オスカー・ピストリウス(Oscar Pistorius)判決について
1.ピストリウス氏に対する判決をめぐる報道について
既に,様々なメディアでも色々取り上げられ,特に情報番組では,センセーショナルに伝えているオスカー・ピストリウス選手に対して出された刑事判決だが,私は,この事件が起こった当初から,この事件での殺人罪での有罪は困難であって,報道は慎重になされるべきであるという指摘を3つの記事,
「オスカー・ピストリウス(Oscar Pistorius)選手の事件報道に見る捜査機関のリーク問題(元記事,BLOGOS記事)」,
「オスカー・ピストリウス(Oscar Pistorius)選手の事件報道に見る捜査機関のリーク問題(2)(元記事,BLOGOS記事」,
「想像を超えるオスカー・ピストリウス(Oscar Pistorius)選手の刑事事件(元記事,BLOGOS記事」
で行ってきた。
そして,当初の予測とおり,9月11日,オスカー・ピストリウス被告人に対し,(計画)殺人では無罪判決となり,過失致死罪での有罪判決が出たのである。
この刑事判決に対し,「判決に疑問」などという報道がでているが,私は,メディア等で知りえる範囲ではあるが,事実認定として,不合理な点は認められないと思っている。
むしろ,事件当初から,警察のずさんな初動捜査に対する問題点を全く失念しているのか,計画殺人罪での有罪を期待するようなセンセーションに報じているマスメディアの姿勢にこそ,外国の事件とはいえ重大な懸念を抱かざるを得ない。
さらに,私が疑問を感じるのは,法律の知識や法的思考を行う能力を十分に有しているとは言い難く,法律の勉強をしているとは到底思えないような外国人コメンテーターが,あたかも,南アフリカの法制度や同国の治安や社会的背景という特殊事情をすべて知っているかのように語っており,それに対し,何らその他のコメンテーターや司会者が疑問を抱いたりしないで,一定の方向に導びいている情報番組の薄っぺらい放送内容であり,これには辟易とする。
事件当初は,ピストリウス被告人が薬物を使用していたとか真偽不明な報道が無責任に流されていたが,これらの点は,何ら判決では言及されていないようである。果たして,そもそも,裁判で取り上げられるに足る事実だったかも疑問と言わざるを得ず,ますます現場保存という基本すら怠った無能な南アフリカ警察による印象操作の卑劣さを感じずにはいられない。
マスメディア,特に,日本のメディアのこうした報道姿勢からは,まさに,松本サリン事件での反省や小沢一郎に対する無罪事件判決の反省は垣間見れないのである。
日本メディアの報道では,「海外の法曹が殺人罪での無罪判決に疑問を示している」などと報道しているので,私は,この事件について,海外の法曹が本当はどう考えているのか気になったことから,昨夜,アメリカの連邦裁判所で働いているアメリカ人の友人に,本件判決に対する,米国法曹としての意見も聞いてみたところ,大筋,私の考えと同じであった。
そこで,今日は,米国法曹の友人の意見にも触れつつ,今回の判決やなぜ事件発生当初の報道から殺人罪での有罪が無理筋だと考えてきたのかについて,私見を紹介しようと思う。
もっとも,私も米国人の友人も,南アフリカの法制度を熟知しているわけではないので,あくまでも,米国法や我が国の刑事法令を学んだ者としての意見であって,南アフリカ刑法の専門家などではないことは事前に言及しておきたい。
なお,この事件は,法律学的にいえば,いわば,誤想防衛の事案である。
責任の本質は,そもそも規範に直面して,反対動機形成可能であったにもかかわらず,あえて当該行為に出たことに対する批難である。
つまり,人を殺そうと思っていたのであれば,その行為はいけないことだと分かっているのにあえて殺人という行為を行ったことに対する批難ということである。
したがって,故意犯として,その故意責任を問えるには,行為者が人を殺すことを認識・認容して,そのような行為がいけないことだと思っていなければならないのである。
そうであるとすれば,行為者が違法性阻却事由を基礎づける事実を誤信していた場合(例えば,強盗がおり,襲ってくると誤信していた場合)には,反撃としての当該行為が行けない行為とは認識していないのであるから,規範に直面したとはいえず,故意責任は問えないこととなる。
すなわち,事実の錯誤として,故意責任が阻却され,故意犯は成立せず,過失犯が成立するのである。
