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February 2010

02/22/2010

小沢問題と検察審査会制度とそれに関するお薦めブログの紹介

小沢氏の不起訴という検察の判断に対し、検察審査会への申立てがあったというニュースがしばらく前に流れたのは覚えているだろうか。

今日はタイトル通り、この問題に関する情報を発信したい。

なお、今回の小沢氏の問題関する捜査機関の問題点とマスメディアの問題点については、以前の記事で触れているので、そちらを参照してほしい。

1.刑事事件に対する未熟な報道 ― 小沢問題からの考察を中心に

2.小沢問題に関する考察 - 検察の捜査方法への疑問

3.なぜ著名ジャーナリストがここまで騒ぐのか(検察捜査と報道の問題点)

まず、検察審査会制度について。

刑事訴訟法は原則として、国家訴追主義、起訴独占主義という立場に立っており、同法247条は起訴独占主義に基づき、起訴権限を検察官にのみ認めている。

その起訴独占主義の例外が、①検察審査会制度であり、②付審査請求である。

後者は公務員の職権濫用罪など刑法194条から196条に当たる罪に対して、同じ公務員である検察官の判断に疑問が生じ、不公正な不起訴決定であるとの批判を回避するため、裁判所にその判断を委ねるものである。

他方、今回問題となる前者の制度は、「公権力の行使に国民の意見を反映させようとする目的で設けられた」(池田、前田「刑事訴訟法」p191)制度であり、裁判員制度同様、一般の国民(衆議院議員選挙の有権者)から無作為に選ばれた11人により、1つの合議体が構成される(検察審査会法4条)。

したがって、今この記事を読んでいる方々は、裁判員だけでなく、検察審査会の審査員に選ばれることがあるということである。

もちろん法律の素人に判断を全く任せてしまうのは、審査員に負担であるため、弁護士の中から審査補助員を付けることになっている。

検察審査会法39条の5第1項は、検察審査会が行う決議につき、3種類を規定している。

1号:起訴を相当と認めるとき・・・起訴相当決議

2号:1号の起訴相当決議を除き、公訴提起をしない処分が不当と認めるとき・・・不起訴不当決議

3号:公訴提起しない処分を相当と認めるとき・・・不起訴相当決議

そして、1号の起訴相当決議をする場合には、11人の審査員のうち8人以上の多数による必要がある(39条の5第2項)。

手続的概要をいうと、まず、最初の審査で、1号の「起訴相当」決議および2号の「不起訴不当決議」がなされた場合、検察官は再度起訴をすべきかどうか判断することになる。

このときに、検察官が再度不起訴処分にするか、公訴提起を定められた期間内におこなわなければ、再度、事件が検察審査会で問議されることとなる。

そこで、再び、「起訴相当」の判断をした場合に、「起訴決議」というものが出され(検察審査会法41条の6)、検察官に代わって裁判所が選任した弁護士が公訴提起を行うこととなる。

そこで、おそらく注目の的は、自民党の二階氏の事件のように、小沢氏に対する「起訴決議」が出るのか否かというところであろう。

この点、公益通報者問題等に熱心の取り組まれておられる弁護士の阪口徳雄先生が自身のブログで御見解を紹介されている。私も阪口先生の御見解は非常に的確で、おそらく、阪口先生の予想通りになるのではないかと思う。

このブログの読者方々には、ぜひ以下の阪口先生の記事を参照していただきたい。

「小沢幹事長の事件で検察審査会は起訴相当を議決するか(政治とカネ198) 」

また、阪口先生も検察の強制捜査に関する批評を2月3日付の記事でなされており、非常に解りやすく、なぜこの問題において、検察の捜査が「検察の暴走」との批判を受けるのかについて、本質的な説明をなされている。

「小沢不起訴なら「大山鳴動、ネズミ3匹」(政治とカネ193)」

私も阪口先生と同じ見解を取っているが、同じ見解でも、違う人の説明を読むことで、この問題の本質がより解るということもあるだろう。したがって、本ブログの読者の方々や検察捜査の在り方に疑問を持っている方々はぜひ阪口先生のブログを参照いただきたい。

阪口先生は公益通報者支援だけでなく、政治とカネの問題を鋭く突いて、活発的な行動をなさっておられる。したがって、小沢氏の問題だけでなく、政治とカネという広い視点からの問題提起を続けてきた方なだけに、記事には非常に説得力がある。

「企業・団体献金禁止法の制定を求めて民主党に直接要請(政治とカネ199)」

さらに、多少古いトピックではあるが、鳩山首相の偽装献金事件に関しても、法的見地から的確な意見を述べられており、既存のメディアからは十分に伝わってこない情報であるので、再度この事件の正しい法的認識をしたいという方はこちらの記事もおすすめである。

「鳩山総理の偽装献金事件を論じる(政治とカネ171)」

なお、阪口先生は修習生時代から、言論の自由、手続保障の確保のために、最高裁という司法権力に果敢に立ち向かった方である。興味がある方は、当時の阪口先生を支持する日弁連の声明を参照されたい。

この事件を振り返っても、権力があくまで人間により行使されるということに鑑みれば、権力に対し国民の不断の努力による監視が必要であることが良く解るだろう。

さて、恒例の本の紹介。

検察審査会をはじめ、刑事訴訟法を知りたい方には、裁判官の池田修先生と刑法学者でもある前田雅英教授の下記の本がスタンダードなものとしておすすめです。

また、検察審査会を舞台にした推理小説もあるようです。これに関しては私自身まだ読んだことがないので、わかりませんが、検察審査会が舞台の推理小説ということで興味が沸いたので一応紹介しておきます。作者は日本ミステリー文学大賞を受賞された方のようです。

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02/18/2010

国母選手批判が日本のイメージを悪化させている(国母選手頑張れ!)

