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12/14/2009

名誉毀損に対する正しい理解(4) ― 名誉権とプライバシー権との違い

第3回までは、名誉毀損と表現の自由の関係を説明してきた。今日は、プライバシー権との違いについて、概説したい。

4.プライバシー権との違い

プライバシー権とは、みだり私生活上の事実を公開されない自由(東京地裁判決昭和39年9月28日)と一般に理解されている。

プライバシー権に関する最高裁判例としては、最判形成6年2月8日の「逆転」事件があり、その中で、プライバシー権という言及はないものの、「みだりに前科等に関わる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益」があることを判示している。

さらに、近年、最高裁がプライバシー権の内容を具体化したものとみられる判例として、最判平成15年9月12日の早稲田大学江沢民事件があり、「自己の欲しない他人にはみだりに公開されたくないと考えることは自然なことであり、そのことへの期待は保護されるべきもの」と判示している。

このように、最高裁は、プライバシー権が人格権であるとはっきり述べていない。

最高裁が積極的にプライバシー権の内容を定義していないのは、おそらく、人格的利益であることは間違いないが、人格"権"まで高められた価値としては、未だ成熟していないという理解があるのかもしれない。

いずれにしても、最高裁ははっきり定義していないが、一連の判例から、プライバシー権が憲法13条により保護される個人の生存に関わる人格的利益として、把握していることは間違いない。

では、名誉権とプライバシー権はどのような違いがあるのだろうか。

まず、プライバシー権は一旦侵害されると回復が困難という特性がある。つまり、一旦プライバシーに関わる事柄が公開されてしまうと、取り返しがつかないという性質を有する権利である。

次に、プライバシー権は、対抗言論による回復が不可能である。名誉毀損の場合であれば、対抗言論を用いることで、社会的評価の回復が可能である。例えば、「弁護士甲は事件処理を非弁に任せている違法弁護士だ」という名誉毀損的表現に対しては、事件処理を自分で行っていると反論することにより名誉回復は可能である。

しかし、例えば、「芸能人Aには・・・という性癖がある」という事実は、全くの私生活に関する事柄である。このようなプライバシーに関わる情報は、一旦公開されてしまうと、そのような事実がないと反論したところで、プライバシー侵害のない状態に戻ることは不可能である。

さらに、プライバシー権を侵害する表現をしたものが、その事実につき真実性を立証しても違法性が阻却されないという特性がある。当然である。プライバシー権は、みだりに私生活上の事柄を公開されない権利なのだから、真実かどうかは問題にならない。

したがって、こうした3つの違いがあるため、(a)プライバシー権はどのような場合に保護の対象になり、また、(b)どのような場合に表現の自由が優先されうるかにつき、名誉毀損とは異なった見地から調整を図る必要がある。

(a)プライバシー権として保護されるための要件

プライバシー侵害が成立するための要件としては、裁判例ではあるが、東京地裁判決昭和39年9月28日が一般的にそれを示したものとして理解されている。

その要件は、

①私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのある事柄であり、

②一般人の感受性を基準にして、当該私人の立場に立った場合に、公開を欲しない事柄であり、

③一般の人々に未だ知られていない事柄

という3つである。

プライバシー権として保護されるための事実についても、①でまず私生活上の事実とその周辺の事実に保護対象を限定し、その上で、②一般人の感受性を基準とした客観的に公開を欲しない事実という絞りをかけているところに、表現の自由との調整を図る意識が見える。

この基準からすれば、芸能人の交友関係だとか、性癖だとか、夫婦関係いう事実は、すべてこれらの要件を満たすことになり、限度を超えた芸能情報リポーターの取材行為はプライバシー権の侵害で民事上は違法な行為ということになるであろう。