本件はまさにこの誤想防衛による責任故意の阻却により,故意犯の不成立が認められた事案ということになるだろう。
2.判決の概要
まず,メディアは「世界中で判決について疑問の声」などと報じるが,判決の詳しい事実認定については,報じている日本のメディアは皆無である。
海外報道もセンセーショナルな記事が大半であり,詳しい事実認定に触れているものは極めて少なかった。
しかし,判決を批評するうえでは,どういう事実関係なのかを判事(判決を下す立場)の視点で考え,その正当性を検討する必要がある。
そこで,不十分であはあるが,私が見つけられた情報の中で,他に比してより詳細に判決内容を記載していたイギリスのテレグラフ紙の記事が報じる判決概要を前提に,本件無罪判決を検証をすることにする。
記事によれば,次の判決の概要が説明されている。
<採用されなかった証拠及び主張>
・ Whatsappと呼ばれるSNS上での被害者及び被告人のやり取り,特に,被害者が被告人のことを怖いという内容のメッセージ及びその他,メッセージ上の恋愛感情に関するやりとりは,事実認定の採用できない。なぜならば,恋人関係というのは,ダイナミックであり,かつ,予想不可能なものである。
・ 被害者の胃の中に何も残っていなかったという事実は,何も適示していない。たとえ,被害者が夜中に何かスナックを食べていたのとしても,それは何も示さない。
・ 隣人,Michelle Burgerと彼女の夫,Charl Johnsonの「女性の異常な叫び声を聞いた」とする証言は信用できない。実際,この証言を含めた多くの証言がメディアの報道や他人の発言内容から影響を受けており,誤りが混入している。
・ 証人,Burger氏の「銃声が聞こえ女性の叫び声がした」という証言は信用できない。銃は極めて短い間隔で撃たれており,被害者が叫ぶことのできる時間はなかった。
・ 隣人,Stipps夫妻の銃声及び叫び声についての証言は誤っている。この2人の証人は,2回の銃声しか聞いていない。
・ 検察官,Gerrie Nelは,銃は午前3時16分に撃たれ,2回の銃声を隣人が聞いたと主張する。しかしながら,この主張は,検察官が主要な点として主張している「銃声の前に被害者は叫んだことから,被告人が誰を撃ったか知っていたはず」とする主張と矛盾する。
・ 弁護人が主張する警察による証拠の改ざんという主張については,本件事件の結論を左右しない。事件全体を勘案すると,改ざんの事実は,本件事件において重大さに欠ける。
・ 被告人は,何も考えずに撃ってしまったと主張する。もし人を殺そうと思っていたならば,もっと上を狙っていたとする正当防衛の主張と両立しない。
・ 被告人の当初撃つ意思はなかったとする主張も,安全装置を外していることから採用できない。
<採用された証拠及び主張>
・ 弁護人から提出のあった電話記録は,本件事件の時系列を示しており,採用する。
・ 弁護人が主張する叫び声は,被告人の声だったという主張は採用する。この点,被告人の元ガールフレンドであるSamantha Taylor氏が「被告人は決して高い声で叫ばない」とする証言は,何も立証しない。なぜならば,証人は,被告人が生命の危機を感じて叫んだ局面での叫び声を聴いたことはないのであり,そのことは証人自身が認めている。
・ 弁護人,Barry Rouxが適示したとおり,現場近くの警備員,Pieter Baba氏は,事件の前のパトロールにおいて,叫び声や争うような物音を聞いていない。このことは,現場から離れた所に住んでいるEstelle van der Merwe氏が「口論を聞いた」とする証言と矛盾しており,現場近くにいた警備員の証言の方がより信用できる。
以上が,判決の基礎になった事実認定の一部である。
これらは上記のテレグラフ紙の記載を参考に,より分かりやすくするため,記事の厳密な和訳ではない。
他の記事等を参考に,テレグラフ紙の記事の英文において,不明瞭な部分を補足をしていることは言及しておく。なお,重要と思われる部分を赤字にしている。
3.判決に対する検討
判決そのものが入手できないことから,あくまで報道ベースにはなってしまうが,本件判決の事実認定について,いくつか取り上げ,その認定内容が論理則・経験則に違反し,不自然か否かを検討することとしたい。