※当該記事中に誤訳があるとの指摘を受けたため、翻訳・引用方法の適否は米国法に関わるとの判断から、友人で著作権問題等に詳しいアメリカ人の法曹に問い合わせ、意訳の適否につき判断を仰ぎました。

その結果、「引用元の記事自体は、日本のメディアを含めた世界中のメディアを対象にしている記事であり、原作者の意図としては、当然日本のメディアや日本でこの問題で騒いでいる人々への批評が含まれている。誤訳等の大した問題ではないが、主張を明確にし、引用として最善を尽くすために若干の編集上の更正を加えるのが望ましい。」との回答を受けました。

当該回答で示されていた具体的な編集上の更正方法に従い、記事の引用部分を一部更正しております(更正部分については赤字で示してあります)。

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先日、下らなすぎるから、この話題はもう話さないと決めたのだが、日本での国母選手への日本での批判が海外メディアで、日本の「異常さ」が取り上げられ始めたので、簡単に警鐘を鳴らす意味でこの問題に触れておく。

前にも言ったように、この問題について、河野太郎氏が公式HPでよく批評しているので、まだ見ていない方は読んでもらいたい。

結論から言えば、はっきり言って、国母選手への批判は、著しく下らない。

川端文科大臣など政治家ともあろうものが国会でこの問題につき、大衆迎合的に、批判意見を述べたようであるが、そうした立場にある者がかかる批判をすることが、国際社会における日本の異常性を際立たせ、日本の評判を落とすことに気がつかないのであろうか。

服装が悪い、メディアへの態度が悪いというが、服装は価値観の最たるものであり、表現の自由における自己実現の価値が認められるものである。河野太郎議員の言葉を借りれば、「価値観とルール」は違うわけである。

多様な価値観があるのが民主主義の前提であり、価値の押しつけは、民主主義国家では許されるべきではない。

以下にあるJ-CASTニュースの伝えるところによれば、アメリカのヤフー利用者の反応は、「これがニュースなの?」「服装とか髪型とか、一体誰が気にするんだ」というものらしい。

このようなアメリカ人の反応は、極めてまともなものであり、他方、国母選手へのメディア、ネット、抗議の電話をかけている人々の反応は、はっきり言って、馬鹿馬鹿しいし、日本の民度を失墜させ、日本の国際的評判を貶めていると言っても過言ではない。

国母選手の服装が日本代表としてふさわしくないというのであれば、下らない問題で騒ぎ立てる人々の方がよっぽど日本の価値を貶めており、日本が異常な国だという印象を世界に発信しているも同然であるということ自覚しているのかと問いたい。

私がこの問題を取り上げなければと思ったのは、英国のテレグラフ紙をはじめとして、日本の反応が異常だという共通認識の下で、この話題が紹介され始めたからである。

テレグラフ紙の記事に対する、海外の反応を見ていると、「どうにも日本人がなぜ問題視するのか理解できない」、「あの服装がスノーボードというスポーツ界の服装でしょ?」、「日本人は理解できない」、「これは馬鹿げている」など反応が多く、本当に日本人としてこうした話題が取り上げられてしまったことに恥かしさを感じる。

この問題をまさに正面から取り上げた、英語記事のBleacher Reportのダイアン・デリベリー(Dylan Derryberry)氏は、以下のように日本をはじめとするメディアの反応を批判する。

表現の自由を強く支持する者としてこのニュースは非常に興味がある。

五輪の試合が始まるまでメディアは報じるネタが欲しいのかもしれないが、選手がまさに今リンクやスロープへ立ち入ろうとしているときに服装がだらしないもなにもないだろう。

ねえ、(日本を含めた)ジャーナリストたち、服装のことは(流行ファッション雑誌の)ヴォーグ誌に任しておこうよ!

服装は確かに試合の重要な一部かもしれないけど、(日本人を含め)選手の服装のことばかり気にしている人々は少し落ち着ついて、実際のイベントを批評すべきである。

こうした話題がニュースから消え、皆が本当の"プロ"のジャーナリズムを皆が享受できることを望む。

的を得た批評とはまさにこのことではないだろうか。

欧米は概して、服装等については、非常に寛容である。特にアメリカの場合は、異質なものを受け入れる度量の広さこそが、フロンティア精神から受け継がれてきた良き伝統であり、それが国力の原動力でもある。

よく中国や韓国のネットで、有名人等が理不尽なバッシングを受けたというニュースを耳にするが、日本の今回の批判の動きは中国や韓国がバッシングする行為と何ら変わらない。

民度の低さを認めているかのようで非常に恥かしい。

問題は記者会見での対応だという人もいるだろう。

しかし、国母選手はあの服装に一種の誇りや自己実現の価値を持っていたからこそ、あのような服装の着こなしをしていたのであり、「悪いこと」とは思っていなかったはずである。

だとすれば、形式的な謝罪会見を行わせるべく、「謝れ」というJOC等のやり方の方がよっぽどおかしい。

犯罪を犯したわけでもなく、当の本人もプライドを持ってやっていることに対し、別の価値観を押しつけるのでは、まさに、日本は北朝鮮や表現の自由が保障されていない中国と何ら変わらないことになってしまう。

むしろ、「なんで価値観を押し付けられて、謝らないといけないんだ」と、反骨精神をもって精一杯の反論をした国母選手の方がよっぽど骨があり、素晴らしいと私は思う。

いずれにしても、一部の人々が下らない価値観の押しつけを行った結果、それが海外からは異常で異質なものであると受け取られ、日本の国際的評判を毀損してしまっていることは残念でならない。

上記のデリベリー記者がいうように、この問題で熱くなっているメディアとそれに乗せられている一部の日本人の方々はもう少し冷静に物事の本質を見極めてほしいものである。

そして、国母選手はこうした試合前の"下らない妨害"に負けずに、頑張ってほしい。

頑張れ国母!

なお、以下の本は洋書で英語ではありますが、比較的平易に書かれており、アメリカでベストセラーにもなりました。価値観の多様性から見えるアメリカの歴史、アメリカの強さを知る上では、非常に良い本です。学生が英語を学ぶ際の副読本の1つとして、アメリカについても学ぶためには非常に良くできている本です。

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先日も紹介しましたが、上村愛子選手のこれまでの軌跡を振り返る本が2月5日に販売されたようですね。まだ読んでいないのですが、非常に興味があります。小学校のときのイジメやスランプなどについて書かれているようです。

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02/17/2010

良いニュースが2つもトップ扱いだった日(でもそれを台無しにするキャスター)

やはり、疲れて帰ってきて、テレビを付けた時に、まずトップニュースが良いニュースのときは気分も良くなりますね。

昨日はそんなニュースが2つもトップ扱いでした。

まず、このニュース。

「体が勝手に動いた」=背後に警笛、迫る電車-線路転落女性救助の男性
2月16日19時11分配信 時事通信

 「助けなきゃと思ったら、体が勝手に動いていた」。東京都杉並区のJR高円寺駅で、ホームから転落した女性を救助した男性(24)が16日、報道陣の取材に応じ、当時の状況や心境を語った。
 男性は社会福祉法人職員佐藤弘樹さん。15日午後9時15分ごろ、同駅停車中の中央線電車内にいたところ、女性がホームから落ちるのに気付いた。線路に飛び降りて声を掛けたが、反応はなかった。背後に警笛が聞こえて振り向くと、電車が迫っていたため、女性をレールに寝かせ、自分はホーム真下の避難スペースに入った。
 電車は女性の上を通過して停車したが、女性は軽傷で済み、佐藤さんにもけがはなかった。
 佐藤さんは「『何で』と聞かれても困ってしまう。考えてやったことじゃない。体が勝手に動いちゃったとしか言いようがない」と話したが、避難直後に電車が目前を通過した時は「怖い」と我に返ったという。
 電車停車後、2人は「死んじゃったかもしれない」などと言葉を交わし、女性からは感謝の言葉を掛けられたという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100216-00000102-jij-soci