(b)表現の自由が優先される違法性阻却事由

もっとも、公人およびそれに近い人々のプライバシーに密接にかかわる情報の場合、それが、公共の利害にもかかわる重要な事実である場合も多い。

例えば、政治家の愛人関係というのは、確かに、その政治家の私生活上の事実ではあるが、同時に、愛人の存在というのは、社会通念上の良俗に反するものであり、政治家としての資質の問題に関わる公共の利害を有する事実である。

そこで、以前にも紹介した月刊ペン事件(最判昭和56年4月16日:宗教法人S会のI会長(当時)の女性関係に関する私的な行動についての記事が名誉毀損罪の①の要件に該当するのかが争われた)で、最高裁は、「私人の私生活の行状であっても、...その社会的活動に対する批判ないし評価の一資料として、公共の利害に関する事実に当たる場合がある」と述べている。

この判決は、宗教法人の会長という一見公人とはいえない立場でも、政治活動などの社会的活動への批判としてなされたと評価される場合には、私人の私生活上の行状に対する事実は、公共の利害に関する事実として、プライバシー権としての保護範囲からは外れることを示唆するものである。

したがって、政治家や社会的活動をする社会的影響力のある私人に関する愛人報道などは、そのものの社会的活動に対する批判としてなされた場合には、プライバシー権の保護範囲からは外れるという理解が可能であろう。

では、一般に判例はどういう場合に、プライバシー権より表現の自由を優先させて、違法性を阻却させているのであろうか。

最高裁は、沖縄で米兵を死傷させた私人Xの前科に関する事実をノンフィクション作品として発行したYに対する損害賠償請求事案である最判平成6年2月8日のノンフィクション「逆転」事件で、以下のような判示をしている。

(Xは)みだりに、前科等に関わる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益を有し、その公表によって新しく形成している社会生活の平穏を害され、その構成を妨げられない利益を有する。

(しかし、)刑事事件・裁判という社会一般の関心・批判の対象となるべき事項にかかわるので、①事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的意義が認められるような場合、②その者の社会的活動の性質あるいはこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度いかんにおいては、その活動に対する批判・評価の位置資料として、公表を受忍しなければならない場合もある。さらに、③社会一般の正当な関心対象となる公的立場にある人物である場合には、公職にあることの適否等の判断資料として、公表は違法とはならない。

つまり、最高裁は、①②③という3つの場合に限り、違法性阻却を認め、表現の自由との調整を図っていると理解することが可能である。

しかし、③の場合について、誤解してはいけないことがある。

それは本件が前科に関わる事実を扱った事件で、プライバシー一般に関するものではないという事案の範囲の問題である。

つまり、公的立場にある人物であれば、あらゆるプライバシー侵害について違法性を阻却するという趣旨ではなく、前科情報に限ってみれば、公職に当たることの適否の判断資料として違法性が阻却されると述べているにすぎない。

したがって、公人だからといって一切プライバシーがないと理解するのはいささか法的バランス感覚に欠如している結論であるといえるだろう。

そこで、前記最高裁判例から規範を抽出するとすれば、プライバシー権の侵害があった場合でも、違法性が阻却される場合として、以下のように3つに整理が可能ではなかろうか。

①公表することに歴史的・社会的に意義のある事実である場合。

②当該私人の社会的影響力が大きい場合には、その社会的活動に対する批判の位置資料として利用される事実である場合。

③前科など公人の私生活上の事実が、公職に当たることの適否の判断資料となる場合。

したがって、芸能人の熱愛報道等の野次馬的関心は、表現の自由や知る権利としての保護の射程外ということになりそうである。

マスコミ、とくに、低俗な雑誌関連の記者がしつこく芸能人を追い回している行為は、プライバシー権侵害行為と評すべき場合が多いと言えるだろう。

次回はいよいよ最終回。

アメリカの判例法理を日本でも採用しようという学説(京大系の憲法学者に多い主張のように思われる)の主張の問題点を指摘しようと思う(東大系の憲法学者は逆にアメリカの判例法理の採用には否定的のようである)。

