀礼的なものにとどまり、政治的色彩を帯びないということになるでしょう。

しかし、象徴として、親善外交等々の列挙事由以外の行為かつ私的行為とはいえないものを認めてしまう以上、国事行為では説明ができなくなってしまいます(もちろん、有力説として国事行為に含める説もあります)。

そこで、多数説は、公的行為というものを観念するわけですが、これにより、皇室外交を行わせると、それが有効であればあるほど、政治的色彩を帯び、象徴にとどめて、法的権限のある国家機関とは違ういわば、「イメージに止めた」趣旨から反することになります。

つまり、天皇の政治的色彩を弱めようする要請と、象徴たる地位から公的行為を観念し内閣のコントロールに服させようという要請はどうしても矛盾を生じる関係にあるのだと思います。

こうした批判に、多数説は、私的行為として野放しにするより、内閣の意思の下に置く方が安全であり、この矛盾は仕方ないと反論します。

また、多数説を一歩進めて、前掲渋谷p157は、「公的な行為はその範囲が拡張してしまうおそれがあり、また政治的思想から公的な行為が選択的に実行されるおそれもあるわけですから、内閣の助言と承認にとどまらず、事前に国家の承認を必要とするなどのような、より明確な歯止めを置くべきです。」という提案がなされることになるわけです。

したがって、貴殿の抱かれた疑問は、こうした多数説の矛盾によって生じるものなのではないでしょうか。

私が、あくまで、小沢氏の発言の方が、憲法上正しいという記事を書いたのは、このような多数説や有力説からすれば、天皇に政治的色彩が及んでしまうのは仕方ないことであり、それを緩和するために、内閣の意思の下に置くことが国民主権から要請されるという憲法学の共通認識部分をまずは理解してほしいと思ったからです。

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12/17/2009

コメントに対する応答コーナー(16日に頂いたものについて)

昨日に引き続き、今日も訪問者がかなり多く、コメントもいつもより多いです。折角ですので、昨日の質問と回答も合わせて、コメント欄における返答ではなく、ブログ記事内で、皆さんの丁寧なコメントとそれに対する私の見解を紹介する形にしたいと思います。

読者の方から送られたコメントは、不適切と考えるもの以外は、私の見落としがない限り、ここで紹介し、かつ、コメント欄でも公開しておこうとおもいます。

なお、繰り返しになりますが、個々のコメントへの返信をする前に1点注意させていただきたいことがあります。

16日の7時36分頃、「一」というニックネームの方から、特定の政治家に対する殺人予告とも取られかねない表現を含んだコメントが寄せられました。

管理人として、このような公序良俗に反し、刑法上罰すべき行為に当たりかねないコメントは、許し難く、ニフティーに通知の上削除し、公開致しません。

健全かつ法に適った言論活動を行う上でも、自身の御意見を表明したい場合は、法や公序良俗に反しない適切な表現行為で行ったほしいと願います。

それでは、以下、個別のコメントに対し回答いたします。

小沢氏に対する批判としては、そもそも小沢氏が「内閣」ではないというところに起因する意見もあると思いますが、いかがでしょうか。
つまり今回の招聘において内閣の指示は「従」であり、元は、民主党という政党の外交に利用されていると。これは政治利用にあたるのではないかと、個人的には感じています。

この部分についての見解を補足いただければ幸いです。

なお後半部分についてですが、現政権は、官僚とも、(同士であるはずの)閣僚とも圧倒的に意見交換が不足しているように感じますね。

投稿: Rucker | 2009年12月16日 (水) 10時39分

> Ruckerさん

はじめまして。コメント有難うございます。

確かに、小沢氏は内閣の一員ではありませんが、鳩山総理大臣を長とする鳩山内閣の助言と承認またはこれに類する内閣のコントロールに基づいて、天皇の国事行為または公的行為を行うことを決めている以上、私は政治利用という批判は妥当しないと考えます。

鳩山首相が小沢氏に従属しているかどうかという問題と、内閣の助言と承認に基づく天皇陛下の国事行為または公的行為なのかという話は別問題でしょう。

政党外交という点も、我が国は政党政治が定着していますし、鳩山首相は民主党の党首なのですから、政党外交も、外務省の外交もすべてその権限と責任は鳩山内閣の長である内閣総理大臣およびその内閣に依拠しています。

よって、天皇陛下の国事行為として、鳩山内閣の助言と承認を与えているのであれば、これは、法律上何の問題もないという結論に変わりはありません。

もっとも、記事でも示しましたが、小沢氏の政治姿勢などについては、憲法議論とは別に、政治家のあり方として議論の余地はありますが、メディアをはじめ、この種の問題に誤まった憲法議論を持ち出すことに危惧を感じます。

この件に関する報道に対して違和感を持ち続けてきましたが、このブログをみて、やっと確信が持てるようになりました。
私は中国が嫌いです、なぜならこの国は一党独裁国家であり、そのため自由がないからです。しかも、チベット・ウイグルなどで今でも残虐な行為を続けています。
しかし中国が嫌いだからという理由で、我が国の民主主義の精神を踏みにじる訳にはいきません。もしそれをないがしろにした場合、日本が中国よりすばらしい国であるといえるでしょうか?

