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07/31/2012

判定結果の妥当性と日本のナイーブさ

今日は、話題となっている柔道66キロ級の準々決勝戦について、柔道の素人として、柔道論やスポーツ論ではなく、法制度論(ルール論)・法解釈方法論(ルール解釈方法論)という視点からこの問題を取り上げてみたい。

最初に断っておくが、私の柔道経験は、学生時代の体育教育で嫌々やっていたという程度である。したがって、「柔道を知らない奴が何を言う!」という批判は織り込み済みである。

今回、審判委員(Jury)による介入が今まで以上の行われているという点に、様々な賛否が上がっているのはご存じだろう。

審判委員(Jury)が積極的に介入している理由は、結果の妥当性確保にあり、それが審判委員(Jury)による介入の正当化の最大の根拠である。

司法判決もスポーツの判定も、最も重要視される価値は結果の妥当性ではなかろうか。結果の妥当性に疑問が生じれば、どのような判断であっても、座りごこちが悪いものになってしまう。

この点、司法判決の場合は、論理的一貫性という点も重要視されるので、結果の妥当性が劣後する場合もあるが、スポーツの判定は、結果の妥当性が最大の価値ではないかと思われる。特に、オリンピックのような4年に1度しか開かれない国際大会においては、結果の妥当性が確保できない判定は、疑惑の判定として、次世代に語り継がれてしまう

それが、シドニーの篠原戦の判定であり、今回の審判委員(Jury)の介入の契機になった出来事でもあると認識している(これはあくまで素人的認識でしかないが…)。

したがって、審判委員(Jury)の役割が結果の妥当性の確保という点にあるとすれば、今回の大会における介入の当否については、審判委員(Jury)の介入により訂正された判定の結果が妥当であったかという点から論じられるべきであろう。

あくまで素人目でしかないが、平岡選手の決勝戦における一本への変更について、私は結果として妥当の判定であったと思うし、海老沼選手の判定が青3本から白3本に変わった点についても、結果として妥当であったと認識している。実際のところ、試合の流れが止まるという批判はあっても、訂正結果が著しく不当といったような批判はほとんど聞かない

日本のメディアでは、審判(Judge or Referee)の旗判定が審判委員(Jury)により覆されるという過去に例がないという点に終始して議論がなされているが、過去に例があるかないかという点は、特にスポーツの判定においてそれほど重要な点ではないのではなかろうか。

司法判断においてでさえ、過去の判例を参考とはするが、事件が異なる以上、過去の判例の金太郎あめ判断では、上級審でひっくり返されてしまう。

個々の事件の具体的事実に即した判断が重要なのであって、過去に例のない判断であるのは、その結果当然ありうることだろう。

以上のような視点から、今回の審判委員(Jury)の介入後の判定について、素人目で見たり、調べたところによると、判定の結果の妥当性そのものに投げかけられている疑問というのは少ないように思う。

むしろ、審判委員(Jury)による介入後の訂正結果はビデオ判定によるものであるため、公正さが担保されており、結果の妥当性の確保という点は成功しているのではなかろうか

日本のスポーツを見ていると、良く、「審判の判断は絶対」という言葉を耳にする。良くも悪くも日本人の気質を表している言葉だろう。

日本人が美徳とする潔さという反面、対外的に主張すべきことをせず泣き寝入りするという姿を表している言葉である。

しかし、柔道がもはや国際スポーツとして、取り行われている以上、審判の判断に疑問があるのであれば、それをしっかりと主張していく姿勢が重要であろう。

そして、国際連盟等において、国際的な合意形成がされたルールの中で、そのルールを最大限活用して、勝利を目指すという姿勢が、国際スポーツのあるべき姿ではなかろうか。

この点、日本の選手団が今回の旗判定に抗議を示し、それを会場が後押ししたのは、ある意味重要な変化だったのかもしれない。

元柔道選手の山口香さんは、今回の海老沼選手の準々決勝戦での出来事について、「審判を含む競技役員の間の微妙な上下関係が本来あるべき審判の姿をゆがめている、といったらいい過ぎだろうか。」と強く審判委員(Jury)の介入を批判するコラムを産経新聞に掲載していた。そして、あるテレビ番組では、「ジュリー(審判委員・Jury)の権限がどこまでなのか明確でない」と批判していた。

この点、私は柔道の素人なので、彼女の批判が柔道論に照らして妥当なのか否かは分からない。

しかし、法(ルール)解釈の一般原則からすれば、彼女の主張は失当である。

審判委員(Jury)の訂正アドバイス権限について、ルール規程上、明文による拘束がないとすれば、それは裁量権が広範に及ぶことを意味し、事実誤認や社会通念上の妥当性を著しく反するような権限の逸脱・濫用といえるようなことがない限り、広範な自由裁量が及ぶことを意味する。

したがって、審判委員(Jury)は、判定には口出しをしてはならないという明文がない以上、判定に影響を与えることであっても、アドバイスが可能であることを制度上認めていると解釈するのが相当である。

