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March 2010

03/15/2010

双方の意見が食い違う場合の思考方法(スカイマーク事例を題材に)

コメント欄だけでなく、このスカイマークの問題に関し、読者のみなさんと考えを共有した方が良いと思ったので、別途構成しなおし、記事にしておきます。

①意見が対立しているのだから、機長が説明責任を尽くすべきである、②マスコミの報道を鵜呑みにするのはどうかという趣旨の意見が寄せられました。

確かに、マスコミの報道を一方的に信じないという姿勢は正しいと思います。

しかし、パイロットに既得権益があるからパイロットが会見すべきというのは論理が違っていると思います。

では、ある事件において、双方の意見が食い違う場合どうのように私たちは思考すればよいのでしょうか。

そのヒントは、当事者の争いを国家の司法的作用により終局的に解決することが求められる裁判にあると私は考えます。

裁判では、主張立証責任がいずれの当事者にあるのかということを前提に事案を整理して争点を明確化し、事実の有無を判断します。

ある(主要)事実について、主張立証責任を負う当事者が、それを尽くさず、真偽不明の状態(ノン・リケット)に陥った場合は、その事実を要件とする自己の有利な法律効果が認められないという不利益を負うことになります。

これを立証責任と訴訟法上いうわけです。

これをヒントに、今回の問題を考えてみるとどうなるでしょうか。

まず、今回のスカイマークの事件では、法は機長に運航上の安全判断に関する最終的な判断権者としての権限と責任を与えています。

その判断を機長が権限の行使として行っており、それを覆すしたり、それに従わない行為は航空法上の運航規定に違反することになります。

そうであるとすれば、まず、国交省は「スカイマーク社が機長の安全判断を覆したり、従わなかった」ことに対する立証責任を負います。

この点、国交省は調査を行った上で、厳重注意という行政指導に至っており、この部分の立証は尽くされているといえます。

他方、スカイマーク社は、この事実に対する行政指導に不服であり、「機長の判断を覆したり従わなかったこと」があくまで適法で正しいものであったと主張するのであれば、たとえば、機長の判断が「権限の濫用に当たる」など正当化事由の立証責任を負うことになるはずです。

そして、機長は与えられた法律上の権限に従って安全判断したのですから、それを覆したことに対する正当化事由は会社側の立証責任であることを前提に、機長ないし国交省は、反証(ノン・リケット、真偽不明の状態に追い込むということ)すれば足ると考えるべきでしょう。

このように、当事者の主張が食い違う場合には、どちらに主張立証責任があるのだろうかと考え、立証責任を負う方が十分な説明を尽くして、「当該事実があるといえるのか」と思考することが、私は訴訟以外の場面においても、物事の筋道を考える上で有用だと考えます。

そもそも、この問題に不服があるのであれば、スカイマーク社は行政指導でしかない厳重注意に対し、反論するなりすべきです。行政指導は従う義務はありません。単なる事実行為です。

にもかかわらず、スカイマークの対応は、お上の前だから、しおらしくしていれば良いみたいな発想で、自分たちの説明責任すら尽くさず、嵐が過ぎるのをやり過ごそうという姿勢が見え見えです。

そういった企業の不誠実な姿勢を看過することはできません。

日本のパイロットは、規制に守られた既得権益享受者の代表のような職業です。このような職業の人は昔の職人同様、時としてささいな「聞き分けのない子供」のような態度をとることがありますが、今回の事がそのような例ではないと言う事はできるでしょうか?

この反論部分についても、単なる憶測でしかありません。

もし、そういう事実があるとするならば、繰り返しになりますが、それはスカイマーク社が立証すべき事柄で、スカイマークが説明責任を尽くして、「そういう事実があったから、介入したのは妥当である」という主張をすべきです。

しかし、スカイマークがそのようなことをする兆しすらありません。これは、スカイマーク社のHPに掲載されている今回の事件へのプレスリリースを見れば明らかです。利用者に対して、何も説明していません。