投稿: 一般学生 | 2009年12月16日 (水) 11時31分

> 一般学生さん

はじめまして。コメント有難うございます。

おっしゃる通りだと思います。私も中国とは一定の距離間をもって外交に臨むべきだと思っています。中国ではまだまだ人権蹂躙が公に行われていますし、あくまで共産党独裁国家であるという事実に変わりはありません。民主主義が根付いているとは到底言えません。

しかし、おっしゃる通り、その問題と日本が民主主義の精神を規定した憲法に従って宮内庁ではなく、内閣が助言と承認を与えることは切り離して考えるべきで、後者の問題についての現在のメディアの理解には誤りがあると思います。

 天皇に対する内閣のコントロールが、積極的なものか消極的なものかの問題だと思います。
 自分は今回の内閣からの要請自体はさして問題はないと思いますが、天皇が拒否権を持たない以上、内閣が積極的に天皇を外交の手段として使うことは、内閣に事実上天皇に対する命令権限があることになり、これはあたかも天皇が内閣あるいは宮内庁の下部機関にすぎないような外形を備えることになるので、天皇の地位として不当だと思います。内閣からの命令を「助言」としてとらえるのには無理があるでしょう。
 ですから「助言」はあくまで文字どおりの助言としてとらえ、公正取引委員会などと同じように、天皇および宮内庁には高度な自主性を認めつつ、正当な理由がないのに助言を無視したり、国事行為や公的行為に政治的恣意性が認められる場合に限り、その作為または不作為を「承認」しないという拒否権が、内閣に認められるべきです。
 このように天皇に対する内閣の「コントロール」は消極的であるべきです。小沢氏の発言の問題点は、内閣は天皇に対する命令権限があり、民意を受けた内閣は天皇をいかようにでも操れるととれるような表現であったからです。我が国の天皇に対する一般的な感情は英国のものとは異なります。憲法で許されているからといって何をやってもいいというのは支持率の低下を招くでしょうが、その民意の反映は最長で4年後になるわけで、総選挙時の民意を盾に今現在の民意を無視してゴリ押しするやり方は、次の総選挙までの間、国民にとって専制に等しく、そのことに対する小沢氏の理解が欠けているという点が問われているのではないでしょうか。

投稿: gase2 | 2009年12月16日 (水) 11時52分

>gase2さん

はじめまして。

天皇陛下の地位についてですが、これはあくまで象徴であって、それ以外の役割は何も持たないことが憲法により明記されていると理解するのが憲法学上の通説です。したがって、統治機構とは切り離されたものです。

天皇の国事行為および公的行為をあくまで内閣のコントロールに服させることが憲法3条の趣旨ですから、天皇や宮内庁に自主性を認めることは、日本国憲法が予定するものではなく、憲法秩序に反します。したがって、私は妥当ではないと考えます。

憲法は最高法規であり、国政を考える上で、憲法により許容されるかどうかが一番重要だと私は考えます。

法的私もマスコミの扇動の仕方には以前から疑問を持っており、危惧しております。
根拠を使って学術論的にこの問題を丁寧に読み解く人が不思議なことに一人もいなかったため、非常に参考になります。

投稿: 通りすがり | 2009年12月16日 (水) 12時48分

>通りすがりさん

初めまして。コメント有難うございます。

参考になったとのこと幸いです。こういった国民の関心の高い話題だからこそ、法律の専門家、とりわけ、通説、有力説に依拠する学者は、積極的に情報発信して、通説的理解の共通認識をきちんと説明すべきなのかもしれませんね。

