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July 2012

07/31/2012

判定結果の妥当性と日本のナイーブさ

今日は、話題となっている柔道66キロ級の準々決勝戦について、柔道の素人として、柔道論やスポーツ論ではなく、法制度論(ルール論)・法解釈方法論(ルール解釈方法論)という視点からこの問題を取り上げてみたい。

最初に断っておくが、私の柔道経験は、学生時代の体育教育で嫌々やっていたという程度である。したがって、「柔道を知らない奴が何を言う!」という批判は織り込み済みである。

今回、審判委員(Jury)による介入が今まで以上の行われているという点に、様々な賛否が上がっているのはご存じだろう。

審判委員(Jury)が積極的に介入している理由は、結果の妥当性確保にあり、それが審判委員(Jury)による介入の正当化の最大の根拠である。

司法判決もスポーツの判定も、最も重要視される価値は結果の妥当性ではなかろうか。結果の妥当性に疑問が生じれば、どのような判断であっても、座りごこちが悪いものになってしまう。

この点、司法判決の場合は、論理的一貫性という点も重要視されるので、結果の妥当性が劣後する場合もあるが、スポーツの判定は、結果の妥当性が最大の価値ではないかと思われる。特に、オリンピックのような4年に1度しか開かれない国際大会においては、結果の妥当性が確保できない判定は、疑惑の判定として、次世代に語り継がれてしまう

それが、シドニーの篠原戦の判定であり、今回の審判委員(Jury)の介入の契機になった出来事でもあると認識している(これはあくまで素人的認識でしかないが…)。

したがって、審判委員(Jury)の役割が結果の妥当性の確保という点にあるとすれば、今回の大会における介入の当否については、審判委員(Jury)の介入により訂正された判定の結果が妥当であったかという点から論じられるべきであろう。

あくまで素人目でしかないが、平岡選手の決勝戦における一本への変更について、私は結果として妥当の判定であったと思うし、海老沼選手の判定が青3本から白3本に変わった点についても、結果として妥当であったと認識している。実際のところ、試合の流れが止まるという批判はあっても、訂正結果が著しく不当といったような批判はほとんど聞かない

日本のメディアでは、審判(Judge or Referee)の旗判定が審判委員(Jury)により覆されるという過去に例がないという点に終始して議論がなされているが、過去に例があるかないかという点は、特にスポーツの判定においてそれほど重要な点ではないのではなかろうか。

司法判断においてでさえ、過去の判例を参考とはするが、事件が異なる以上、過去の判例の金太郎あめ判断では、上級審でひっくり返されてしまう。

個々の事件の具体的事実に即した判断が重要なのであって、過去に例のない判断であるのは、その結果当然ありうることだろう。

以上のような視点から、今回の審判委員(Jury)の介入後の判定について、素人目で見たり、調べたところによると、判定の結果の妥当性そのものに投げかけられている疑問というのは少ないように思う。

むしろ、審判委員(Jury)による介入後の訂正結果はビデオ判定によるものであるため、公正さが担保されており、結果の妥当性の確保という点は成功しているのではなかろうか

日本のスポーツを見ていると、良く、「審判の判断は絶対」という言葉を耳にする。良くも悪くも日本人の気質を表している言葉だろう。

日本人が美徳とする潔さという反面、対外的に主張すべきことをせず泣き寝入りするという姿を表している言葉である。

しかし、柔道がもはや国際スポーツとして、取り行われている以上、審判の判断に疑問があるのであれば、それをしっかりと主張していく姿勢が重要であろう。

そして、国際連盟等において、国際的な合意形成がされたルールの中で、そのルールを最大限活用して、勝利を目指すという姿勢が、国際スポーツのあるべき姿ではなかろうか。

この点、日本の選手団が今回の旗判定に抗議を示し、それを会場が後押ししたのは、ある意味重要な変化だったのかもしれない。

元柔道選手の山口香さんは、今回の海老沼選手の準々決勝戦での出来事について、「審判を含む競技役員の間の微妙な上下関係が本来あるべき審判の姿をゆがめている、といったらいい過ぎだろうか。」と強く審判委員(Jury)の介入を批判するコラムを産経新聞に掲載していた。そして、あるテレビ番組では、「ジュリー(審判委員・Jury)の権限がどこまでなのか明確でない」と批判していた。

この点、私は柔道の素人なので、彼女の批判が柔道論に照らして妥当なのか否かは分からない。

しかし、法(ルール)解釈の一般原則からすれば、彼女の主張は失当である。

審判委員(Jury)の訂正アドバイス権限について、ルール規程上、明文による拘束がないとすれば、それは裁量権が広範に及ぶことを意味し、事実誤認や社会通念上の妥当性を著しく反するような権限の逸脱・濫用といえるようなことがない限り、広範な自由裁量が及ぶことを意味する。