したがって、そのような事情を憶測に基づき、仮定して、スカイマークの行為を許容することはできません。

日本人はとかく「お上」に叱責された、というだけで叱責の対象になった個人や集団を「悪」と思考停止してしまう傾向がありますが、そもそもその「お上」こそ、厳重な監視をしていかなければならない存在であることに気づく必要があります。

少なくとも私はこういう発想はしていません。お上が正しいなんてことはありません。

スカイマークが自分たちの判断が正しいと信じるならば、それをスカイマーク社が立証すべきなのです。そういうことを一切する気配がなく、行政指導を受け入れている以上、指摘された事実が存在すると考えることは、お上が正しいという思考とは必ずしも一致するものではないはずです。

私は、一部の方が主張するような、むやみやたらの陰謀論や、この問題について、新規参入企業だから問題視されているなどの無理のある発想をすることには賛同しません。

機長をはじめとしたパイロットの待遇の良さ、労組の強さは知っていますが、パイロットの判断がいかにおかしいかという権限濫用の立証はおろか十分な説明すら会社側がせず、何ら会社の行為が正当化できる理由が明らかになっていない以上、法に反して会社側が安全判断を覆したと考えるのが妥当でしょう。

主張が食い違う事案において、どっちの言い分を信じるべきかという問題について、1つの答えは、主張立証責任の配分を考えてみることが良いのではないでしょうか。

つまり、主張立証責任をどちらが負担すべきかというバックボーンを前提に、その主張立証責任が尽くされたかどうかで判断することが、正しい判断につながると思います。

繰り返しになりますが、本件で言えば、安全判断の権限は機長にあるのですから、それに従わなかったという事実の立証は、国交省が負いますが、判断を覆したことを正当化できる事由としての権限濫用等の評価根拠事実をスカイマーク社が立証すべきです(つまり、国交省は機長の安全判断への介入という処分事由該当事実につき立証責任があることを前提に、違法性阻却事由としてのスカイマークの立証責任という発想です)。

にもかからわず、スカイマークが説明をほとんどしていないというのは、自分たちの立証責任を放棄しているわけですから、機長の判断および国交省の厳重注意は正しかったということになります。スカイマーク側の抗弁の立証がなされていないということです。

もっとも、国交省は行政指導足る厳重注意ではなく「処分」すべきだったという点は別途議論の対象になることは、昨日、お話しした通りです。

なお、この点については、航空評論家の秀島一生先生も「軽すぎるくらい」との御指摘をブログ記事にてなさっています(同時に、行政指導をしただけまだ評価に値すると言っておられます)

さて、今回は立証責任というお話をしました。

民事訴訟というのは眠訴といわれるくらいややこしい法律でもあります。私は読んだことが無いのですが、もしかすると、一般の方が立証責任などの概念を理解するには以下の文庫本が有益かもしれません。評判が良いようです。

法律の勉強をしたことがある人で、主張立証責任につき詳しく勉強したいという方へは、以下の本が非常にお勧めです。要件事実の思考方法が非常に良く解ると思います。

ただ、この本は一般の方向けの本ではありませんから、法律職ではない方や法学の勉強をしている方以外の方が読まれても理解は難しいと思います。

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03/13/2010

成長しない前原大臣(写真公開にみる法律の留保論)

先日スカイマークの問題を記事にし、私はこの会社の飛行機には、改善が無い限り二度と乗らないとの不搭乗宣言を一人勝手に行いました

その後、副機長による写真撮影報道が流れましたし、「またか」という思いで、スカイマークには腹ただしさを感じました。

しかし、これに対する前原大臣の対応は本質的な対処ではなく、非常に永田メール問題を彷彿とさせる意味のないパフォーマンスのように感じてなりません。

私が、「この大臣、自分の人気取りのパフォーマンスを優先し、顧客の安全を真剣に考えているの?」と感じたのは、ピースサインの操縦士の写真を公開するという手段に疑問があるからです。

本来、スカイマークの経営陣が、安全運航に支障のある機長判断の介入という前代未聞の行為をした段階で、可能な限りの重い「処分」をすべきでした。私は厳重注意などの行政指導では足りないと思います。

