映画・テレビ

08/14/2016

SMAP解散報道のあり方とオリンピックの放送

昨夜の11時頃にサイゾーウーマンが他のメディアを先行する形で報道されたSMAP解散報道であるが,私は当初あまり信じていなかったものの,この報道は大スクープだったようである。

(当時のツイート)

ただ,この報道のあり方を見ていて気持ち悪いのは,この報道が14日になるまで一切他のメディアでは報じられず,14日になって報道各社が打ち合わせをしたかのように一斉に報じる横並びカルテルという戦前のような旧態依然とした情報統制の闇が残っている点である。

欧米であれば,個人のパパラッチなり,情報を得たらそこを契機として追随報道がされるというパターンであろうが,日本は追随というのではなく,ある一定時刻になって情報統制がされていたかの如き報道が,所詮単なるエンターテイメントニュースであるにもかかわらず,横行しているのであるから,我が国は本当に自由主義国家であるのかといつも不安になってしまう

この報道のあり方を見ていると,主要メディアは何らかの事務所なり何かの意向に従っているのであり,そこに我が国のエンターテイメントの闇を感じてならない

私は,芸能情報に堪能ではないが,本件についての"感想"(私見というにも値しない程度の感想程度のもの)を言うならば,本件の本質は事務所の対応等を含め,各人において一度傷ついた信頼関係が修復できない程度にまで進んでいたということであろう。

前回の解散報道の際,意味も分からない謝罪を何のためにさせられたのかとは傍から思っていたが,あのように意に反する行為を強制していたのではないかと思われてしまう様な不自然な"謝罪"なる行為を行っていた時点において,信頼関係は修復できない程度に進んでいたと考えられる。

いずれにしても,傍観してみていれば,育ての親といわれた飯島氏という人を排除して,そのまま平然と当該事務所で活動を継続することの方が人間としての義理を欠くと感じるのが自然な流れなのであって,私は今回SMAPを解散したいと言ったメンバー数人は人間として他に比してより優れているのではないかと感じている。

仮に,今後の報道が,解散したいという"メンバー数人"を特定し,それらのメンバーを批難するような報道がなされれば,いよいよ我が国のテレビ業界が異常であって,これらのテレビ等の主要メディアに対し視聴者毅然とした態度で自己の知る権利の保全をしなければならないのではなかろうか。

そこまで我が国の主要メディアが腐っていないことを祈るばかりである。

もっとも,冷静に考えると,40歳を過ぎたオッサンがアイドルとされている日本の"芸能界"の方は異常なのであって解散すること自体は,減価償却がない棚卸資産とされる芸能人であっても,やはりSMAPとして継続していくのには限界があり,解散は年齢的にも時間の問題であったというべきはなかろうか。

Twitter上ではSMAP解散に関連するツイートが多数あり,落胆する声も多かったが,私は,卓球男子団体第一回戦で水谷選手を苦しめたポーランドのイケメンであるJAKUB DYJAS(ヤクブ・ディヤス)選手でも見てキャーキャー騒ぐ方が健全だと思う。

なかなか中国系の選手やアジア系の選手以外台頭していない卓球という競技の中で,解説者も評価していたが,手足の長さを利用して,銅メダリストの水谷選手を苦しめ,丹羽選手を圧倒的なパワーとギリギリまで粘って打ち込むプレーは見ていて爽快だったし,凄かった。まだ20歳の選手であり,今後台頭する選手ではなかろうか。

丹羽選手を下した時に,胸を叩いて喜んでいたが彼が繋ぐかどうかでこの試合が決まる(第5試合に行くかどうか)という中,相当のプレッシャーだったのだなと感じた。オリンピックは日本人選手が仮に負けていても,やはりトップアスリートの戦いなので見ていて本当に面白い。

なかなか海外の選手の活躍などはオリンピックの放送では,放映権の問題で各社なかなか報じない(放映料の関係で報じる価値がないということかもしれないが)が,オリンピックの醍醐味は,日本人選手と戦う他国の選手にどのような人物がいるのかなどを知るという点にもある。

NHKは小刻みにSMAP解散の報道を挟んできていたが,単なるアイドルグループの解散が速報を打ち,オリンピックの生中継を一時中断してまでNHKが報道する性質の話なのか再度他のメディアとの違い,公益性について検討してもらいたいものである。

他のメディアと横並びの報道であれば,視聴料を徴収してまで存在する意義はないのではなかろうか。

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04/28/2015

ディズニー(Disney)映画に見るセクシズムと限界

4月25日(土)から公開されたDisneyの最新映画,「シンデレラ(Cinderella)」がいくつかのメディアで紹介されている。

Disney映画と言えば,近年,「アナと雪の女王(Frozen)」での成功が記憶にいたらしい。

この「アナと雪の女王」以降,ディズニー映画は,眠れる森の美女をベースに話を作り替えた「マレフィセント」などを公開し,アニメの実写化を進めており,映画「シンデレラ」も実写化の1つである。

ディズニー映画については,従来から,セクシズムを助長するなどといった指摘もされてきた。

私がアメリカに留学していた頃から,ディズニー映画とセクシズムというテーマをよく講義の場などでも取り上げられることが多かったが,近年のディズニー映画が描く主人公像は,従来の描かれ方とは多少変わってきているようにも思われる。

先日,私は,あるYouTube上の動画を見たのであるが,それはディズニー映画におけるセクシズムとは何なのかについて考える良い契機となった。

そこで,今日は,ゴールデンウィークに映画「シンデレラ」を見る人も多いと思われることから,ディズニー映画に見るセクシズムを検討してみようと思う。

1.従来のディズニー映画に対するフェミニズムの批判

まず,従来からフェミニズム的思考の人々は,ディズニー映画で描かれる主人公のプリンセスが,男性的目線のプリンセス像であるとして批判をしてきたことは皆さんも聞いたことがあるのではないだろうか。

フェミニズムからの批判は,実にシンプルなものである。

シンデレラ,白雪姫,眠れる森の美女などのプリンセスは実に,伝統的な女性らしく慎ましやかであり,かよわく,白馬の王子様に助けられるという設定が男性的な視点で,女性のあるべき姿をステレオタイプ化しているという主張である。

そして,私は,映画「マレフィセント」こそが,従来のフェミニズム的批判を顕著に反映したディズニー映画であったと考えている。

しかしながら,この試みはあまり成功したとは思えない。

現に,「マレフィセント」を見た人の中には,従来の眠れる森の美女の世界観とはかけ離れていたため,違和感を覚えた人も多かったのではないだろうか。

つまり,「マレフィセント」は,多くの人に愛された眠れる森の美女という愛らしい作品を根底から覆して,強い女性像を描くとともに,男性(ステファン王)の野心を悪として,フェミニズム的視点から,話を作り替えたのである。

実際にフェミニズム的視点で描かれていることをワシントンポストの記事なども指摘しているし,マレフィセントの中で描かれているフェミニズム(女性が力をもち男性から力を奪えというようなフェミニズム的視点)に対して批判的な記事も存在する。

このマレフィセントという作品は,歴史の修正主義だと批判される安倍首相もびっくりするような歴史の修正(従来の悪役の女性キャラクターを良いキャラクターのように描き,男性キャラクターを「悪」に仕立てるフェミニズム的修正)をディズニーが行った作品であったように思えて仕方がない。

もっとも,マレフィセントに関わらず,近時のディズニー映画は,女性主人公をより強く,独立心のあるキャラクターとして描くものが多い

すなわち,男性に守られるプリンセスといった描かれ方に批判的なフェミニズム的思考が影響し,男に頼らない強いプリンセスや,悪役の魔女を良いキャラクターとして描くある種の修正主義が近年の映画には見られるのである。

しかしながら,果たして,従来のディズニー映画で描かれた主人公のプリンセス像は,男性が求める女性像なのであろうか。本当に,シンデレラ,白雪姫,オーロラ姫,アリエルなどのキャラクタ―は,男性優位社会の中で描かれてきたプリンセス像なのであろうか。

2.YouTube動画から得た新たなディズニー映画に対する視点

私は,そもそも,上記のようなディズニーキャラクターに対するフェミニズム的視点は,根底から誤っていると考える。

その考え方をうまく表現してくれたのが,この動画である。

この動画では,もともとはブロードウェイミュージカルを映画化したディズニー映画のイントゥー・ザ・ウッズに登場する王子の兄弟(プリンス・チャーミングとラプンツェルの王子)に扮したPayson LewisさんとChris Villainさんが,同映画の歌「Agony」の替え歌で,ディズニー映画のプリンスの苦悩と不満を歌っているものである。

一見すると,単なる面白い又は上手いミュージカル的な動画なのであるが,このプリンスの苦悩がディズニー映画の本質的なスタンスをうまく描いているように思われる。

すなわち,ディズニー映画は,女性の客層を従来から中心的な客層に位置づけ,そうした女性客のために女性客が好むキャラクターをその時代時代で描いているのであって,男性優位社会が望む女性像として生まれたわけではないという点である。

ディズニー映画の中で描かれているプリンセスは,その時代,時代における女性が好む女性像に過ぎないのではないだろうか。

現に,この動画が歌の中で指摘しているとおり,ディズニー映画のプリンス像は,極めて抽象的なキャラクター設定が多い

例えば,シンデレラの王子の名前は,プリンス「チャーミング」というだけでまともな名前すら与えられていないし,白雪姫の王子は名前すら与えられていない

ディズニー映画のプリンスに名前が付きだしたのは,眠れる森の美女のプリンス・フィリップ以降ではないだろうか。

ディズニー映画は,むしろ,プリンスのキャラ設定において,名前や性格の設定などは,どうでもよいと考えており,むしろ男性に対して,あるべき姿として,イケメンかつ紳士的であることを押し付けているとは考えられないだろうか。

さらに言えば,プリンスは,女性の成功のお飾りという位置づけであると言っても過言ではない。

プリンセス像は,その時代時代の女性達が憧れる姿を反映していたのに過ぎないのであって,男性優位社会で描かれたプリンセス像というフェミニズム的批判は,全く持って失当というべきであろう。

このYouTube動画が歌の中で指摘するとおり,ディズニー映画は,むしろ,プリンスの姿を極めてどうでもよいサブキャラクター的存在として描いており,プリンスの姿に男性の視点はまるっきり欠如しているのである

ディズニーの描く,プリンセスにまつわる映画は,あくまで女性のための,女性が憧れるキャラクターを常に提供しようとしているのであって,男性優位社会から描かれているキャラクターでは全くない

3.ディズニー映画の限界

私は,男性の視点の欠如がディズニー映画の限界であり,ディズニーエンターテイメントの限界であると感じている。

男の子も小さい頃はディズニー映画を見て育っている。しかしながら,大人になると,男性が女性ほどディズニーのエンターテイメントに心酔しないのは,ディズニーが描くキャラクターには,男性を熱狂させるような男性目線が欠如している点に原因があるのではないかろうか。

つまり,ディズニーキャラクターの限界は,伝統的に男性層の取り込みができないという点にあるのである。

他方で,私は,ディズニーも自らの弱点をわかっているからこそ,テーマパーク内には,インディアナジョーンズやStar Warsといった元々はディズニー映画ではないキャラクターのテーマを取り込み,男性客を飽きさせないための工夫をしていると考える。

4.YouTube動画により拡大するディズニーの世界

YouTubeでは,良くも悪くもディズニーキャラクターはに関する色々なパロディーが存在する。

また,以前も紹介したが,「Let it go」のように映画では女性キャラクターが歌っていた歌を男性がうまく歌詞を変えて歌っている動画も多数存在する。

例えば,次の動画は,先程のChris Villainさんが歌うリトル・マーメイド(Little Mermaid)のPart of Your Worldである。

男性の人魚というのはなかなか斬新である。

確かに,アリエルの世界観においても,キング・トリトンがいるのだから,男性の人魚がいてもおかしくないだろう。

しかし,リトルマーメイドは,愛するプリンス・エリックにすべてを捧げてPart of Your Worldになろうとするアリエルの健気さが女性に受けているのではないだろうか。そのような世界観に,若い男性の人魚というキャラクターは存在する必要はないわけである。