したがって、審判委員(Jury)は、判定には口出しをしてはならないという明文がない以上、判定に影響を与えることであっても、アドバイスが可能であることを制度上認めていると解釈するのが相当である。

さらに、結果の妥当性を確保するために、審判委員(Jury)が導入されたという趣旨に鑑みれば、判定に影響を及ぼす指示を審判委員(Jury)のアドバイスを行うことはその職責に照らし当然なされなければならないことを意味する。

これは柔道に限らず、ウェイトリフティング等審判のほかに審判委員(Jury)を置く多くの競技において、結果の妥当性が追求された結果、制度としての「審判の判断は絶対」という格言が過去のものになったことを意味するのではなかろうか。

海外メディアの報道によれば、今回の判定の覆りについて、国際柔道連盟のジャン・リュック・ルージェ事務局長は、「審判団は判定を変更しろとは言われていない。彼らは単に、海老沼による攻撃(注:おそらく有効が取り消された攻撃のことであると思われる)について判定において考慮するように指摘されただけある。当初、その点について審判団は判定の考慮要素して漏れた状態で判定していたが、その点を再度考慮して判定を変更した。(原文:The referees weren't told to change their minds, they were merely reminded about an incident (an attack by Ebinuma that could have scored) that should have influenced their decision. It had escaped their minds but having reconsidered it they then gave their modified verdicts)」と述べている。

面白いのは、「今回の事件が国際柔道連盟にダメージになるか」という質問に対して、「連盟がダメージを受ける方が、(誤審が訂正されないことにより)柔道がダメージを受けるよりマシである。」と答えている点である。

このコメントは、国際柔道連盟が、いかに判定結果の妥当性を重視しているかを如実に表れているといえるだろう。

加えて、審判委員につき、「ジュリー(Jury)」という言葉が使われていることも、重要な点である。

「ジュリー(Jury)」とはオックスフォード辞典によれば、「a body of people (typically twelve in number) sworn to give a verdict in a legal case on the basis of evidence submitted to them in court:」と定義される。

つまり、陪審員を意味する。

司法制度からいえば、審判という言葉の「Judge」は訴訟指揮を行う者であり、陪審員(Jury)は、有罪・無罪、勝訴・敗訴という裁定を決定する者である。

この陪審員と同じ言葉が、審判委員に使われているという点からすれば、判定の責任者が審判(Judge)から審判委員(Jury)へと移り変わり、いわば、審判(Judge)は相撲で言う行司のように、試合の指揮をするだけの役割へと変貌するということが既に明確な流れになっていたのではないだろうか

こうした国際社会の動きに疎く、大会になって初めて、「審判が絶対だったはず」とか、「審判委員(Jury)が介入し過ぎる」とか、「ボイコットしろ」とか言っている姿を見ると、スポーツについては素人であっても、法解釈的見地からすれば、なんとも「井の中の蛙」というか、内弁慶というか、「何を今更?」と思ってしまう

さて、今回の記事において、私が日本がナイーブ(世間知らず)だと題した理由は、日本が、とりわけ、日本のメディアが、制度変更後、試合になって初めて内弁慶的な議論に終始する点である。

そもそも、国際大会が実施される前に、国際連盟等において、ルール改正等は徹底的に議論されているはずではなかろうか。そうであるならば、今回のように審判委員(Jury)の介入が増えることは当然もっと前に認識していなければおかしいだろう。

この点、日本がそのような議論の過程において、交渉力を発揮して、自国の選手や自国のスポーツ促進に有利になるような主張をしていくことができていないのは、柔道に始まったことではない

そして、ルール改正がされ、自国の選手の良さが発揮できない制度であることを試合を通じて初めて認識し、「おもしろくない」、「これは柔道でなく、JUDOだ」と内弁慶な主張をする。

これでは、一生懸命頑張っている選手にかわいそうだと思うのは私だけだろうか。

日本のスポーツ連盟は、国際的な交渉力が一切ないOBや無能な政治家等により構成されていることが多く、自国選手の良さを発揮できるための交渉力という点が著しく欠如している。

元選手というのは、その道に精通している反面、それだけしか知らないという場合も多いだろう。

国際的な交渉の舞台で活躍してる人材を積極的に連盟に取り入れ、日本の選手が彼らの持ち味を最大限発揮できる土壌を作って初めてスポーツ連盟の役割が果たされたと言えると私は思う

自国選手がその持ち味を最大限発揮できるルールと土壌を作るという根本的義務を果たしていない連盟役員はスポーツの振興においてお荷物以外の何物でもない

スポーツ連盟が元選手の天下り先になっているという実態が変わらなければ、今後、日本の良さを発揮できるスポーツがどんどん減り、結果としてスポーツ力が衰退するのではないかとの危惧を感じてならない。