例えば、事業停止などまではいかないにしても、少なくとも行政指導ではなく、事業改善命令等の「処分」をすべきではないでしょうか。

にもかかわらず、「処分」という正攻法ではなく、不祥事写真の公開という処分性が認められない、事実行為のような手段で、法の統制を掻い潜り、私企業への懲罰的な意味合いを持たせようとすることに、ある種の危惧を感じざるを得ません。

そもそも、公権力の主体たる国や公共団体が、国民に対し、何らかの権利義務の制約を行う場合は、法律の留保が必要です。法律の留保とは、行政法上は、法律の根拠と言っても良いでしょう。つまり、法律の根拠がなければ、そうした行為はできないわけです。

他方、行政指導や情報公開などの事実行為は、その直接的な法律の効果として、権利・義務を形成し、その範囲を確定するわけではありません。したがって、法律の根拠なく自由に行えるわけです。

もっとも、情報公開というのは、国民の知る権利に資するという点では重要なことですが、これが、公権力により、懲罰的意味を持って行われる場合は、法律の根拠が必要ないわけですから、恣意的な運用(恣意的に重たいだけでなく、軽いということもあります)を招き、場合によっては、不当な侵害を与えることになります。

こうした権力的行為にも法律の留保が必要かという行政法上の議論はひとまず置いておくとして(近年は必要とする藤田先生の権力的行為説が支持を集めているようですが)、私が危惧しているのは前原大臣が「処分」ではなく、懲罰的な意味合いで「事実行為」たる写真の公開に至った点です。

感情論で言えば、「こんな利用者の安全性を犠牲にするような会社なんだから、これくらいやっても良いではないか」とも思います。

しかし、公権力の主体が行う行為としては本当に適切なのかという疑問が生じるわけです。

情報公開については、O-157事件といわれるものがあり、情報の提供という給付行政の側面から法律の根拠は不要であるという結論が裁判例ではありますが、東京高裁により出ています。

しかし、このO-157事件は、懲罰的意図でなされたものではないため、これが今回のような懲罰的意味合いの強い情報開示としての写真公開につき、その射程に入るかは疑問です。

かかる写真を公開すれば、おそらく、国民の自然な反応としては、「なんていう会社だ。客が乗っているのに、ピースして写真を撮るなんて」という感情を掻き立て、こういう会社には乗りたくないという反応を引き起こすかもしれません。そうなると、会社にとっては大打撃ですから、懲罰としての効果も大きいわけです。

しかし、公権力の主体たる国の行為として、妥当ではないと私は思います。

そもそも、国交省および国交大臣は、スカイマークの運行状況について、安全性に問題があると思うのであれば、法律に認められた権限で、可能な限り重たい「処分」をきちんと下すべきです。

にもかかわらず、そうした「処分」をしないで、処分の適否が争われるリスクを回避して、事実行為により与えようとするのは、法律の留保という行政機関の大原則の網を掻い潜るろうとしているような印象を受けてしまいます。

私は、前原大臣は真摯にスカイマークの利用者の生命、身体の安全ということを考えて、今回の公開行為をしたのではなく、ポピュリズム、人気取りのために、国民の感情に乗じて、怒って見せただけではないかとの危惧を感じます。

また、写真が公開されても、国民の知る権利には何も資することはありません。

なぜなら、既に運行中に記念撮影をしたという事実が報じられている以上、ピースサインをしている写真だったという内容を見たところで、感情的に何らかの影響があったとしても、安全性への疑義を生じさせる事実の存否に関わる情報は、会社が公表して報道されているので、既に公に知られており、なんらその点に資することにはならないためです。

むしろ、国交省は写真の公表などではなく、国民の知る権利との関係では、社内の立入り検査の結果、運航への安全性不備がどういう点に置いて存在するのかを公表すべきであはないでしょうか。

そういう情報公開であれば、その目的は給付行政そのものなのですから、O-157事件東京高裁判決と同じ射程に入ってくるので、法律の留保という問題を生じさせません(もちろん、行政法上東京高裁と別の見解から留保を求める意見もありますが、そうした議論には今回は立ち入りません)。

