会社はみんなのものだけど… ― 公開会社法法制に対する疑問
年末年始はスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんの来日の話題を取り上げ、日本の読者の方はもちろん、世界中の方からのアクセスがあり、コメントをいただけたので、記事として集中的に取り上げた甲斐があった。特に、「日本の技術力のPRになった紅白歌合戦」という記事は、アクセスが最も多く、注目を浴びたようである。
そろそろエンターテイメントの話題から、真面目な話題に移行しようと思う。
既に、政権発足から100日は過ぎたので、心置きなく鳩山政権に対する批評をしようとおもう。といっても、私は先の衆議院選挙で大敗を喫した自民党の議員たちのように、批判のための批判といった薄っぺらい議論はしたくないので、無党派層の一人として、公平な見地から、私見を発していく。
さて、ここ最近、インターネット上で、「公開会社法(仮)」に関する話題が熱を帯びているようである。おそらく、1月5日に報道された、同法案の法制審議会への諮問のニュースがこの話題への注目を高めたのであろう。
ニュースを見てみると、この法案の立法化に携わっているのは、ツイッターの活用で有名な民主党の藤末議員というので、驚いた。
私は過去の記事で藤末議員のツイッター活用を絶賛したが、この法案に対する評価は必ずしも同じではない。日経BPに示された藤末議員の主張には論理の飛躍と現行会社法に対する認識に問題があると私は感じている。
そこで、公開会社法(仮)について簡単に私の疑問を紹介しようと思う。なお、以下の私見は、報道により知る限りの知見に基づくものであり、民主党の素案を精査した上でのものではないことを断っておきたい。
1.会社は誰のものかという問題設定をすることへの疑問
まず、藤末議員は、公開会社法の制定を目指す理由として、以下のことを述べている。
「会社は誰のものか」とは、古典的な命題だ。株式会社の運営においては、保有株式数に応じた議決権が定められており、法律的には「株主のもの」で結論づけられるはずだ。それにもかかわらずこの古典的命題が繰り返し言及されるところに、人々の問題意識があるといってよい。お金を出した人(株主)と返す人(経営陣)とで会社が成立するのなら何も問題はないのだが、従業員・顧客・仕入先といった他のステークホルダー抜きには会社は成立しえない。
そもそも、公開会社法の制定に当たり、このような命題を設定すること自体がおかしいということに私は気がつくべきだと思う。
「会社は誰のものか?」という問いに対しては、私は、「当然みんなのもの」であると答える。株主はもちろん、経営者、労働者、消費者、社会全体といった、個々に企業の活動に対し、事実上の利害関係を持つ者のために会社は存在する。
当り前であろう。営利法人は法人格を有する社会的実在として、人権の享有主体性が判例により認められている。社会的実在として社会的相互依存関係の下で営利活動を行っている以上、そこに事実上の利害関係を持つ他者との関係で、会社は存在するわけである。
しかし、「会社は誰の所有権に属するか?」という設定をすれば、それはもちろん、株式という、いわば分割された所有権を有する者、つまり、株主の所有権に属すると私は答えるだろう。この点、藤末議員も「法律的には株主のもの」と言っていることからも、この点に対する認識は同じであろう。
問題は、前者の「会社は誰のものか?」という非常に抽象的な問題設定と、後者の「会社は誰の所有権に属するのか?」という具体的・法的問題設定とを混同して議論することにある。
少なくとも、私の知る限り、こうしたトンチンカンな議論をするのは我が国だけである。上記の問題設定の混同が、株主至上主義だという良く解らない主張を生み出し、「会社のコンプライアンスや監督是正権の実効性確保」という本質的な問題点からズレた議論を生み出してしまっていると私は考える。
したがって、そもそも、一番重要な公開会社法制定の目的・趣旨の段階において、民主党の主張は迷走してしまっているのである。
2.従業員代表監査役は監督是正権の形骸化につながる
報道によれば、公開会社法素案は「監査役に従業員の代表を選ぶよう義務づけること」を盛り込んでいるという。しかし、私はこの改正は百害あって一利ないし、この改正によりますます監査役の業務は形骸化しかねないと警鐘をならしたい。
会社法335条2項は、「監査役は、株式会社若しくはその子会社の取締役若しくは支配人その他の使用人又は当該子会社の会計参与若しくは執行役を兼ねることができない」と定めている。