Whatsappと呼ばれるSNS上での被害者及び被告人のやり取り,特に,被害者が被告人のことを怖いという内容のメッセージ及びその他,メッセージ上の恋愛感情に関するやりとりは,事実認定の採用できない。なぜならば,恋人関係というのは,ダイナミックであり,かつ,予想不可能なものである。
この情報は,既に日本のメディアでも色々と取り上げられているだろうが,具体的にいつのどういうメッセージだったのかはあまり説明されていない。
これは,2013年1月27日に,被害者の被告人に宛てたSNS上のメッセージである。
具体的には,「I'm scared of you sometimes and how you snap at me and of how you will react to me.」という一文で,レストランで被害者が別の男性の親しげにしているところを,被告人が叱責し,それに対し,被害者が,「時々,あなたが叱責したりする私に対する反応に怖さを感じる」という内容である。
本件事件が2013年2月14日に発生しているところ,かかるメッセージは,2~3週間前に被害者が被告人に宛てて送付したものであるが,トコジール・マシパ判事が指摘するように,これだけで殺意や犯行の計画性を基礎づける証拠にはなりえない。
確かに,この一文のみを取り除いて見れば,被害者が被告人の言動に恐怖を感じていたというように思えるかもしれないが,そもそも,このメッセージが発せられた経緯は,被告人の被害者に対する恋愛感情,嫉妬心に基づく叱責に対する返答というものである。
そうすると,2~3週間前に,被告人が嫉妬心でカッとなったことが推認できるという事実は立証できるが,SNS上のやり取り全体を見れば,直後に,被告人が謝罪するメッセージを送信しているのであって,このやり取りが二人の恋人関係に何か大きな遺恨を残したとする事実は認められない。また,その後も二人の関係に大きな変化があったことを示すような事実が顕れていない。
以上からすれば,SNS上のメッセージのごく一部のみを取り出し,この一事のみをもって,殺意の動機と認定することは極めて困難である。
したがって,マシパ裁判官がかかるメッセージのやり取りが動機の認定の証拠にはなりえないとする判断は合理的かつ妥当である。
隣人,Michelle Burgerと彼女の夫,Charl Johnsonの「女性の異常な叫び声を聞いた」とする証言は信用できない。実際,この証言を含めた多くの証言がメディアの報道や他人の発言内容から影響を受けており,誤りが混入している。
隣人といっても,日本とは違い,数百メートルと離れている所に住んでいる人物の証言であることから,そもそも,そのような犯行現場からある程度距離のある場所にいた証人の証言内容の信ぴょう性は当然問題となりえるところ,裁判所があえてメディアの影響による記憶の減退・すり替わりを指摘していることは非常に重要なポイントである。
記憶というのは時間と共に不正確になることは一般的に明らかであるが,本件事件は,発生当時から,メディア報道が過熱し,警察等の捜査情報がリークされたり,様々な人々が自分たちの思惑の下に,メディアで注目を浴びようと様々な証言をしていたという特殊性がある。
このように加熱する報道がなされた本件において,証人の証言が不正確になり,かつ,記憶そのものがすり替わってしまう危険性は,当然あり得るのであって,裁判所としては,安易に不正確だったり,メディアにより刷り込まれてしまった証言を採用してしまうことは,大きな判断ミスにつながることから,極めて慎重にならざるを得ない。
マシパ裁判官の指摘は,結論ありきの判断をするのではなく,客観的な事情から,殺意(故意)という主観的要件を認定しようとしているのであって,これは裁判の基本である。
マシパ裁判官が,安易に不正確な証言を採用しないという姿勢を示したのは,当然のことであろう。
証人,Burger氏の「銃声が聞こえ女性の叫び声がした」という証言は信用できない。銃は極めて短い間隔で撃たれており,被害者が叫ぶことのできる時間はなかった。
隣人,Stipps夫妻の銃声及び叫び声についての証言は誤っている。この2人の証人は,2回の銃声しか聞いていない。
裁判所としては,被告人が連続して4発一気に発砲したと考えているようである。
そもそも,4発撃っているのに,銃声が2回しか聞こえなかったとする証言は,客観的な事実と矛盾しているのであるから,そのような証人が女性の叫び声を聞いたなどと主張しても,その信用性は低いと言わざるを得ない。