なぜ、そこまで必要のない写真公開は早急にするのに、むしろ国民の安全のために必要な処分をしないのか、私はそちらの方が気になって仕方ありません。

繰り返しになりますが、機長の安全判断への経営陣の介入は、事業改善命令等の「処分」で対応すべきだったのではないでしょうか。

前原大臣の頭の中は、ポスト鳩山のことで頭がいっぱいだから、ポピュリズム的人気につながるようなパフォーマンスを優先して、適切な処分をしないのか、などと邪推してみたくなります。

したがって、先日のようにスカイマークの一連の不祥事は、一利用者として断じて許せませんが、国交大臣の対応にも非常に疑問が残ります。

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03/10/2010

スカイマークの問題について(私は二度と乗りません)

突然ですが、宣言します!

私は、以後、以下2つの条件のいずれかが達成されない限り、二度とスカイマークの飛行機には搭乗しません!

①機長の交代、及び当該機長の解雇に関与した役員が引責辞任をし新しい経営陣のよる新しい安全体制の構築を図る、

又は、

②辞任しないにしても、今回の事件について徹底した説明責任を尽くし、このような利用者の安全性を犠牲にする経営陣の介入が二度と起きない体制を作る。

既に御存じだと思いますが、スカイマークの社長及び会長が機長の安全判断に介入して、国土交通省から文書による厳重注意がなされました(時事通信の記事)。

TBSが報じたところによれば、最終権限を有する機長の安全判断に介入した上に、雇用契約を解約して、解雇したと報じており、その判断に誤りはないと会社は言い張っているようです。

人の命を扱っている企業において、このような行為が許されて良いのでしょうか。

私は航空業界という厳しい業界で、二大企業のはざまで頑張っている小さい企業であることなどから、応援の気持ちも込めて、スカイマークを結構利用していました。

それだけに裏切られたという気持ちでいっぱいです。もちろん、私一人が勝手に不買宣言ならぬ、不搭乗宣言をしたところで、何の影響もないでしょう。

しかし、私はこういう利用者の安全性を犠牲にし、機長の判断を覆したうえで、解雇するなどという行為に及んだスカイマークの行為を一利用者として到底許すことはできません。

もちろん、現場の職員、とりわけ、客室乗務員、整備士、地上職員、ディスパッチャー、などは薄給の中、一生懸命頑張っているに違いありません。

私も友人がJALやANAに勤務していますから、航空業界の厳しさを良く聞きます。現場の職員は本当に良く頑張っていると思います。

だからこそ、私は今回のスカイマークの社長、及び会長の行為を許して、利用する気にはなれないのです。

TBSの映像を見る限り、注意処分を受けた役員2名は、報道陣の問いかけにも答えていませんでした。

スカイマークのHPを見ても、およそ利用者を馬鹿にしているのではないかと思ってしまうのですが、数行のお詫びが掲載され、まったくもって説明がなされていません。

読売新聞の記事によれば、2年間の契約期間を残して機長との雇用契約を解約したと言います。

期間の満了前に解約することは、何らかの債務不履行事由(懲戒事由)がなければ許されません。おそらく、業務命令に違反したなどの懲戒事由をもって解約していることと推察しますが、機長の判断に介入したこと自体が航空法の運航規定違反であり、この業務命令には違法があったということになります。

違法な業務命令に従わないことは、懲戒事由には当たりません。

期間の定めのある雇用契約であっても、解約権の行使に当たっては、労働契約法3条5項の権利濫用、および労働契約法16条の解雇権濫用の規定が類推適用され、客観的の合理的理由を欠き、違法な権利行使として、無効となります。

スカイマークの件については、報道されている限りの情報で判断すると、機長との契約解除は民事的に違法と判断され、解約権濫用で無効となるのではないかと私は思います。

人の生命、身体の安全が最優先されるべき航空業界において、このような事態を引き起こすのは本当に驚きです。経営陣の法令順守意識の欠如が甚だしいく、憤りを感じます。

応援していただけに、本当に腹ただしい。

私が今できることは、上記2つのいずれかの条件を満たして改善されるまで、スカイマークを利用しないということです。

一生懸命頑張っている従業員の皆さんには申し訳ないと思います。

しかし、国交省の厳重注意を受けても、スカイマークのプレスリリースは、「平成22年2月5日の運航便において安全上の問題で機長を交代しましたが、結果として機長の権限の扱いに疑義を抱かれ厳重注意を受けることとなってしまいました。」と言っています。