天皇陛下と習国家副主席との会見に付いての国民の捉え方。憲法上は小沢幹事長の考え方は正しいかと思います。ただ国民の気持ちからすると、VIPが天皇陛下と会見される場合、我々の常識では一ヶ月どころか、半年前に設定されるのではないかと、想像しています。にもかかわらず、急な用件でもないのに、突然会いたいと申し入れてきた中国の常識に私は腹が立ちました。メディアはその点を追究せず、宮内庁と小沢氏の喧嘩と捉え、面白可笑しく発信している様に思えます。ただ想像ですが、小沢党首が国会議員を140人も中国に連れて行き、胡錦涛国家主席と各々握手写真を撮らせて貰える事を条件に、中国の非常識な申し入れに応じたのではないかと国民は類推して、非難の声が上がったのではないかと思いました。私は胡錦涛主席がよく我慢して議員個別に写真を写させてくれたことだと感心しています。今回の多数の国民の非難は1ッカ月ルール云々でなく、写真を撮らせて貰えるという裏の為に、見返りに突然会見設定の負い目を持った事に対してではないかと私は思います。先生の憲法解釈記述とは別ですが、あえて今の気持ちを書かせて頂きました。

投稿: yumeoibitooda | 2009年12月16日 (水) 14時51分

>yumeoibitoodaさん

はじめまして。コメント有難うございます。

私は中国側と小沢幹事長の間のやりとりを知りうる立場にはないので、今回の記事はあくまで純粋な憲法学の視点から書いたものです。

貴殿の御気持ちは理解いたしました。

マスコミ側が、外国元首との会見は公的行為であり内閣の助言・承認は必要としない、と言い返しております。
このエントリーを読んだ私にはマスコミ側の無知がありありと分かるわけですが、しかし公的行為を内閣のコントロール下に置くべきかどうかは(多数派は置くべきとの考えだが)やはり議論もありますし一概に言えることでも無いような気がします。
それに「内閣の助言と承認」にも一定の節度という物が求められるべきであり、節度がなければ天皇は完全に内閣の駒となってしまいます。これは法律で決めてしまうと緊急時に柔軟な対応が出来ませんし、いきなり決めるというのも難しいでしょう。やはりそこはしきたりの様なもの(慣習法と言えるのかはよくわからないですが)で制限されるべきだと思うのです。それが今までの30日ルールなのではないのでしょうか?それは今まで必要であったから自然と確立された物であり、内閣が変わったからといって一瞬で変えることが許されるのでしょうか。たかが副国家主席ですよ。しかもかなりの友好状態にある中国の。

投稿: サテー | 2009年12月16日 (水) 14時54分

>サテ―さん

お久しぶりです。コメント有難うございます。

おっしゃるように、マスコミの報道の仕方には問題がかなりあります。それは先日私が産経新聞の永住外国人への参政権付与の問題についての報道で、判例につき誤まった理解があると指摘したことに代表されるように、法的議論を捻じ曲げて報道する偏向性が著しく、それを読者が正しいと理解してしまうことに危惧をしています。

この種の憲法上の議論には判例が存在しませんから、「誰が何を言ってもよい」と言われればそれまでかもしれませんが、私は少なくとも、通説、また憲法学において有力説と評される学説に対する法律家の共通認識をまず理解したうえで、少数説を紹介すべきだと思います。

自分の独自の憲法解釈をするのは自由にやって良いと思いますが、やはり、通説、有力説といわれるところの共通認識に対する敬意は示したうえでなされなければ、正しい法律議論とはいえません。

しかし、メディアはわけのわからない学者を専門家と称して、非常に偏った、法律界では相手にされないようなマイナー学説を通説かのように報じたり、通説の上っ面な結論(定義)のみを紹介し、その背景にある共通認識を報じません。

私の今回の記事で一番訴えたい点は、こうした誤まった憲法解釈議論をせずに、まずは通説と有力説に対する共通認識を理解すべきということにあります。

なお、御指摘の宮内庁の定めたルールですが、私は、憲法3条に定める内閣の助言と承認の範囲を実質的に制約するもので、民主的コントロールとして内閣の助言と承認に委ねた同条の趣旨に反すると思いますから、これには法規範性はないと考えます。

始めまして!
成る程、切り離して考えれば確かにその通りかも知れませんね。
でも切り離して考えれていないのは宮内庁や批判している側だけでは無いように見受けられます。
それ故の、『政治利用ではない』発言ですし。
なまじ批判側だけが切り離して語るとそれはそれであまり良くないような気がします。

また、政治利用としても相手に媚びていると思われる日程の組み方は、今後の利用のあり方についてもマイナスイメージだよな、と感じます。

投稿: | 2009年12月16日 (水) 15時18分

>最初の無名の方(15時18分ころに投稿された方)