他方で,より辛辣なDisneyのパロディーも存在する。

この動画は,Jon Cozartさんが作成した動画である。

現代の問題などを皮肉的に盛り込んだディズニーソングはなかなか面白い。

このように,ディズニー映画は,様々な形でパロディー化されている。

しかし,これはまさに,ディズニー映画が多くの人に影響を与える作品であるからこそ生じる現象なのであろう。

このように多くの人に影響を与えるディズニー映画であるが,最新の映画「シンデレラ」は,我々が長年慣れ親しんできたおとぎ話の世界をどのように実写化しているのであろうか

前評判などでは,アニメの世界観を大切にしつつ強い女性としてのシンデレラ像を描いているという話を聞く。

大人がこの映画を見る際には,セクシズムというものがこの映画の中ではどのように反映されているか考えながら見るのも面白いのではないだろうか

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04/08/2014

侵害排除ではなく機会を逃さずに侵害を活用する柔軟な発信力が重要

政府は平成23年5月にクールジャパン官民有識者会議の提言を発表し,経産省がそれに基づいて,施策を進めているが,提言から約2年経った今,この「クールジャパン」によりいかなる効果があったのであろうか。

少なくとも,個人的なレベルで,このクールジャパンの効果が出ているなと感じる現象は海外とのやり取りや外国人の友人とのやり取りの中でまったく感じることはできていない。

また,経産省の平成25年度のクールジャパン戦略推進事業の概要を見ると,パワーポイント資料もごちゃごちゃとしてて見づらく,そこに記載されている事業は,どれもピンと来ない話ばかりではなかろうか。

資料がごちゃごちゃして見づらく何を伝えたいのか一見して分かりにくい時点で,税金をつぎ込み,その事業に投資すべき価値はないと思うのであるが,日本の官僚はこのようなごちゃごちゃと詰め込んだ資料で,いかにも「凄いことをやるぞ感」を出し,物事の本質を見えにくくして,無駄遣いという批判を回避するのには長けている。

いずれにしても,提言から2年経つが,このクールジャパンという施策の効果は,巨額の税金を投入したものの,かつてのイギリスのブレア首相主導の「Cool Britannia」(Rule Britanniaという歌をもじった造語)のような経済構造の根本に影響を与えるような抜本的な改革につながるようなものは,我が国の「Cool Japan」政策からは一つも見えてこない。

むしろ,経産省が示している資料をみると,経産省という極めて古い,バブル意識から脱却できない利権体質の省が担当しているということで,このクールジャパンという施策がいかに税金の無駄遣いではないかと益々思えてくるのである。

既に,クールジャパンがいかに無駄であるかという点は,様々な人が指摘しているので,今日は,クールジャパンなどという税金の無駄遣いをしなくても,我が国の文化発信は視点を変えることでいかに成功に導くことができるかについて,著作権侵害に対する対応という観点から,私見を発することとする。

日本企業は,特に日本のエンターテイメント産業は,ネット上での著作権侵害を発見した場合,その著作権に基づき,侵害を排除することを常に考えているようである。

しかしながら,インターネットがこれ程普及し,ネットのない生活は極めて不自由という時代において,程度の大小はあるにせよ,ネット上での著作権侵害は日常的に行われている。

日本のエンターテイメント産業にとって,そのコンテンツ力を世界に発信する上では,この現状を直視し,侵害の排除より,侵害行為をいかに有効利用して,PRにつなげていくかという視点が重要ではなかろうか

例えば,3月に公開された映画,「アナと雪の女王(英語題名:Frozen)」では,アメリカのディズニー社は,この映画の核となる歌,「Let it go(ありのままで)」を映画公開後にYouTube上に公開し,積極的にPRとしてネットを活用している。

YouTube上に公開するということは,その動画そのものや音源を違法にダウンロードされ,さらには,それらの違法なダウンロードにより取得した動画や音源を活用して作られた動画等により二次的な著作権侵害も発生するおそれがあることは明らかである。

現に,YouTube上には,この曲のカバーとして素人が歌う動画が沢山存在するが,私がネットを調べた限りではあるが,ディズニー社が昨年12月6日に「Let it go」の動画を公開して以降,現在まで,カバー曲の動画について削除を申し立てたという話は,ネット上ではほとんど見つからなかった。

むしろ,米国ディズニー社は,動画を積極的に公開し,コメント欄も自由に書き込める状態にしたうえで,カバーにより話題となることをむしろPR戦略として,積極的に著作権侵害を許容しているように思われる。

例えば,次の動画は,大学で音楽を専攻する19歳のジェアードさんがアップロードした男声バージョンの「Let it go」のカバー曲動画である。

もともと女性向けのこの歌を見事に男声で歌い上げており,この19歳の青年の歌唱力の高さは大変素晴らしい。

もっとも,この動画で,彼は,歌詞を「I'm the king」とか「good boy」,「perfect boy」と変更して歌われているところ,かかる変更であっても,厳密にいえば,同一性保持権の侵害ということになると思われるが,むしろ,ディズニー社は,彼のような素人が作成した二次的著作物に当たるカバー曲の動画を積極的に許容しているようである

つまり,素人であるにもかかわらず,彼のように才能のある若者が素晴らしい歌声で,自由に男声バージョンのカバー曲を作成することができるインターネットという空間と対峙するような形で自分たちの著作権を保持しようとするのではなく,むしろ,彼のようなカバー曲の動画がアップロードされ,YouTube上でディズニーの音楽が評判となることそのものが,同社社の広告となり,同社の収益につながるという柔軟な発想があるように思われるのである。

アメリカのメディアは,「『Let it go』のカバーのトップ5」などと取り上げる記事やイギリスのテレグラフ紙電子版も「inside Disney's billion-dollar social media hit(ディズニーの10億ドルのソーシャルメディアにおけるヒットの内幕)」と題した記事で,ネット上での同映画とこの「Let it go」という歌への反響の大きさを報じている。

そして,YouTube上では,素人のカバー動画にとどまらず,様々なプロの歌手によるカバー動画が続々と登場しているのである。その一例が次の動画である。

ところで,「Let it go」のオリジナル動画は,米・ディズニー社のアカウント上のものだけで,約4か月の間に,1億7,000回以上も再生されており,この数字だけでも人気の高さは明らかであるが,イギリスディズニー社や日本のディズニー社もそれぞれ別のアカウントで,同じ動画を公開していることから,動画の再生回数は2億回は優に超えている

さらに,米・ディズニー社は,今年1月22日に,積極的にYouTubeに「Let it go」の25か国版をアップロードし,これも話題を呼んでいる。

そもそもディズニー社は著作権に厳しい企業であるとされているが,これだけネット上で話題となっている「Let it go」については,この絶好の時機を逃さず,積極的に,YouTubeを宣伝の場として捉え,本来は著作権侵害に当たるカバー動画等に寛容な姿勢を示していることは,結果として,この歌が更なる話題を呼び,安く絶大な効果のある広告となっているのであって,これは侵害を活用する柔軟な発信力の一例といえよう。

他方,同じディズニー社でも,日本のディズニー社はスタンスが少し違うようである。

例えば,ロケットニュース24の英語版サイトの記事は,松たか子さんが歌う日本語バージョンの「Let it go」について,「力強い歌は,オリジナルの言語ではなくとも,うまくいくことを立証している」と高く評価しており,日本語バージョンの「Let it go」にも世界的に関心が高まるっている。

しかしながら,米・ディズニー社や英国・ディズニー社のアカウント上の動画については,コメント欄も自由に書き込みができるようになっている一方,日本のディズニー社の動画コメント欄は書き込みが禁止されており,動画に対する自由な論評を避けようとする制限的な姿勢が表れているのである。

これでは,折角,松たか子さんが歌う日本語版の「Let it go」が素晴らしい歌声だと世界で絶賛され,既に900万回以上も再生されているにもかかわらず,世界中の人の生の反響をコメント欄からは窺い知ることができない

コメント欄を制限的に運用した結果,900万回以上の再生回数があるにもかかわらず,世界の反響である生の声を確認できないのであるから,折角の広告のチャンスを自ら喪失しているのではなかろうか

コメント欄の取扱いという極めて小さな違いではあるが,私は,ここに,日米の権利意識に対する柔軟さの違い(権利侵害を排除するのが利益なのか利用するのが利益なのかという視点に対する日本企業の鈍い姿勢)があるように思えて仕方ない

松たか子さんが歌う日本語バージョンの「Let it go」が世界でさらに評判となることは,日本語の響きの良さを世界に発信するチャンスとなると思うのであるが,こうした機会を的確に捉え,日本企業が柔軟に対応することで,無駄税金をつぎ込むことなく,コンテンツ力の発信は十分できるのではないかと思うのである。

なお,これは,スーザン・ボイルさんが一世を風靡した時にも見られた違いである。

スーザン・ボイルさんが話題となると,イギリスのITVは積極的にYouTubeにその動画を公開し,「Britain's Got Talent」という番組そのもの絶大な宣伝効果を生んだが,スーザン・ボイルさんを日本に招へいしたNHKは,紅白歌合戦での出演映像を軒並み,著作権侵害を理由に排除するという措置をとったと記憶している。

もちろん,権利侵害を排除することは一つの方法ではあるが,話題となっている人物について積極的に公開することで,NHK紅白歌合戦という番組そのものを世界にPRする絶好チャンスであったが,それを十分生かすことができなかったように思われる。

いずれにしても,日本企業がこれからコンテンツ力を外に発していく際には,著作権保護を図ることはもちろん,YouTubeなど世界的なインターネットメディアにおける権利侵害をいかに利用していくかという柔軟な対応を図っていくことで,世界への日本文化の発信に絶大な効果を発揮するのではないだろうか

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08/13/2013

半沢直樹が面白い理由

5か月ぶりのブログ更新である。

そんなに多くはいないだろうが、記事を楽しみにしてくださっていた人には申し訳ないが、記事を書きたいというモチベーションが最近はなかなか起こらなかった。

しかし、今回私もぜひ評論したくなるテーマがあったので、久しぶりに記事を更新することにした。

それが、TBSのドラマ、「半沢直樹」が面白い理由である。

そもそも、私は日曜日9時は、テレビ朝日の日曜洋画劇場などを見ながら、ダラダラと月曜日が来ることへの嫌悪感をごまかしていたが、たまたま、堺雅人さんが主演のドラマが始まるとのことで、「演技力のある役者である堺さんのドラマだから、まあ見てみるかな」という程度の気持ちしかなく、あまり期待せずに、何気なくチャンネルをTBSにしたのがこのドラマを見始めたきっかけである。

その時、私は、「どうせ最近多い面白くないドラマの一つだろうから、15分くらい見てチャンネルでも変えようかな。」という程度の気持ちでこのドラマを見ていたが、この気持ちは、番組開始直ぐに打ち消され、このドラマの中の世界観に引き込まれた。

このドラマのヒットは、既に多くのメディアが注目し、今や半沢直樹は、視聴率でも30パーセントを超え、同局の同じ時間帯の「華麗なる一族」をももはや超えたブームになっており(華麗なる一族の5回分の視聴率は、27.7%、21.8%、23.5%、23.0%、21.2%と次第に下がったのに対し、半沢直樹は、19.4%、21.8%、22.9%、27.6%、29.0%と常に上昇している)、なぜこのドラマがここまでヒットしたのかについては、ずいぶん多くの考察がなされているが、ドラマの監督もこのドラマがここまでヒットするとは思っていなかったようである(この監督の考察はズバリ的を射ており、かなり説得力があるのでぜひ読んでもらいたい)。

そこで、私も個人的になぜ半沢直樹が面白いのかについて、私見を発してみようと思う。

半沢直樹が面白い理由であるが、これは既に色々指摘されており、大方その見方に同意するが、私は、1番の理由は、「キャスティングの本物さ」ではないかと思う。

昨今、アベノミクスという得体のしれない経済への期待感をメディアは煽っているが、多くの国民は、いまひとつその効果を感じることができない現実社会において、多くの人は、ある種の本物志向が強まっているように感じる。

