「ありのままで」は働けない労働法改正の動き
以前,「侵害排除ではなく機会を逃さずに侵害を活用する柔軟な発信力が重要 」という記事で紹介した映画「アナと雪の女王」は,日本でも爆発的なヒットとなっており,ついにはNHKが興行収入200億円突破のニュースを報じている。
Youtube上では,前回の記事でも紹介したとおり,様々なカバー動画などがいまだに次々登場しており,世界的なEpicと称すべきヒットはそれだけで元気を与えてくれるニュースである。
この映画が日本だけでなく,世界的なヒットとなった背景については色々なメディアが取り上げているところであるが,私は,多くの人間が何かしらのコンプレックスを抱えている中で,特に,劇中の「Let it go」(日本語翻訳版では,「ありのままで」)という歌の歌詞が人々に共感を与え,耳に残るキャッチーなメロディーが人々の心に入り込んだのであろうと考えている。
ところで,政府は,今,労働法改正を進めようとしており,その中で,時間に拘束されない働き方を可能にするとして,いわゆる,ホワイトカラーエグゼンプションの導入をまさに進めようとしている。
しかしながら,私は,国民はこの改正には断固として反対すべきであるし,このような改正を認めた労働契約法や労働基準法は,稀代の悪法になると危惧してやまない。
そこで,今日は,労働者が「ありのままで」働こうとすることを妨げるこの法改正について,取り上げてみたい。
既に,弁護士ドットコムなどの記事においても,多くの弁護士がこの法改正の問題点を指摘しているとおり,この法改正は,雇用契約における労務の提供という労働者の義務の核心的な部分である労働者に対する時間的拘束という要素に対する安倍政権の無理解と経団連等の経営層の無責任な労務管理を追認する点において,私は問題があると考える。
端的にいえば,雇用契約の本質は,労働者を指揮命令下に置く拘束という点にあるところ,その本質を安倍政権及び当該法改正を推し進めようとしている人々はまったく理解していないのである。
そして,たちが悪いのは,この法改正の推進論者は,詭弁を用いて,「労働時間に拘束されない成果主義による労働者の自由なワークスタイルが実現できる」など聞こえはいいが,我が国の労働実態を全く理解していない主張をしていることである。
この法改正は,ブラック企業の追認のための法改正と言っても過言ではない。単に,労働時間規制により,使用者が支払わなければならない時間外の割増賃金を圧縮するための法改正以外の何物でもないのである。
法改正推進論者は,専門的労働者は単純な労働者とは違うから,労働時間にとらわれない自由な労働ができるのであって,その方が労働者に利するなどと反論するだろう。
しかしながら,専門的な労働者であっても,労働実態として,使用者の指揮監督下に置かれているという実態があるから,雇用契約を締結しているのである。
雇用契約の本質は,労働者が使用者の指揮監督下において労務を提供し,使用者がその対価として賃金を支払う点にあること(労働契約法2条1項及び同条2項)は言うまでもない。
指揮命令下に置かれている労働者にとって,自分で自由に労働時間を調整して勤務できるなどというのは,雇用契約の本質上,極めて困難であって,「No right, no wrong, no rules for me, I'm free!」とはいうわけには当然いかない。
政府は,専門的労働者は独立性が高いので,自由に調整できるなどと言っているが,そのような楽観的なステレオタイプ化は,労働者にサービス残業を強い,雇用契約の本質である労務の提供以上の過大な負担を負わせるのであって,到底容認することはできない。
本当に専門的労働者が,独立性が高く労働時間を自らの意思で調整でき,使用者の指揮監督下になく自由に働けるというのであれば,それはもはや労働契約としての本質から逸れているのであって,その法的性質は,請負契約というべきであろう。
成果主義を実現したいのであれば,経営層は,雇用契約で労働者を抱えるのではなく,請負契約を締結し,注文者として,請負人に対し,報酬を支払えば良いのである。
しかしながら,それができないのは,勤務実態として,労働者が指揮監督下に置かれており,自らの意思で自由に働くことができるという実態ではなく,労働法による規制を受けてしまうからである。
つまり,勤務実態として,使用者により拘束されている立場に置かれていること他ならなず,自由な意思により労働時間の調整をできるような環境にはないことを意味している。
私は,この法改正の最大の利点は,時間外労働の割増賃金の削減にあると指摘したとおり,安倍政権と財界の真の目的はここにあることは皆さんお分かりだろう。
ダラダラと無駄に残業をしている職場も多々あることは私は当然把握している。
しかしながら,そのような残業を削減してコストを下げる責務は個々の使用者において果たされるべきものである。労働者の責任を転嫁するような法改正は断固としてなされるべきではない。
無責任な使用者である経営層が自らの責任を放棄し,安易に人件費を削減するためだけに,「専門的労働者」などという詭弁で,なんちゃって,エリートと錯覚をさせ,サービス残業を強いるだけの法改正は,労働者が「ありのままの自分になる」どころか,百害あって一利ないことは明らかである。
本当に専門性があるのであれば,労働契約ではなく,請負契約や委任契約で独立した一事業者として,経済活動を実現すれば良いのではかなろうか。
そして,使用者である経営層が,各部署の労務時間をしっかりと把握し,無駄な残業はさせないなどの責務を果たせば,時間外労働に対する割増賃金の圧縮は容易に実現可能だろう。
しかし,使用者としてきちんとした労務管理すらすることができない無能な経営層が,中流階級が主流という我が国の実態を把握できない無能な安倍政権を後押しし,さらには,「専門性」などという詭弁で,自らがエリートと誤解して,この法改正に賛成している労働者を見ると,私は滑稽で仕方ないし,我が国が長年培ってきた労働法秩序を一瞬にして破壊されることを危惧してやまない。
どうも安倍政権は,我が国の治安や労働保護法制という世界に誇れるものを破壊することに何の抵抗もないようである 。
もっとも,その姿勢は,ブラック企業として激しい批判を受けている創業者だった人物を自民党の公認候補にして,当選させた時から明らかだったのかもしれない。
そもそも,我が国の労働環境は,「社畜」などと言われ,我が国に在留する欧米人も日本の労働環境は劣悪であると指摘することが多々ある。
野党が不在であるとはいえ,我々国民は,目先の経済的利益が優先され,後戻りのための黄金の架け橋を次々にぶち壊す安倍政権に対して,立ち上がらないといけない時期に来ているのではなかろうか。
過酷なサービス残業や過労死に追い込まれ,労働者がますます「ありのままで」働くことができなくなることに気が付いた時,「I'm one with full of work but no payment」とか,「My perfect health is gone」という現実に直面し,「We cannot be going back. The past is in the past」ともう手遅れになってしまうだろう。
この法改正,「Let it go」(諦める)では済まされない。
仮に,このような雇用契約の本質を歪める法改正が行われてしまった場合には,最後の砦として,司法たる裁判所は,現在にもまして労働者保護の観点から実態としてを厳格に評価し,実態として労働時間規制の対象に当たらないかを極めて綿密に審理していかなければならないだろう。
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