今回の出来事は、日本人があらゆる場面において内弁慶な姿勢を改め、国際的な交渉力をいかに高めていかなければならないということを痛感させてくれる良い契機になったと思う。

なお、個人的には、66キロ級は、イギリスのオーツ選手を応援していたので、メダルに届かなかったのは残念であった。





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07/29/2012

イギリス文化の国際的発信力を知らしめた過去最高の開会式

日本時間の28日土曜日午前5時からロンドンオリンピックの開会式が日本でも放映されたが、どれくらいの人がこれを生放送で見たのだろうか。

以下の動画は、ガーディアン紙インターネット版より。






ノーカットを生で見たり、録画していた人はラッキーであったと思う。残念ながら、私自身はノーカットの生放送は途中からしか見ることができず、録画も忘れていたため、色々カットされてしまっていた再放送とネットの動画で補完しながらしか見ることができていないが、今回の開会式は本当に素晴らしかったと思う。

おそらく、4年後も印象に残っていると思われる開会式であった。

そんな感銘を受けたのは私だけかと思ったが、オリンピック観戦のプロの同様の感想を発見したため、やはり多くの人に感銘を与えた開会式であったのだろう。

五輪おじさん・山田氏「120点!過去最高の盛り上がりだ」

(デイリースポーツ)2012/7/29 7:48

「ロンドン五輪開会式」(28日、五輪スタジアム)

 団長の山田です。いやぁ最高の開会式でした。夏季五輪の開会式は1964年の東京から今回まで13大会連続で皆勤賞の私ですが、ロンドンは世界一盛り上がった。“開会式ウオッチャー”として祭典を採点させていただくと、今回は100点満点の120点ですよ!

 日本がボイコットした80年モスクワ五輪で、私はロシア語で「ミルユードルジバ(平和と友好)」と叫んで思い出が深いけど、ロンドンはさらに素晴らしかった。

 何より企画が素晴らしいよ。聖火を船で運んだり、女王陛下が007の音楽に乗ってパラシュートで飛び降りたり、モハメド・アリさんが登場したり。私、アリさんにはロサンゼルス五輪でサインをもらっていて、懐かしかった。大変な闘病生活だけど当時の面影があったよ。

 とにかく英国はやることが斬新だ。私は98年の長野五輪で大相撲の力士を開会式に参加させる企画を出した。英国も伝統と新しいアイデアの共存がある。20年招致を目指す東京も、そこを学ばなければいけないね。

 トリは70歳のポール・マッカートニーさん。私が五輪に目覚めた東京とメキシコの間の66年に、ビートルズの一員として来日されましたが、今回、初めて生で歌声を聴いた。なかなかどうして、たいしたもんだよ。

 会場の外ではフランス、米国、スロベニア、中国など世界中の人に囲まれて記念撮影。「ロンドン、バンザ~イ!1、2、3、ラッキー!」と叫んだ。「チーズ」じゃなく、「ラッキー」の方が最高の笑顔になるからね。86歳にしてこの場に来られて、ほんとに私は「ラッキー」ですよ。

http://london.yahoo.co.jp/news/detail/20120729-00000006-dal

オリンピック観戦のプロが現地で見て大絶賛をしているのだから、やはり過去最高と評されてしかるべきである。

ちなみに、山田さんについては、イギリスのテレグラフ紙のインターネット版でも取り上げられているので、紹介しておこう。

オリンピックおじさんこと、山田さんと異なり、テレビ観戦の実績しかない私であるが、私もロンドンオリンピックの開会式が過去最高と評されてしかるべきだと思う。

ロンドンオリンピックの開会式が過去の開会式と比べて何が素晴らしいかというと、イギリス大衆文化の国際発信力を前面に出し、オリンピックの開会式に、イギリス文化を「壮大さ (Spectacular)」という要素が満載のショーにより力強く発信した点である。

平たく言えば、今回のオリンピック開会式は、世界中の人が開会式を見ていて何が行われているのか一目で分かり、それをエンターテイメントとして十分に楽しむことができる内容だったということである。

テレビ観戦しかしていない私にとって、前回大会の北京オリンピックの開会式の印象は、「巨額の金をかけてたくさんの人と花火を使っていたな。」、「事前に世界中の大陸で聖火リレーを行い、反中デモ騒動(チベット政策への抗議活動)が起こっていた。」という印象しか残っていない。

特に、中国文化の国際的発信力を印象付けるものも記憶には残っていない。この記事を書くにあたり、前回の開会式の動画を見たが、やはり記憶に残っているシーンは、各国首脳が自国の選手団の入場シーンで立って応援していたにもかかわらず、当時の福田首相が座っていたという以外一つもなかった。