つまり、経済が良くなることに淡い期待を抱くこともないが、過度に節約に走るのではなく、良いもの、本物には惜しむことなく消費したいという意識が強くなっており、これはそれだけ消費者としての目が厳しくなっていることの顕れでもある。

この社会の風潮に、半沢直樹はまさにマッチしたのではないだろうか。

具体的にいうと、どんな役を演じても同じ演技しかできないような演技力のない名前だけの大手事務所所属の俳優を主役に置くのではなく、様々な訳を演じ分ける演技力のある俳優の堺雅人さんを主役に持ってきたのが正解だったと思う。

さらに、半沢の部下も、下手な有名俳優ではなく、脇役をそつなく演じ、かつ印象に残す演技ができる俳優の須田邦裕さんやモロ師岡さんを置き、逆に若い新人役にジャニーズの中島裕翔さんをキャスティングすることで、ジャニーズの若手俳優の演技の稚拙さをも新人の初々しさとして描くことができ、見事に配役設定がマッチしたのではなかろうか。

他方で、歌舞伎役者の香川照之さんや片岡愛之助さんがそれぞれ癖のある役の大和田常務や黒崎統括査察官を、宇梶剛士さんがどっから見ても悪役と言える東田社長を見事に演じる一方、北大路欣也さんのような重鎮が頭取を演じており、作品全体に重厚感を出しているのもこのドラマの本物さを表している

そして、ミュージカル俳優の石丸幹二さんが、半沢直樹の第一部の宿敵である浅野支店長を人間味あふれる演技力(部下に責任を押し付け、自分はより良い生活のために生き残ろうとする姿は正に人の弱さと強欲さという人間味の顕れでありこれを大胆かつ自然に演じる力)で演じていることが、このドラマのキャスティングの本物さを際立たせている

どことなく、「華麗なる一族」を彷彿とさせつつも、「華麗なる一族」のようなダラダラとした流れとは全く違うテンポの良い進行も、視聴者にとって、新鮮なキャスティングによる本物さを感じさせ、現代社会の肥えた日本人の目に適った作品に仕上がっていることが、このドラマの成功の最大の要因ではなかろうか。

当の出演者には失礼かもしれないが、私は人事部次長の小木曽を演じた緋田康人さんという俳優はこのドラマを見るまで知らなかったが、こうした実力はあるが有名ではない俳優が多数出演し、異彩を放つ演技で視聴者を楽しませているのがこのドラマの面白い最大の理由であると感じる。

さらに、私は、東田社長の愛人である藤沢未樹を演じた檀密さんにも感心した。ファンの方にも申し訳ないが、そもそも檀密さんがテレビで取り上げられても、特に美人であるとは思わなかったし、どうしてそこまで持ち上げられるのかわからなかった。しかし、このドラマで彼女が演じた藤沢未樹の姿は、何を考えているかわからない女性の妖艶さとともに、働く女性の強さと儚さみたいなものを自然な形で表現しており、バラエティー番組でみる檀密さんとは異なる、いわば、藤沢未樹という女性が実在するかのように認識させる彼女の演技力に、感心した人も多いのではないだろうか

先の監督のインタビューにおいて、福澤監督は、次のとおり述べている。

「半沢直樹」は、これまでのドラマ界の常識で考えると、登場人物に女性が少なく、わかりやすく視聴率を取れるキャラクターもおらず、恋愛もないという「ないないづくし」。それに銀行という“男”の世界が舞台です。セオリーどおりなら、ドラマのメインターゲットと言われる女性は「見ない」ということになりますよね。

この発言にも表れていると思うのだが、テレビ業界は長らく、視聴者の本物志向から乖離し、視聴者を馬鹿にしたような番組しか作ってこなかったのではないだろうか。

それは、TBSが半沢直樹の成功を全く予想せず、世界陸上による休止を挟んでしまうという愚かさが何よりも物語っている

確かに、演技力がないアイドルやごり押しの俳優・女優を主役においても、娯楽が少なかった時代はそれで通じてきただろうし、今でも、それに乗っかる一定の層はいるのだろう。

しかしながら、長く続く厳しい現実社会の中で、我々日本人の目は娯楽に対しても、一層厳しくなっているのではないだろうか。

そうした風潮の中で、まさに日曜日の夜に月曜日を迎えるのが憂鬱だと感じる多くの社会人がこの番組のキャスティングの本物さに触れて新鮮味を感じ、テンポの良いシナリオ展開に胸を躍らせ、そして、「10倍返しだ!」と理不尽なことには決して怯まない姿勢で戦う主人公、半沢直樹に、共感しているのであろう

残りの5回分の展開が楽しみで仕方ないが、私はさらにこの半沢直樹の成功が、日本のテレビ業界に衝撃を与え、新しい風を吹き込んでくれることにも期待したい

キャスティングはあらゆる演技の根幹である。

大手事務所のごり押しのタレントや話題性ありきのアイドルを起用して折角良い原作を台無しにするのではなく、原作の世界観をしっかり考え、そこに出てくる人物のキャラ設定をしっかり考えるという基本に立ち返ることで、結論ありきのキャスティングからの脱却することがテレビ業界、特に、日本のドラマの復活の唯一の道であることを半沢直樹は示しているのではないだろうか

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01/02/2013

映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」の評価 ― 映画から読み取る政治、社会問題に関するメッセージの一考察

先日、ついに楽しみにしていた映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」を観ることができた。

一言で感想を言えば、「ミュージカルそのもののファンの期待をも裏切らない出来の良い作品」であった。

そこで、今日は、まだ観ていない人も、もう観た人も、映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」をより堪能し、この作品が伝えようとする政治、社会問題に関するメッセージをより深く考察できるように、次の順でこの作品に対する評価を記事として書こうと思う。

長くなるが最後まで読んでいただければ嬉しい限りである。

1.映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」の評価

2.ミュージカル「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」が問いかける政治哲学的メッセージ

3.映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」を気に入った人への情報

なお、私はあくまでミュージカルが訴えるメッセージを私なりの解釈(当然、別の解釈もあるだろうし、それを否定するつもりはない)に基づいて紹介するのであって、ビクトル・ヒューゴ原作について詳しいわけではないことは断っておこうと思う。

1.映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」の評価

やはり、最も評価すべきは、主演であるジャン・バルジャン(Jean Valjean)役を演じたヒュー・ジャックマン(Hugh Jackman)さんの歌声と演技力の素晴らしさである。

90年代にオーストラリアで、ミュージカル「美女と野獣(Beauty and Beast)」のガストン役を演じた経歴があるなどミュージカル俳優の経歴を有するジャックマンさんの歌声は、ミュージカルファンをも飽きさせないが、それだけに留まらず、歌いながらスクリーン向け(映画向け)の演技をできるという実力の高さを思い知らせてくれる。

ジャックマンさんの歌い方の素晴らしいところは、歌それぞれが持つ元々の原型を壊さない形でありながら、そこに多様な感情表現をして絶妙なアレンジを加えている点である。

例えば、彼は別のインタビューでも語っているが、「What have I done? Sweet Jesus, what have I done? Become a thief in the night, Become a dog on the run」という部分の歌い方も、映画向けにうまくアレンジしながら感情表現を存分に出し切っている。

当初映画化されるという話を聞いた時、私は、このミュージカル作品が改悪されるのではないかと不安に思ったが、そのような懸念は無駄だったようである。

改悪の懸念の一つとしては、このミュージカルの特徴でもある歌で始まり、歌で終わるという一貫性が、映画化ということで、万人受けさせるために崩されてしまうのではないかといったものであった。

しかし、英国王のスピーチを作り上げた監督、トム・フーパー(Tom Hooper)さんは、見事このミュージカルファンの懸念を把握し、そのような改悪には手を染めなかったのである。

やはり、当初は歌ではなく会話形式のセリフ部分を増やそうという案があったそうだが、フーパー監督は、「会話から歌へ、歌から会話へというギアチェンジはこの作品ではうまくいかないと思った。この映画の世界は我々の世界と同じなんだけれども、コミュニケーションが全て歌ということ。これに我々はコミットすべきだし、そこに自信を持つべき」という考えで、歌で始まり歌で終わるという一貫性を重視してくれた。

たしかに、ミュージカルを苦手とする人には違和感があるだろうが、歌で始まり歌で終わるという最後まで一貫したところが続くと、逆に、歌でのコミュニケーションに慣れ、むしろ、歌による表現の方がキャラクターの感情がよりダイレクトかつ深く伝わってくるのではないだろうか。

そもそも、ショービジネスの最高峰であるブロードウェイやロンドンのウエスト・エンドにおいて、多くの作品が淘汰されているにもかかわらず、25年以上も連続して、今なお公演が続いているミュージカルは、この「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」と「オペラ座の怪人(Phantom of the Opera)」の他ないといっても過言ではない。

これら2つのミュージカルに共通するのは、①歌から始まり、歌で終わるというミュージカルとしての一貫性、②劇場内で観客が感じることのできる「壮大(Spectacular)」という感覚、③耳になじむ音楽の繰り返しという点であるが、特に、「レ・ミゼラブル」は原作が描く壮大な世界観も相まって、欧米を中心に特に人気の高い作品である。

例えば、1996年に行われたサッカーのEURO96の閉会式では、イギリスのウェンブリー・スタジアムで、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」の代表曲、「Do you hear the people sing?」などが歌われ、ヨーロッパ各国のバルジャン役を務めた俳優が登場し、素晴らしい歌声を披露するステージが披露された。

次に、指摘すべきは、アン・ハサウェイ(Anne Hathaway)さんとサマンサ・バークス(Samantha Barks)さんの歌声と演技力である。ミュージカル映画において、当然に要求されるのは歌声の良さである。

特に、ハサウェイさんは役に没頭し、健康を害するほどの過激なダイエットをしたというエピソードがあるなど、ファンティーヌが堕ちていく姿を演じるための努力が凄く、彼女のこの役(かつて、ハサウェイさんの母親がミュージカルで演じたという)への思い入れが伝わってくる。スクリーンに登場のする彼女の見た目そのものが演技の一部なのである。

そして、ボロボロになりながらも、力強く歌う「I Dreamed a Dream」には言葉を失うほどの強さを感じる。

エポニーヌ(Eponine)役を演じたサマンサ・バークスさんは、もともとミュージカル女優で、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」の25周年記念コンサートでもエポニーヌ役を演じ絶賛された。

彼女がテイラー・スフィフト(Taylor Swift)やスカーレット・ヨハンソン(Scarlett Johansson)という名だたる有名人を蹴散らしてこの役を射止めたのにはやはり理由があった。

エポニーヌが歌う「On MyOwn」は女性の切ない片想いを力強く歌い上げる歌であり、女性ボーカルの歌唱力がもっとも試される曲であるのと同時に、感情表現を歌に込めなければならない難しい曲である。

単に力強く歌えば良いわけではないから中途半端な歌声で歌われてしまうと、折角の名曲が台無しになる。

自分の恋心と相手の望みを叶えたいという無償の一方的な恋心を歌うのだから、これを歌い上げるのはなかなか難しい。

しかし、バークスさんのミュージカル女優としての歌声と演技力は素晴らしかった。

彼女の歌声、一小節、一小節から、この役の切ない葛藤が伝わってくる。

愛する人への無償の慈しみ、愛する心が見事、彼女の歌声と表情から伝わってくるのである。

コゼット(Cosette)を演じたアマンダ・セイフリード(Amanda Seyfried)の歌声もにコゼットの歌声にベストマッチしていた。彼女の演技の素晴らしいところは、ミュージカルでは、成長したコゼットは美しいソプラノのキャラクターという形で終わってしまいがちであるが、父であるバルジャンの過去を知り、愛する人の苦悩を共有し、強く支えたいという想いが伝わってくる歌声であった。

つまり、つらい過去を持つが今は幸せなお嬢さんとしてのコゼットではなく、育ての父が抱える苦悩や愛する青年が抱える苦悩を受け止めようとする強いコゼットがそこには描かれていた

また、マリウス(Marius)役を演じたエディー・レッドメイン(Eddie Redmayne)さんや学生でバリケードでの抵抗運動に懐疑心を持ちながらも参加するアル中の学生グランテール(Gantaire)役のジョージ・ブレイグデン(George Blagden)さんの演技は、特に光っていた