本当に佐藤さんの勇気は凄いし、女性も無事で助かって良かったという言葉に尽きる。

佐藤さんの的確な判断もさることながら、この女性も気絶した状態で、下手に気を取り戻して取り乱すことが無かったからこそ起こった奇跡である。ただ、その奇跡を起こしたのは、やはり、佐藤さんの的確な判断と類い稀な勇気に他ならない。

こういう話を聞くと、「自分なら行動てきたか」と自問自答するが、とっさに的確な判断と行動をすることの難しさを痛感させられる。

こういう勇気ある行動がニュースのトップを飾るのは本当に喜ばしい。

ただ、ホームが非常に込んでいるときは体調が悪くなくてもぶつかって転倒するのではないかと、ひやっとすることもある。

東京メトロやゆりかもめはホームへの転倒防止の柵や壁が作られており、地方の一部の鉄道や地下鉄でも導入されてきている。今後、こうした形で、そもそも転倒が起きにくい状況を作るように鉄道各社の努力にも期待したいところである。

それにしても、佐藤さんの勇気は本当に素晴らしく、敬意を表したい。

次に、良いニュースはやはりオリンピックのこのニュースである。

競い合う2人が救世主に=加藤と長島、屈辱から表彰台へ〔五輪・スピードスケート〕(時事通信) 2/16 18:48

 一つの表彰台に日本選手が2人。強かったころを思い出させる光景だった。15日のスピードスケート男子500メートルで長島圭一郎(27)が銀メダル、加藤条治(25)が銅メダル。ともに日本電産サンキョーに所属するライバル同士が、日本スピード陣に2大会ぶりのメダルをもたらした。
 長島は1回目6位と出遅れた。でも、あきらめない。「2回目はすっ転んでもいい。飛ばしていこうと」。2回目はトップの34秒87を出し、ゴール後にメダルを確信。コーチとハイタッチして勢い余って転倒した後も、氷上でガッツポーズを繰り返した。
 加藤は1回目、最初のカーブでバランスを崩しながらも3位の好位置に。最終組で滑った2回目は35秒07とやや伸びず、タイム表示を見て「ああ」と頭を抱えた。「てっぺんを取れなくて悔しい」。それでも胸を張れる銅メダルだ。
 遅咲きの長島、早熟の加藤と言われた対照的な2人にも共通点はある。それはトリノ五輪での屈辱。長島はまったく通用せずに泣き、加藤は優勝候補の重圧に負けた。
 バンクーバーで借りを返したい−。普段はそんなに多くの言葉を交わさない2人だが、お互いの胸の内はよく分かっていた。長島は「一緒に表彰台に立てて良かった」。加藤も「長島さんも金メダルを狙っていたと思う」と言った。
 残るは金メダル。日本選手団の橋本聖子団長は「2人ともこれで満足していないでしょう」と尻をたたく。不振に苦しんでいたスピードスケート界に次の夢が膨らんだ。(バンクーバー時事)

http://vancouver.yahoo.co.jp/news/ndetail/20100216-00000096-jij_van-spo

先日の上村愛子選手のモーグル4位入賞に続き、長島選手と加藤条治選手のメダル獲得のニュースがトップニュースの1つとして伝えられたのは本当に喜ばしい。

私は1つのスポーツに人生の多くの時間を費やし、とことんやるという生活を経験したことが無いが、やはり、スポーツであれ、なんであれ、国際舞台で活躍できるほどになるには通常人が経験しないような苦労と苦痛、挫折を味わっているに違いない。

オリンピックや国際大会に出場できる人物であるということだけで、凄まじい苦労をしてきているのであろうから、その舞台で、決勝に残り、入賞、さらにはメダル獲得をするというのは、私からすると本当に凄い努力をされたのだと感心する。

長島選手も、加藤選手も、前回のトリノオリンピックでは、思ったような力が発揮できず、悔しい思いをしたと聞くだけに、今回の結果には、応援する一日本人として、本当におめでとうと言いたい。

特に、加藤選手はトリノの際に、メディアの過剰なメダルへの期待がされ、その後の筋肉バランスを崩したことによる引退の危機といった話を聞いただけに、本人は「悔しい」という発言をなさっていたが、一視聴者としては、「いやいや、良くやった!」という思いである。筋肉バランスを保つために、体幹を鍛え直したというのだから相当の努力をしたのであろう。

それは上村愛子選手にも言える話で、「メダル獲得ならず!」みたいな論調もあるが、私は上村愛子選手の努力やインタビューでの発言を聞いていると、「4位だって素晴らしいじゃない。上村選手が競技等を通じて、視聴者に伝えた『母親を思いやる気持ち』、そして『様々な苦難にもかかわらず努力して結果を出してきた姿』は真似できない功績だ」と言いたい

そもそも世界中の選手が集うオリンピックの舞台に、日本という国の代表として出ているだけで、一視聴者の立場からすれば、本当に凄いことだと素直に感じる。

ただ、残念なのが、良識がないというか、薄っぺらい視点でしか物事を見れない、テレビキャスターの馬鹿げたインタビューである。

そもそも、試合に全神経を集中して、全体力を使い果たして疲れきっている最中に、あっちこっちのテレビ局にひっぱりまわしては、ほとんど同じ質問を浴びせ、しまいには、長島選手に、「やっぱり金メダルを目指していたんですよね?」と失礼極まりない発言をしていた。

この発言をしたのは、フジテレビの安藤優子キャスターである。

Yahooニュースにあるフジテレビのスーパーニュースの動画で、その発言を確認したのだが、折角の素晴らしい良いニュースも、この人物の極めて見識のない、無礼な発言で、折角の気持の良いニュースが台無しである。

同じ女性キャスターでも、品位のあるっテレビ東京WBSの小谷真生子さんや、親しみやすさのある元TBSの三雲孝江さんとは大違いである。

オリンピックに出ており、ましてや、前回大会にも出場し、相当の結果を残してきているのであるから、当然、金メダルを目指して、一位になるべく努力していることは想像に難くない。

