さて、前回の続き。
本論に入る前に、読者の皆さんは当然解っていると思うが、一応、繰り返しておく。
私が有名ジャーナリストの江川さんの発言に誤りがあると指摘したのは、「『最高裁が事実認定でき、行った前例がある』という発言部分には誤りがある」ということで、これについては前回の記事で、どうして誤りなのかを解説した。
有志の方(?)がそのやり取りと、Togetterというもので、まとめてくださったようなので、議論の経緯が気になる方はこちらを参照してほしい。
ツイッター上では、次々に色々な方が質問をぶつけてきたので、十分、読者の方の質問に答えられなかったかもしれない。
そこで、この最高裁決定の本質部分の1つである、「自判せずに差戻したことの当否」につき、以下解説する。
2.最高裁は、現行制度上、差戻以外の方法(自判)をなぜ取らなかったのか
さて、今回の事件において、自判できたか否かについては、様々な見解があるだろうが、通説的な理解、判例の理解を無視して、「被告人は高齢なのに関わらず、自判ができるのにしていないのは最高裁の怠慢だ」というような感情論先行、価値観先行の主張は、問題の本質を見誤らせると私は考える。
そこで、①現行制度上、なぜ最高裁が、破棄「自判」ではなく、破棄「差戻し」にしたのかという理解につき解説し、②それが私も妥当と考える理由を示そうと思う。
①最高裁が破棄差戻にしたのはなぜか
今回はこの事件のかなり深い事実を拾うため、以下のリンクから最高裁判決を実際に読んでみることをお勧めする。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100406160701.pdf
まず、前提として確認しておくべきは、本件の争点。
本件の争点は、名古屋高裁決定における
<本件毒物はニッカリンTであり、三重県衛生研究所の試験によれば、そこに含まれているはずの成分であるトリエチレルピロホスフェートが『薄い』という程度しか、検出されていないけれども、検出されやすい有利な条件の下でやっても、『薄い』という検出結果になるから、三重県衛生権研究所で、トリエチレルピロホスフェートが検出できなくても、問題はなく、再審事由の「明らかな証拠をあらたに発見したとき」(435条6号)には当たらない>(カッコ内は筆者による要約あり)
という判断部分の当否である。
この点につき、最高裁は、事後審としての立場から、「事件そのものではなく、原判決を対象としてその当否を事後的に審査する」(池田前田p471)ことが現行制度上求められている。
これにつき、最高裁第三小法廷の法廷意見は、
①なぜ薄くしか検出されなかったのかにつき、合理的説明がない。
②他の2つ成分は検出されているのに、それよりも検出されやすいはずのトリエチレルピロホスフェートという成分のみが検出されていないことについての、合理的説明がない。
などの指摘をした上で、
名古屋高裁の決定は、「科学的知見に基づく検討をしたとはいえず、その推論過程に誤りがある疑いがあり、いまだ事実は解明されていないのであって、審理が尽くされたとはいえない」と判示している。
そして、最高裁は、以下のように述べ、411条1号の「判決に影響を及ぼすべき法令の違反があること」に該当し、「破棄しなければ著しく正義に反すると認めるとき」という2つの破棄要件を満たすことを理由に破棄している。
三重県衛生研究所の...試験で...検出されなかったのは、(弁護人が主張するように)事件の検体にニッカリンTが含まれていなかったためなのか、あるいは、検察官が主張するように、事件検体にニッカリンTが含まれていたとしても、トリエチレルピロホスフェートの発色反応が非常に弱いことによるものなのか解明するために、事件検体と近似の条件で鑑定を行うなどさらに審理を尽くす必要がある。
では、現行制度上、自判できる場合とはどのような場合なのか。
刑事訴訟法413条は、破棄差戻が原則であることをことを前提に、その但書で、「訴訟記録並びに原裁判所及び第一審裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができるものと認めるときは、被告事件について、さらに判決することができる」とする。
では、これを本件についてみてみよう。
先ほどの最高裁判例の引用部分が指摘するように、本件の最大の争点は、「なぜ検出されるはずの成分が薄く検出されたのか」であり、「薄く検出された」理由づけを事実として確定する必要がある。
なぜならば、薄く検出された理由が、検察官の主張に従えば、再審事由たる435条6号「無罪等を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」には当たらず、再審開始決定はできないし、他方、弁護人の主張するように、被告人供述の凶器とは違う毒物が使われたために検出ができないのであれば、凶器が違うことを推認させ、無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したという事実を認定することができ、これは、前述6号の再審事由に当たり、再審決定をすべきということになり、この事実の確定により、再審の可否が決定づけられるためである。
そして、この理由づけを確定するには、鑑定など証拠調べをした結果である証拠に基づき、「薄く検出されるのはなぜか」という部分の事実の存否を確定しなければいけない。
第三小法廷の田原裁判官による補足意見によれば、弁護人は、神戸大K教授、京都大J教授の見解を最高裁に提出して、検察の主張を争っているが、これらを証拠として事実認定するためには、適法な証拠調べを経た証拠が必要なところ、両教授の意見は、最高裁において提出されているが、下級審での証拠調べを経ていないため、これらに依拠して、事実を確定できない。
ここで思い出してほしいのが、昨日指摘した刑訴法317条と厳格な証明の話であり、最高裁では、証拠調べ及びこれによる事実認定はできないという制度上の制約である。