レッドメインさんはトニー賞を受賞するなど演劇の経験は豊富であるものの、ミュージカルの経験はほとんどなかったというが、レッドメインさんの歌声は、「Empty Charts at Empty Table」ではマリウスの苦悩を描くとともに、「One Day More」ではバリケードへ行く決心を力強く歌い上げている。

ジョージ・ブレイグデンさん演じるグランテールは、登場する場面は少ないものの、学生たちが命をかけて戦うことへの懐疑心を表現するキャラクターとして重要な役割を担っているが、その部分の演技もなかなか良かった

ところで、ブレイグデンさんは、ツイッターをしており、映画の感想をツイートしたところ、直ぐに返信してくれた。ツイッターという新しいツールにより、スクリーンの中の俳優に生の感想を伝えられるという時代が来るとは思いもよらなかった。

学生のリーダーであるアンジョラス(Enjolras)を演じたアーロン・トヴェイト(Aaron Tveit)さんの演技もなかなか興味深かった。アンジョラスといえば、理想に向かって突き進む強いリーダーとしての側面が従来のミュージカルでは全面に描かれていたが、勝ち目のない戦に対する戸惑いの部分が映画では描かれていた

そして、ミュージカルファンの私にとって、もっとも嬉しかったのは、1985年にこのミュージカルが上演された時のバルジャン役であった世界的なミュージカル俳優、コルム・ウィルキンソン(Colm Wilkinson)さんが、バルジャンの人生に多大な影響を与えるもっとも象徴的な司教役として、映画にも出演していたことである。

このインタビューで、主演のヒュー・ジャックマンさんも語っているが、ミュージカル、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」にとって、ウィルキンソンさんは、ジャン・バルジャンという役を開拓した最大の功労者である。

オペラ座の怪人のクリスティーヌ役を演じた女優が、オリジナルキャストであるサラ・ブライトマンの歌い方を真似てきたのと同じように、後にバルジャンを演じた俳優たちは、彼の歌い方を真似ながらバルジャンを演じてきた。なぜならば、彼より見劣りすれば、バルジャン失格だからである。

この役の開拓の祖ともいうべき俳優が、バルジャンの人生を左右する重要なキャラクターである司教役として登場することは、まさに、プロデューサーのキャメロン・マッキントッシュがいうように、舞台のバルジャンが、映画のバルジャンに影響を与えるというメッセージも込められているのである。

そして歳をとっても変わらない彼の歌声の音域の高さと底力はミュージカルファンを魅了してやまない。

もっとも、この映画も100点満点というわけではない。

残念だった点もいくつかある。

その1つが、ジャベール捜査官(Inspector Javert)役のラッセル・クロウ(Russell Crowe)さんの歌声である。

彼の歌声は、終始一本調子であり、歌いだすと演技が止まってしまうかのような不安定さが伝わってくるほどで、ジャベールが抱える苦悩はほとんど演じきれておらず、残念であった。

音域もせまく、見せどころである「Stars」や「Javert's Suicide」といった名曲のシーンでは、ミュージカルファンを「ゲンナリ」させるような一本調子のオンパレードであった。

さらに、ヒュー・ジャックマンさんとの対決シーンのデュエット、「Confrontation」では、ジャックマンさんの音域の広さと歌声の良さがクロウさんを圧倒してしまい、なんとも印象に残らないジャベールになり下がってしまっている

動画はYouTube上で発見したパーティーでの二人のデュエット。

ジャックマンさんの歌声の良さを考えれば、映画的には無名であっても、ミュージカル俳優出身の配役をした方が歴史に残る名作になったのではなかろうか。

個人的には、10周年記念コンサートで歌ったフィリップ・クワスト(Philip Quast)さんやブロードウェイやロンドンでこの役を演じたマイケル・マッカーシー(Michael McCarthy)さんのような方が映画的に無名であっても、作品としての高さは歴史的に残ったように思う。

もうひとつ残念だった点が、森の中でコゼットを見つけたバルジャンとコゼットのデュエットシーンがカットされていたことである。

幼い少女の歌声とバルジャンの父親のような歌声のハモリが素晴らしいのであるが、その美しい歌声を映画版では見ることができなかった。

時間が3時間近いため、仕方ないと言えば仕方がいが、個人的にはあのハーモニーをヒュー・ジャックマンさんの歌声で聞きたかったとの想いが残る。

さらに、時間の関係上仕方ないのかもしれないが、ミュージカルファンとしては、「Red and Black」や「Drink with me?」という学生たちメインの歌のシーンが大幅にカットされていた部分も残念であった。

学生たちの自由に向けた力強い歌声と、一方で、自分たちの進む道への迷いを歌う歌詞がこの2つの歌には込められており、そこがやや駆け足的な形になってしまっていたのは、時間がないとはいえ、元来のミュージカルファンとしては物足りなさを感じてしまうのである。

また、冒頭の「Work Song」シーンで、「The sun is strong. It's hot as hell below」という歌詞があるのだが、この部分は、10周年記念コンサートの俳優のように、力強く、囚人たちの不満と嘆きを歌ってほしかったが、映画では、全体的にトーンダウンした歌い方で、これもミュージカルファンとしては残念であった。

映画化する以上、ミュージカルのように、途中でインターミッション(小休憩)を入れるというのは困難であり、時間との関係上、カットされるシーンが多いのは仕方がないのかもしれないが、ミュージカルファンとしては、インターミッションを導入するなどして、舞台を完全に再現してもらいたかったという欲が出てしまう

また、オーケストラがあるミュージカルの舞台よりは、全体的に音楽が弱めになっていることも、残念であった。このミュージカルの良さは壮大さであり、オーケストラの壮大な音楽は、壮大さを感じる上で欠かせない。その音楽がやや弱めであったのはどうしても気になってしまった。

私はアメリカで人気歌手だという、アダム・ランパートさん(この歌手については全く存じ上げないが)ほど辛口ではないし、そこまで批判されるべき作品だとは思わないが、やはり、このミュージカルそのものが偉大な作品であり、25年以上にわたって、数多くの素晴らしいミュージカル俳優や女優が演じてきた作品だけあって、舞台ファンとしては要求が高くなってしまうのだろう。

2.ミュージカル「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」が問いかける政治哲学的メッセージ

先日、私は、「政治、社会問題を考える上で観るべき最新映画、『レ・ミゼラブル(Les Miserables)』」という記事を書き、この作品が政治問題、社会問題を考える上で大変良い教材になるという話を書いた。

この章では、より具体的にメッセージ性の強い部分を指摘して、紹介したいと思う。

まず、冒頭に、ヒュー・ジャックマン(Hugh Jackman)演じるジャン・バルジャン(Jean Valjean)の次のような歌詞がある(訳文は筆者訳)。

Never forget the years, the waste.(無駄にされた何年もの月日を決して忘れるな)

Nor forgive them For what they've done. (奴らが俺にしてきたことを決して許すな)

They are the guilty - everyone. (悪いのは奴らだ。みんなが悪いのだ。)

The day begins... (新しい日が始まる。)

And now lets see What this new world Will do for me! (さあ、見てみよう。この新しい世界が私に何をしてくれるのか。)

当初のバルジャンの心境が歌われた部分であるが、ここで注目すべきは、パン一切れを盗むために、窃盗で家に押し入り、5年の刑期とその後逃亡で最終的に19年間も刑務所で過ごしたバルジャンの心境は、いわば「世間が悪い。社会が悪い。俺は悪くないのだ。」という想いに満ちているのである。

この想い、我々も政治や社会の混沌たる状況を目の当たりにすると、同じような心境に陥ることがあるのではないだろうか。

しかし、ある出会いが転機となり、バルジャンの心境は次の通りに変化する。

Take an eye for an eye!(目には目を!)

Turn your heart into stone!(心を石にしろ!)

This is all I have lived for!(これがこれまで俺が生きてきたことの全てだった)

This is all I have known!(これが俺の知っている全てだった)

One word from him and I'd be back(彼が言った一言が自分を目覚めさせた。)

Beneath the lash, upon the rack(鞭を打ち、磔にする)

Instead he offers me my freedom(そんなことは一切せず、彼は代わりに私に自由を与えた)

I feel my shame inside me like a knife(私の中の恥がナイフのように突き刺さる)

He told me that I have a soul,(彼は私には魂があるといった)

How does he know? (どうして彼にそんなことがわかるのだろう)

What spirit comes to move my life?(どんな魂が私の人生に変化をもたらすのか)

Is there another way to go?(他に進む道はあるということなのか)

この部分が正にバルジャンが19年間の投獄の末に、初めて他人から与えられた「Love(愛情、慈しみの情)」に対する反応である。

つまり、ここで、この作品は、「他人を慈しむ・愛すること」の重要さをテーマにしていることが伝わってくる

昨今の政治や社会状況をみると、自己の要求ばかりが主張され、他人を慈しむという根本的な道徳観念がおろそかにされていることは良く目につくことである。

例えば、生活保護の不正受給問題もそれである。

そもそも生活保護は、他人を慈しむ行為を国家が保障する社会権の発現として立法政策により権利として具体化されたものであるが、バレなければ良いという精神で不正受給をする行為が横行し、その結果本当に慈しみを必要とする人が受けられなかったり、生活保護を避けなければならなかったりするという状況は、我々の現代社会が、「他人を慈しむ(To love another person)」という道徳観念が欠如していることの表れであろう。

慈しみの情に直面して葛藤するバルジャンの心境は、まさに現代社会が忘れかけている葛藤なのではないだろうか。

次に紹介したいのが、ファンティーヌ(Fantine)が歌う「I Dreamed a Dream」の歌詞の一節である。

この歌はスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんが歌ったことで世界的にも有名になった曲であることは皆さんもご存じであろう。

ボイルさんが美しい歌声を持ちながらも、その見た目から何ら注目を浴びず、歌声によってシンデレラストーリーのような成功をもたらしたのは記憶に新しく、彼女の歌声で涙した人も多かった。

ボイルさんの成功もこの歌の歌詞が彼女の境遇とある意味ベストマッチしていたことも、あれだけの旋風を巻き起こすきっかけだったと私は思う。

I had a dream my life would be (私の人生がどんなものになるか、私には夢があった。)

So different from this hell I'm living,(今私が生きているような地獄とは全く違った。)

So different now from what it seemed...(今とは全く違った夢があった)

Now life has killed the dream I dreamed...(現実の生活が私の夢見た夢を殺してしまった)

多くの人は「将来こうなりたい」とか、「どうありたい」という夢があるが、それを順風満帆に叶えられる人はごく少数である。

ただ、愛する人と愛する子供と一緒に生活をするという小さな幸せを願う夢さえも、日々の生活の現実に奪われ、堕ちるところまで堕ちたファンティーヌの苦悩と苦痛は計り知れないものがある。

まさに、「ああ無情」というべき場面である。

先日の記事でも紹介したが、ファンティーヌ役のアン・ハサウェイ(Anne Hathaway)さんはこの部分の歌い方が一番難しかったと振り返っていた。

絶望の淵に立たされる状況というのは現代人にはなかなかないがそれでも子供のために強く生きようとするファンティーンの姿は母親として子を守るという想いだけで生きている。

親による子の虐待、自殺者の増加など現代社会が抱える問題に想いをやると、ファンティーヌが自分の娘を愛し、慈しみ、子のためには何でもして生き抜こうとする強さは、現代人に失われかけている、慈しみの情(愛情)に溢れた人間の強さではないだろうか。

さて、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」の歌の中で私が最も好きな歌がある。

それが、「Do you hear the people sing?」である。

この歌の歌詞すべて素晴らしいと思うが、中でも特に良い一節を紹介する。

Will you give all you can give (君は与えられるものすべてを差し出すか)

So that our banner may advance (そうすれば我々の旗は先に進むかもしれない)

Some will fall and some will live (ある者は死に、ある者は生き残るだろう)

Will you stand up and take your chance? (君は共に立ちあがり、このチャンスに賭けるか)

