« March 2010 | Main | June 2010 »

April 2010

04/28/2010

小沢氏の事件に対する起訴相当決議について

小沢一郎氏への検察審査会の起訴相当決議が出たので、非常に簡単ではあるが、私見と参考になる意見を紹介しておこうと思う。

11人中8人以上による起訴相当決議が出たことは、極めて意外であり、私の知見に基づいた判断では、「起訴相当決議は出ないのではないか」という意見を支持していたので、驚きをもってこのニュースに接した。

法律家として、また制度上あるべき姿としての最大の争点は、起訴した場合に有罪にできる証拠があるのか否かである。

これは、専門家として有罪にできないと判断した検察と、起訴相当と決議した審査会の審査員しか「証拠」に接することができないので、制度上、後者が「起訴相当」という判断を出たことは重たい事実である。

ただ、これにより有罪が認定できるかという点については、私は未だに懐疑的に思っている。

いずれにしても、検察審査会という制度は新しい制度であり、今後この判断に基づき、有罪が認定できるのかどうかは非常に関心がある。

検察審査会も、裁判員制度と同様、司法の民主化の試みであって、基本的にこの制度は望ましいと考えてはいるが、裁判員制度と検察審査会制度には根本的な違いがあることも、この際きちんと理解してもらいたい。

裁判員制度は、裁判官の3人が無罪で、裁判員全員が有罪であった場合に、裁判官の判断が優先する。専門的判断に対する尊重の担保ができている。

他方で、検察審査会は全て一般人で構成している。裁判員裁判では職業裁判官が3人ついて綿密に議論を進めるが、検察審査会は担当弁護士(補助員という立場)だけで、関与の度合いも裁判官の指揮のように綿密とはいえないだろう。

そう考えると、一般人である審査員がメディア等々により事前に受けてきた情報の刷り込みに基づき、感情先行の判断をしてしまう危険は否定できない。

法律の専門家が補助員としてしか関与しない以上、裁判員の場合以上に、そうした危険を取り除くことは困難な場合が多いのではないだろうか。

検察審査会制度が注目を受けることは非常に良いことであり、司法の民主化はどこまでが妥当なのかを含め、この制度で起訴された後の有罪率がどうなるのかに注目したい。

なお、今回の検察審査会の起訴相当決議に対する具体的評価について、私見は、以下のブログの記事にある弁護士阪口徳雄先生の御意見に同意するものであり、是非そちらの記事を参照していただきたいと思う。

「弁護士阪口徳雄の自由発言」― 『小沢議員に起訴相当決議(政治とカネ211) 』

「弁護士阪口徳雄の自由発言」―『小沢氏起訴相当の議決書全文(政治とカネ212) 』

*下記のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

| | Comments (2) | TrackBack (2)

04/23/2010

日本がアメリカに言うべきこと

この記事を読むと、親米的立場であることを自認する私ですらアメリカの高慢さと時代錯誤が露骨に現れていると感じる。

アメリカに言うべきことは、ただ1つ。

Watch Yourself!(その態度は何だ。気をつけろ)ということである。

日本が日米関係を悪化させているという考え方は、非常に高慢であり、アメリカは自分の立場をわきまえていないと感じる。

仮に普天間問題が日米関係悪化の原因だとするならば、私はアメリカ政府、オバマ政権自身にも日米関係悪化の原因があると考える。

そもそも、アメリカは我が国の統治権たる主権が及ぶ領土の一部を日米同盟という条約によって、「借りている」のである。アメリカ軍の基地内で、アメリカの統治権が及ぶのは日本がそれを条約に基づき、認めてあげているからにすぎない。

条約というのは、国家間の書面化された約束である。これは憲法に劣後する。もちろん、条約を結ぶにあたって、我が国にも当然メリットはあるのであって、日米同盟締結を否定するつもりはない。