そんな中でもやはり、色々な理由から順位がつくのであり、皆が金メダルを取れるわけではない。

そんな小学生でもわかるような常識をわきまえず、散々どの局でも聞くような同じような質問を浴びせ、「金メダルでなくてすいませんという感じです」と心境を述べている選手に対し、「やっぱり、金メダルを目指してたんですよね」という質問は無いだろ!と感じたのは私だけではないはず。

当の長島選手も、聞き取れなかったのか、非礼な質問に気分を害したのかわからないが、顔をしかめ「はい?」と聞きなおしていた。おそらく私は後者でないかと思う(私が彼の立場なら後者のような心境に陥るだろう)。

こうした常識を欠くような質問を浴びせることを平然と行い、傷口に塩を塗るインタビューをするようなキャスターが、偉そうに何十年もフジテレビの顔というべき報道番組で、キャスターを続けていることは不思議でならない。

安藤優子氏の発言からは、メディアとしての奢りすら感じる。

もちろん、選手の方から、「悔しい」とか、「金を取りたかった」というのは問題ない。

しかし、私は、オリンピックを報道する側は、もう少し選手の気持ちに配慮して、メダル獲得への期待を過剰にあおったり、試合直後の疲れきっているときに、連れまわして同じような質問を繰り返し行い、さらには、「金メダル」にこだわった非礼な質問をぶつけるのはいかがなものだろうかと思う。

なお、国母選手に対する異常なメディア批判については、既にツイッターでつぶやいたように、良識のある方々は、同選手への批判が非常に稚拙で、どっかの将軍様の国のように、井の中の蛙的な発想に基づく、異常なものであることは解っていると思うので取り上げないことにしました。飲酒運転したわけでもないのにあのメディアの批判は異常だと思います。

この点、衆議院議員の河野太郎氏の公式サイトにある2月25日付の記事が私の言いたいことを代弁してくれていますので、紹介しておきます。

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02/15/2010

日弁連会長選挙と既得権益

先日は、検察をはじめとする捜査機関に対する厳しい記事を書いたので、今回は弁護士に対する厳しい指摘をしたいと思う。

日弁連の会長選挙が再投票になったのはご存じだろうか。来月10日に行われるらしい。

世間ではどれだけ関心を持って捉えられているか解らないが、史上初の再投票ということで、法曹関係者は興味を持っている人も多いだろう。

今まで執行部路線を継承する候補者が続いてきたので、交代することは良いことのようにも思える。宇都宮弁護士の活動も個人的には、高く評価する面もある。

しかしながら、この選挙での宇都宮弁護士をはじめとする支持者の主張と争点が、法曹人口の増加問題に集約されてしまっていることには、ある種の危惧を感じざるをえない。

結果を振り返ると、東京などの都市圏においては、元々競争が激しく、弁護士事務所の集合・離散という状態は珍しくもないため、現執行部の路線を継承する山本候補が支持を集めたのであろう。

他方で、競争に慣れておらず、殿様商売が可能だった地方の弁護士にとっては、法曹人口の増加は死活問題ということで、多くの地方単位会が、反執行部の受け皿として、宇都宮候補を支持したのではないかと私は考えている。

ただ、こうした弁護士業界の動きを、一般社会はどう考えているだろうか。

そもそも、法曹人口が増大することは、ロースクール制度を採用した時点から解りきっていたことである。

それを今さら「法曹の質の低下」という形式的な大義名分をかざして、実質的には、「既得権益の保護を図ろう」としていることは、一般の人々にも既に見透かされてしまっているのではないかと私は考える。

一般の友人と話をしていると、やはり、弁護士への法律相談は敷居が高いし、お金も高すぎるという話をよく聞く。

地方に行けばいくほど、「弁護士といっても誰に相談したらいいかわからない。CMしている事務所もあるけど、なんか胡散臭い。法曹へのアクセスは未だ困難だ。」という声をよく聞く。

「弁護士に相談するより、税金関係は、税理士、労働関係は社労士、それ以外のトラブルは行政書士や司法書士に聞けば、安く済むし、余計な気兼ねをしなくて済む」なんていう声すら聞こえてくる。

法曹人口が増加し、ある程度の競争があればこそ、質の高さを維持して、良いサービスができるというのが普通であろう。

実際に、懲戒処分事例を見ていると、年配の経験のある弁護士の方が多く処分されているのも事実である。

自分たちの殿様商売の土壌が奪われるという危機感から、法曹人口に反対するというのは、共感を得られないのではないだろうか。

弁護士法第2条は、「弁護士は、常に、深い教養の保持と高い品性の陶やに努め、法令及び法律事務に精通しなければならない。」と定める。

「武士は食わねど高楊枝」という諺があるが、こうした弁護士業界の動きを見ていると、弁護士はまさに「貧すれば鈍する」という言葉が似合うと揶揄される日が来るのではないかと心配になるのは私だけだろうか。

なお、日弁連の会長選挙が再投票になったことに起因するのかもしれないが、私のブログに、特定の弁護士で、会長選選挙候補者に対する誹謗・中傷とも受け取られかねないコメントが同一人物(同じIPアドレス)により多数送りつけられた。

内容の一部にはまともな批判もあるものの、全体としてみれば、名誉毀損にも当たりかねない部分も存在することから、管理者として、これを伝播性のある空間に公開することはできないので、公開しないことにする。

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02/10/2010

なぜ著名ジャーナリストがここまで騒ぐのか(検察捜査と報道の問題点)

最近忙しい状況が続いており、読者のみなさんにおかれましては、ブログの更新がまだ頻繁にできないこと、申し訳なく思っております。

何曜日に更新なんていうことを書ければいいのですが、ブログは義務になってしまうと続かないというのが持論で、時間があり、気が向いたときでなければ、良い記事も書けないので、ご理解よろしくお願いします。

またコメント等についても、肯定的なもの、否定的なものを含め、それらにきちんと回答している時間がありません。申し訳ありませんが、回答が遅れていますことお許しください。

さて、今日は簡単ではありますが、なぜ、多くのフリージャーナリストや既存の報道メディアのサラリーマン記者とは一線を画した人々が、小沢問題を報じるメディアに対し厳しい視線を持っているのかにつき、私がどう考えているのかを紹介しようと思います。

まず、オウム真理教の問題で一躍有名になり、リベラルな視点から鋭い論説が多い江川紹子さんは、非常に厳しく検察の捜査および報道機関の姿勢を「新聞の『説明』を問う」と題した記事の中で論じています。