つまり、監査役を使用人である従業員が兼業することを禁止しているわけである。
この趣旨は、そもそも監査役の職務が「取締役の業務執行に法令定款違反がなく適正であるかを審査する適法性監査」を行うことであるところ、類型的に取締役から独立性を有しない者による監査は、監督是正機能を果たさなくなるため、兼業を禁止した点にある。
簡単に言えば、監査役というのは、取締役を会社の実質的所有者である株主に代わり、法令や定款に反する行為をしていないか、善管注意義務違反をしていないかを監督する立場にあるのであり、そうであるならば、従業員のように取締役の指揮命令下にあるような使用人を監査役に置くことは不適切ということなのである。
実際に、大企業の労働組合でさえ、最近は御用組合になり下がっているとの批判が多い中で、仮に、公開会社法を制定して、従業員代表を監査役に据えたところで、取締役の言いなりになり、監督是正権を行使することができなくなることは容易に想像がつく。
労働組合の組織率が低下し、数の力でも、取締役等に経営者に対抗できないような従業員が、監査役になり1名から数名が役員として名を連ねたところで、法令順守の適正な経営に魔法がかかったのごとく変化することはあり得ないと私は断言する。
重要なのは、既に多くの法律家が指摘しているように、現行法下であっても、監査役にその自覚を持って、十分な適法性監査を行うインセンティブを設けることであろう。
例えば、まず、監査役としての業務を怠れば、会社法423条による任務懈怠責任が問われ、膨大な損害賠償責任を個人的に負うことになるということの周知徹底が必要であると私は思う。
次に、会社法429条1項は役員等の第三者に対する損害賠償責任を定めている。したがって、取締役や監査役がその職務を怠たったことにより、会社債権者、消費者、労働者、その他の利害関係人に損害を生じさせ、悪意・重大な過失がこれらの役員等にあれば、損害賠償を個人的に負うのであり、この点も周知徹底する方法を考えればよいのではないだろうか。
既に、法律家の多くが指摘しているように、制度を変えればよくなるというのではなく、あるべき姿に向けどういう制度運用をすべきかをまず議論すべきであり、現行制度でおよそ無理だというのであれば、法改正なり、別立法をすればよいだろう。
現状でも、取締役の監視義務について、判例(例えば、最判昭和44年11月26日や昭和48年5月22日)はなかなか厳しい態度を取っており、任務懈怠による423条、および429条の損害賠償責任を果たすように、裁判所かかなり厳しい方向で認定しようという態度があると感じる。
また、監査役の監督義務についても、直接的に認めた判例は未だないように思えるが、下級審判例ではそれに言及しているものが増えている。また、上記2つの判例は、監査役の監督義務の任務懈怠は認めていないが、これらはコンプライアンスや内部統制構築義務が現在のように叫ばれる状況以前の判例であり、現行の会社法下において同様の事案が生じた場合には、監査役の監督義務違反が認定される可能性はかなり高いだろう。
したがって、判例、裁判例を通じて、司法はステークフォルダーへの利害関係への配慮を現行法の下でもかなり行ってきている。
そのような状況の中で、わけのわからない法改正をすることは、企業法務における混乱を招くだけで、セミナーや顧問料などでの弁護士の飯のタネ増やすことはできても、健全な会社運営を実現するのは無理であろう。
3.ネーミングからして法的センスを感じない
あまり法的センスとかいう言葉を使って、批判するのは好きではないのだが、公開会社法というネーミングは、どうしても法的センスを感じない。
報道によれば、別立法により、上場企業を対象にした立法措置であるといわれている。だったら、「上場会社法」にすべきであって、公開会社法なんていうネーミングは、たとえ、素案段階であっても、混乱を招くだけである。
会社法2条5号は、公開会社の定義につき、「その発行する全部又は一部の株式の内容として、譲渡による当該株式の取得について株式会社の承認を要する旨の定款の定めを設けていない株式会社をいう」と定めている。
つまり、譲渡承認を要する以外の会社はすべて公開会社であり、上場していないような小さな会社でも、譲渡承認を要する旨の定款の定めをしていない会社はすべて「公開会社法(仮)」の適用対象になるのではないかという重大な懸念を生じさせているのではないだろうか。