さらに,別に記事によれば,弁護人請求の証人は,男性の叫び声を聞いたという証言をしていたこともわかる。
また,裁判所は他の証拠から,4発短い間隔で撃たれていると認定しているようであるから,それと合わない証言を採用しないとなるのは当然であろう。
おそらく,裁判所としては,被告人が4発連続して発砲し,その直後に被害者を撃ってしまったことを知り,悲鳴を上げた,又は,被告人が4発撃つ最中又はその直前に強盗と思った人物に向け,声を挙げて撃ったと認定したのであろう。
前者の場合は,犯行直後の被告人の言動として,パニックに陥り,現場に到着した救急隊員等に被害者の命乞い等をする姿勢は,まさに殺人を意図していなかった(殺意がなかった)とする主張と整合的であって,そのような思考過程を辿ることは,合理的である。
後者の認定の場合でも,誤想した真夜中の侵入者に対する恐怖心から悲鳴に近い声を挙げながら,発砲をするということは不自然とは言えない。
したがって,この部分にも,特段不自然な事実認定は認められない。
検察官,Gerrie Nelは,銃は午前3時16分に撃たれ,2つの銃声を隣人が聞いたと主張する。しかしながら,この主張は,検察官が主要な点として主張している「銃声の前に被害者は叫んだことから,被告人が誰を撃ったか知っていたはず」とする主張と矛盾する。
南アフリカの検察は,被害者が銃で撃たれる前に叫び声をあげ,被告人はそれを聞いて,被害者の存在を認識したうえで撃ったという主張をしているようであるが,それが検察側証人の上記Burger氏やStipps夫妻の証言内容とされるものとも矛盾していることは明らかである。
したがって,かかる検察官の主張を採用できないとした裁判所の判断は,不自然とはいえない。
弁護人が主張する警察による証拠の改ざんという主張については,本件事件の結論を左右しない。事件全体を勘案すると,改ざんの事実は,本件事件において重大さに欠ける。
いわゆる,違法収集証拠排除の問題に関連する。
海外のメディアが伝える判決報道からすると,裁判官は,初動捜査を行った警察官が現場保存を怠ったこと前提として,それでも,事件の結論は左右しないという考えをしているようである。
つまり,警察が現場保存を怠り,証拠保全をせずに,現場に残されていたものを弄ってしまったことを前提にしているようである。
違法収集証拠という主張を弁護人は行っているようであるが,裁判所は,その主張を採用はしていないものの,警察による証拠保全に問題があったことを前提にしているのであるから,裁判官としては,判断に影響しないと言いつつも,現場に関する警察の取得した証拠の信用性が低いという前提で,判断せざるを得ないのであり,その限りにおいて,事実認定では,被告人に有利に作用しているであろう。
警察の証拠保全に疑義があるというのは,極めて重大な問題なのである。
弁護人が主張する叫び声は,被告人の声だったという主張は採用する。この点,被告人の元ガールフレンドであるSamantha Taylor氏が「被告人は決して高い声で叫ばない」とする証言は,何も立証しない。なぜならば,証人は,被告人が生命の危機を感じて叫んだ局面での叫び声を聴いたことはないのであり,そのことは証人自身が認めている。
メディアでは,元交際相手が被告人は攻撃的な性格であったなどと証言していることを重ねて取り上げ,彼女の証言内容があたかも真実であるかのように報じているが,少なくとも,マシパ裁判官は,この元ガールフレンドの証言については,信用できないとみているようである。
つまり,Taylor氏は,「被告人が高い声で叫び声をあげることはない」などと主張したようであるが,これを裁判官は,平たく言えば,「そんなこと,あなたが確知し得ないのに,なぜ分かるのか」というスタンスで,一蹴している。
この部分から私が感じるのは,裁判所が,当該証人の証言を全体的に信用できないと考えていること,及び,目立ちたいからなのかわからないが,当該証人が,自分には知りえない事実であるにもかかわらず,積極的に,被告人が不利になるように証言していると裁判官に映ったのではないかということである。
この証言について,裁判所が判決であえて言及していること,及び,裁判所が判決で,メディアの証人への影響を指摘していることを考え合わせると,この証言が検察の主張の重要な基礎であった一方,裁判所としては,信用性に欠けるということをあえて判決の中で指摘したかったのではなかろうか。