ぜひとも時間がある方は全部読んでいただければと思いますが、とりわけ私が共感する部分は以下の指摘です。

検察も国会議員を逮捕したり失脚させるほどの強い権力を持つ機関だ。その捜査のあり方にも監視の目を光らせる必要があるはず。そういうバランス感覚が、”クビ取りゲーム”に熱中する中で吹き飛んでしまった。

おっしゃる通りで、検察というのは、原則として、起訴権限を独占している機関ですから、これは小沢氏の問題に限らず、人一人の人生、さらには命をも危険にさらす強大な権力です。

したがって、常に冤罪に可能性を念頭に置きながら、メディア、ひいては、国民が権力の監視という不断の努力をしなければなりません。

そして、刑事法の原則である立証責任は検察にあるということも併せて理解しておかなければなりません。

以前の記事でも指摘しましたが、嫌疑をかけるのは捜査機関なのですから、嫌疑を立証できなければ、嫌疑は、「あらぬ疑い」であり、その被疑者は不起訴の判断以降は、「白」として扱われなければなりません。

にもかかわらず、メディアはこうした刑事司法の基礎知識を知らないのか、知っていながらもその重大性から目をそむけて、低俗なワイドショー化しているのか、メディアが検察権力に果たすべき社会的責務を放棄してしまっています。

江川さんは以下のような指摘もしています。

検察が石川議員ら2人の起訴と小沢氏の不起訴を発表した記者会見に出席できたのは、朝日新聞など大マスコミで作る司法記者会(記者クラブ)だけ。しかもカメラを入れたいという要請も断られている。カメラの前で堂々と語ることができない検察をなぜ、批判しないのだろう。しかも、匿名で検察幹部が「心証は真っ黒」などと語るのを無批判に載せる。これはいいかがなものか。

やはり、既存メディアにより組織された記者クラブの弊害が影響しているのでしょう。

さらに、私が、安心して見ていられるジャーナリストの一人である岩上安身さんは検察と報道メディアの関係について、自身のツイッターで以下のような指摘をしています。

記者クラブの動きを見ていればわかる。各紙・各局とも、社会部は、小沢問題、ひと段落、どころか、全国の小沢がらみの土地取引や資産の洗い直しに大忙し。狙いは脱税。まったく別件で、小沢をあげようとしている地検特捜部の動きをフォローしているのだ。与党は、司法改革を粛々と進めるべき。

私がジャーナリストとして一目置いているに人々が、司法制度改革を急げと言及していることを目の当たりにすると、私は司法界が国民の民主的コントロールに服する過渡期に来ているように感じてなりません。

つまり、今まで、情報も少なかったので、司法試験に受かった"頭の良い"方々に司法は任せていれば、間違いを起こすことはないだろうという誤解とともに、司法の側の人間も、長年実務を経験しているから、"見ればわかる"という過信があったわけです。

しかし、地道な活動を通じた冤罪事件が明らかになるにつれ、情報がインターネットで広がったり、裁判員制度が始まり、国民が司法を身近に感じることができるようになった結果、法律を学んでいない一般の人々も、「頭が良いから間違った判断をしないとは限らない」、「勉強はできるけど、一般的な感覚とはズレていないか?」、「司法関係者は自分たちを過信して目が曇っていないか?」という疑問を持つようになってきたのだと思うわけです。

そして、その代表がいわゆる上記の有名フリージャーナリストの方々なのではないかと私は感じています。なぜならば、彼らは既存のメディアによる内輪の論理に拘束されない反面、一般の人々の良識的な論理的思考に近い考え方をする人たちなではないかと思うからです。

こうした風潮は非常に良いことだと思います。多くの人々が刑事司法や捜査の在り方に関心を持ち、監視をすることが、冤罪を防ぐもっとも効果的かつ唯一の方法です。

故に、現在の密室司法、人質司法と呼ばれる日本の捜査の在り方は、国民の監視の目からは程遠いところにありますから、潜在的に多数の冤罪事件を生む土壌となってしまっています。

取り調べの可視化は確かに捜査機関にとっては厄介かもしれません。

現在までのところ判例は、自白と補強証拠につき、「真実性の担保するものであれば、犯罪事実のごく一部でも補強証拠があれば足る」とし、その程度も自白と補強証拠が相まって有罪の心証形成ができる程度であれば良いと緩く解釈してきました。

したがって、自白さえ取ってしまえば、捜査機関は恐れることはなかったわけです。自白の任意性もよほどのことがなければ否定しないことも多かったように思います。

可視化されれば、任意性への判断が厳しくなることは明らかです。被疑者を圧迫する取り調べは、任意性への疑問を当然生じさせるでしょう。

最近、ある警察関係者と話をした時に、「可視化というが、犯人を逃がして構わないというならやればいい」という発言をされました。

そこで、私は、「では、犯人を逃すのと、冤罪を生み出すのとではどちらが問題でしょう。私は冤罪を生み出すことは何百人の犯人を逃がすことよりも恐ろしいことだと思いますよ。だって、無実の人の人生を滅茶苦茶にするんですから。」と答えましたが、不満そうな顔をして黙ってしまいました。

その方は「弁護士は被疑者や被告人を無罪にするためにいつも働く」という偏った価値観も同時に話していたので、完全に公平の観点が抜け落ち、捜査機関の論理で発想する方だったので、私の問題意識を御理解していただけなかったのかもしれません。

しかし、私は、何百人の犯人を取り逃してしまうのは捜査機関の捜査能力を引き上げることで何とか対応できるはず(現に可視化している先進国は沢山あるわけですし)だが、1つの冤罪を回復するのは、数十年かかるし、一旦間違えると取り返しがつかない許されない問題なのだという意識を持たずして、権力的作用に関わるべきではないと思います。

捜査機関には、少なからず、"証拠がなくてもあいつが黒だと俺にはわかる"という根拠のない自信に裏付けされた「選民意識」があるのではないでしょうか。

昨年より裁判員制度が始まりました。

裁判員制度は裁判所にとっても、従来より手間がかかります。なんせ法律の素人たる裁判員とともに評議するわけですから、的外れな議論になる恐れはあります。

しかし、実際の裁判員制度の状況を見てみると、裁判員は非常に優秀で、"慣れてしまった"裁判官では発想できない問題点を次々に指摘するという報告があり、担当裁判長の訴訟指揮にもよりますが、おおむね良好な運用ができているようです。