前回の北京オリンピックも、バンクーバーオリンピックも、日本で行われた長野オリンピックもそうであるが、自国民を対象とした企画が多く、海外に各国固有の文化を紹介する企画においても、海外から見ていると、あまりよくわからない企画が多いのがオリンピックの開会式の定番であったと思う。

しがたって、当然、開会式の記憶はあまり残っていない。

しかしながら、ロンドンオリンピックの開会式は、デイビッド・ベッカム氏がボートでテムズ川からタワーブリッジをくぐって、聖火を運んでくるシーンにも代表されるように世界的に有名な英国の人物を多数出演させると同時に、10代のこれからの選手が聖火台に点火するなどテーマである「Inspire a Generation」もハッキリわかる演出が巧みであった。そして、イギリス国歌「God Save the Queen」を聴覚障害がある子供たちの合唱団「Kaos」が素晴らしい音程と音域で歌い上げるというのも胸を熱くする演出である。

また、伝統的な田園風景から産業革命という環境破壊を伴った変革や、かつては「ゆりかごから墓場まで」と称された医療制度やイギリスの子供に対する取り組み、シェークスピアからJ.Kローリング氏に代表されるイギリス文学の豊かさといったイギリスの歴史を極めてストレートかつ壮大な演出で、まさに映画や舞台を見ているような世界中の視聴者を楽しませるエンターテイメント性が極めて高い開会式であった。

そして、イギリスの歴史・文化がひと目でわかると同時に、今回の開会式の企画は視聴者にイギリス文化がいかに国際社会に対して力強く発信され続けてきたかを再認識させるもので、「イギリスはこんな素晴らしい文化を世界に発信して、世界中の人に受け入れられている」ということを痛感させられた

さすが、ハリウッドでアカデミー賞を取るだけある映画監督である。ダニー・ボイル監督の力量は素晴らしい

何と言っても、驚いたのは、エリザベス女王がジェームスボンドとともにバッキンガム宮殿から移動し、途中、チャーチルの銅像が手を振り、ヘリコプターからダイブして、女王が会場に現れるという演出である。

この演出には、世界中が驚いただろう。この演出はヒューモアに溢れ、かつ、英国王室、とりわけ、エリザベス女王が英国大衆にとって身近な存在であろうといかに努力しているのかを象徴するものであったと思う。

女王が登場する前の田園風景から産業革命へという開会式の第一幕でも、ハリーポッターでロックハート教授役を演じ、「炎のランナー」にも出演していたシェークスピア俳優として有名な映画俳優のケネス・ブラナーが、グレート・ウェスタン鉄道の設計者であるI.K.ブルネルを演じ、シェークスピアのテンペストの一節が読まれ、イギリスの国土の風景が変貌する歴史を見事に描かれていた。

女王の登場後の第二幕では、イギリスの国民健康サービス(National Health Service)や子供の医療に対する英国の取り組みを題材に、テーマである「Inspire a Generation」を反映した子供のパフォーマンスが行われ、実際の医療従事者が踊るなど斬新な演出とともに、ハリーポッターの作者、J.Kローリングスが登場し、ピーターパンの一節を朗読すると、ピーターパンのフック船長、101匹わんちゃんのクルエラ、チキチキバンバンのチャイルド・キャッチャー、ハリーポッターのヴォルデモード卿など、英国児童文学に登場する悪者の巨大人形が登場し、子供たちを攻撃する演出が行われ、そこに、メリーポピンズが登場して、悪者のキャラクターを一掃するという、まるでミュージカルや映画を見ている感覚になる。

この演出だけ取り上げても、英国文化のもつ国際的発信力の高さをまざまざと感じさせられる。つまり、開会式を見ている世界中の誰もが知っているキャラクターの登場により、我々が英国文化に強く影響を受けていることをこのシーンだけでも痛感させられるのである。

そして、極めつけは、世界的指揮者、ベルリンフィルのサイモン・ラトルとロンドン交響楽団の演奏における演出である。

誰もが知っている「炎のランナー」のテーマ曲を演奏するというだけでも、英国文化の発信力痛感するが、さらに驚愕させるのは、誰もがまじめに行われると思っていた演奏において、イギリスコメディーを代表するローワン・アトキンソン演じるミスタービーンが奏者として登場し、一瞬にして、笑いを提供してくれるのである。

もちろん演奏も素晴らしいが、それとコメディーとがコラボレーションすることは誰が予想できたであろうか。まさに、エンターテイメントそのものである。

その後も、色々な演出があったが、最後は英国ポップミュージックを代表するビートルズのポール・マッカートニーがHey Judeで締めくくるなど、とにかく、開会式にとどまらないエンターテイメント性の高さには驚愕である。