The blood of the martyrs (殉死した人々の血が)

Will water the meadows of France! (フランスの草地に水を与えるのだ)

混沌とした時代に、死を覚悟しながらも立ちあがらなければならないという自由を願う人々の強い想いが伝わってくる歌である。

今では当然の権利として、有している選挙権もこの時代にはなかった。

自由権という人権意識の芽生えが高まったのがまさにこの時代である。

憲法が国家を制約する原理として確立した現在、我々は人権というわれる権利を当然のものとして享受し、時には何も考えることなくその権利を無駄にしてしまっているが、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」の中で描かれた学生たちのような人々の犠牲の上に確立した権利であることを今一度思い出させてくれるシーンである。

確かに、日本は権利のために血を流したという歴史観が比較的薄いかもしれない。

しかしながら、日本もまた太平洋戦争において我々の祖父母やその上の世代が、この「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」が描く学生たちのように血や涙を流し、敗戦後も絶望的な焼け野原から、日本国憲法による基本的人権の保障を確立し、日本の復興を果たしてきたことに想いを馳せると、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」が描く世界は、決して遠い海の向こうのフランスだけで共有される歴史観ではない

我々に歴史にも共通する普遍的な価値が描かれているのである。

戦いの前夜、学生たちが歌う「Drink With me」という歌がある。

Drink with me to days gone by (一緒に飲もう。過ぎ去る日々へ)

Can it be you fear to die? (お前は死ぬことへの恐怖を感じているか)

Will the world remember you When you fall?(これが失敗に終わったとき、世界は覚えているだろうか)

Could it be your death Means nothing at all?(お前の死に意味などあるのだろうか)

Is your life just one more lie? (お前の命は、さらなる嘘の一つに終わってしまうのではないか。)

私は戦争を経験していないので軽々しいことは言えないが、我々の祖父母やその上の世代もこういう想いを持ちながら戦火の日々を過ごしたのではないだろうか。

戦うことの虚しさや儚さが伝わると同時に、自分たちの未来のために戦わなければならないという使命感も伝わってくる。

そして、劇中、学生のマリウス(Marius)が歌う「Empty Chairs at Empty Table」という歌も感慨深い。

この歌ほど切なく、また、使命の下に犠牲となり、散っていった友人たちへの想いを大切にしなければならないと思う歌はない。

Oh my friends, my friends forgive me (おお、友たちよ、友たちよ、許してくれ)

That I live and you are gone.(私は生き残り、君たちは逝ってしまった)

There's a grief that can't be spoken.(決して話すことができない深い悲しみが残る)

There's a pain goes on and on. (じわじわと伝わる痛みがある)

Phantom faces at the window. (窓に映る友たちの幽霊)

Phantom shadows on the floor.  (床に映る友たちの影)

Empty chairs at empty tables (誰も座っていない椅子と机)

Where my friends will meet no more. (もう私の友たちが二度とここに会することはない)

Oh my friends, my friends, don't ask me (おお、友たちよ、友たちよ、私に聞かないでくれ)

What your sacrifice was for (君たちの犠牲にどういう意味があったかなんて)

Empty chairs at empty tables (空っぽ椅子と机)

Where my friends will sing no more.(もう私の友たちが二度とここに会することはない。)

我々の祖父母やその上の戦争を経験した世代は、こういう想いを心の深くに秘めながら、必死で戦後を生き抜き、日本を世界第2位の経済大国にまで押し上げたのであろう。

しかし、平和のうちに育った世代である我々がこうした想いになかなか直面することはない。

映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」は、自由に向けた戦いへの使命感とその重要さを描く一方で、そこで失われた命の儚さと残された者の苦悩を見事な歌詞で表現している。

そして、この歌からも伝わってくるは、共に戦い、自由の礎への犠牲となった友人たち対するマリウスの慈しみの想いである。

最後のシーンでは、バルジャンやファンティーヌ、エポニーヌ(Eponine)が歌う次のような歌詞がある。

And remember (そして、覚えておいてほしい)

The truth that once was spoken (一度語られた真実は)

To love another person (他人を愛する〔慈しむ〕ことは)

Is to see the face of God! (神の御影に接すること〔直訳:神の顔を見ること〕である)

このミュージカル最大のメッセージがここにあるのである。

それは、「どんな状況においても、他人を慈しみ、愛する気持ちを常に持つ努力をしよう」というものなのではないだろうか。

もちろん、これにはキリスト教的価値観の顕れとも取れるがであるが、他の宗教であっても、「他人を愛すること」、「他人を慈しむこと」を是としない宗教はないのであろう。

かかる価値観はまさに、宗教的価値であると同時に、道徳的価値であり、哲学的な価値として、人間が享有することのできる基本的かつ普遍的な価値である。

特に、先の選挙でもあったが、日頃何ら連絡もしていない人から、選挙が行われるたびに「○○党に入れてね」と連絡をしてくるような表層的な某宗教団体の信者に、ぜひとも聞かせたい一節であると思うのは私だけだろうか。

もっとも、愛すべき、又は、慈しむべき他人の範囲というのもなかなか面白いテーマだろう。

この作品は一見すると家族愛や恋人への愛を描いていると思われるが、それだけだと考えるのは浅はかだろう。

やはり、愛すべき、慈しむべき他人というのは、見知らぬ他人をも含むという考えるべきである。その点のメッセージが、バルジャンがマリウスの無事を祈って歌う「Bring Him Home」に私は顕れていると考える。

He's like the son I might have known (彼はまるで、私の息子のようである。)

If God had granted me a son.(もし神が私に息子を授けてくれたならば)

<略>

Bring him peace (彼に平和をもたらしてください)

Bring him joy (彼に幸せをもたらしてください)

He is young (彼はまだ若い)

He is only a boy(彼はまだ少年である。)

You can take(あなたは奪うことも)

You can give(与えることもできる)

Let him be(どうか彼を無事に)

Let him live(どうか彼を生かしてください)

If I die, let me die(もし私が死ぬのであれば、どうかわたしを死なせてください)

Let him live(どうか彼を生かしてください)

Bring him home(彼を家まで送り届けてください)

Bring him home(彼を無事に返して下さい)

Bring him home.(どうか彼を無事に家まで送り届けてください。)

いわば、バルジャンにとってマリウスは、赤の他人であり、育てた娘コゼットがひと目ぼれした男という他に接点はない。

当然、娘の愛した男だから助けたという解釈もできるだろうが、この歌詞からすると、バルジャンの心情は、娘のためという意識から自由のために使命感を持って戦おうとするマリウスたちの姿に打たれ、自分の息子を想うような心情であったと考えるべきではなかろうか。

つまり、ミュージカルで描かれているバルジャンは、司教と出会って以降、必死に生きる他人に対する慈しみの情を信念として、混沌とする時代を生きた男なのであろう。

こうした姿は、他人に対する慈しみに情が希薄になっている現代社会に生きる我々には、ダイレクトなメッセージとして、心に伝わってくるものがあるように感じる。

さて、この章の最後は次の歌詞で締めくくりたい。

映画でも一番最後に歌われる「Do you hear the people sing? (Reprise)」である。

Do you hear the people sing (人々の歌声が聞こえるか)

Lost in the valley of the night?(夜の谷間に散っていった人々の歌声が)

It is the music of a people who are climbing to the light. (これは光の世界へとよじ登ろうとした人々の音楽である)

For the wretched of the earth (この地球上の惨めな人々にとって)

There is a flame that never dies.(決して、絶えることのないが炎ある)

Even the darkest night will end (暗黒の夜でさえ必ず終わりを告げ)

And the sun will rise.(太陽はまた昇るのだ)

They will live again in freedom(彼らはまた自由とともに復活する)

In the garden of the Lord. (主の庭で)

They will walk behind the plough-share,(鋤の刃で畑を耕し)

They will put away the sword.(剣を捨て去るのだ)

The chain will be broken (つながれた鎖は取れ)

And all men will have their reward.(全ての人々が見返りを享受する)

Will you join in our crusade? (我々の抵抗運動〔聖戦〕に君は参加するか)

Who will be strong and stand with me? (私とともに立ち上がる強さがあるのは誰だ)

Somewhere beyond the barricade (バリケードの向こうのどこかに)

Is there a world you long to see? (君が待ち望み夢見た世界があるのだろうか)

Do you hear the people sing? (人々の歌声は聞こえるか)

Say, do you hear the distant drums?(ほら、遠くの太鼓の音は聞こえるだろう)

It is the future that they bring (それが彼らがもたらしてくれる未来である)

When tomorrow comes! (そう、明日が来た時に)

Will you join in our crusade?(我々の抵抗運動〔聖戦〕に参加しないか)

Who will be strong and stand with me?(私とともに立ち上がる強さがあるのは誰だ)

Somewhere beyond the barricade(バリケードの向こうのどこかに)

Is there a world you long to see? (君が待ち望み夢見た世界があるのだろうか)

Do you hear the people sing?(人々の歌声は聞こえるか)

Say, do you hear the distant drums?(ほら、遠くの太鼓の音が聞こえるだろう。)

It is the future that they bring(それが彼らのもたらしてくれる未来である。)

When tomorrow comes...(そう、明日が来た時に)

Tomorrow comes! (そう、明日は来るのだ)

3.映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」を気に入った人への情報

ツイッターなどを見ていると、映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」を見て感動したという声を良く見かける。

そこで、5回以上ブロードウェイとロンドンにてミュージカルを見た者として、私が特に素晴らしいと感じた歌声が見ることのできるYouTube上の動画をいくつか紹介したいと思う。

まずは、マリウス(Marius)役を演じたピーター・ロックヤー(Peter Lockyer)さんの歌声である。彼の優しく透る歌声は、マリウスの役にぴったりの歌声である。私が初めてブロードウェイでレ・ミゼラブルを見た時、彼がマリウス役をしていた。

次に、アンジョラス(Enjolras)役を演じたマイケル・マグアイア(Michael Maguire)さんの歌声である。映画の俳優と比べると、マグアイアさんの歌声の方が力強く、リーダーとしてのキャラクターを存分に発揮する歌い方である。

彼はミュージカル俳優として活躍し、その後、ロースクールにも進学して、弁護士でもありながら、歌手として活動しており、アメリカの職業の多様性を感じる。

映画ではガブロッシュの歌の部分も若干カットされていた。それも残念な点である。YouTubeで発見したフランス語で歌うガブロッシュの歌はかわいらしい。

また、バークスさん演じるエポニーヌと同じくらいレベルが高いのが、エポニーヌ役のリー・サロンガ(Lea Salonga)さんの10周年コンサートの歌声である。

彼女は、この15年後の25周年記念コンサートでは、ファンティーヌ役でその変わらない美声を披露している。

その25周年記念のライブ映像(記念コンサートとは別にそのキャストの一部がテレビで歌ったもの)もかなり良い。

この動画を見るとミュージカル版の雰囲気が良くわかるだろう。

記念ライブ最後の歌、「Bring Him Home」を歌うミュージカル俳優の順は、オリジナルキャストのColm Wilkinsons(映画で司教役)、John Owen Jones、Simon Bowman、Alfie Boeで、他の3人もバルジャン役を長く務めた俳優であり、見ごたえがある。

ブロードウェイやロンドンのウエストエンドを舞台に、ミュージカル「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」は、四半世紀以上も続く伝説的、歴史的ミュージカルとしての地位を名実ともに確立し、数多くの素晴らしい俳優・女優を日々排出し続けている

例えば、1996年には、当時は歌手として世界的にはまだあまり知られていなかった(1998年にワールドカップのテーマソングを歌い大ヒットをすることになる)リッキー・マーティン(Ricky Martin)さんが、ブロードウェイの「レ・ミゼラブル(Les Miserabkes)」の舞台で、マリウスを演じていた(このことを知っている日本人はあまり多くないだろうがアメリカでは結構知られている話である)。

ぜひニューヨークやロンドンに行った際には、映画で感じた感動をミュージカルという生の舞台で感じてみてはいかがだろうか。

このミュージカルの歌詞は非常に分かりやすい英語を使っているため、比較的分かりやすいだろうし、映画で一度ストーリーを見て感動した人は、本場の舞台は絶対に気に入るだろう。