手間はかかりますが、慣れてしまったことによる気の緩みから冤罪を生まないためにも、外部の裁判員が入ることは非常に有益かつ効果的な印象を受けます。

結局のところ、検察も、裁判所も、"自分たちは優秀だから、慣れているから、経験があるから、見れば犯人だとわかる"という根拠のない自信に裏付けられた「一種の選民思想」が冤罪の温床になっているのではないかと私は思います。

検察や裁判所、ひいては司法界に対し、民主的コントロールを及ぼすことで、選民思想を根絶して、冤罪のタネをつぶすことが重要なのではないでしょうか。

そのためにも、著名ジャーナリストが司法の問題に注目をしてくださることは、司法界全体を良くする上で非常に貴重なことであると考えます。

なお、小沢氏の事件に対する具体的な検察の捜査や報道機関の問題点に対する私見は以下の記事に示してありますので、興味のある方は御参照ください。

小沢問題に関する考察 - 検察の捜査方法への疑問

刑事事件に対する未熟な報道 ― 小沢問題からの考察を中心に

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以前紹介した本ですが、この問題を考える上で非常に有益なものなので再度紹介いたします。

まず、秋山先生の下の本は、裁判員制度開始前の書籍ですが、裁判官の陥りがちな問題点を鋭く指摘しています。この書籍の著者である秋山賢三弁護士は、最近では、防衛医大教授の痴漢冤罪事件で、弁護人を務めていた方で、最高裁で無罪判決を勝ち取りました。冤罪事件の活動で著名な方です。

次の本は、自白のメカニズムについて解説している本です。おそらく多くの人々は自白に迫られるような状態を意識したことはないのではないでしょうか。なぜ虚偽の自白が起こるのかを考える本としては良いと思います。

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02/05/2010

トヨタのリコール問題はジャパンバッシングなんかではない(製造物責任者の問題)

マスコミなどは飽きもせずに連日小沢問題や朝青龍問題を下らない調子で取り上げているが、これらの問題については既に記事にしたので今日は別の話題を取り上げようと思う(なお、私のブログでもたびたび紹介しているKyoさんという管理人の方の「永田町異聞」で、起訴状一本主義の観点からも興味深い記事を取り上げられていたので、興味のある方は是非読んでほしい)。

もっと日本にとって、さらには世界の消費者にとって、重大な問題。

そう。アメリカにおけるトヨタ自動車のリコール問題である。

多くのマスメディアはこの問題について、アメリカのジャパンバッシングではないかというような論調になろうとしているし、既にそうなっている感じがする。

しかし、トヨタの安全性に対する不備を追求せずして、この問題をジャパンバッシングと捉え済まそうするのは大きな間違いだと私は思う。最近のメディアのズレた報道を見ていると、「トヨタはメディアにとっても良い広告主なだけに、問題をする変えようとしているのでは?」と邪推すらしてしまいたくなる。

確かに、トヨタの安全性の問題が、GMをはじめとするビッグ3の回復をもくろむ絶好の機会になるという潜在性があるのは事実であろう。

しかしながら、去年の段階でアメリカ政府による指摘を受けていたにもかかわらず、トヨタが十分迅速に対応してこなかったのも事実である。

Japan Business Pressは以下のように報じている。

NHTSA(国家道路交通安全局)によって公式に危険性が指摘され、フロアマットの位置ずれによるペダル引っかかり問題が顕在化したのが2009年9月29日。これに対してトヨタ(米国法人)はユーザーへ手紙などで問題点を伝えたものの、NHTSAに促される形でリコールとして告知したのは11月2日になってからだった。「製品(クルマ)そのものの欠陥ではない」というスタンスを取り続けたのは分かるけれども。

アメリカ政府やアメリカメディアがトヨタの対応を強く批判している背景には、トヨタがアメリカで事業展開をする会社としての責任を果たしていないという不信感があるからである。

これをアメリカが自国の自動車産業保護のためにジャパンバッシングの格好のネタにしているなどという論調は、企業の社会的責任を本来は追及すべき立場にあるマスメディアの職責放棄といっても過言ではないだろう。

そもそも、アメリカにおいては、自動車の安全性に対する認識が日本以上に厳しいということをまず理解しておく必要がある。

自動車の安全性の問題といえば、弁護士で、最近では大統領選の無所属候補として二大政党制の問題点を指摘しているラルフ・ネイダー(Ralph Nader)氏の功績に言及しなければならない。

ネイダー氏は、1965年に自動車産業、特にGMを相手に、訴訟や「Unsafe at Any Speed(どのようなスピードをだしても車は危険である)」という本で、 自動車の安全性に欠陥があることを訴えた。

ネイダー氏の根本にある考えは、自動車メーカーが消費者に対し、通常有するべき安全性が確保しなければならず、それを欠いている場合は欠陥に当たるというものである。

この考え方は、現在の製造物責任の基礎となっており、わが国でも製造物責任法が、当該製造物が有すべき安全性を欠いていることを「欠陥」と定義して、無過失責任を製造業者等に課していることからも、その考えが反映されているといえよう。

当時、GMなどの自動車産業がネイダー氏の家などを盗聴するなどして、嫌がらせを続けたにもかかわらず、それ屈することなく、訴訟で、3000万円近い賠償金を得て、それを消費者擁護活動に費やしてきた。

いわば、ネイダー氏はアメリカの消費者擁護のパイオニア的存在の弁護士であり、ネイダー氏が設立した、アメリカのNGOで、監視機構であるPublic Citizenという団体もアメリカの消費者保護に重大な役割を果たしている。

そのラルフ・ネイダー氏は2月4日付Business Week誌のインタビューに対し、「トヨタは長らく不具合についても急ブレーキによるもので、車の安全性を欠いたものではないと説明し、へまを犯した。対応が遅いし、対応が不十分である。これは不適切な隠ぺいである」と強く批判している。

同時にネイダー氏は、国家道路交通安全局(NHTSA)の対応について、「トヨタはへまを犯したが、国家道路交通安全局はトヨタがへまを犯すことを許し、安全性の欠如という恐ろしい問題からアメリカ市民を守ろうとはしてこなかった」と問題があるとの認識を示している。

私は、日本のメディアもそれに乗せられた人々も、この問題をアメリカの自動車産業を守るための単純なジャパンバッシングと捉え、真摯に向き合おうとしていないように思えてならない。

ネイダー氏のように、アメリカの自動車産業とは全くの利権がない、むしろ、アメリカ自動車産業の敵として、純粋にアメリカの消費者擁護活動に取り組んできた人がこの問題について、トヨタ自動車の対応をこれだけ批判するのは、なぜだろうか。