あくまで、交代させた判断に間違いがあったということは認めないかのように読み取れます。

TBSの報道でも、「スカイマークは、『パイロットの精神に反する』としてこの機長をその日のうちに解雇していて、『判断は間違っていない』としています。」ということです。

このようなプレスリリース、報道対応を平気で行う経営陣がいる会社に、私は自分の身を委ねることは二度とできません。

さらに、朝日新聞の電子版の記事によれば、「この問題で機長と社長らが口論になったといい、機長は、この際に社長らが『手をあげた』などとして警視庁東京空港署に被害届を提出。同署が経緯を調べているという。」ということで、かなり大きな問題に発展しそうです。

低価格運賃であったとしても、自分の生命、身体の安全を犠牲にし、安全性の確保に疑義が生じる体制を指摘された企業の航空機に乗るほど勇気もありません。

賢い消費者となるためにも、私は今回、一人で勝手に、不搭乗宣言して、実行します。

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03/09/2010

富士通の内紛騒動にみる法律論としての一考察

ツイッターでもつぶやいたのですが、富士通の経営陣のごたごたはびっくりですね。

時事通信によれば、辞任理由について適切な情報開示ではないということから、東証が調査を行うそうです。

富士通関連のニュースで、企業のガバナンスという観点から注目すべきなのは、取締役相談役の秋草元会長の存在のように思います。

同元会長については、2003年頃の日経BPの記事に「秋草独裁体制」と評され、業績不振のインタビューで、「働かない社員に責任がある」といった趣旨の発言をされたことで一時期物議をかもしたことを思い出しました。

確かこの時期くらいに、「内側から見た富士通『成果主義』の崩壊」という暴露本みたいのが出版されましたね。

したがって、秋草氏の名前が出ていたのを見て、日経BPの記事が当時指摘した体制が維持され、未だに影響力を保持し続けているのかなと感じましたが、実際のところどうなのでしょうか。

いずれにしても、大企業の不祥事としては非常にお粗末な感じがします。

富士通の取締役等の役員を見たところ、元裁判官で刑事事件で特に有名な方や大手法律事務所の弁護士の方が監査役についているのですから、「どうしてこういう事態になったのかな?」という気がしてなりません。

そのほか有名な方々が社外取締役として名前を連ねています。

もっとも、取締役、監査役になるということは、忠実義務(会社法355条)、善管注意義務(民法622条、会社法330条),がありますから、当然この問題が大きくなり、会社に損害が発生(今日はこの騒動を受け株価が下がったようですね)したり、第三者への損害が発生すれば、任務懈怠責任(会社法423条1項および会社法429条1項)が追及されるおそれがあるわけです。

今後の推移が気になります。なお、この問題については、週刊ダイヤモンド誌の電子版が非常に詳細な記事を書いているので、お勧めです。

ところで、面白いと思ったのが、今回の騒動の法的問題です。

おそらく訴訟に発展すると思うのですが、この場合、辞任させられたと主張する野副氏とその代理人は、どういう訴訟形態で、どういう主張を構成するかというのは、基本的な法的知識から構成される問題として、興味深く感じます。

そこで、今日はこの問題につき、法的観点から、私見を発信してみようと思います。

1.考えられる訴訟形態

あくまで、報道されている限りの情報での私見ですが、辞任の取消を求めているという話ですから、訴訟になる場合は、おそらく、「株式総会の選任決議および取締役任用契約(委任契約)に基づく取締役としての権利を有する地位」を訴訟物(審判の対象)として、取締役の地位確認請求訴訟を提起することが考えられます。