しかし、記事中にある「鳩山首相に対する信頼感はすっかりうせ、米政府高官はひそかに日本を見放す姿勢をますます強めている」、「オバマ政権の中には両国の関係がすぐに改善されると信じる者はほとんどいない。少なくとも鳩山首相が政権の座に就いている間は、あり得ない」という発言は看過できないアメリカの高慢さが現れている。

我が国が日米安保条約締結以来、憲法との整合性に苦心し、米兵による種々の非行に対し、牙を抜かれたように、寛容に取り扱ってきたことに対し、こうしたアメリカの発言等々は非礼にもほどがあるのではないだろうか。

まさに、中国の三国志演技の中に出てくる呉の宰相、張紹の気分である。

張紹は元々、大国魏に対し、親和的であり、映画「レッドクリフ」でも描かれていた赤壁の戦いでは、魏と戦うことに消極的だった人物である。その張紹も、魏が君主である孫権を呉王というくらいに封じようとしたときには、魏の使者に対し、激怒したという話は、横山光輝等々の三国志を読んだ歴史好きなら記憶にあるところであろう。

我が国は、アメリカの第51州でもなければ、アメリカの傀儡政権による独裁国家でもない。最高独立性としての「主権」を有し、最高決定権としての「主権」が国民に認められた立憲民主主義国家である。

にもかかわらず、アメリカの高慢で主権を侵害するかのような種々の発言に対し、怒りを示すどころか、日本のマスコミはいつまでアメリカの御意向を覗うような政治を認容し、主体的な民主主義国家に反する報道を続けるのであろうか。

私はアメリカが大好きであるし、アメリカの一部がこうした高慢な態度を示していることは非常に残念である。

感覚的な話で言えば(この部分は根拠を示すことができないアメリカ生活経験者としての感覚的な話なので独断と偏見に満ちていることをハッキリ断っておくが)、アメリカの7~8割は日本になんか関心が無い。残りの2、3割のうち、1割がこうした高慢な態度を見せる似非親日派で、後の1、2割が日本文化等々に関心のある「変わり者」である。

最後のグル―プに属する人々を「変わり者」と称したのは、何もオタクだとかそういう意味だけではない。アメリカのマジョリティーと比較すると、海外に対する関心があり、教養がある層でもあるためである。

世界もアメリカ国民の多くも、オバマ政権の誕生に色々期待したのであろう。私は当初からオバマ大統領のリーダーシップには懐疑的だったし、口だけの政治家の典型だと考え、全く評価してこなかった。

結果、オバマ政権になって良いことは何かあったであろうか。

アフガン、イラク戦争においては、毎日多くの兵士が死亡し続ける一方で、何ら有効な解決策、打開策は見つかっていない。

核不拡散も何ら実効性のある成果は得られていない。金融問題では、ゴールドマンサックス社に対する新たな犯罪嫌疑がアメリカおよびイギリスで生じており、第二の金融危機の懸念も出ている。

さらに、アメリカの国民皆保険制度も、実効性や賛否が渦巻いており、ブッシュ政権が保守化して、国家を二分したのに対する「統合」的な姿勢が期待されたにもかかわらず、極端な社会的リベラル派の色彩が強いオバマ政権は国家の二分化をさらに深めている。

アメリカは、こうした自分たちの姿を客観的に省みて、自分たちの高慢さに反省すべき時が来ているのではないだろうか。

金融危機以降、アメリカに対する超大国としての信用は世界的に見ても地に落ちている。

アメリカはジャパンバッシングやジャパンパッシング(Passing)とか言って高慢な態度を示す前に、自分自身を見つめなおさなければ、逆にU.S. パッシングが広がると私は思う。

現に、他国を見ても、イギリスの選挙でも、UK自由民主党(アメリカとは一線を画しEU色を強める第三政党のリベラル色の強い政党)のニック・クレッグ党首の人気が高まっている一方、親米路線の保守党、労働党は苦戦している。