なお、個人的には、この映画のヒットによって、カラオケなどに英語詞で、このミュージカルの歌がたくさん登場することも密かに願っている。

以下で紹介するもののうち、私が一番お勧めするのは、オリジナルキャストがロンドンのロイヤルアルバートホールに会して歌った10周年記念コンサートのBlue-ray、DVD、CDである。これがベスト版ではなかろうか。

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12/27/2012

政治、社会問題を考える上で観るべき最新映画、「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」

12月16日の選挙を経て、新しい議員が沢山誕生した。

諸事情で選挙特番を観ることはできなかったが、当日は、テレビ東京の選挙特番が素晴らしかったようで、私もその後YouTubeでいくつかの動画を確認したが、司会の池上彰さんの政治家へのつっこみは、鋭いものがあった。

元々、私は池上彰さんの解説については、事情を単純化し過ぎて解説する傾向があるため、あまり好感をもっていなかったが、今回の司会ぶりを観ると、ジャーナリストとして追及する姿勢はかなり高いものがあるのを感じた。ぜひ、今後も彼が単なる解説に留まらず、積極的に、政治家を「育てる」追及をし、テレビ局がそういった場を提供してほしいと切に願うところである。

政治家を育てるといえば、今回の選挙で当選した議員全員が、政治を語る前に、ぜひ観て、権力を行使する立場に立ったことを自覚し、成長してほしい映画がある。

それは、12月21日公開の「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」である。 

映画そのものはまだ観ていないのであるが、ブロードウェイとウエスト・エンドのミュージカルで、5回以上は観ており、そもそも、ミュージカル作品としての完成度が極めて高い(歌に始まり歌に終わるという終始一貫したザ・ミュージカルともいうべき作風や原作のストーリー性の高さなど)ことに十分知っているが、それに加え、ヒュー・ジャックマン(Hugh Jackman)さんとアン・ハサウェイ(Anne Hathaway)さんという素晴らしい歌声を持つことで有名な俳優と女優が重要な役を演じたというだけで、この映画が「芸術性の高い観て成長できる映画」であることには確信に近い自信がある

なぜこの映画を政治家が観るべきなのかというと、それは、この映画が、「政治を志す者にとって極めて重要な価値は何であるのか」、「自らの行動は権力を持つ者として正しいことなのか」、「何が正義なのか」、「人間は何を求め、どう行動すべきなのか」という深い問いを与えてくれるためである。

私がこの作品と出会ったのは、私がアメリカに留学していた時である。私はアメリカで政治学を勉強していたが、このミュージカルを観て初めて、衝撃を受けると同時に、「エンターテイメントから学ぶ」という新しい感覚を感じたことが記憶に強く残っている。

多くの方は、「レ・ミゼラブル」というよりは、「ああ無情」としてこの作品を認識している人が多いだろう。フランスの作家、ビクトル・ヒューゴの代表作である。恥ずかしながら、ブロードウェイで観るまで、「ああ無情」がこれほども壮大かつ深い作品であることを私は知らなかった。

報道によれば、先の衆議院議員選挙に立候補した人の人数は、1504人であり、現憲法下で最多であったという。理由はどうあれ、政治に関わりたいと思った候補者が一番多かった選挙であることは間違いない。

しかしながら、果たしてこの中にどれほど「レ・ミゼラブル」が問う、「権力を持つ者として何が正しいことなのか」、「何が正義なのか」、「人間は何を求め、どう行動すべきなのか」という一見して単純であるが難しいテーマについて考え、意識していたであろうか。

おそらくそういった候補者はほとんどいなかったであろう。

クリスマス、年末年始の時期に公開されたこの映画はまさに政治家たちへのクリスマスプレゼントやお年玉である。

もちろん、この作品が投げかける「人間として何を求め、何を正義と考え、どう行動すべきか」という極めて深い問いは、政治を志す者でない我々一般人にとっても極めて根本的かつ重要なものである。

また、この作品の素晴らしいところは複数の主人公がおり、キャラクターそれぞれが直面する葛藤が深く描かれており、それぞれの葛藤はまさに人間として生きていれば当然直面しうるものなのである。

例えば、以下のような葛藤が見事に描かれている。

①パン一口分の窃盗行為で19年も投獄されたバルジャン(Valjean)に対する世間の冷たさとそれを憎みさらなる犯罪へ手を染めようとし、司教からの信頼を裏切ったことへの葛藤と懺悔

②法による犯罪者の厳格な処断こそが正義として疑わなかったジャベール(Javert)捜査官の葛藤

③幸せな生活という平凡な夢すら奪われたフォンティーヌ(Fantine)が抱える娘への自己犠牲の愛情と現実の過酷さとの間の葛藤

④友人の学生たちと新しい未来のために反乱に参加すべきか、突如芽生えた愛情を追及すべきか、さらには生き残ったことへのマリウス(Marius)の葛藤

⑤貧困の進む現実を目の当たりにし、社会の変革のため運動を形にしたいという強く若い学生たちとそのリーダーであるエンジョラス(Enjolras)の葛藤

⑥愛する人のため、自分は身を引いてでも相手の幸せを願おうとするエポニーヌ(Eponine)の葛藤

⑦不遇の幼少期とその後は自分が自己犠牲の愛情に支えられてきたことを知らなかったコゼット(Cosett)の葛藤

以上、簡単に思いつくもののみを書いたがこれ以外にも登場する様々なキャラクターのそれぞれが抱える感情と葛藤が見事に描かれているのが、「ああ無情」を原作としたミュージカル「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」である。

そして、「正義とは何か」、「何を信じ、どう行動すべきなのか」という政治哲学の根本的な問いを観客に投げつけ、人間の儚さと強さを教えてくれる

とりわけ、先の選挙において、権力を行使する立場になった議員には、この映画を観てもらい、この作品が問いかけるこれらの哲学的な問いを常に意識し、自分は立法者、為政者としてどう答えを出していくのかぜひ真摯に考える機会を持ってもらいたい

映画の評価については、未だ映画を観ていないので、なんとも言えないが、私が注目しているのは、ヒュー・ジャックマンさんとアン・ハサウェイさんの歌声と演技はもちろんであるが、Eponine役を演じているサマンサ・バークス(Samantha Barks)さんとMarius役を演じているエディ・レッドメイン(Eddie Redmayn)さん、さらにEnjolras役を演じているアーロン・トヴェイト(Aaron Tveit)さんの歌声と演技力に注目している。

サマンサさんとアーロンさんは、元々ミュージカル出身の俳優・女優であり、その歌声が素晴らしいであろうことは想像できるが、その映画における演技力は見物である。特にサマンサさんは、2010年頃からイギリスでこのEponine役を演じており、25周年コンサートでも同じくEponine役を見事演じているいわば本場のミュージカル女優である。ミュージカルの舞台からスクリーンという違う空間で演じる彼女らの本格的な演技に注目である。

また、エディ・レッドメインさんも、元々舞台俳優であるが、彼は、iPhoneで自分のうたっている映像を撮ってエージェントを通じて、この映画に応募し、見事、この役を勝ち取ったということで、その歌声がどのようなものであるのかぜひ聞いてみたい。

さらに、アン・ハサウェイさんは、映画評論家のジェイク・ハミルトン(Jake Hamilton)氏とのインタビューで、一番演技が難しかった歌のパートを聞かれ、「Now life has killed the dream I dreamed.」だと答え、その理由として、「この部分は後戻りすることがない、いわば、死を示す状態にある、つまり、夢をずっともっていた人がすべてを失って、娼婦をしなければらなない状態になり、彼女の命をつなぎとめているのは娘への愛情のみである。そうした人は世界中にたくさんいるだろうがこの感情を演じるのがとても難しかった」といった趣旨の発言をしている。

そして、親日家としても知られるヒュー・ジャックマンさんは、1996年頃にオーストラリアでのディズニーのミュージカル、「美女と野獣(Beauty and Beast)」において、ガストン役を演じているが、この時のオーディションで、レ・ミゼラブルで、ジャベール捜査官役(Inspector Javert)が歌う、「Stars」を歌い、審査員に、「なぜこの曲を美女と野獣のオーディションに歌ったの。」と聞かれ、「通っていた俳優学校の歌のレッスンでこの歌を練習していたため」と答えたところ、審査員は「そんな歌はいいよ。どうせそんなミュージカルの役なんて一生やらないだろうから」と言われたというエピソードがあったらしいが、その指摘は間違いだったようだ。

ヒュージャックマンさんは、この映画の役をどうしても演じたかったらしく、トム・フーパー(Tom Hooper)監督の名前が挙がった時に、監督として契約する前だったにもかかわらず電話をかけて、この役への熱望を伝えたという。ヒュー・ジャックマンさん本人は「あれはストーカー行為だった」と欧米メディアに対して述べている

映画では、ブロードウェイとイギリスのウェストエンドで、オリジナルキャストを務めたコルム・ウィルキンソン(Colm Wilkinson)さんがバルジャンのその後の人生に大きな影響を与える司教役で登場していることも、元々ミュージカルファンだった者にとっては感慨深い。

映画そのものの評価も高いようで、アメリカでは、25日のクリスマス公開から約1800万ドルの興行収入を得ており、この成績は現在公開されている映画の中で第1位とのことで、さらに私の中の期待も増している。

この映画に関する映画評論家Jake Hamilton氏の素晴らしいインタビュー映像(残念ながら英語のみ)があるので、興味のある方はぜひ映画を観に行く前に観るといいだろう。

経済の問題、原発の問題、震災からの復興、他国からの領域侵害、さらには憲法改正の声が出ているなど日本が今直面する問題は多々あるが、フランス革命を舞台としたこの作品は、それらの問題に対する解決策を考える上で、一番重要な上記問いを投げかけてくれる

私も、この年末にこの映画を観て(できれば複数回観たいが)、アメリカ留学時代に受けた衝撃を思い出し、エンターテイメントから、上記問いについて学び、考えてみたい。

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08/30/2012

映画、アベンジャーズ(The Avengers)の評価

前回のブログ記事では、アメリカのエンターテイメント業界で成功を目指す若者たちの新たな資金調達方法を紹介ライブドアのブロゴス版)したが、今日もエンターテイメントに関する話題を取り上げてみたい。

今日は、映画、「アベンジャーズ(The Avengers)」を観た感想を紹介しようと思うが、まだ観ていない人が多いと思うので、ストーリー内容には極力触れず、映画の論評をしようと思う。

動画はマーベル社公式チャンネルの予告。

端的に感想を言えば、アメリカンコミックのヒーローもの映画としては、かなり原作のキャラクターの個性はもちろん、既に個々のキャラクター映画として上映され、成功している「キャプテン・アメリカ、ザ・ファースト・アベンジャー(Captain America, the First Avenger)」、「アイアンマン(Iron Man)」、「マイティー・ソー(Thor)」、「インクレディブル・ハルク(Incredible Hulk)」といったそれぞれの映画の世界観が融合し、かつ、調和のとれた作品となっており、ヒーローもの映画としては、まさに、「素晴らしい(Marvelous)」の一言に尽きる

ハリウッドの一大事業ともいうべき壮大なプロジェクトとアメリカ特有のユーモアに基づいて制作されており、原作の版権元であるマーベル(Mervel)社の作品として恥じない出来であった。

ただ、アメリカンコミックに親しみのない日本人にとっては、始めてこの映画を観ると、100%この映画の完成度を楽しむことは少し難しいかもしれない。

もっとも、私も、アメリカンコミックに詳しいわけではなく、アメリカに住んでいた時に、キャラクターを知ったという程度だったり、後述で紹介する映画を観たことによって知っている程度であるが、この映画をしっかり楽しみたい人は、ぜひ、既にDVDやブルーレイが出ている「マイティー・ソー」「Captain America」「アイアンマン(Iron Man)」「アイアンマン2」「インクレディブル・ハルク(Incredible Hulk)」を観た上で行くと、この映画の世界観とこれらそれぞれの映画との調和やコラボレーションのあり方が十二分に楽しめると思う。