はじめまして。次回からは何でも良いので名前を入れてください。私の返信の対象が不明確になりますから、よろしくお願いします。

「憲法上違憲だ」とか「憲法上許されない」という主張がマスコミに踊っていることに私は違和感を感じます。

もちろん、小沢氏に対する強引な手法への批判について、小沢氏が「憲法上許されているから良い」と反論している点は、憲法解釈としては正しいと思いますが、それが批判に対する応答方法や説明する態様として正しいかは別問題だと考えます。

あまりに、高圧的な態度はイメージ的にも良くないですし、疑問が残るでしょう。

私の記事は、あくまで、憲法という法的観点から、憲法学の通説的理解に基づいて考えればどうなるかということを示したわけです。

この点、上記にも書きましたが、マスコミが引用する専門家は憲法学者として通説的、オーソドックスな方ではない人の意見を引用し、それが通説的理解のように報じているので、「それは違いますよ」という情報を提供しようというのが今回の記事の趣旨です。

法律論的に正しければ、法で規制されていなければ、
何をやっても許されるべきですよね。
批判する方がおかしい。
法で決まっていないないんだから。

投稿: | 2009年12月16日 (水) 16時49分

>二番目の無名の方(16時49分頃投稿された方)

はじめまして。次回からは何でも良いので名前を入れてください。

無名の方が続きますと、私の返信の対象が不明確になりますから、よろしくお願いします。

法で規制されていなければなんでも許されるということですが、そのような考え方もありえるのではないでしょうか。

ただ、法律には民法90条の「公序良俗」とか、「過失」とか規範的要件がありますから、こうした規範的要件に当たるかどうかも含め、法の不知は違法性を阻却しないという刑法の法理に代表されるように、しっかり行動する側が判断しなければならないということにもなりますね。

参考になりました。

ところで、内閣の助言と承認は、閣議決定を経て行われるものだとされています。
宮内庁の官僚が行うことができないのはもとより、内閣総理大臣も内閣官房長官も、単独で助言と承認をすることはできません。
そうすると、小沢幹事長の言うように、今回の習近平副主席の接待を国事行為と捉えると、助言と承認の閣議決定がなされていない鳩山内閣の対応は、憲法違反ということになりますね。
もっとも、今回の件で個人の具体的な権利が侵害されているわけではありませんし、高度に政治的な問題は裁判の対象とはならないらしいですから、違憲を問われるような訴えを提起されることはないのでしょうけれども。

投稿: 難波拓矢 | 2009年12月16日 (水) 17時28分

>難波拓矢さん

はじめまして。コメント有難うございます。

おっしゃる通り、国事行為に対する助言と承認権限は内閣にあります。

仮に、今回の中国副首相との会見が親善外交として国事行為たる7条10号に当たるという説に立てば(高橋p44)、内閣の助言と承認が必要となります。

現段階で、閣議に上程されているのか私は把握していませんが、助言と承認は、通説に従うと、事前か事後のいずれにが閣議でなされれば良いということになります。

したがって、仮に、助言の段階で閣議に上程されていなくても、承認という事後的な上程で足ることになります。よって、現段階で違憲ということはいえません。

他方、公的行為であるという説(学説の多数説)に立てば、必ずしも閣議による必要はなく、内閣の助言と承認に準じて、内閣によるコントロールが及んでいれば良いということになります。

したがって、内閣総理大臣を長とする内閣が何らかの形で、決定し、その決定に従って、象徴たる天皇陛下が会見したのであれば、憲法上違憲の問題は生じないという結論になるのではないでしょうか。

現在の行政実務はおそらく後者の考え方に立ち、閣議決定しなくとも内閣のコントロールが及ばせることで足ると考えていると思います。

つまりは、憲法を改正した方が、より世論や実情に近づくということですね。

象徴天皇制について、憲法を改正しようという動きはないのでしょうか???

投稿: おやぶん | 2009年12月16日 (水) 22時52分

>おやぶんさん

お久しぶりです。コメント有難うございます。
憲法改正が良いかどうかは、私には判断しかねます。
象徴天皇制を変えようという動きは、右翼的な思想の方の中、保守的な思想の方の中にはいるかもしれませんが、それだけの改正のために、硬性憲法たる日本国憲法が改正されることはないと個人的には思います。

お返事ありがとうございます。

一点気になったことがあります。
ものの本(長谷部恭男・『憲法』)によると、助言と承認は、通常は一度の閣議決定であり、事前に行われるようにするのが通例であり、それが通説だと思います。
助言と承認のどちらかが行われればよいと考えるのは、憲法制定直後の政府の説明であり、現在の政府がとっている態度とは異なるはずです。
 