日本のメディアや一部の新保守主義者(似非愛国高揚主義者)は飼いならすことができても、私のような中庸派、穏健派はアメリカの種々の高慢な態度に嫌気がさしている。

穏健派が嫌悪感を感じ始めている以上、元々反米的な人々が過激な方向に走らない保証はない。そのことに早く気付くべきであろう。

今まさに「アメリカがなぜ嫌われるのか」をアメリカ人自身が考える時が来ているのではないだろうか。

そして、我々日本人も、そんなアメリカがいつまでも日本を中国や北朝鮮から守ってくれると考える能天気な楽観主義もそろそろ捨てるべきだろう。

自衛権に関して言えば、憲法の番人である最高裁は、砂川事件で明言しているように、個別的自衛権は放棄していないのであり、日米安保条約(集団的自衛権等々)について、統治行為で、司法審査になじまないとしている。

私は前にも何度か記事やツイッターでつぶやいているが、これらの法的状況を前提にして、憲法改正を経ることなく、自衛隊のみで、自衛としての「実力」を機能させうる制度構築をすべきと考えるし、必要があれば、アメリカ以外の国々を含めた(イギリス、フランス、カナダ等)との多国的安全保障条約など新たな安全保障体制を構築すべき等の議論がなされるべきだと感じている。

しかし、メディアではそういった議論はなく、安全保障の問題は、日米同盟に固執した現状維持派と改憲論者の対立議論で、面白おかしく終わってしまっているのはどうも複眼的な考察が乏しいと感じてならない。

---

以前にも紹介した以下の本は洋書で英語ではありますが、比較的平易に書かれており、アメリカでベストセラーにもなりました。価値観の多様性から見えるアメリカの歴史、アメリカの強さを知る上では、非常に良い本です。学生が英語を学ぶ際の副読本の1つとして、アメリカについても学ぶためには非常に良くできている本です。アメリカのこうした良さが最近は失われつつあるのではないかという懸念を感じます。

記事中に出てきた横山光輝氏の作品は以下。

*下記のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

Continue reading "日本がアメリカに言うべきこと"

| | Comments (5) | TrackBack (1)

04/08/2010

名張毒ぶどう酒事件最高裁決定をめぐって(その2)

さて、前回の続き。

本論に入る前に、読者の皆さんは当然解っていると思うが、一応、繰り返しておく。

私が有名ジャーナリストの江川さんの発言に誤りがあると指摘したのは、「『最高裁が事実認定でき、行った前例がある』という発言部分には誤りがある」ということで、これについては前回の記事で、どうして誤りなのかを解説した。

有志の方(?)がそのやり取りと、Togetterというもので、まとめてくださったようなので、議論の経緯が気になる方はこちらを参照してほしい。

ツイッター上では、次々に色々な方が質問をぶつけてきたので、十分、読者の方の質問に答えられなかったかもしれない。

そこで、この最高裁決定の本質部分の1つである、「自判せずに差戻したことの当否」につき、以下解説する。

2.最高裁は、現行制度上、差戻以外の方法(自判)をなぜ取らなかったのか

さて、今回の事件において、自判できたか否かについては、様々な見解があるだろうが、通説的な理解、判例の理解を無視して、「被告人は高齢なのに関わらず、自判ができるのにしていないのは最高裁の怠慢だ」というような感情論先行、価値観先行の主張は、問題の本質を見誤らせると私は考える。

そこで、①現行制度上、なぜ最高裁が、破棄「自判」ではなく、破棄「差戻し」にしたのかという理解につき解説し、②それが私も妥当と考える理由を示そうと思う。

①最高裁が破棄差戻にしたのはなぜか

今回はこの事件のかなり深い事実を拾うため、以下のリンクから最高裁判決を実際に読んでみることをお勧めする。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100406160701.pdf

まず、前提として確認しておくべきは、本件の争点。

本件の争点は、名古屋高裁決定における

<本件毒物はニッカリンTであり、三重県衛生研究所の試験によれば、そこに含まれているはずの成分であるトリエチレルピロホスフェートが『薄い』という程度しか、検出されていないけれども、検出されやすい有利な条件の下でやっても、『薄い』という検出結果になるから、三重県衛生権研究所で、トリエチレルピロホスフェートが検出できなくても、問題はなく、再審事由の「明らかな証拠をあらたに発見したとき」(435条6号)には当たらない>(カッコ内は筆者による要約あり)