さらに、結果の妥当性を確保するために、審判委員(Jury)が導入されたという趣旨に鑑みれば、判定に影響を及ぼす指示を審判委員(Jury)のアドバイスを行うことはその職責に照らし当然なされなければならないことを意味する。

これは柔道に限らず、ウェイトリフティング等審判のほかに審判委員(Jury)を置く多くの競技において、結果の妥当性が追求された結果、制度としての「審判の判断は絶対」という格言が過去のものになったことを意味するのではなかろうか。

海外メディアの報道によれば、今回の判定の覆りについて、国際柔道連盟のジャン・リュック・ルージェ事務局長は、「審判団は判定を変更しろとは言われていない。彼らは単に、海老沼による攻撃(注:おそらく有効が取り消された攻撃のことであると思われる)について判定において考慮するように指摘されただけある。当初、その点について審判団は判定の考慮要素して漏れた状態で判定していたが、その点を再度考慮して判定を変更した。(原文:The referees weren't told to change their minds, they were merely reminded about an incident (an attack by Ebinuma that could have scored) that should have influenced their decision. It had escaped their minds but having reconsidered it they then gave their modified verdicts)」と述べている。

面白いのは、「今回の事件が国際柔道連盟にダメージになるか」という質問に対して、「連盟がダメージを受ける方が、(誤審が訂正されないことにより)柔道がダメージを受けるよりマシである。」と答えている点である。

このコメントは、国際柔道連盟が、いかに判定結果の妥当性を重視しているかを如実に表れているといえるだろう。

加えて、審判委員につき、「ジュリー(Jury)」という言葉が使われていることも、重要な点である。

「ジュリー(Jury)」とはオックスフォード辞典によれば、「a body of people (typically twelve in number) sworn to give a verdict in a legal case on the basis of evidence submitted to them in court:」と定義される。

つまり、陪審員を意味する。

司法制度からいえば、審判という言葉の「Judge」は訴訟指揮を行う者であり、陪審員(Jury)は、有罪・無罪、勝訴・敗訴という裁定を決定する者である。

この陪審員と同じ言葉が、審判委員に使われているという点からすれば、判定の責任者が審判(Judge)から審判委員(Jury)へと移り変わり、いわば、審判(Judge)は相撲で言う行司のように、試合の指揮をするだけの役割へと変貌するということが既に明確な流れになっていたのではないだろうか

こうした国際社会の動きに疎く、大会になって初めて、「審判が絶対だったはず」とか、「審判委員(Jury)が介入し過ぎる」とか、「ボイコットしろ」とか言っている姿を見ると、スポーツについては素人であっても、法解釈的見地からすれば、なんとも「井の中の蛙」というか、内弁慶というか、「何を今更?」と思ってしまう

さて、今回の記事において、私が日本がナイーブ(世間知らず)だと題した理由は、日本が、とりわけ、日本のメディアが、制度変更後、試合になって初めて内弁慶的な議論に終始する点である。

そもそも、国際大会が実施される前に、国際連盟等において、ルール改正等は徹底的に議論されているはずではなかろうか。そうであるならば、今回のように審判委員(Jury)の介入が増えることは当然もっと前に認識していなければおかしいだろう。

この点、日本がそのような議論の過程において、交渉力を発揮して、自国の選手や自国のスポーツ促進に有利になるような主張をしていくことができていないのは、柔道に始まったことではない

そして、ルール改正がされ、自国の選手の良さが発揮できない制度であることを試合を通じて初めて認識し、「おもしろくない」、「これは柔道でなく、JUDOだ」と内弁慶な主張をする。

これでは、一生懸命頑張っている選手にかわいそうだと思うのは私だけだろうか。

日本のスポーツ連盟は、国際的な交渉力が一切ないOBや無能な政治家等により構成されていることが多く、自国選手の良さを発揮できるための交渉力という点が著しく欠如している。

元選手というのは、その道に精通している反面、それだけしか知らないという場合も多いだろう。

国際的な交渉の舞台で活躍してる人材を積極的に連盟に取り入れ、日本の選手が彼らの持ち味を最大限発揮できる土壌を作って初めてスポーツ連盟の役割が果たされたと言えると私は思う

自国選手がその持ち味を最大限発揮できるルールと土壌を作るという根本的義務を果たしていない連盟役員はスポーツの振興においてお荷物以外の何物でもない

スポーツ連盟が元選手の天下り先になっているという実態が変わらなければ、今後、日本の良さを発揮できるスポーツがどんどん減り、結果としてスポーツ力が衰退するのではないかとの危惧を感じてならない。

今回の出来事は、日本人があらゆる場面において内弁慶な姿勢を改め、国際的な交渉力をいかに高めていかなければならないということを痛感させてくれる良い契機になったと思う。

なお、個人的には、66キロ級は、イギリスのオーツ選手を応援していたので、メダルに届かなかったのは残念であった。





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