つまり、「私は現在も、株式会社富士通の取締役なので、その権利を有する地位の確認を求める」という請求です。

確認訴訟というのは、原則として、「現在の権利・法律関係」について確認を求める必要があります。

単に「辞任の取消の確認」とか、「解任の無効確認」とか、「辞任の無効確認」などと構成すると、訴えの利益(確認の利益)を欠くとして、不適法となるため、現在の権利法律関係に引きなおす必要があるわけです。

そこで、上記のような確認請求の訴訟形態をとるわけです。

なお、通常は、会社に対する「退任登記の抹消登記手続請求」、さらには、野副氏の代わりに取締役に選任された者及び会社に対する「取締役の地位不存在確認請求」なども併合提起することが多いでしょう。

もっとも、後者の訴えについては、会社のみを被告とすれば、判決の対世効(何人の間でも合一確定すべき場合に認められる効力)があり、代わりに取締役に選任された者にもその効力が及ぶので、会社以外を被告としたかかる請求の部分については不適法却下されると思います。

2.請求原因

では、原告がかかる請求をする上で、どういう請求原因を主張するのでしょうか。

請求原因とは、審判の対象として設定した上記訴訟物たる権利法律関係が認められるために最小限必要な事実を言います。

つまり、ここでは、野副氏が現在も富士通の取締役たる地位を有することが認めれられるために、訴状による請求の段階で、最小限主張立証を尽くす必要がある事実は何かが問題となります。

確認訴訟に限定して、以下検討してみます。

取締役としての地位は、①株主総会における選任決議(会社法329条1項)たる申込と②会社と被選任者者との間の任用契約の締結(被選任者の承諾)により発生すると考えられています(商事関係訴訟p99。最判平成元年9月19日判時1354号149頁)。

したがって、請求原因としては、上記①②及び、確認訴訟であることから、③確認の利益を基礎づける事由として、「被告たる会社が取締役たる地位を否定しているという事実」を主張することになります。具体的には、退任登記がなされた事実等を挙げることになります。

3.抗弁以下

報道により伝えられているところによれば、野副氏の代理人は辞任の意思表示につき詐欺取消等の民法上の一般規定に基づく主張を考えているようです。

そうしますと、抗弁以下の攻撃防御は以下のようになるでしょう。

まず、原告の請求に対し、被告会社は、辞任の意思表示があったことを抗弁として主張します。

これに対し、原告が、再抗弁として、辞任の意思表示の錯誤無効(民法95条)もしくは詐欺取消(民法96条1項)を主張して争うことになるでしょう。

辞任の意思表示の錯誤無効の抗弁については、動機につき錯誤があったという話になるでしょうから、動機が表示されていたことが必要となります。

つまり、野副氏が主張している、「他の役員から反社会的勢力との付き合い等により辞任を迫られ、会社に迷惑をかけると思って辞任した」等々の事実は辞任の動機の問題ですから、かかる動機に錯誤があり、これを辞任の意思表示をする際に明示的に示していたことが必要となるわけです。

4.訴訟になった場合の帰趨

再抗弁の立証が成功すれば、原告たる野副氏は未だ取締役ということになります。併合提起した退任登記の抹消登記手続請求も認容されるでしょうし、会社に対する野副氏の代わりに選任された者の取締役の地位不存在確認も認容されるでしょう。

なぜなら、地裁の裁判例で、本件に似た事案として、東京地裁判決平成17年7月13日(平成15年(ワ)第24124号)があります。

この事例は学校法人の理事の地位をめぐり、他の理事が横領の疑惑をかけ、刑事訴追されるなどの嘘をつき、辞任を迫った上で、原告がマスコミ沙汰になれば、学校法人に迷惑がかかるし、生活が保障される代わりに辞任しようと思い、それを明示した上で辞任の意思表示をしたところ、かかる事実は実際にはなく、辞任の意思表示の錯誤無効と詐欺取消を主張して、地位の確認をした事案です。

この事件で、東京地裁は、「原告は,刑事処分が間違いないということであるならば、学園に迷惑が掛かってしまうし、辞めても生活保障・身分保障があると誤信して、本件辞任をしたものであり、また、辞任を表明するに当たり、理事会に対し、生活保障・身分保障を求めることを表示しているから、本件辞任には動機の錯誤があって無効であるといえる。」と判示しています。