という判断部分の当否である。

この点につき、最高裁は、事後審としての立場から、「事件そのものではなく、原判決を対象としてその当否を事後的に審査する」(池田前田p471)ことが現行制度上求められている。

これにつき、最高裁第三小法廷の法廷意見は、

①なぜ薄くしか検出されなかったのかにつき、合理的説明がない。

②他の2つ成分は検出されているのに、それよりも検出されやすいはずのトリエチレルピロホスフェートという成分のみが検出されていないことについての、合理的説明がない。

などの指摘をした上で、

名古屋高裁の決定は、「科学的知見に基づく検討をしたとはいえず、その推論過程に誤りがある疑いがあり、いまだ事実は解明されていないのであって、審理が尽くされたとはいえない」と判示している。

そして、最高裁は、以下のように述べ、411条1号の「判決に影響を及ぼすべき法令の違反があること」に該当し、「破棄しなければ著しく正義に反すると認めるとき」という2つの破棄要件を満たすことを理由に破棄している。

三重県衛生研究所の...試験で...検出されなかったのは、(弁護人が主張するように)事件の検体にニッカリンTが含まれていなかったためなのか、あるいは、検察官が主張するように、事件検体にニッカリンTが含まれていたとしても、トリエチレルピロホスフェートの発色反応が非常に弱いことによるものなのか解明するために、事件検体と近似の条件で鑑定を行うなどさらに審理を尽くす必要がある。

では、現行制度上、自判できる場合とはどのような場合なのか。

刑事訴訟法413条は、破棄差戻が原則であることをことを前提に、その但書で、「訴訟記録並びに原裁判所及び第一審裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができるものと認めるときは、被告事件について、さらに判決することができる」とする。

では、これを本件についてみてみよう。

先ほどの最高裁判例の引用部分が指摘するように、本件の最大の争点は、「なぜ検出されるはずの成分が薄く検出されたのか」であり、「薄く検出された」理由づけを事実として確定する必要がある。

なぜならば、薄く検出された理由が、検察官の主張に従えば、再審事由たる435条6号「無罪等を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」には当たらず、再審開始決定はできないし、他方、弁護人の主張するように、被告人供述の凶器とは違う毒物が使われたために検出ができないのであれば、凶器が違うことを推認させ、無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したという事実を認定することができ、これは、前述6号の再審事由に当たり、再審決定をすべきということになり、この事実の確定により、再審の可否が決定づけられるためである。

そして、この理由づけを確定するには、鑑定など証拠調べをした結果である証拠に基づき、「薄く検出されるのはなぜか」という部分の事実の存否を確定しなければいけない

第三小法廷の田原裁判官による補足意見によれば、弁護人は、神戸大K教授、京都大J教授の見解を最高裁に提出して、検察の主張を争っているが、これらを証拠として事実認定するためには、適法な証拠調べを経た証拠が必要なところ、両教授の意見は、最高裁において提出されているが、下級審での証拠調べを経ていないため、これらに依拠して、事実を確定できない。

ここで思い出してほしいのが、昨日指摘した刑訴法317条と厳格な証明の話であり、最高裁では、証拠調べ及びこれによる事実認定はできないという制度上の制約である。

これは、昨日説明したように、最高裁ができるのは、事実の取り調べであって、証拠調べはできず、両者は明確に区別され、事実の存否を確定するには、証拠調べによりなされなければならないためである。

そして、以上のことからすれば、当該事実の確定ができる適法な証拠調べを経た証拠が存在しない現時点において、413条但書の「訴訟記録並びに原裁判所及び第一審裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができる」場合には当たらない。