これほど素晴らしい記憶に残る「開会式」というのは過去の国際大会に存在したであろうか

ロンドンオリンピックの開会式は、イギリスという国が持つ伝統と文化の力強さ、そして、それを世界に発信し、世界中の人々がその影響を受けていることを痛感させるという点において、世界中が注目するオリンピックの開会式をイギリスという国の宣伝に最大限利用しており、国家戦略としても、最も成功した近代オリンピック開会式だったと言えるだろう。

イギリスと同じく素晴らしい歴史や文化的・技術的財産を有しながら、その国際的発信力が著しく欠乏している我が国にとっては、この開会式から学ぶべき点が沢山あったと思う。

ただ、この開会式、早朝5時からということもあり、見逃した人も多かったのではないだろうか。

私もその一人であるため、その後に再放送したNHKがなぜか編集をして最もおもしろかった女王出演のパートをカットして放送していたのは極めて残念であった。

日本のメディア、とりわけ、NHKにおいては、もう一度ノーカットでこのエンターテイメント性の高い過去最高の開会式を放送してほしいと切に願う。






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07/15/2012

大津市の事件から考える公務員の責任論

ここ数日、世間での注目は大津市のいじめ自殺事件ではないだろうか。

私もこの問題をやっと把握し始めたが、把握する情報が増えるたびに、大津市教育委員会及び被害生徒が通っていた中学校の対応の悪さに驚愕すると同時に、加害生徒の行為の悪質性と残忍性に恐ろしさを感じる。

インターネットでは、既に加害生徒をはじめとする関係者の写真や住所等の個人情報が氾濫しており、日々新たな情報が飛び交い、その検証がされている。

行政の対応が極めて不適当な事案であったためにここまで問題が拡大しているのではなかろうか。

しかし、こういう問題が起こると、公務員は市場の原理が働かないからなどと安易かつ陳腐な公務員批判だけで問題の本質を見ない「もっともらしい」批判で終わらせてしまう評論家が多いが、私は今回の事件がここまで拡大している根本的な第一義的原因は、公務員社会の昇進制度、いわば、任命制度の問題であり、その問題に対する責任の所在は、首長、政治家、ひいては、有権者である国民にあることの認識を強く持たなければならないと思っている。

そもそも、これだけ問題が拡大した時点で、大津市の教育長や学校長の対応が不適切であることは一見して明白なのであるから、任命権者は直ちにこれらの現場責任者の職務を停止させ、事実関係が明らかになるまで、別の職付とし、事実関係を明らかにさせるためにも、弁護士をはじめとする外部の専門家を教育長を任命すべきである。

そして、学校長についても、当該地域や職員とは利害関係の薄い人物等を選別し、新たな学校長を任命して、事実関係を明らかにすべきではなかろうか。

事実関係を隠して責任を取ることができないような人間をいつまでもその職に留めているから、問題が拡大し続けているのである。

つまり、大津市の事件をはじめとする公務員による不適切な対応の本質的問題は、公務員に市場原理が働かないとかそんな的外れなところにあるのではなく、公務員の任免における責任の所在を明確にできない任命権者にあると思う。

公務員批判をする際に、公務員全体が腐敗しているかのような批判があるが、これは空虚な批判に過ぎず、問題の解決には全くならない無責任な批判である。

公務員に責任を取らせることができるのは、任命権者であり、究極的には、任命権者を選任するのは有権者たる国民である

大津市の教育長や校長に対し、いじめ事件を知った多くの国民は、怒りや強い嫌悪感を抱いているのではなかろうか。

本件の現市長は事情を把握していなかったものと思われ、事情を把握した後は、この問題に対し、適切な対応を取ろうとする姿勢は一応見られるが、それでも任命権者である以上、「教育長を3時間も説得をする」のではなく、速やかに任を解いた上で、第三者を任命すべきではなかろうか。

少なくとも、本件では、当該教育長の今までの対応がその職責上極めて不適切であることが明らかであるから、当該人物に事実関係を明らかにさせることは不可能だと思われる。そうであるならば、かかる人物を一日でも長くその要職においておくこと自体が問題なのであって、処分は別途考えるにしても、教育長の職から解き、別の職付にすることは速やかになされるべきである。

公務員に責任を取らせることができるのは、任命権者であり、任命権者を選ぶのは我々国民だという意識を強く持たなければ、第2、第3の大津市教育長のような不適切な対応により、問題を拡大させる公務員は後を絶たないだろう

そもそも、私は、公務員たるもの、ある種の武士気質をもって、刺し違える覚悟で職務に当たるべきであると考えている。とりわけ、公権力の主体たる国又は公共団体の行為のうち、直接国民の権利義務を形成し、その範囲を確定することが法律上認められているものである処分行為を司る公務員は、このことを強く意識して職務に当たるべきである。