この問題の本質が、貿易摩擦などの下らない問題ではなく、消費者の生命、身体を犠牲にし、車が通常有すべき安全性を欠いたことに対し迅速かつ十分な対応を取ってきていないトヨタ自動車の企業責任にあるからこそ、アメリカの消費者擁護の重鎮が痛烈に批判するのではないだろうか。

ネイダー氏の批判に対し、無知な方は「アメリカの弁護士は訴訟が好きだから批判しているんだ。消費者擁護なんていうなら、尚更怪しい」などと反論するかもしれない。

しかし、それはネイダー氏の活動と功績を知らない無知からくる故の論拠の無い空虚な反論といっても過言ではないだろう。

なぜなら、ネイダー氏は別のインタビューで、「訴訟は解決になるか?」という質問に対し、「訴訟をすることになれば、問題解決が非常に遅くなってしまう。訴訟をするというのは重要かもしれないが、時間がかかり過ぎてしまう。そんなことをすれば、トヨタは回復できない損失を抱え、GMの売り上げが回復することになるだけである」と答えていることから明らかなように、ネイダー氏の視点は、純粋なアメリカの消費者擁護にあるためである。

日本の自動車メーカーはもちろん、メディア、そして日本の技術力を自負する我々、日本国民も、今回の問題について、トヨタ自動車が企業としての責任を果たし、消費者のために十分な対応をしているか監視する必要があるだろう。

この問題をアメリカのジャパンバッシングだと捉えるだけで、本国である我が国が自浄作用を発揮できないようであれば、日本の技術力神話に対し、世界からの不信が突きつけられることになるのではないだろうか。

ネイダー氏の著書で翻訳されたものはほとんどありません。また、翻訳された本もあるのですが、翻訳が不自然で読みにくさが残ります。

この本は英語であり、かつ、なかなか難解な言い回しが多いですが、英語の自信がある方は是非、ネイダー氏の考え方を知る上でとても良い本ですから読んでみることをお勧めします。

そういえば今日は日弁連の会長選挙があった日ですね。激戦のようですがどうなったのでしょうか。法曹人口の削減を訴える宇都宮弁護士が特に地方でなかなか善戦しているようですが、就職ができないからとか、仕事が減ってるからという理由での、法曹人口を減らすという主張は、日弁連が既得権益の塊なんていう世間の誤解を招くのではないかと思います。そういう意味では、日弁連の会長は現状継承路線(年間2000人程度で推移)の山本弁護士の方が法曹界への不信も拡大しないように思いますが、どうなることやら。

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02/04/2010

朝青龍問題や小沢問題に対する白々しい価値観先行報道について

自分で思考することの重要性を熟知している人間であれば、一連の朝青龍問題や小沢問題に対するマスメディア、とりわけ、テレビ、新聞メディアの価値観先行報道の問題点に気が付いている人は多くいるのではないだろうか。

他方で、テレビや新聞の報じる内容が真実であると疑い無く信じ込んでいるお人好しの人々も我が国には多数いるわけで、そういった人々がこの国の行く末をメディアに乗せられ、場当たり的に判断しているとすれば、我が国も衆愚政治の真っただ中に陥っていると危惧せざるを得ない。

連日メディアに踊っているこれら2つの問題について、既存の報道とは違った観点から簡単に考察してみたい。

1.朝青龍の暴行、品格問題、引退報道について

暴行の事実に関しては私はその事実を知りうる立場にないので、それが事実として認定することはできないし、真実であるとの前提でこの問題を論じることはできない。

暴行罪は親告罪ではないので、仮にそのような事実があるとすれば、捜査機関が適正捜査をするであろう(少なくとも制度上はそう期待される)。

したがって、暴行問題については深入りせずに、この問題の取り扱われ方、朝青龍に対するこの問題以外の報道姿勢について、考察する。

結論から言えば、私がこの問題で言いたいのは、朝青龍に対し「品格がない」と批判することの不合理さである。

かつて、フランスのサルコジ大統領が大相撲を「頭にポマードの塊を乗っけたデブのぶつかり合いの何が面白いのか」と評したことがあったと記憶しているが、朝青龍に対し、「品格がない」という批判を聞くたびに、私は「頭にポマードの塊を乗せたデブ」たる力士に品格をそもそも要求すること自体が間違いではないかと思う。

大相撲の力士に、野球選手やサッカー選手、その他のスポーツ選手と同様のアスリートとしてのスポーツマンシップが要求されるというのであれば、それはその通りであろう。

しかし、横綱に別途、勝利後にガッツポーズをしてはいけないなどの「高度な品格」というものが要求されるとすれば、これはおかしな話である。なぜならば、それだけの高度な品位を要求するほどの教育や環境が大相撲には今現在存在しないためである。

学歴差別をするわけではないが、力士をはじめとしてスポーツ選手の中には中学卒業そこそこでプロのスポーツ界に入り、その世界に没頭して力を上げることが要求されることが多い。

そのような環境で、一定の社会的常識を身につけることはできても、一般人以上の「品格」なんてものを身につけられるような教育や環境が用意されているとは到底考えられない。

相撲協会は、公正な選挙すらできず、自分たちの思惑通りの投票結果にならなかっただけで、一門会議を開き、造反探しとも取られかねない行動をするOB(親方)が牛耳っている組織である。

そんな組織が、そもそも、アスリートたる力士に品位を身につけることができるような教育をしているとは私は思えない。

そのように考えれば、勝って嬉しい時にガッツポーズをしたことについて、「品格がない」と批判し続けてきたメディアは、私は必要以上に過大で無理な要求を朝青龍に求めてきたように思う。

今回の引退報道を見ていると、「驚いた」などと白々しく語っているメディアの司会者などを多数見かけるが、これだけ毎場所、視聴率のネタのために叩かれ、その度に執拗なメディア攻勢を受けていれば、辞めないで続ける方が困難ではないだろうか。

確かに、引退の決断に今回の暴行問題が大きく影響したであろう。しかし、私は今まで朝青龍がメディアの理不尽な批判にもかかわらず、引退せずに頑張ってきたという点については称賛したい。

もっとも、暴行問題については、先述のように別途考察が必要である。

力士はいわば、ボクサーと同じような格闘技の部類に入るアスリートであるから、場合によっては、素手でも凶器になる。そうしたアスリートが暴行行為をしたとすれば、これは刑事責任に発展する問題であるから、この点は捜査機関により適正に解明されることを望む。