したがって、田原補足意見が述べている通り、本件事件においては、事実の認定に必要な証拠(適法な証拠調べを経た証拠)が現段階で存在しない以上、最高裁は、弁護人主張の見解をもとに、事実認定はもちろんできないし「明らかな証拠を新たに発見した」か否かの判断の基礎の根幹であるトリエチレルピロホスフェートの発色反応が薄いことの科学的な合理的説明が事実として確定できていないため、最高裁の自判の要件を定めた413条但書の「訴訟記録並びに原裁判所及び第一審裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができるものと認めるとき」に当たらず法が認めた自判の要件を充足していないという結論が導かれる。

したがって、現行刑訴法上、原審に差戻す以外に方法はない

田原裁判官の補足意見は、そうした現行制度の状況を踏まえて、差戻に当たり、差戻審裁判官に対して、迅速かつ慎重な証拠調べをする上での指針を示し、現行刑事司法制度の中で、できる限りの柔軟な運用に向け努力しているといえるのではないだろうか。

以上、解りやすくするために、最高裁決定理由をかなり要約している部分はあるが、大枠はこういう理解が判例から読み取れるのである。

②私が本判例を妥当と考える理由

本判例が妥当だと言える理由は、上記で既に触れたが、破棄自判の要件を定めた413条但書の「訴訟記録並びに原裁判所及び第一審裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができるものと認めるとき」に当たらないからである。

先日からいくつかの新聞記事等で、「自判すべきだった」とする見解に目を通したが、いずれも、「薄くしか検出されない理由づけ」の事実の確定(事実認定)をせずに、自判できるとする論拠を十分に説明しておらず、どういう論拠から、自判要件を満たしているといえるのか具体的事実の摘示をする解説は、少なくとも私が調べた限りにおいて、発見することはできなかった

司法というのはその名の通り、法を司るのであり、法が認めた制度の枠を超えるような判断は、許されない。

もしそのような法解釈を最高裁が行えば、それは司法の立法化であり、民主主義および三権分立の原則を揺るがす危険な行為である。

「要件を満たしていなければ、効果認めることができない」というのは法律の基本的知識である。

現行制度上、最高裁ができない証拠調べによる事実認定を要求し、それがあたかも正しいかのように、有名ジャーナリストが批判を繰り広げるのは、最高裁に対する論拠の無い批判感情を国民に受け付けることはできても、現行制度上の問題を的確に認識し、法改正議論を促すような建設的な批判にはならないと私は思う。

だから、あえて苦言を呈し、熱心に140字の制限の中解説しようとしたが、当該ジャーナリストには届かなかったようで、私は尊敬していただけに残念である。

当該人物に対する私の以前の評価は取り消さざるを得ない。

ツイッターで個別の質問、反論、疑問等々をぶつけてくださった方々はこの説明で納得していただけたであろうか。

もちろん、私は最高裁判事ではないから、この事件の記録すべてを知ったわけではないし、有名ジャーナリストも、その他の自判すべきと主張している識者もその点は同じである。

そうであるならば、私は冤罪の可能性は十分あると思うが、冤罪だと断定できない段階で、冤罪だという価値判断に基づき、要件を満たしていない自判を要求し、最高裁を批判することが妥当とは到底思えない。

私は、むしろ、法制度の限界であることを正しく認識した上で、問題があると考えるのであれば、有権者である国民が、刑事訴訟制度の改正やその他の司法制度改革(当然裁判の迅速化のための裁判官、検察官、弁護士の増員という話につながるだろう)を進めるべく、議論すべき土壌を作ることの方が大事であると考える。

権力さえ批判していれば、ジャーナリズムとして成り立つという考えが仮にあるとすれば、問題の本質、真実の問題をえぐりだすことはできないし、国民の知る権利に到底奉仕しているとはいえない。

もちろん、上記最高裁決定に対する理解と私見による評価は、私が知り調べた限りの情報に基づき導いた結論である。

私は発見できなかったが、「『薄くしか検出されない』という理由づけ」の事実の確定をなくして、自判要件を満たしているという論拠につき、具体的事実を挙げて解説される学者等の秀逸な意見が存在するかもしれない。