弁護人,Barry Rouxが適示したとおり,現場近くの警備員,Pieter Baba氏は,事件の前のパトロールにおいて,叫び声や争うような物音を聞いていない。このことは,現場から離れた所に住んでいるEstelle van der Merwe氏が「口論を聞いた」とする証言と矛盾しており,現場近くにいた警備員の証言の方がより信用できる。
この認定部分も自然である。
証言というのは,知覚→記憶→叙述という過程を経ることから,意図的か否かは別として,これらそれぞれの過程で虚偽が入り込む余地がある。
そうすると,相反する証言がある場合にどちらに信用性を置くかということは,かかる証人がその証言をするに至ったこれらの過程を検証することで判断することになる。
つまり,相反供述がある場合,まず,どういう状況で各証人が事象を知覚したのかという点が検証されなければならない。
この点,マシパ裁判官が知覚した証人の状況として,犯行現場からの距離を重点に置いて,判断していることは,通常の判断過程として相当であろう。
以上,検討してきたとおり,判決が南アフリカの社会事情を前提に検討すれば,特に不自然なものであるとは私には思えない。
また,日本よりは治安の悪いアメリカで,連邦裁判所に勤務する私の友人の法曹も,今回の判決は,まともな判決であって,むしろ,腐敗した南アフリカ社会を念頭にすれば,まともな判決を南アフリカの裁判所が出すことができたことに驚くと言っているくらいであった。
4.殺意の認定
以前から繰り返しになるが,一般的に、殺意の有無は、①凶器の種類、形状、用法、創傷の部位、程度といった犯行の態様、②犯行の背景、経過、動機、③犯行中または犯行後の被告人の言動(例えば、犯行中に殺してやるという発言があったか否かとか、犯行後に平然としていたかどうかなど)等の状況証拠を総合的に考慮して認定する。
まず,①犯行の態様について検討すると,凶器の種類,形状を考えるうえで,南アフリカの治安は極めて劣悪であり、拳銃等を護身用として持ち歩き、「やられる前にやる」ということが許容されているような社会であるという特殊事情を考慮しておかなければならない。
また,裁判官は,4発を連続して撃ったと認定しているわけであるから,この場合,「相手が知らない強盗で、夜中ないし明け方に侵入してきたため、無我夢中で撃ち続けた」というような被告人の主張を認めることは,これ自体不自然とは言えないだろう。
そして,事件発生当初から私が指摘しているように,②犯行の背景,経過,動機という要素について,本件は立証に失敗したのである。
つまり,検察官は,なぜ金メダルを獲得し、世界的な名声を既に手に入れ、これからも選手として将来のある人物であり、かつ、同じような境遇の子供たちに対し、義足を与えるための財団設立にも尽力していたと思われる人物が、バレンタインデーの前日にバレンタインデーで何かすることを楽しみにするツイートをしていた恋人である被害者を殺害するに至らなければならなかったのかということが何ら本件では立証できなかったことが責任故意が阻却され,過失犯となった最大の理由であろう。
これに対しては,「一時的にカッとなって殺したということも考えられるのではないか」という反論もあろうだろうが,一時的にカッとなって殺したのであれば,少なくとも,なぜ被害者に対して4発もの銃声を浴びせる程にカッとなったかということが立証されなければならない。
しかしながら,検察官はこの点について,立証ができておらず,裁判官の判決でも,殺意について,合理的な疑いを差し挟む余地がない程度の立証ができていないとの指摘は,この点につき,特に当てはまるだろう。
最後に,③犯行中または犯行後の被告人の言動であるが,被告人は終始誤って恋人を打ち殺してしまった人物の取る行動としては極自然な言動をしており,その主張と言動との間に矛盾点は認められない。
犯行後パニックに陥り,犯行直後の友人との会話状況や救急隊員等に被害者の命乞いをしたなどの行為をはじめとする犯行中及び犯行直後の被告人の言動は,被告人が殺意をもって行為に及んだこととは,一致しないのである。
これについては,計画的に演じていたということも考えられなくはないが,そうすると,被告人が以前から殺意を抱くことの合理的な動機等が立証されなければ,整合がつかない。