なぜならば、彼らが扱っている行政事務は、それほど重大で重要なものだからであって、そのような覚悟のない人物がかかる重大な職務を適切に遂行できるとは思えないからである。

しかしながら、行政内部においては、悪しき稟議制度の悪用により、責任の所在に対する意識をうやむやにし、「責任を取る」という意識ではなく、「責任を回避する」ためにどうすべきかという思考しかできない公務員を大量生産してしまっている現実がある(日本社会では行政以外でも稟議制度があるので、個人的には稟議制度の悪しき運用により、責任を取るという意識と覚悟のない日本人が多くなっているのではないかとすら危惧しているが)。

稟議制度の趣旨は、単独で判断することなく、数名の上級職の者の目に触れることでより慎重な判断を促し、その相当性を担保しようとする点にあるところ、この趣旨は極めて妥当であるのだが、実際には、上級職の公務員の多くが、責任を取るという覚悟を持ち合わせた人物でいないため、いかにして責任を回避すべきかという思考の者が多く、その稟議のトップの職に就く者であっても、稟議制度を悪用して、自己の責任において押印しているとの意識がなく、問題が明らかになると、きちんと把握していなかったとして、単なる不注意で済ませようと当事者意識が薄弱なのである

公務員の職務は、一般の私企業の職務よりも、重責を伴うものであることが多いのであり、その任免には、私企業における年功序列型での運用は本質的になじまない。

その職責の重さと責任を取る覚悟と能力がない者がその職に就けば、今回の大津市教育委員会のような隠ぺいとも考えられる極めて不適切な対応となってしまい、問題が拡大してしまうのである。

任命権者はそのことを深く意識すべきであるし、任命権者を選ぶ我々有権者たる国民も、誰がその公務員を任命したのかにつき関心を持つことが重要であろう。

大津市長が速やかに、任命権者としての対応を取り、事実関係を一刻も早く明らかにすべく対応しなければ、亡くなった生徒やその遺族はもちろん、あのような無能な対応しかできない教育長の下で、今も大津市の学校に通う児童・生徒が不憫である



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07/09/2012

LCC、ジェットスターを利用して

7月3日(火)にLCCの1つジェットスターが就航し、初日に最終便が欠航となったニュースはご存じだろう。

欠航となった理由については、他のニュース記事で紹介されているが、フライトスケジュールに余裕がないことが原因なのだろう。

先日、所用によりどうしてもジェットスターを利用せざるをえない状況が生じたため、利用したのだが、その感想を今回紹介しようと思う。ただ、今回紹介するのは、あくまで、私個人の経験に基づくものであり、別の意見もあろう。利用を考えている人は、あくまで1つの参考意見としてほしい。

1.航空券購入まで

LCCということもあり、ホームページ全日空日本航空のものと比べると簡易である。

容易に利用できるという反面、情報が少なく、通常の航空会社と比べ、航空券にどういう制限があるのかなど分かりにくい印象があった。

特に、就航初日に欠航等があったばかりであったから、それがどういう原因なのかとりあえずは知りたいというのが、利用客としての通常の思考だろうが、ホームページ上には、何らその説明がなく、欠航も当然という認識なのかとすら思ってしまい、利用にあたり不安が増した。

そこで、とりあえずは、この簡易なホームページにより予約する前に、疑問点を解決したいと思い、予約センターに電話をして予約をしようとした。

電話対応というのはその担当の個人差が出るという点は否めないが、基本的に、すべての回答がいかに責任を回避するかに終始しており、あまり良い印象は感じないというのが率直な印象である。

私が一番知りたかったのは、欠航した場合、他社振替を行うのか否かという点であったが、「欠航の理由によるので、なんとも回答できません」などと、一般論として他社振替するように努力するという規定になっているのか否かすらわからない不明瞭な回答で、不安感ばかりが増すものであった。

状況により異なることは当然知っているのであり、私としては、LCCであるから他社振替をしないというポリシーがあるのか否かを知りたかったのだが、何らその疑問点に応えてくれることなく、不安が解消されるどころか、「この会社本当に大丈夫なのか?」と思ってしまう対応だったのは残念である。

この点、全日空や日本航空の予約センターの対応は秀逸と感じる。

同様の質問をしたが、これについては、両社とも、「欠航理由にかかわらず、他社振替をするようにして、お客様のご要望に沿えるように努力することとなっている。ただ、空席が他社にない場合など、希望に沿えないこともあるかもしれない。」という回答で、基本姿勢がどうなのか明確である。

この程度の回答は、LCCであってもできると思うのだが、ジェットスター社の電話対応は、とにかく責任を発生させるような回答はするなという点が先行し、利用者の不安を解消するという姿勢を感じ取ることはできなかった