もしかすると、それに従えば、私が最高裁の差戻した結論は妥当だという理解は間違いということになるかもしれない。

そうした説得的主張があるとすれば、ぜひ拝見したいし納得すれば、私見の変更をすることになんら抵抗はない。

しかし、そうした説明を現時点では発見できない以上、私は現時点において、上記最高裁判例を妥当であると評価せざるを得ないのである。

なお、私のブログの読者の皆さんは、冤罪に対する私の危惧は十分理解されているだろう。

今回の議論において、有名ジャーナリストが自己の発言の誤りを訂正するどころか、「冤罪について勉強しろ」と言い放ったのは非常に心外であり、そのような対応しかできないのかと非常にがっかりした。

*下記のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

| | Comments (7) | TrackBack (0)

04/07/2010

名張毒ぶどう酒事件最高裁決定をめぐって(その1)

昨日の最高裁決定につき、有名ジャーナリストの江川紹子さんがツイッターで、

名張毒ぶどう酒事件の再審請求審で、最高裁の決定。名古屋高裁に差し戻し、と。3年もかけてなぜ自分で判断しないの?判断を引き延ばしているうちに、高齢の奥西死刑囚が獄中で死んでくれるのを待っているとしか思えない

と発言されていた。

これに対し、あるユーザーの方が、「法律の解釈については判断するけど、事実認定については行なわないからじゃないですか」と指摘し、これに対して、江川さんは「行った前例がある」と回答していた。

しかし、これは最高裁の法律審としての性格に対する理解を誤っていると感じたので、私は、世論を誤った知識に基づいて、誤導することになるのではとの懸念から、ツイッター上で、法律制度を正しく理解していないと指摘した。

そうすると、事件の重大性と話題性があったせいか、次から次へと、江川さん以外の方々からも質問、反論等々が寄せられ、数時間にわたり、刑事訴訟法制度の議論になった。

結局のところ、私がジャーナリストとして尊敬していた江川さんは、以下のようなコメントで、嫌味ともとれる表現で、議論を打ち切ってきたので、それ以上の追及はせずに、その他の人々の多数の質問疑問に答えることとなった。

「いくつもの例外があることは分かっていながら、私の書いたことは「間違い」と決めつける”粘り強さ”には脱帽です(笑)。これを機会に、名張事件について、しっかり記録をお読みくださり、冤罪についても理解を深めていただくと幸いです。以上」

現行制度を間違って理解しているから間違っていると言ったことのどこが悪いのか私には理解できない。

ツイッターでは双方向性があるので、こういう議論ができる反面、140字という制限から、個々人の疑問に十分答えられていたか、法律業界に身を置くものとして、非常に不安も感じた。

熱心に考え、調べ、真摯に議論をぶつけてきてくれたので、答える方としても、疲れたものの、議論した甲斐はあったと感じる。

そこで、この議論において、

1.「最高裁は事実認定ができ、やった前例がある」という発言がどうして間違っているのか、

2.今回の最高裁決定のうち、差戻部分につき、法制度上、なぜ妥当で、かつ、自判できなかったのは仕方がないとなぜ言えるのか、

という2点について、改めて、字数制限のないブログ上で、私見を発信し、正確な理解の一資料にしていただければと思う。

1.「最高裁は事実認定ができる」という点がどうして間違っているのか。

まず、この議論を通じて、実務家のロースクール教員の方が「事実認定」という言葉の定義につき、多元性があるから、実務家同士の議論でも議論がかみ合わないことがあると御指摘してくださった。