動画はマーベル社公式チャンネルの予告。

何が「壮大なプロジェクトか」ということを具体的に説明すると、「アベンジャーズ(The Avengers)」は、前述のすべての映画の集大成として作られているということである。

まず、舞台設定を理解するうえでは、「マイティー・ソー」のSFの世界観がこの映画のストーリ展開のベースとなっている。

「マイティー・ソー」で繰り広げられた、地球を含む全宇宙の成り立ちに関する舞台設定を知ることが、「アベンジャーズ」の本質を理解する上では欠かせない

また、「アベンジャーズ」において、「そもそもどうして地球が危機にさらされるのか」という根本的な答えは、北欧の神話を元に作られた「マイティー・ソー」の中にあるのである。

次に、当然こうした壮大なSF映画においては、良く出てくる話ではあるが、地球に住む人間の側の落ち度が危機を招いたという側面が描かれることが多い。

アベンジャーズにおいても、その要素があるのだが、その答えは、「キャプテンアメリカ」の中で描かれている内容に関連するのである。

したがって、5つも事前に映画を観ている余裕がないという人は、「マイティーソー」と「キャプテンアメリカ」を観た上で映画を観に行くと、何も観ないで行った場合に比べ、2倍は楽しめるのではないだろうか。

しかしながら、「アイアンマン」や「ハルク」を知らなくてよいというわけではない。

「アベンジャーズ」を100%楽しむには、これらも観た方が良い。

特に、「アイアンマン」の主人公、ロバート・ダウニー・Jrが演じるトニー・スタークの父親、ハワード・スタークは、「キャプテンアメリカ」で、キャプテンアメリカ誕生に関わる重要な任務を担っているし、トニー・スタークがハワード・スタークの息子だということは、「アイアンマン2」でも重要な意味を持ってくる。

また、「アベンジャーズ」に登場するスカーレット・ヨハンソンが演じるブラック・ウィドーは、そもそも「アイアンマン2」に登場する。

ちなみに、「キャプテンアメリカ」で、若き日のハワード・スターク役を演じる、ドミニク・クーパー(Dominic Cooper)はなんとなくロバート・ダウニー・Jrに似ている姿で描かれているのも、すべては「アベンジャーズ」につながる布石なのである。

「インクレディブル・ハルク」の中でも、ロバート・ダウニー・Jrが演じるトニー・スタークが登場し、アベンジャーズに関係する計画について触れるシーンがある。

また、「アベンジャーズ」の一人、フォークアイは「マイティーソー」に登場する。

そして、これらのすべてのキャラクターをつなぐのが、サミュエル・ジャクソン演じるニック・フューリーSIELD長官とクラーク・グレッグが演じるフィル・コールソンの2人である。

このコールソンというキャラクターが脇役ながら、「マイティー・ソー」でも、「アイアンマン」でも重要な役回りを演じており、「アベンジャーズ」でも、ストーリーの展開上、重要な人物である。クラーク・グレッグの脇役としての目立たないが印象に残る演技も素晴らしい

このように、それぞれの映画がいわば、パズルのように重なり合って完成した集大成が「アベンジャーズ」といえるだろう。

私が、「壮大なプロジェクト」と称賛する理由は、それぞれの映画がそれぞれ個々に完結しているにもかかわらず、それがすべて「アベンジャーズ」への布石となっている点にある。

つまり、これらの映画を観てから「アベンジャーズ」を観ると、さらに深く理解でき、映画が描く世界感を本質的に理解することができるのである。

ところで、この映画で私がもっとも光っていた演技をしていたと感じたのが、悪役、ロキ(Loki)を演じた、トム・ヒドルストン(Tom Hiddleston)というイギリス人俳優である。

スティーヴン・スピルバーグ監督の「戦火の馬」では、全く正反対のいわゆる「良い人」として描かれているニコルズ大尉を演じ、「アベンジャーズ」のロキ役とは全く違った演技を見せている。

このロキという悪役は、通常の悪役とは異なり、同情すべき過去とそれに伴う複雑な感情を抱いているキャラクターであるが、この複雑な感情の変動をトム・ヒドルストンは見事に演じている

彼の演技で注目すべきは、「マイティー・ソー」のロキと「アベンジャーズ」のロキでは、後者がより邪悪さが増しているという点である。

前者は、兄の陰に隠れてきた嫉妬心とともに、自分の今までの人生が偽りによるものだったことに対する怒りにより、悪へと突き動きながらも、その根底は悪というより、父親に認められたいという感情による行動という形で描かれていたのに対し、後者では、より自分の欲望に駆られて、支配への欲望という悪の道を進むロキという姿が見事に描かれている

「アベンジャーズ」のロキも、邪悪でありながらも、どこか悪に染まり切れない側面を見せてくれる

つまり、この悪役ロキは、「キャプテン・アメリカ」に登場するレッド・スカルなどのいわゆる「ザ・悪役」とは違い、境遇に悩む人間味が溢れたキャラクターといえる。その意味では、オペラ座の怪人に登場するファントム(怪人)に近いものがあるかもしれない。

これは、トム・ヒドルストン自身が演じる上でも意識していた点のようで、彼はTotal Film社の「一番ホットな俳優」(Total Hotlist Award)に選ばれた授賞式後のメディアのインタビューで、「ロキの鋼鉄のように冷たいベニヤ詐欺師のような魅力の根底には、ぜい弱性と傷つきやすさがあるんです。つまり、見捨てられた弟、見捨てられた子として傷ついた心です。ロキの心は(懐いているように見えて油断をすると爪で引掻くといったような)捨て猫のようなものなんですよ。でも、僕はロキのキャラクターが大好きです。(Underneath the steely cold veneer of his trickster charm is a certain vulnerability and sensitivity – the wounded fragility of an outcast brother and son. His mind IS a box of cats though! But I love him.)」と答えている。

動画はTotal Film社公式チャンネル上のトム・ヒドルストンの受賞後のコメント。

彼の演技は世界的にも評価が高く、悪役を演じているにもかかわらず、ロバート・ダウニーJrを抑えて、「一番ホットな俳優」に選ばれるなど、今、英米で注目の俳優となっている。

Youtubeにいくつかメディアの公式チャンネルで公開されているインタビューの動画があったので紹介しておこう。

こちらのインタビューでは、アベンジャーズの具体的な内容に関する発言をしているので、まだ観ていない人は観てから見てみると面白いだろう。

トム・ヒドルストンは、来年(2013年)公開予定の「マイティー・ソー2(The Thor, The Dark World)」で再び、ロキ役を演じることとなっているのだが、報道によれば、悪役ロキを上回る悪役が二人も登場するという。Examinar.comのDaniel Souto氏は、「ロキとソーがチームを組んで強大な敵に立ち向かうのではないか」との推測をしている。

「マイティー・ソー」、「アベンジャーズ」とそれぞれ感情の変化が見事に描かれたロキであったが、今度はどのよう形で、ロキの人間味あふれるキャラクターを演じてくれるのか、トム・ヒドルストンの今後の演技にも注目したい

このように、マーベル社が同社が版権を持つコミックのキャラクターを映画化し、そのそれぞれの映画がさらなる映画への布石として続く壮大な映画プロジェクトはまだまだ続くのである

今回の「アベンジャーズ」はその中間点といっても良いだろう。今後3年以上かけて行われるこのプロジェクトを見逃すのはもったいないではなかろうか。

未だ映画、「アベンジャーズ」を観ていない人はぜひ、上記DVDを観て予備知識をつけて行くと、マーベル社が作り上げた壮大な映画プロジェクトがより一層楽しめるだろう。

なお、唯一残念に感じたのは、ハルク役が前作のエドワード・ノートンが引き継いでいない点である。もっとも、今回ハルク役を演じたマーク・ラファエロの演技も素晴らしいのである(アメリカメディアもマーク・ラファエロの演技について高評価である)が、当初は、エドワード・ノートンがこの役を引き続き演じるとされ、交渉も進められていただけに残念であった。

この点からもわかるように、映画のシリーズをまたいで、主役を演じた俳優が引き続きその役を演じるのは、金銭面等も絡むために難しいが、こうしたいわゆる大人の事情を乗り越えながら継続するこのプロジェクトには今後も期待したい。


以下、前述した「アベンジャーズ」をより楽しむための映画DVDを紹介する。

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07/19/2011

一つの歴史が終わった

今年1月にブログを更新して以降、全く何も言わずに、ブログを放置してしまい、読者の皆さんには申し訳ないと思っています。

ブログをしばらく更新しなかった理由ですが、色々なことがあり過ぎ、また日本の将来、とりわけ、日本の政治に対してあまりにも希望が持てず、ブログを更新しようという気にはなれなかったというのが正直なところです。

さて、今日は前回の更新から半年ぶりの記事です。政治ネタなどを期待していた方には申し訳ないのですが、今回は、映画ネタです。

しかも、今話題の「ハリー・ポッターと死の秘宝パート2 (Harry Potter and the Deathly Hallows part2)」です。

15日に公開されて以来、公開3日間で興行収入17億6000万円をあげているそうで、私もこの週末に映画を見て、初めて「映画館で2度以上みたい映画」だと感じました。

私は、ハリーポッターの原作を読まずして、10年間、Chris Columbus監督(現プロデューサー)やDavid Yates監督の映画により描かれたハリー・ポッターの世界を見てきましたがですが、今回の映画は最終章にふさわしい、とにかく素晴らしい映画でした。

私のように、映画でストーリーを知り、この最終章を楽しみにしている方がまだいると思いますので、ネタバレになるようなことは書かずに、この映画を見た感想(絶賛に近い内容となってしまいますが・・・)を書こうと思います。

そもそも、10年間かけて見てきた映画の結末がわかるわけですから、それだけでも期待は自然に膨れ上がります。多くのシリーズ物の映画は、こうした期待に応えることができず、続編に進むにつれ、映画の面白みがなくなっていくものですが、「ハリー・ポッターと死の秘宝パート2」は見事にこの期待に応えてくれました。

ハリーと友人たちとの友情や教授たちの愛情といったところがこの映画の醍醐味であり、原作を読まずに、映画のみを見てきた方にとって、一番気になっているのが、セルブス・スネイプ教授は裏切り者なのか、ドラコ・マルフォイはどうなるのか、そして、ハリーの運命はどうなるのかということではないでしょうか。

特に、Alan Rickman演じるセルブス・スネイプ教授は、MTVが主催したハリーポッターワールドカップで、人気1位のキャラクターに選ばれました

ワーナーも今回のストーリーを「スネイプのストーリー」と題してPRをしており、この重要なキャラクターがどういう結末に、どのようにかかわっていくのかという点がこの映画の最大の見せ場の1つです。


映画では、そのあたりの答えを明確に描いており、かつ、同シリーズを見てきたファンに、前作や前々作のシーンを瞬間的に振り返させて、「あ、あそこの不自然な点はこうだったからなんだ。」と深い納得ともいうべき感情を与えてくれます。

また、私のように原作のストーリーを知らない視聴者にとっては、映画の最中、涙があふれるようなシーンもいくつかあり、予想のできない展開に、130分間、一瞬もつまらないと感じるシーンはないはずです。むしろ、私の場合、130分があっという間に過ぎてしまい、見終わって何とも言えない満足感と疲労感に襲われました。もっと、長くても良かったとすら感じます。

息をつく暇がないというのはこのことで、世にサイエンティフィック・フィクションの映画はたくさんありますが、このハリーポッターは、最終章において、従来の映像技術のみに頼っていたSFとは全く違う、俳優たちの演技力に支えられた素晴らしい映画であったと評しても言い過ぎではないでしょう。

「ハリー・ポッターと死の秘宝パート2」を見て、私は1つの歴史の終わりを見たような気にさえなりました。それは、10年間にわたるシリーズが終わったというだけの意味合いではなく、これを超えるようなSF映画は今後しばらくの間は現れないのではないか、つまり、このハリーポッターがSF映画の1つの区切りになるのではないかと感じました。


スターウォーズシリーズは確かに壮大な世界観で、視聴者を圧倒したSF映画です。このシリーズもSF映画の歴史においては貴重なものであったと思います。しかしながら、スターウォーズシリーズはやはり映像技術一辺倒なところがあり、俳優の演技力がものをいうシーンは少なかったように感じます。