この事案は、富士通の問題をめぐる今回の事案と非常に似通っていますから、動機の錯誤および詐欺取消が認められるかのポイントは、①野副氏と付き合いがあった人物が本当に社会的にふさわしくないという人物であったのか、②辞任しなければ上場廃止になるなどを告げたこと及びそうした事実が本当にあったのか、③野副氏が辞任の意思表示の際に、具体的に辞める動機の部分を明示した上で意思表示したのかなどになるのではないでしょうか。

大企業のコンプライアンスの基本的な問題だけに、今後の推移が気になります。

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03/05/2010

言論NPO発行の「鳩山政権の100日評価」を読んで

 言論NPO発行の「鳩山政権の100日評価」を最近読んだので、今日はその感想を簡単に書こうと思う。

 結論からいうと、同誌の鳩山政権100日時点での評価は、「実績評価」・「実行評価」・「説明責任」の3観点に基づいていて、各論の評価そのものは適切な分析と評価であると思う。

 ただ、どの政策を遂行するにも財源の確保が大前提となっていることは、自明の理であり、リーマン・ショック以降のデフレ不況の急速な深刻化に対処すべき輸出依存構造へメスを入れず、大幅な税収不足を招いた、自民党政権の長きに渡る「負の遺産」をそのまま引き継いだ政権であるという特段の事情があることも十分考慮すべきだったのではなかろうか。

 そう考えると、100日の時点で実行できていないという部分と上記特段の事情との関係をどの程度勘案すべきなのかという評価の前提問題が十分クリアーできているかは疑問の余地が残る。その点の考慮が不十分である感は否めない。

 また、アンケート調査の「設問15」や「設問16」の結果と同誌の評価結果をどのように関連させて考えればよいかの示唆も欲しかった。

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03/02/2010

オリンピックが終わって

オリンピックが終わりましたね。

やはりフィギュアアスケートは面白かったです。

浅田選手が銀メダル、安藤選手、鈴木選手、さらには長洲選手が入賞を果たし、日本国籍を持つ女子の選手が4人も入賞したのは本当に凄いと思いました。

男子も、高橋選手の銅メダルを始め、日本人選手はみな入賞でした。

この結果は本当に素晴らしいと思います。

フィギュアスケートに詳しいわけではありませんが、意外な結果も多々あったように思います。

優勝候補の一人で4回転に対する思い入れの強いフランスのブライアン・ジュベール選手にミスがあり、18位で終わったのは、意外でした。オリンピックは独特のプレッシャーなどがあるんでしょうね。

ロシアのプルシェンコ選手の得点が4回転を成功させたにもかかわらず、得点が伸びなかったのも意外でした。

もっと意外だったのは、やはり、浅田選手のトリプルアクセスを2回も決めたにもかかわらず、得点が伸びずに、キムヨナ選手とあの得点差が出てしまったことです。

達成したことのない技、トリプルアクセルを2つもやったにも関わらず、技術点が低くく、仮に浅田選手のミスの部分が成功していたとしてもキムヨナ選手には追いつけなかったと言われています。

採点結果をみると、素人感覚的には不安定な部分があったロシェット選手の滑りの技術点より、浅田選手の技術点が低くなっている(浅田選手が8.55に対し、ロシェット選手は8.6です)のも良く解りません。

時事通信によれば、プルシェンコ選手が「3回転ジャンプは20〜25年前からあった。それから3回転半、4回転が始まったが、今の制度では評価されない。フィギュアスケートの進歩は止まってしまった」と批判したそうですが、素人の私も同感で、フィギュアスケートの評価というのは、いつ見ても「不可解」と感じます。

素人感覚からすると、「そこまで得点差が広がるのか?」という感想を良く抱くことがあります。

法律の話でいえば、あまり素人感覚とかけ離れた事実認定や法的評価などは好ましくありません。

同じルールの適用という観点からすると、疑義をさしはさまれる余地のある評価方式というのは、好ましくないように思います。

プルシェンコ選手が、演技などを重視しするのであれば、フィギュアスケートはアイスダンスと変わらなくなってしまうとの批判をしたという話も聞きましたが、この指摘ももっともな指摘です。

