憲法記念日に改めて理解してほしい議論 - 憲法9条について
今日は、憲法記念日です。
憲法と言えば、どうしても、国民の関心事項は憲法9条で、改憲論者は9条問題を真っ先にこれを指摘してくるでしょう。
しかしながら、果たして、どれだけの国民が憲法9条の正確な議論を理解しているでしょうか
私は、2009年5月3日に、「憲法記念日なので」と題した記事を書いたことがあります。
そこで、憲法記念日である今日は、この記事を再度編集して、憲法9条議論の正確な理解を図るための記事を書いてみようと思います。
1.憲法9条1項は何を放棄しているのか。
まず、憲法9条1項ですが、解釈上重要な部分は、「『国際紛争を解決する手段としては』、永久にこれを放棄する」と定めている部分です。
まず、この部分で、何を放棄しているのかが問題となります。
1つの見解(憲法学上の通説)は、『国際紛争を解決する手段』という部分につき、国際法上の用例でいう、「国家の政策上の手段としての戦争」を意味しており、これは侵略戦争の放棄であると考えます。この見解に従うと、自衛権は放棄していないということになります。
もう1つの見解は、あらゆる戦争の放棄をしたと考えます。ただ、これは現実的ではありませんし、支持はあまり得られない見解ではないでしょうか。
2.憲法9条2項は自衛のための戦争も放棄したのか。
次に問題となるのが、9条2項です。2項は「前項の目的を達するため」と定めています。
まず、憲法が九条の通説的な見解は、前項の目的とは、1項のいう「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求すること」と捉え、この為にはあらゆる戦争を放棄したと考え、自衛の戦争も放棄したと考えます。
これに対し、政府見解をはじめとする現実的な見解は、前項の目的とは、侵略戦争の放棄のためと理解し、自衛の戦争は許されると考えます。
3.戦力とは何か。
さらに、解釈上の3つ目の問題点は、「戦力を保持しない」としている部分です。何が戦力なのかという議論があり、通説は警察力以上の力はすべて戦力と捉えます。
これに対し、政府見解は、自衛力を超える力が戦力であると説明します。
いずれにしても、これらの見解はあくまで、何の拘束力もありません。
我が国で唯一権力をもって判断できる機関は、違憲立法審査権を有する裁判所であり、その判断が判例としての法源性を有する最高裁の判例です。
最高裁が、9条をどのように判断しているかが重要であり、以上の議論は机上の空論でしかないといっても過言ではないかもしれません。
4.最高裁の判例はどう判示しているか。
そこで、最高裁の判断を見るわけですが、砂川事件(最判昭和34年12月16日)が最高裁判例の中でも一番、9条に踏み込んだ判断をしています。
まず、最高裁は、9条により、我が国が主権国としてもつ固有の自衛権は否定されたものではなく、憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないと判示しています。
これは、自衛権の放棄はしていないということを明確にしています。
次に、憲法9条は我が国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることをなんら禁じるものではないと判示し、2項は、我が国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となり、指揮権・管理権を行使して、侵略戦争を引き起こすことが無いようにするための規定という考え方をしています。
そうすると、判例は、9条で禁止される戦争および行為は、①侵略戦争、②侵略戦争のために我が国が主体となって指揮権・管理権を行使し得る戦力と考えているであろうことがわかります。
他方で、最高裁は、③自衛のための戦力を禁じたかどうかについては判断せず、④一見極めて明白に違憲無効と認められない限り、裁判所の司法審査権の範囲外にあるという統治行為論にも言及しています。
結局のところ、最高裁判決から明らかなのは、(1)侵略戦争は憲法上禁止されるということ、(2)自衛権は我が国に存在するということのみです。
また、本判例の事件は、日米安保を扱った事件の中で判断されており、特に、否定する文言が無いことから、最高裁は、自衛権の中の集団的自衛権についても、憲法が否定するものであるとは考えていないように思われます。
5.私見
以上のことを前提に、私の私見を紹介します。
通常、政府見解や学説の多くは、現行法上、集団的自衛権は行使できないと説明しますが、少なくとも我が国で憲法の有権的解釈ができる最高裁がそれに言及したことはありません。
したがって、勝手に言っているにすぎません。
政治家などが議論している9条改正議論ですが、改正しなくても、集団的自衛権の行使は可能でしょう。
問題なのは、政治家にそれをする器量がないだけです。であるならば、改憲してもそれらの政治家が適切な運用ができるかには疑問が生じます。
砂川事件で、最高裁は統治行為論を援用していますから、集団的自衛権の行使が侵略戦争に当たるような方法によりなされない限り、裁判所が一見極めて明白に違憲無効であると判断する可能性は低いと思います。
以上のような理解からすると、憲法改正をする必要性があるのかは疑問ですし、しなくても、海賊船対策やPKO等において、武器使用の規制を解除することは十分対応できるのではないかと思っています。
むしろ、私は、改正という名の下に、憲法の別の部分が国民の知らない間に改正され、権利利益を制限を認める余地ができる方が恐ろしいと感じます。
憲法改憲護憲の前に、最高裁の判断に対する検討や議論がなされ、国民に周知されるべきと私は思います。
今回は憲法学における正統な本を紹介しようと思う。
そもそも、憲法というのはどうしても価値判断が先行してしまうため、学者の色が出てしまう。
ただ、我が国の憲法が故・芦部信喜博士の通説的理解を中心に発達してきたのは紛れもない事実であろう。したがって、芦部憲法が未だに通説的理解の根底にあることはだれも否定できない。
もっとも、近年は最高裁判例が芦部憲法とは違う理解をしているという批判が多くなっているという。また、芦部博士が亡くなって久しく、取り扱っている判例も古くなっている。
そこで、 憲法判例の理解に当たっては、芦部憲法に加え、以下の本もお勧めである。
まず、この高橋先生は芦部博士の一番弟子といわれており、芦部憲法を前提に最近の議論が説明されていることは憲法学における通説的な理解をするのに良い本である。
最近の判例の理解を深めるという観点からは、戸松先生のこの本は訴訟的観点から判例を丁寧に分析しているので解りやすい。
なお、これらは法律家向けの専門的なものであることは否めない。
そこで、一般向けの本としては、渋谷先生の書かれた本がオーソドックスでよいのではないかと思う(渋谷先生は、基本的には独自説を通説がごとく記載する方ではないし、憲法学者としても実績がある方で、その方が一般向けに書いた文庫本であり、お勧めできる)。
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