この御指摘で、なるほど、事実認定が何を意味するかをまず明らかにしないといけないと感じたので、まず、その点から解説しようと思う。

池田・前田「刑事訴訟法第3版」p340は、事実認定につき、「当事者(検察官)が主張する一定の犯罪事実が認められるか否かの確定」と定義する。

また、裁判所書記官研修所監修「刑事訴訟法講義案」p223は、「当事者の主張する事実が存在するかどうかの判断」を事実認定と定義している。

さらに、石井一正「刑事事実認定入門」p2は「ある事実の存否が問題になったときに、証拠によりその事実の存否を決することを事実認定という」と定義する。

つまり、「事実の存否」の判断が事実認定という意味で使用される場合がほとんどであり、当然私もこの定義に従って、理解をしている。

次に、刑訴法317条は「事実の認定は、証拠による」と定め、証拠裁判主義を規定している。

そして、「証拠」により、「証明」という過程を経て、初めて事実の存在を認定できるのであり、当事者は証拠による証明を行う。

では、この「証明」とはどういう形でなされなければならないのか。

池田前田p351は、「犯罪事実(罪となるべき事実)はもちろんのこと、これに準ずるような重要な事実については、厳格な証明が必要になる」と記述する。

厳格な証明とは、「証拠能力が認められ、かつ、公判廷における適法な証拠調べを経た証拠による証明」をいう(池田前田p351、最判昭和38年10月17日刑集17・10・1795)。

以上より、犯罪事実の存否を確定するには、適法な証拠調べを経た証拠による証明でなければならない

しかしながら、最高裁は、証拠調べをすることはできない。これは、上告審たる最高裁は、純粋な法律審であるためである。

もっとも、法律をちょっとかじったことのある方は、「刑訴法414条が準用する393条1項により、最高裁は事実の取り調べができるので、事実認定ができるのではないか?」と思われるかもしれない。

しかし、事実の取り調べと証拠調べは全くの別物である。

事実の取り調べとは、「事後審査のために行われるものであり、自判のために行う証拠調べではない。」(池田・前田p478)。

したがって、最高裁は、事後的審査を行う法律審だから、証拠調べによる犯罪事実の存否を確定すること、つまり、事実認定ができない、というのが現行制度である。

この点、最判昭和34年8月10日刑集13・9・1419は、「上告審において公判に顕出されたのみの証拠は、事実審のような証拠調べの方法を採らず、したがって上告審裁判所が直ちにこれを事実認定の証拠とすることができない」という大原則を言った上で、「少なくとも原審の事実認定の当否を判断する資料に供することは許される」と判示する。

つまり、事実の存否の確定という事実認定には使えないけれども、原審(高等裁判所)の確定した事実について、その推論過程に誤りが無いか等の「当否」の判断に際して資料にはできると言っているにすぎない。

したがって、判例はあくまで、事実の存否の確定という事実認定は、法律審かつ事後審である最高裁ではできないという現行制度の理解をしているわけであり、これが通説的な理解であろう。

ここで気をつけなければならないことが1つある。

それは、基本書等の文献において、刑訴法411条3号の定める破棄事由である「判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があること」に当たる場合につき、最高裁が例外的に事実審として機能すると評しているものがあることである。

これは、原審が確定した事実につき誤認があるかないかという限りにおいて、事実に関する審理ができるから、事実審として機能すると言っている(池田前田p470及びp471脚注2参照)に過ぎず、事実認定をする権能を例外的に認めたものではない

事実審として機能する=事実認定権能があるではないということは、正確に理解されたい

現に、ここで挙げている文献以外でも、「411条3号に該当する場合に、最高裁は事実認定ができる」とは一切書かれていない。これは、司法機能を議論する者として正しく理解しておかなければならない点である。

以上の考察から明らかなように、最高裁は純粋な法律審である以上、事実認定をすることはありえないし、できないし、そんな前例なんか存在しないのである。

にもかかわらず、不都合な情報には耳を閉ざすかの如く、有名ジャーナリストに、一方的に、議論を打ち切られたのは残念で仕方ない。

さて、長くなったので、2点目の「今回の最高裁判決の差戻につき、私見がなぜ妥当かつ最高裁としてはこれ以外の方法を取ることは現実的に不可能であったか?」という話は次回行うことにする。

以下、上記で引用した文献の一部。

*下記のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« March 2010 | Main | June 2010 »