むしろ、利用者がLCCに抱く「対応の悪さ」という不安をさらに助長させる対応であり、ここにLCCと既存の国内大手、JALとANAとの間の大きな差があるのかもしれない。

さらに、ジェットスター社の電話予約にはもう一つ不満が残った。というのは、予約をする上で必要な情報を全部聞かれた最後の最後で、「電話にて予約すると手数料が別途発生しますがよろしいですか」というのである。

これは基本的に、一番最初に聞く話ではなかろうか。

金額も数百円程度にとどまるものではなかったので、私は予約対応してもらった後で、申し訳ないと思ったのだが、「それではホームページで予約してみます」と電話を切った。

このように、できたばかりの会社であるとはいえ、顧客対応の不備が目立った。

2.チェックインまで

当日、LCCなので、かなり余裕を持って空港に行った。案の定、30分前までに搭乗口前にいなければ、乗ることはできないという説明があり、JALやANAの感覚で利用することはできない。

カウンターには日本人職員のほか、カンタス航空が出資しているだけあり、オーストラリア人職員もおり、英語対応はできるので、LCCにしてはその点は意外で、評価できると感じた。

他方で、自動発券機に案内され、列に並んで待ったところ、チケットカウンターに行けという案内が出て、さらに待たされるなどJALやANAでは起こり難いことが生じるので、やはり時間には余裕も持って行かなければならない。

さらに、手荷物検査の空港職員とジェットスターの職員の意思疎通ができておらず、搭乗券を見せろという空港職員に、「まだチェックインできていないから、こっちのカウンターに行くように言われた」と説明しても、空港職員がピンと来ていなかったりと、やはり、ANAやJALを利用する感覚では利用できないと感じる局面が多かった。

3.搭乗から離陸まで

日本航空や全日空の搭乗口集合時間が15分前であることと比べると、30分前に搭乗口に集まれというのはその2倍も速い。LCCなので、定時運行が絶対というのかもしれない。

しかしながら、乗客が30分前に集まっていても、機内の準備ができていないのか少し待たされ、搭乗後、定刻を過ぎても出発をしない

何の説明もなく、フライトアテンダントとグランドスタッフが慌ただしく話しをしており、これも乗客の不安を助長させるように感じた。その後、定時運行ではない理由の説明もなかったのは、LCCとはいえ、どうも対応に不備があるのではないだろうか。

これがJALやANAであれば、何らかの機内アナウンスがあり、定刻出発となっていないことについて説明があるはずである。

地上にはカンタス社の関係者と思われるオーストラリア人スタッフがいたが、機内では、外国人客がいるにもかかわらず、アナウンスはすべて日本語で行われ、一切英語による説明はなかった。

フライトアテンダントが出発前にグランドスタッフと大声で慌ただしく英語でやり取りをしていた状況からして、英語対応できるにもかかわらず、機内アナウンスがすべて日本語というのもどこか違和感を感じた。機内には、複数の英語圏の乗客がいたのだから、英語によるアナウンスがあっても良かったのではなかろうか。

さらに、JALやANAのフライトアテンダントは、荷物の収納を手伝おうとする姿勢に溢れているが、ジェットスター社のフライトアテンダントからはそのような姿勢が感じられない職員も目立った。年寄りや女性が荷物を収納しようとしているのであれば積極的に手伝う姿勢が必要なのではないだろうか。それがむしろ定時運行にも資すると個人的には思う。

この程度はまだ良いにしても、私が特に問題だと感じた点がある。

それは、乗客が既に乗っているにもかかわらず、コックピットの出入り口の開け閉めが複数回なされるなどテロ対策上も疑問が生じるような対応が目立ったことである。

特に、トイレがコックピットの出入り口の直ぐ横であるから、乗客が乗った後に、コックピットの出入り口のドアが開けたりなされると、トイレに行くのを装って、ドアが開いた瞬間に押し入ることもできてしまうのではないだろうか

飛行機が離陸していないとしても、既に乗客が乗っている状況で、コックピットのドアの開け閉めが複数回なされ、乗務員が立ちはだかることもせず、乗客席からコックピット内が丸見えというのは、テロ対策の見地からもかなり不安が残った。

4.飛行から着陸まで

気象状況により、飛行機の揺れというのは変わるので一概に評価するのは難しい。

しかしながら、あくまで個人的な感想ではあるが、JALやANAより機体の揺れが大きく、多かった印象がある。

当然、飛行機の大きさが、JALやANAとは違うので、その点は考慮しなければならないが、JALやANAの小型機を乗った場合と比べても、やはり、今回のフライトは揺れが大きかった気がする。ただ、気になる程度であって、恐怖に感じるというほどのものではないし、機長も副操縦士も日本人であり、着陸などはスムーズだったと感じる。