これから公開されるトランスフォーマーなどもその意味では、より映像頼みであり、インディペンデンスデイ以来のSF映画の域を出ていないように感じます。

他方で、「ハリーポッターと死の秘宝Part2」では、敵、味方の主要なキャラクターはもちろん、それ以外の脇役などそれぞれのキャラクターの複雑な感情が映画の一瞬、一瞬で現れ、絶妙に描かれています。こうしたそれぞれのキャラクターの複雑な感情の演技力からは、イギリス人俳優たちの力強さと演技力の奥深さを感じました。

また、10年間の総決算である今回の映画では、シリーズすべてを見てきた視聴者がしっかりと映画を見れば、気がつくことがあります。それは、今までのシリーズに登場したキャラクターが一瞬ですが多数登場することです。

たとえば、シリーズの最初の作品である「ハリーポッターと賢者の石(Harry Potter and the Philosopher's Stone)」のクィディッチのリーダーであったSean Biggerstaffが演じるオリバー・ウッド(Oliver Wood)がちょっと映っていたり、シリーズ1,2,3作と5作目に登場したChris Rankinが演じるパーシー・ウィーズリー(Percy Weasley)なども登場し、シリーズの総決算であることを感じられる瞬間が多々あります。

これから見る方はぜひ、そういった1つ1つのシーンをしっかり見るとより一層この映画の面白さが増すのではないでしょうか。

また、グリフィンドールの寮生であるシェーマスやMatthew Lewisが演じるネビル・ロングボトムなど旧来からの仲間がどうのような姿を見せるのかもこの映画の注目すべき点でしょう。

そして、映画の後半で、ある人物がハリーに対して残す「言葉」の持つ力についての発言は、映画の中だけにとどまらず、私たちにある種の教訓的な発言として、なにか感じるものがあります。

とにかく、この映画は予想を裏切り、期待にこたえてくれる素晴らしい映画です。

まだ見ていない方は、ぜひ、今までのシリーズを見た上で、この映画を存分に堪能してほしいと思います。


以下はロンドン・プレミアの映像です。

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01/03/2011

年末に映画「トロン:レガシー」を観て

昨年は、さまざまな社会的な出来事に対する主張にお付き合いいただき、ありがとうございました。

なかなか更新ができませんが、2011年もお付き合いいただければと思います。

さて、2011年のお正月を皆さんはいかがお過ごしですか?

私は、昨年末頃から、再び映画にはまり、お正月も映画を見て過ごしいます。

もともと映画が好きだったこともあり、映画館で、スクリーンの迫力を楽しみながら観ることも多いのですが、最近は、テレビ番組等が面白くないと感じることが多く、家でも映画を観ることが多くなりました。

映画の良いところは、どんな映画もそれを制作する上で、時間がかかっているため、何かを学ぶことができることです。特に、洋画は、B級以下の作品でも、その国の、その時代の文化が反映されていたり、今では有名な俳優や女優の無名時代の演技などを楽しむことができたり、単純なストーリー以外の点でも、楽しむことができます。

また、映画を見ていると、ついつい、主役級ばかりに目が行ってしまいますが、脇役やちょっとしか登場しない人物の演技が意外と良い味を出していて、それを発見することも、映画の楽しみであると私は感じています。

そこで、年末年始に観た映画を紹介しようと思います。

といっても、今日は1作品のみ。

その他の作品については、適宜、このブログで映画評論として、紹介していこうと思っています。

今日評論する映画は、今まさに公開中の「トロン(Tron: Legacy)」です。

この映画、撮影そのものは64日間で終了したのですが、撮影後の映像技術に費やされた時間は、68週間といいますから、映像にかけた制作者の意気込みはこの数字からも伝わってきます。

ただ、ストーリーの概要や映像の良さは、他のサイトでも取り上げられていると思いますので、このブログでは、別の角度からこの映画について、取り上げてみます。

さて、この映画で、脇役ながら存在感があるのが、Zuseというキャラクターを演じるマイケル・シーン(Michael Sheen)という俳優です。


どことなく異様で、エキセントリックな雰囲気で登場し、登場シーンが終わる最後まで、そのキャラクターの印象が残る演技をするマイケル・シーンですが、2006年に公開され、ヘレン・ミレン(Helen Mirren)が2007年のアカデミー賞の最優秀主演女優賞を獲得した映画、「The Queen」では、トニー・ブレア首相(当時)の役を見事に演じています。


2007年の英国アカデミー賞(BAFTA Awards)では、最優秀助演男優賞にもノミネートされており、まじめで、かつ、当時のトニー・ブレア首相そっくりの演技は、トロンで見せる奇妙な演技とはまったく違う重厚な演技で、この俳優の演技力のすごさを感じました。

トロンで、彼が演じるZuseのシーンは、一見の価値があると思います。

マイケル・シーンは、2010年公開の作品「The Special Relationship」でも、「The Queen」のシェリー・ブレア夫人役を演じたヘレン・マックローリー(Helen McCrory)と共に、三度目のブレア首相役を演じているようです。ぜひ観てみたいものですね。ちなみに、ヘレン・マックローリーは、ハリーポッターシリーズで、ハリーポッターと同級生でライバル寮のドラコ・マルフォイの母親、ナルシッサ・マルフォイ役も演じており、この人もキャラクターを自在に演じ分ける実力のある女優です。

*この商品はリージョン1(アメリカ、カナダ向け)のDVDでしか再生できません。


しかし、残念ながら、アマゾンでは、日本のDVDでは再生できない輸入盤しか取り扱っていないようです(配給会社の方、ぜひ日本でもこの作品を観れるようにしてください)。

さて、話をトロンに戻しますが、主役のギャレット・ヘドランド(Garret Hedlund)もなかなか良い演技をしています。

この俳優の良さは、どこにでもいそうなアメリカの青年を演じきっている点です。特に個性のある演技をしていないため、突然、わけのわからない空間に入り込んでしまい戸惑う、サム・フリン役を見事に演じているといえます。多少、主役としては、物足りなさを感じるような気もしましたが、逆にそうしたアマチュア感のある役柄を演じきっているようにも思えました。

この俳優のデビュー作は、2004年に公開されたブラット・ピットが主演した「トロイ」で、ブラット・ピットが演じるアキレスの身代りとなって戦うパトロクラスの役を演じているのですが、彼が俳優になる決意をして、カリフォルニアに引っ越して、1か月でこの役を獲得しており、なかなか実力のある俳優です。

さて、この映画、もちろん映像も良いのですが、私は劇中で使われている音楽が、この世界に観客を引き込むうえで、非常に重要な役割を果たしているように感じました。臨場感ある音楽が、自然とトロンのコンピューターの中の世界という非現実的な空間に違和感なく、入り込めるような効果をもたらしているのではないでしょうか。

*この商品は劇場版のCDで、DVDではありません。

最後に、厳しいコメントも言いますと、この映画、3D上映なのですが、実際のところ、3Dにしたことの良さはあまり感じませんでした。

むしろ、3Dグラスをつけることで、グラスの暗さから、全体的に暗い印象となってしまうため、劇場での臨場感を半減させてしまったような気がします。

最近は、多くの映画で3D化を押していますが、なんでもかんでも3D化すれば、臨場感を味わえるというわけではないように感じます。3D化をする意義をもう少し考えた方が良かったような気がします。

ランキング等をみていると、日本では、アメリカでの盛り上がりをこの映画は見せていませんが、劇場で楽しむ映画としては、鑑賞の価値があるように思います。

この映画の最後に、サムの父親で、コンピューターと現実の世界を行き来できる装置を作ったケビン・フリンが、完璧さを追求することの過ちを認めるシーンがあります。これは、特に私たち日本人の多くが知らず知らずのうちに犯してしまっている過ちのように思います。様々なシステムが安全であるということに過信してしまったり、それ以外の場面でも、正しい答えというものを常に求めてしまい、思考錯誤する過程の重要さが過小評価されてしまっているように思います。

この映画には、「絶対的な完璧というものは、存在せず、むしろ、未熟だからこそ、人間である」という基本的なメッセージが込められており、高度に発達し、それに疑問を持たずに進んでいく技術社会の功罪も考える上で、非常に良い機会になるのではないでしょうか。


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06/20/2010

低俗なCMを垂れ流すのは誰?

ワールドカップのオランダ戦を見てて、この記事を思い出したので一言。

結論から言うと、こんなくだらない事にいちいち目くじら立てる民放のテレビ局は、本当に器が小さいですね。

<NHK>南アW杯で配慮欠く発言、謝罪

6月19日0時5分配信 毎日新聞

NHKは、サッカー・ワールドカップ日本戦中継を告知する際、配慮に欠いた発言があったとして18日、放送の中で謝罪した。

 NHKによると、17日の韓国-アルゼンチン戦の放送中、NHKアナウンサーが19日の日本戦の中継について告知する際「BS1でたっぷり放送、コマーシャルありませんからね」と発言したという。これについてNHKと協力して中継を担当している日本民間放送連盟から指摘があり、18日のドイツ-セルビア戦の放送後、謝罪した。NHK広報部は「改めてNHKの公共性と民間放送の商業性を互いに尊重し、協力して中継を盛り上げていきたい」と話した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100619-00000001-mai-soci

民放各局も、コマーシャルが視聴者にとって目障りだと思われていると感じるなら、コマーシャルがあっても視聴者がその番組を選ぶような番組作りをすれば良いのではないでしょうか。

スポーツ中継では、コマーシャルは邪魔以外の何物でもないでしょうから、コマーシャルを集中的にハーフタイムに流すなどしてスポンサーの了解を得れば良いのではないでしょうか。

また、「コマーシャルを入れないのは、スポンサー企業が視聴者の皆さんにゲームを楽しんでほしいからです」というメッセージを入れるような、民放の状況を逆手にとって、スポンサー企業のイメージを向上させる形でのCMもできると思います。

結局、色々民放が、視聴者の民放離れを止めるために試行錯誤すればいいだけの話です。

多くの視聴者がコマーシャルを目障りと感じるのは、某PR会社任せの、下らない、レベルの低い、うるさい、見苦しい、知性のかけらもないテレビコマーシャルが溢れかえっているからです。

また、今日のオランダ戦でも、民放の中継では、スタジオに集まっている人々にニッポンコールをさせたり、どうも過剰な演出が目につきます。

純粋に試合だけを見たい視聴者にとっては、ああいう熱狂状況を人工的に作る姿は、逆に白けさせられるのではないでしょうか。

サッカー中継だけではないのですが、スポーツ中継で、解説者があまりにも冷静さを失った解説が多いのも私は好きではありません(フィギアスケートの八木沼さんと、名前が解らないのですが、柔道の女性の解説者の2人は、常に冷静で、解説者の鏡だと思います。)。

特に、高齢者からは、サッカー中継に限らず、民放を見ているとCMがうるさすぎて、頭が痛くなるのでNHKしか見ないという声も良く耳にします。

高齢化社会や時代の変化に対応できずに、下らない低俗なコマーシャルや過剰な演出を溢れかえらせている民放は、NHKのアナウンサーのジョークで済むような発言に目くじらを立てる前に、自分たちの視聴者からかけ離れた独自の社会通念を反省してほしいものです。

NHKも謝罪までする必要あるのでしょうか。

こんなくだらないことで謝罪するくらいなら、官房機密費から番記者が金銭や便宜供与を時の政権から受けてこなかったのかくらい調べてほしいものです。

日本の放送業界は本当に異常です。

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最近、メールなどで、「既存のメディア批判をするのは、このブログを配信しているライブドアニュースから報酬をもらっているからでは?」という趣旨のメッセージを受けることがありますが、残念ながら、配信されても、一切報酬はもらえません。

ライブドア社がブログに奨学金を出すそうですが、ブロゴスへの配信には一切奨学金はないはずです。少なくとも、私はもらってません。

現に、ブログを毎日更新できないのは片手間にやっているからです。

したがって、既存のメディア批判は、単に私がおかしいと感じるからするだけの話です。

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