これは、昨日説明したように、最高裁ができるのは、事実の取り調べであって、証拠調べはできず、両者は明確に区別され、事実の存否を確定するには、証拠調べによりなされなければならないためである。
そして、以上のことからすれば、当該事実の確定ができる適法な証拠調べを経た証拠が存在しない現時点において、413条但書の「訴訟記録並びに原裁判所及び第一審裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができる」場合には当たらない。
したがって、田原補足意見が述べている通り、本件事件においては、事実の認定に必要な証拠(適法な証拠調べを経た証拠)が現段階で存在しない以上、最高裁は、弁護人主張の見解をもとに、事実認定はもちろんできないし、「明らかな証拠を新たに発見した」か否かの判断の基礎の根幹であるトリエチレルピロホスフェートの発色反応が薄いことの科学的な合理的説明が事実として確定できていないため、最高裁の自判の要件を定めた413条但書の「訴訟記録並びに原裁判所及び第一審裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができるものと認めるとき」に当たらず、法が認めた自判の要件を充足していないという結論が導かれる。
したがって、現行刑訴法上、原審に差戻す以外に方法はない。
田原裁判官の補足意見は、そうした現行制度の状況を踏まえて、差戻に当たり、差戻審裁判官に対して、迅速かつ慎重な証拠調べをする上での指針を示し、現行刑事司法制度の中で、できる限りの柔軟な運用に向け努力しているといえるのではないだろうか。
以上、解りやすくするために、最高裁決定理由をかなり要約している部分はあるが、大枠はこういう理解が判例から読み取れるのである。
②私が本判例を妥当と考える理由
本判例が妥当だと言える理由は、上記で既に触れたが、破棄自判の要件を定めた413条但書の「訴訟記録並びに原裁判所及び第一審裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができるものと認めるとき」に当たらないからである。
先日からいくつかの新聞記事等で、「自判すべきだった」とする見解に目を通したが、いずれも、「薄くしか検出されない理由づけ」の事実の確定(事実認定)をせずに、自判できるとする論拠を十分に説明しておらず、どういう論拠から、自判要件を満たしているといえるのか具体的事実の摘示をする解説は、少なくとも私が調べた限りにおいて、発見することはできなかった。
司法というのはその名の通り、法を司るのであり、法が認めた制度の枠を超えるような判断は、許されない。
もしそのような法解釈を最高裁が行えば、それは司法の立法化であり、民主主義および三権分立の原則を揺るがす危険な行為である。
「要件を満たしていなければ、効果認めることができない」というのは法律の基本的知識である。
現行制度上、最高裁ができない証拠調べによる事実認定を要求し、それがあたかも正しいかのように、有名ジャーナリストが批判を繰り広げるのは、最高裁に対する論拠の無い批判感情を国民に受け付けることはできても、現行制度上の問題を的確に認識し、法改正議論を促すような建設的な批判にはならないと私は思う。
だから、あえて苦言を呈し、熱心に140字の制限の中解説しようとしたが、当該ジャーナリストには届かなかったようで、私は尊敬していただけに残念である。
当該人物に対する私の以前の評価は取り消さざるを得ない。
ツイッターで個別の質問、反論、疑問等々をぶつけてくださった方々はこの説明で納得していただけたであろうか。
もちろん、私は最高裁判事ではないから、この事件の記録すべてを知ったわけではないし、有名ジャーナリストも、その他の自判すべきと主張している識者もその点は同じである。
そうであるならば、私は冤罪の可能性は十分あると思うが、冤罪だと断定できない段階で、冤罪だという価値判断に基づき、要件を満たしていない自判を要求し、最高裁を批判することが妥当とは到底思えない。
私は、むしろ、法制度の限界であることを正しく認識した上で、問題があると考えるのであれば、有権者である国民が、刑事訴訟制度の改正やその他の司法制度改革(当然裁判の迅速化のための裁判官、検察官、弁護士の増員という話につながるだろう)を進めるべく、議論すべき土壌を作ることの方が大事であると考える。
権力さえ批判していれば、ジャーナリズムとして成り立つという考えが仮にあるとすれば、問題の本質、真実の問題をえぐりだすことはできないし、国民の知る権利に到底奉仕しているとはいえない。
もちろん、上記最高裁決定に対する理解と私見による評価は、私が知り調べた限りの情報に基づき導いた結論である。
私は発見できなかったが、「『薄くしか検出されない』という理由づけ」の事実の確定をなくして、自判要件を満たしているという論拠につき、具体的事実を挙げて解説される学者等の秀逸な意見が存在するかもしれない。
もしかすると、それに従えば、私が最高裁の差戻した結論は妥当だという理解は間違いということになるかもしれない。
そうした説得的主張があるとすれば、ぜひ拝見したいし納得すれば、私見の変更をすることになんら抵抗はない。
しかし、そうした説明を現時点では発見できない以上、私は現時点において、上記最高裁判例を妥当であると評価せざるを得ないのである。
なお、私のブログの読者の皆さんは、冤罪に対する私の危惧は十分理解されているだろう。
今回の議論において、有名ジャーナリストが自己の発言の誤りを訂正するどころか、「冤罪について勉強しろ」と言い放ったのは非常に心外であり、そのような対応しかできないのかと非常にがっかりした。
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