名張毒ぶどう酒事件最高裁決定をめぐって(その1)
昨日の最高裁決定につき、有名ジャーナリストの江川紹子さんがツイッターで、
「名張毒ぶどう酒事件の再審請求審で、最高裁の決定。名古屋高裁に差し戻し、と。3年もかけてなぜ自分で判断しないの?判断を引き延ばしているうちに、高齢の奥西死刑囚が獄中で死んでくれるのを待っているとしか思えない 」
と発言されていた。
これに対し、あるユーザーの方が、「法律の解釈については判断するけど、事実認定については行なわないからじゃないですか」と指摘し、これに対して、江川さんは「行った前例がある」と回答していた。
しかし、これは最高裁の法律審としての性格に対する理解を誤っていると感じたので、私は、世論を誤った知識に基づいて、誤導することになるのではとの懸念から、ツイッター上で、法律制度を正しく理解していないと指摘した。
そうすると、事件の重大性と話題性があったせいか、次から次へと、江川さん以外の方々からも質問、反論等々が寄せられ、数時間にわたり、刑事訴訟法制度の議論になった。
結局のところ、私がジャーナリストとして尊敬していた江川さんは、以下のようなコメントで、嫌味ともとれる表現で、議論を打ち切ってきたので、それ以上の追及はせずに、その他の人々の多数の質問疑問に答えることとなった。
「いくつもの例外があることは分かっていながら、私の書いたことは「間違い」と決めつける”粘り強さ”には脱帽です(笑)。これを機会に、名張事件について、しっかり記録をお読みくださり、冤罪についても理解を深めていただくと幸いです。以上」
現行制度を間違って理解しているから間違っていると言ったことのどこが悪いのか私には理解できない。
ツイッターでは双方向性があるので、こういう議論ができる反面、140字という制限から、個々人の疑問に十分答えられていたか、法律業界に身を置くものとして、非常に不安も感じた。
熱心に考え、調べ、真摯に議論をぶつけてきてくれたので、答える方としても、疲れたものの、議論した甲斐はあったと感じる。
そこで、この議論において、
1.「最高裁は事実認定ができ、やった前例がある」という発言がどうして間違っているのか、
2.今回の最高裁決定のうち、差戻部分につき、法制度上、なぜ妥当で、かつ、自判できなかったのは仕方がないとなぜ言えるのか、
という2点について、改めて、字数制限のないブログ上で、私見を発信し、正確な理解の一資料にしていただければと思う。
1.「最高裁は事実認定ができる」という点がどうして間違っているのか。
まず、この議論を通じて、実務家のロースクール教員の方が「事実認定」という言葉の定義につき、多元性があるから、実務家同士の議論でも議論がかみ合わないことがあると御指摘してくださった。
この御指摘で、なるほど、事実認定が何を意味するかをまず明らかにしないといけないと感じたので、まず、その点から解説しようと思う。
池田・前田「刑事訴訟法第3版」p340は、事実認定につき、「当事者(検察官)が主張する一定の犯罪事実が認められるか否かの確定」と定義する。
また、裁判所書記官研修所監修「刑事訴訟法講義案」p223は、「当事者の主張する事実が存在するかどうかの判断」を事実認定と定義している。
さらに、石井一正「刑事事実認定入門」p2は「ある事実の存否が問題になったときに、証拠によりその事実の存否を決することを事実認定という」と定義する。
つまり、「事実の存否」の判断が事実認定という意味で使用される場合がほとんどであり、当然私もこの定義に従って、理解をしている。
次に、刑訴法317条は「事実の認定は、証拠による」と定め、証拠裁判主義を規定している。
そして、「証拠」により、「証明」という過程を経て、初めて事実の存在を認定できるのであり、当事者は証拠による証明を行う。
では、この「証明」とはどういう形でなされなければならないのか。
池田前田p351は、「犯罪事実(罪となるべき事実)はもちろんのこと、これに準ずるような重要な事実については、厳格な証明が必要になる」と記述する。
厳格な証明とは、「証拠能力が認められ、かつ、公判廷における適法な証拠調べを経た証拠による証明」をいう(池田前田p351、最判昭和38年10月17日刑集17・10・1795)。
以上より、犯罪事実の存否を確定するには、適法な証拠調べを経た証拠による証明でなければならない。
しかしながら、最高裁は、証拠調べをすることはできない。これは、上告審たる最高裁は、純粋な法律審であるためである。
もっとも、法律をちょっとかじったことのある方は、「刑訴法414条が準用する393条1項により、最高裁は事実の取り調べができるので、事実認定ができるのではないか?」と思われるかもしれない。
しかし、事実の取り調べと証拠調べは全くの別物である。
事実の取り調べとは、「事後審査のために行われるものであり、自判のために行う証拠調べではない。」(池田・前田p478)。
したがって、最高裁は、事後的審査を行う法律審だから、証拠調べによる犯罪事実の存否を確定すること、つまり、事実認定ができない、というのが現行制度である。
この点、最判昭和34年8月10日刑集13・9・1419は、「上告審において公判に顕出されたのみの証拠は、事実審のような証拠調べの方法を採らず、したがって上告審裁判所が直ちにこれを事実認定の証拠とすることができない」という大原則を言った上で、「少なくとも原審の事実認定の当否を判断する資料に供することは許される」と判示する。
つまり、事実の存否の確定という事実認定には使えないけれども、原審(高等裁判所)の確定した事実について、その推論過程に誤りが無いか等の「当否」の判断に際して資料にはできると言っているにすぎない。
したがって、判例はあくまで、事実の存否の確定という事実認定は、法律審かつ事後審である最高裁ではできないという現行制度の理解をしているわけであり、これが通説的な理解であろう。
ここで気をつけなければならないことが1つある。
それは、基本書等の文献において、刑訴法411条3号の定める破棄事由である「判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があること」に当たる場合につき、最高裁が例外的に事実審として機能すると評しているものがあることである。
これは、原審が確定した事実につき誤認があるかないかという限りにおいて、事実に関する審理ができるから、事実審として機能すると言っている(池田前田p470及びp471脚注2参照)に過ぎず、事実認定をする権能を例外的に認めたものではない。
事実審として機能する=事実認定権能があるではないということは、正確に理解されたい。
現に、ここで挙げている文献以外でも、「411条3号に該当する場合に、最高裁は事実認定ができる」とは一切書かれていない。これは、司法機能を議論する者として正しく理解しておかなければならない点である。
以上の考察から明らかなように、最高裁は純粋な法律審である以上、事実認定をすることはありえないし、できないし、そんな前例なんか存在しないのである。
にもかかわらず、不都合な情報には耳を閉ざすかの如く、有名ジャーナリストに、一方的に、議論を打ち切られたのは残念で仕方ない。
さて、長くなったので、2点目の「今回の最高裁判決の差戻につき、私見がなぜ妥当かつ最高裁としてはこれ以外の方法を取ることは現実的に不可能であったか?」という話は次回行うことにする。
以下、上記で引用した文献の一部。
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