しかし、私は、あくまでこの問題を朝青龍の横綱としての品格の問題の延長線上に位置づけるべきではないと思うわけである。

横綱としての品格がないから暴行事件をしたというのは、一見して筋の通った主張に見えるが、暴行事件は品格の問題ではない。仮に暴行が事実だとすれば、刑事事件を引き起こしたことを品格の問題に矮小化すべきではない。

また、「横綱としての品格なんてものがあるのか?」「そういうものを要求できる状況にあるのか?」ということを考えなければ、大相撲の腐敗した状況は今後も続くのではないだろうか。

2.小沢氏不起訴に対する報道

小沢氏に対する捜査への疑問報道機関の問題については、過去2回取り上げているので、まだ読んでいない方で、興味のある方は、そちらで私の見解を再度確認してほしい。

不起訴判断について色々な見方があるだろうが、今回の不起訴は嫌疑不十分という理由での不起訴である。

「犯罪を認め、反省しているから、起訴しなくても良いだろう」という検察官の判断に基づくものではない。

これについて、「起訴されなくても灰色だから潔白を証明しろ」という自民党議員やメディア等の馬鹿げた発言を聞いていると、果たしてこの国の立法者たちは憲法や刑事訴訟の基本的原則に対する理解をしているのかと恐ろしく感じてしまう。

「疑わしきは被告人の利益に」

これは刑事司法の大原則である。

「灰色は白」というのが刑事事件における根本的な原則なのである。

それを、「灰色だから、白だと立証せよ」というのでは、戦前の軍国主義や水戸黄門などの時代劇で、悪代官が善良な農民に在らぬ疑いをかけて、白だと立証せよと言っているようなものである。

こうしたおよそ馬鹿げた主張が、立法府の構成員である人間から出てくることが非常に驚きである。憲法の根本的価値である法の支配の概念が欠如していること甚だしい。

もし、小沢氏に「白だと立証せよ」と要求するのであれば、自民党もメディアも、刑事告発を受けている麻生太郎政権下での河村官房長官の機密費流用が横領罪に当たるという点についても、この問題以上に、「白だと立証せよ」と要求すべきであろう。

しかも、河村氏の事件は未だ不起訴判断は出ていないのであるから、自民党やメディアの論理からすれば、そっちの方が説明責任が求められるだろう。

検察にだって説明責任がある。

嫌疑不十分で、不起訴判断をする以上、「あらぬ疑い」をかけてしまったことを認めるわけである。いくら理由をこねくり回したって、裁判で立証できない嫌疑は、「あらぬ疑い」であることに変わりはない。

この問題に対する検察の捜査行動が、国政、予算審議への影響を与えている以上、「あらぬ疑い」をかけた点については真摯に反省して、国民に対し、十分な説明をしなければならないのではないだろうか。

仮に、あなたが、殺人事件であった場合に、自分が共犯だとの嫌疑をかけられ、不起訴になった後も、「グレーだから、お前が白だと立証しろ」という要求をメディア等に突きつけられたとしたら、あなたはどう考えるであろうか。

小沢氏に対する報道の在り方はまさにこれと同じことを言っているのである。

このような乱暴な議論がまかり通って、「小沢は怪しい」、「小沢は何かやっている」という価値判断が先行して、大手メディアで白々しく報道していることに、私は、非常に大きな危機感と恐怖を感じる。

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さて、今日紹介する本ですが、こうしたメディアの恐ろしさから、やはり、メディアと捜査機関によって、本当に「あらぬ嫌疑」をかけられた人々の生の声を知ることがあってもよいという思いで紹介します。

足利事件の菅家さんと松本サリン事件の河野さんの対談です。小沢氏に対する事件報道と捜査機関の捜査手法は未だに反省もなく、推定有罪といっても過言ではありません。

そうした冤罪を生む土壌から、真実を見つけ出さなければならないのは、裁判官であり、今は裁判員となりうる国民自身です。

いつ皆さんが裁判員となり、冤罪事件を扱うか解りません。そのためにも冤罪を生む土壌がどういうところにあるのか考える上で、冤罪被害者の生の声を知るのは重要でしょう。

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02/01/2010

内部告発を支援する必要性

諸般の事情により、最近ブログの更新ができなくなっており、読者の皆様におかれましては大変申し訳なく思っております。

小沢問題や朝青龍問題などメディアでばか騒ぎをしているニュースを取り上げようとも思ったのですが、新しい記事を書く、時間と余裕がないため、過去に(ヤフーブログ時代に)公開した記事の中で、もう一度読者の皆様に読んでいただきたい記事を今日は修正した上で、掲載したいと思います。

新しい記事を楽しみにされていた皆様には申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願い致します。

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かなり昔に、心理学の翻訳をしたことがある。その際に、集団極化という現象があることを知った。

これは、ある一定の思想をもつ集団に属していると、その中での意見が極端な方向シフトし、思いもよらない極端な意思決定をその集団がしてしまうという心理学の現象である。

なるほどと思ったのだが、これは結構目にする光景かもしれない。

集団極化の事例としては、よく、スペースシャトルチャレンジャーの打ち上げ失敗事故やケネディー政権下でのピッグス湾事件の失敗があげられる。

つまり、明らかに危ない計画なのに、誰も異を唱えることができず、結果、当然に失敗し、最悪の事態をもたらした歴史的事実がこれらの2つの事例である。

なぜ、止められないのか。

心理学の教科書によれば、異を唱えると自分が忠誠心がない人間だと思われたり、邪魔者扱いされるのを嫌がって、多数意見に群れるという説明がなされていた。

様々な不正行為、偽装問題が注目を集めているが、私はそれらの事例において、集団極化という現象も影響しているように思う。

今でこそ騒がれなくなった事故米の問題だって、誰が見てもそのうちバレて、大きな問題になることは明らかな不正行為である。しかし、従業員のだれも止められず、良識ある者の内部告発によって明らかになった。

問題は、こうした不正行為に対する監視の1つとして、内部告発の有効活用はできているのか、そのための制度的支援、PRは十分に行われているのかという点である。

政府は、2004年頃に公益通報者保護法を成立させている。

だが、この法律について社会ではどの程度認知されているだろうか。

そして、どの程度、実際に利用されているのだろうか。

健全な集団の意思決定を確保する上でも、この法律や制度をもっと普及する必要があるように思う。

この制度自体はまだまだ未熟だが、発想としては素晴らしい。

だが、なぜそれを政府はPRし続けていないのか、本腰を入れないのか。何か広まってほしくないという意図的なものを感じるのは私だけだろうか。

なお、以前、公益通報者保護法について、公開会社法制に対する記事の中で触れたので、興味のある方はこちらも参照していただきたい。

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