他方,カッとなって撃ち殺した場合,その直後に,パニックに陥ったりすることを演じたとすれば,不自然な点が出るが,本件では,被告人が殺意なく,被害者を死に至らせたという事実と背反するような被告人の言動が一つも立証されているとは聞かないことから,やはり,殺意の認定はできない事案であり,裁判所がそのような判断に至ったのは,極自然というべきである。
この点,アメリカ人の友人も,本件の決め手はまさに殺意を認定するに足る要素のうち,上記②及び③の部分が検察官の立証において欠けていたこと(不十分だったこと)が判決の決め手になったと言っており,私も同感である。
もっとも,被告人に過失があったのは明らかであろう。
被告人は強盗だと思い,寝ている被害者に,「警察に連絡してそこにいるんだ」と言ったが,被害者からの返答はなかったと供述しているところ,そのような状況で,被害者の所在を確認せず,一気に4発撃ったことは,被告人が果たすべき注意義務を著しく怠っていることは明白である。
しかし,過失と故意は別物である。注意義務違反が深刻であっても,それはあくまで過失犯なのであって,故意犯とは区別されなければならない。
現在の注目は量刑であるが,我が国の刑法では,過失致死は罰金刑であり,重過失であっても,5年以下の懲役である。
南アフリカでは,過失致死罪が最大15年とされているらしいが,量刑相場というのは,その社会の社会通念に強く依存しており,南アフリカの刑事司法事情を知らない私には何とも想像しがたいものである。
もっとも,裁判所も,過失と認定した以上,被告人が失ったもの,つまり,被告人が既に受けた社会的制裁を十分考慮することになるだろう。
また,過失を前提に,自らの過失によって恋人の命を奪ってしまったこと及び過失行為に対する被告人の改心の情というものも,ある程度勘案せざるを得ない。
そうすると,南アフリカの法制度で,執行猶予等の制度があるのであれば,それを付すこともありえるのではないだろうか。
5.判決に加熱する醜悪な各国メディア
さて,長くなったが,私は,この事件を扱う日本をはじめとした各国のメディアの姿勢に強い疑問と,デマゴーゴスともいうべき,扇動的なものや有名人の凋落を楽しむような醜悪な姿勢を感じてならないことを最後に指摘したい。
その一例は,ピストリウス被告人が収監された場合の刑務所について,色々な憶測で,どの刑務所にはいるとか,そこでは囚人間で,暴行やレイプが横行しているとかいう報道が先行している点である。
量刑が示されていない段階で,このような情報を報道している姿勢を見ると,いかにも,イケメンで美人の恋人がいた被告人の成功から転落を喜び,さらには被告人が,刑務所で,強姦されるような目に合うことを期待しているかのような報道で,極めて気持ちが悪い。
さらには,判決を批判する声もあるようだが,これらの批判のほとんど全てが判決のどの部分がおかしいのかは全く適示していない論難に過ぎないものであって,殺人罪での有罪とならなかった結論だけを単に批判し,具体的な判決の事実認定に対する反論はほとんど示されていない。
結論ありきで,判決の具体的な中身を検討せずに,法廷に現れた事実と関係者が法廷外で好き勝手発言している事実とを混同し,「判決に違和感」などと薄っぺらいコメントを述べているコメンテーターなどを見ると,法的素養の欠片も感じないし,そういう恥ずかしい見解を日本中に振りまいているマスメディアは,百害あって一利ない。
遠い外国の事件ではあるが,こうしたセンセーショナルな事件に接した時は,結論ではなく,結論に至る論理を検証しようという姿勢が私は重要であると考える。
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Comments
An intriguing discussion is worth comment. I do believe that you need to publish more about this subject matter, it might not be a taboo subject but usually people do not talk about such subjects. To the next! All the best!!
Posted by: blog online | 09/20/2014 10:14 pm