スポーツである以上、技の難易度は時代とともに難しくなり、それが当然に高い評価を受けるべきだと思います。

体操だってそうですが、森末氏が金メダルを取った時の技を今やってもメダルはおろか入賞も難しいという指摘を聞いたことがあります。特に、体操などの技を評価するスポーツは技術がどんどん難しくなる運命にあるのではないでしょうか。

そう考えると、フィギュアスケートも、従来は、演技力というよりは、技を競い合うスポーツとしての意味合いが強かったはずですから、その評価方式が変わり、演技力重視になるというのは、体操のような技重視からシンクロのような演技力重視へとかなりの変更を伴うわけですから、それに振り回される選手も大変ですね。

本当に演技力を重視の傾向で良いのかを含め次のソチまでの4年間に、選手にとっても解りやすい評価方式を再検討すべきでしょう。

私個人としては、やはり、フィギュアスケートでは、4回転などに果敢に挑戦していくアスリートの姿を見るのが1つの楽しみですから、演技力重視という傾向は個人的には残念です。

演技力を見たいならディズニーなどプロのアイスショーで十分で、プロではないアマチュアの選手が大技の技術を競うからこそフィギュアスケートという"スポーツ"を見るのが楽しいのだと私は思うからです。失敗しても、大技に向かっていく選手姿には共感できます。

大技が成功したときに正当に評価される土壌がなければ、そうした果敢な挑戦も少なくなり、競技としての発展は止まってしまうというプルシェンコ選手の指摘ももっともだと思うわけです。

この点、プルシェンコ選手の指摘に関連して、気になったのは、以下にもある時事通信の記事にあった情報です。

大会前に、ある米国ジャッジが他国のジャッジと役員に「(表現面を示す)演技構成点を正確に出すよう」促すメールを送ったという話が表面化

これに関しては、もっと公正さに対する問題として、議論されるべきだと思います。

選手は人生を賭けて、数分間の競技のために、4年間必死に努力してきます。そういう大会の直前に、採点への影響を与えるような動きはジャッジの公正に疑義を生じさせます。

自国の選手のための駆け引きをしたいのはわかりますが、これを"審判"という公正さが要求される立場の人間がやってしまったらお終いではないでしょうか。公正さも何もありません。

こんなことを裁判で、裁判官がやったら大変なことになりますよね。まるで、平賀書簡事件です。

ソルトレイクオリンピックでもフィギュアスケートの採点と審判への疑惑が問題視されました。

能力の高い選手が増え、接戦になればなるほど、こうした審判などによる不適切な行為が増えるようですが、それはスポーツの発展を阻害するものであって、許されるべき行為ではないでしょう。

その点、アメリカの映画の祭典、アカデミー賞のルールは厳しく、アカデミー会員に自分の映画への支持と他の映画への批判になるようなメールを送った監督に対し、処分が検討されているそうです。

選手が一瞬のために人生を賭けて、必死に努力してくるのですから、IOCやISUはもっと真剣に公正さをいかに担保するかということを考えるべきでしょう。

そう考えると、フィギュアスケートにおける「判定の匿名化」も私は問題だと思います。

匿名であれば、誰が不公正な判断をしたか責任の所在が解らなくなり、やりたい放題です。審判員への働きかけが逆に容易になってしまうのではないでしょうか。

ルールの適用というのは、スポーツに限らず、我々の私生活のあらゆる場面で問題になるわけですが、公正さが一番重要な要素です。

今回のオリンピックを見て、公正さを欠くルールの適用には、その判断の正当性それ自体への疑問を生じさせるわけですから、いかに審判員に責任を自覚させ、適切な判断をすべく教育し、廉潔性を確保するかを常に考え、それを向上させることが本当に重要であると再認識しました。

フィギアスケートの話題に関連し、以下の本を紹介します。4年後のソチでも彼ら、彼女らの素晴らしい努力の成果が見られるのを期待したいですね。

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