上場企業に限ったことならば、公開会社法なんていうネーミングは絶対避けるべきだっただろう。適用対象にならない中小企業に対し、不要な不安をまき散らすだけである。
仮に公開会社全部をネーミング通り適用対象にするとなれば、中小企業で公開会社に当たる会社にとっては著しい負担になる。
制度の適正な運用は期待できないし、中小企業の負担になるというだけであれば、こんなものは百害あって一利ないし、それこそ、民主党不況、鳩山不況などと揶揄されるだろう。
こういうことへの配慮が回らないのは、同法の策定に関わっている民主党議員の法的センスの欠如と断じても言い過ぎではないのかもしれない。
4.企業不祥事の早期発見や労働者の地位向上は別の法改正で対応すべき
私も十分に公開会社法の立法趣旨がつかめていないので、推測の域をでないのだが、民主党議員の発言や報道を聞いていると、公開会社法の立法趣旨の背景には、「企業経営の法令順守の確保」と、「労働者の地位を向上させ、企業経営にもその意見を反映できるような状況を作りたい」という思いがあるのだろう。
この政治的、経済的な面からの当否は別として、それを実現するのであれば、会社法という基礎法に影響を与え、企業法務に混乱を招く恐れのある公開会社法なる立法をするのではなく、現在存在する公益通報者保護法や労働組合法の改正等によって対応すべきではないかと私は思う。
公益通報者保護法は所管である内閣府のPR不足や人員不足も相まって、十分な機能を果たしていない。内部通報というのはなかなか勇気のいることである。しかし、日本より法整備がしっかりしているアメリカやイギリスでは、かなりの効果をあげているし、企業不祥事の早期発見による影響の最小化にも成功している事例が多々ある。
公益通報者保護法の徹底したPRはもちろん、公益通報者への対応を専門とする窓口(消費者庁の所管にすることも考えられるだろう)を設けたり、英米などの保護法制に見られる徹底した通報者のプライバシー保護を法改正により可能にすることで、企業不祥事の早期発見はかなり実効性あるものとなるのではないだろうか。
下手に御用従業員代表監査役を設けるより、よっぽど有効な手段だと私は思う。
また、労働者の地位向上をするのであれば、これは労組法の問題として扱うのが適当で、やはり、使用者と労働者には一定の緊張関係があって初めて、有効適切な労使関係が保てるということは歴史上明らかではなかろうか。
労働者保護に熱心に向き合わなかった労働組合の組織率の低下による弱体化のツケをごまかすためにこのような立法をするのであれば、最終的に不利益をこうむるのは労働者である。
また、労働者の地位向上を図るのであれば、労組内部や労組間対立などによる労働者不在の主義主張を改め、ストに寛容な社会の構築も重要であろう。
そうした議論は、労働法制の議論として行うべき話であって、会社法などの基本法に影響を与える形ですべき議論ではない。
5.終わりに
私はどうも民主党の公開会社法制の動きは、ピントがずれているように感じてならない。労働者の地位向上という点においても、形だけはやっていることを支持母体である労働組合にアピールするだけで、集団的労使関係の本質的な問題に切り込んでいないため、結局、個々の労働者の地位向上には繋がらない無駄な立法をしているように思う。
利益が労働者の給与に十分に反映されていないという点を問題とするならば、これは労働組合が真摯に労働者の地位向上に向き合わず、内部の権力闘争や御用組合化した結果であって、法制度の問題ではない。
支持母体であるならなおさら労働組合の組織率低下、弱体化の本質的な議論をすべきである。少なくとも、イギリスのブレア前首相は、徹底した労働組合批判と労働党の旧来的な労働組合寄りの政策を改め、労働組合のための政党ではなく、労働者のための政党に生まれ変わったというイメージを打ち出すことで、長期政権を実現した。
民主党は、自己満足的な実効性の乏しい立法をして、形式的なアピールをするのではなく、一日も早くブレア前首相の改革の本質を見習った政策を打ち出すべきである。
こうした多くの人々からの批判や不安、懸念を無視し、どうしても法制化してしまうのであれば、少なくとも、企業法務の実務家、例えば、東京地裁民事8部に在籍した経験のある裁判官等が参加した形での議論をしてほしい。
以下の本が本日扱ったテーマを深く理解するのに良いと思います。菅野先生の労働法は法律を学んだことがある人向けです。会社法の神田先生の本は必要十分で、読みやすいと思います。
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