今回の習近平副主席との会見については、助言と承認の閣議決定は、一切なされていませんが、それは、小沢さんの言うような国事行為ではないと考えるのが行政実務なのだから当然だということですよね。
そもそも、閣議の案件となったとはされていませんから、何らの民主的コントロールもなされていないという疑いもあります。
でも、先述の本には、「内閣の直接あるいは間接の補佐が必要」とあるので、宮内庁への指示がこの補佐にあたるといえば、民主的コントロールはなされていると考えられるのでしょう。

ここまで書いてきて、ようやく私が腑に落ちていなかった点がわかりました。
それは、「助言と承認」という憲法上規定された文言をESQ様は広く解していて、公的行為にも助言と承認を行うべきだというように(少なくとも本文を読む限りでは)読めてしまったということです。
本文における「助言と承認」は、憲法の文言とは離れて読めばよかったのですね。
法や政治の議論を生業としているせいか、文言に厳格になってしまい、大変申し訳ありませんでした。

投稿: 難波拓矢 | 2009年12月16日 (水) 22時55分

>難波拓矢さん
再度のコメント有難うございました。
公的行為として国事行為に準じるという場合は、助言と承認という(閣議)形式でなくても、内閣による民主的コントロールに服す必要があるというのが学説の多数説です。

記事中では、助言と承認という文言を、貴殿のおっしゃるように、広い意味で使ってしまったため、厳格に見れば、誤解を生じやすくなっていたかと思います。その点、きちんとかき分けるべきでしたね。訂正しておきます。

おっしゃるように、公的行為説に立てば、内閣のコントロールに服していれば、閣議という形式を経なくても良いことになります。後は貴殿のご理解で正しいと思います。

なお、長谷部先生の御本にあったという閣議の開催時期の点ですが、助言と承認という1つの行為で足り、事前か事後かは問わないのが通説だと認識しております。もちろん、事前が望ましいとは思います。

先ほどの返信で、「いずれかが」と書いてしまったために、助言と承認にいずれかという形で、誤解を生んでしまったようです。正しくは、「事前か事後かのいずれかに」です。この点も、訂正しておきます。
御指摘ありがとうございました。

長谷部先生が事前に行うのが通例というのも、事後的なものが一切許されないという趣旨ではないと思います。その方が望ましいという見解だと認識しております。

芦部先生はこの点につき、「(助言と承認)は1つの行為であり、閣議は一回開けばよいが、天皇の発意を内閣が応諾する形での閣議は認められない(芦部憲法三版p48)」とし、事前でなければならないとはしていません。

はじめまして。

小沢発言(行為?)は違憲だとする意見には懐疑的でしたので憲法論としての見解を興味深く読ませて頂きました。

普段憲法論に触れておりませんものでピンと来ないのですが、憲法における天皇にたいする「助言」というのは実質的に命令であるとされているのでしょうか。

別の点で、内閣法制局について
>これほど非民主的な制度はないでしょう。
とされておりますが、内閣法制局の局長は時の内閣によって任命されていますので、法律設計上は(間接的ではありますが)民主的な制度になっておるかと思いますがいかがでしょうか。

投稿: discon | 2009年12月16日 (水) 23時41分

>disconさん
はじめまして。
コメント有難うございます。

貴殿の言われる命令がどういう意味として使っているかが解りませんが、助言と承認というのは内閣の権限として、1つの行為として、閣議で行われるものと理解しておけばよいのではないでしょうか。

そして、助言と承認という制度の目的は、天皇の国事行為という行動を内閣の意思の下に置くことにあるという理解をしておけば良いと思います。

命令かどうかという議論は私は聞いたことがありませんが、あるのかもしれません。これ以上はわかりません。

憲法学上、天皇が国事行為を拒否した場合どうなるのかという議論はあるようですが、私は憲法学者ではないのでそこまで詰めて理解していません。

天皇は拒否できない、拒否しないことが前提となっていると思います(いわゆる性善説的な立場ですね)。

法制局については、法制局の存在が問題といっているのではなく、政府の憲法解釈をそこが独占し、歴代内閣による変更を許さない状態にあることが非民主的だと言っているわけです。

内閣法制局には、憲法解釈の有権的権限を憲法が認めている規定は一切なく、裁判所にのみ違憲立法審査権が認められますから(憲法81条および最判昭和25年2月1日)、内閣法制局の解釈は単なる意見に過ぎません。

しかし、それがあたかもすべての行政機関を拘束する解釈権限を有する組織として事実上扱われ、歴代内閣による変更を阻むことすらあることが非民主的だと考えるわけです。

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