5.預入手荷物の返却

日本航空や全日空と比べると、返却までの待ち時間が長い印象を受けた。

ただ、うんざりするほどということではないので、そこまで気にすることもないのかもしれないが、どうしてもその長さは気にはなる。

6.その他

まだ就航間もない未成熟の会社ということなのかもしれないが、上記以外にもかなり不備は目立った。

たとえば、ギリギリに来た客を乗せるために、グランドスタッフが焦っている場面に直面したが、その職員間での対応は、大きな声で、「これは違うから!」とか、「だから、○○なんでってー」とか、本当に日本の航空会社?と思うような場面を見かけた

つまり、その遅れた客への対応というよりは、職員間でのやりとりが、見ている人間をハラハラさせるのである。

職員同士で、いわば「テンパっている」状況は、見ていて気持ちが良いものではないし、そういった対応を大勢の潜在的な乗客(他社の利用客が多くいるようなスペースで)がいる前でおこなわれているのであるから、どうしても未熟だなと感じてします。

7.結論

私は、今回、どうして利用せざるを得ない事情から、初めてLCCを利用したが、LCCは全日空や日本航空とは違う乗り物だという認識が必要であると感じた。

ジェットスター社の内部事情を全く知らないが、今回利用して感じたのは、会社が未熟であるため、個々の職員の力量に依存している部分が多大にある点が、同社の最大の弱点なのではないかということである。

当然、今回の利用においても、対応の良い職員もおり、職員全ての対応が悪いという訳ではない。中には、一見して対応に余裕があるベテラン職員もいた。だからこそ、個々人の職員の力量の差が歴然としており、対応能力の均一化ができていない点こそが同社の最大の弱点だと感じてしまう。

利用者にとって、どうしても目立ってしまうのは対応の悪い職員であり、その職員を基準として、LCCと他社と比較してしまうものである。

JALやANAについては、昔より対応が悪くなったという話を聞くこともあるが、それでも、全体的な職員の顧客対応意識は高いし、サービスの姿勢も、他の海外の航空会社とは比にならないくらい良質である。

例えば、フライト30分前のギリギリのチェックインで、同伴者との座席がバラバラになってしまった場合で、満席に近い状況でも、搭乗後にフライトアテンダントが調整してくれるなどのきめ細やかなサービスは全日空や日本航空でなければやってくれない極めて質の高いサービスである。

以前、海外の友人が日本航空においてこのようなサービスを受けたそうで、「こんな丁寧なサービスは海外では考えられない。日本は本当に素晴らしい。」と大絶賛していた。

私が、日本の航空業界を取り巻く現状を説明したところ、その友人は同時に、「日本の消費者の質が高いから高品質のサービスを維持できる。格安の航空会社が参入してきた場合、アメリカ人であれば、安すければ多少サービスを犠牲にしても良いと格安航空会社を選ぶだろう。それは消費者の質が低いからだ。日本の消費者の質は高いから、格安航空会社が参入しても、消費者の質が下がらない限り、高品質のサービスは維持できるように思う。」とも語っていた。

つまり、高いサービス品質というのは、消費者の高い質に起因するという考えである。価格だけで判断しない消費者の質がサービス産業の品質を高めるというものである。

確かに、LCCの参入により、既存の航空会社が大打撃を受けるとの見方もある。しかし、私は今回の利用により、またLCCを積極的に利用したいとは思えなかった。

むしろ、全日空や日本航空のサービスや対応の良さを再認識し、その質の高さに感謝しながら、今後も特段の事情がない限り、高いサービスを提供する両社を応援する意味も込めて、利用していきたいと感じた。

ジェットスター社をはじめとするLCCはこれからの会社である。

閉鎖的な航空業界に競争をもたらすという点では歓迎しべきであると思うが、安さだけによる戦略では一部の消費者は獲得できても、質の高いサービスを目指さなければ、継続的に安心して利用したいと思う安定的な顧客は獲得できないのではないだろうか。

個人的には、安いのでサービスは期待しないでくれとかいう会社や、スカイマークのように対応を消費者センターに丸投げするような会社に命を預けたくはない。

以上のように、私の感想としては、上記で紹介した日経トレンディネット版とは大きく異なり、かなり辛口の評価とならざるを得なかった。やはり、マスコミへの対応と一般客しか乗らない場合の対応には差が出てしまうのかもしれない。

いずれにしても、対応の良い職員もいることは確かであり、これがジェットスターのすべてだとは誤解してほしくない。あくまでも一利用者の意見として、参考にする程度にしてほしい。

さて、航空業界の話題といえば、この本を紹介しておきます。

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