さて、今回は以下の2つの本を参考にしています。

長谷部先生の本は深い話が多いので、あまり実務的ではないですが、憲法知識を深めたいという趣味として読むには定評がある本です。

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Comments

 日本ではプライバシーの考え方が「情報プライバシー」に偏り過ぎていると考えます。国際的にはプライバシー問題はもっと広範囲な人格権として把握されています。例えば米国では、プライバシー権生成の段階から私的領域の自律権に関するプライバシー権(ロー対ウエイド事件、カレン事件、テリーシャイボ事件、等)や私生活の平穏・静謐を護る権利としてのプライバシー権の方がむしろ情報プライバシー権よりも重視されています。わが国でもより国際的な整合性を持つ考え方に改める必要があるのではないでしょうか。
 詳しくは拙著「情報化時代のプライバシー研究」( http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100001857
をご参照ください。   学術博士 国際大学 青柳武彦

Posted by: 青柳武彦 | 12/14/2009 at 10:21 AM

>青柳様

初めまして。コメント有難うございます。

貴殿の御著書はまだ拝見させていただいておりませんが、取り急ぎコメントへの簡単な回答をさせていただきたいと思います。

まず、貴殿の御指摘にある「プライバシー権生成の段階から私的領域の自律権に関するプライバシー権や私生活の平穏・静謐を護る権利としてのプライバシー権が重視されるべき」という点ですが、これはおっしゃる通りだと思います。

アメリカの判例法理は、「放っておかれる権利ないし一人にされる権利(Right to be let alone)」という権利性を重視することで、中絶権等々の権利を一定の範囲で容認してきました。

我が国の判例法理も当然この点は意識していると思われます。

まず、最高裁は、宴のあと事件の「みだりに私生活上の事実を公開されない権利」という定義を前提に、その後の判断をしていますから、宴のあと事件が裁判例でありながら、リーディングケースとしての位置付けを有していることは間違いありません。

この裁判例の定義からすると、アメリカのプライバシー権概念である「放っておかれる権利(Right to be let alone)」が根底にあり、プライバシー権とは、私生活の平穏を保護する人格権であるという理解をしていると思われます。

しかしながら、今日、ご存じのように、プライバシーの侵害態様が多様化し、自由権的側面の侵害が複雑化していること、さらには自己の意思決定や自己情報に対する自律権としての請求権的側面も重要視すべきことが学説上強く叫ばれています。

この点、ブログ記事内で紹介した早稲田大学江沢民事件(最判平成15年9月12日民集57巻8号973頁)の調査官も意識しているようです。

杉原調査官の解説では、「一人にしておいてもらう権利(Right to be let alone)」とは、「私的領域への介入を拒絶し、自己情報を自ら管理する権利」と定義づけており、問題となる被侵害利益を、私生活上の平穏保護法益と自己情報の管理権として把握しています。

したがって、現在の我が国の判例法理は、貴殿の御意見と同じように、私生活上の平穏にとどまらず、それを侵害する危険を排除でき、自ら自己情報を管理するという自律権的要素も重視していると考えます。

貴殿の「日本ではプライバシーの考え方が情報プライバシーに偏り過ぎている」という御意見ですが、これはおそらく、「個人情報として秘匿性の低いものに対する保護が厚過ぎるのではないか」、「本来憲法13条により保護されるべきプライバシー権は、自律権に関わるプライバシー権を中心にすべきであって、何でもかんでも個人情報を保護することは人権のインフレ化につながり、返って本質的な権利に対する制約を許すことになってしまうのではないか」という趣旨でおっしゃられていると理解しましたが、正しいでしょうか。

この点、杉原調査官も、①前科等の秘匿性の高い情報(いわゆる、思想、世界観、病歴、前科等の固有情報)と、②秘匿性は高くないが公開されることを前提としない個人の識別が可能な情報(公開の予定がない個人識別情報)との違いに注目し、前記最判平成15年判決では、後者の問題として把握していることを明らかにしています。

そして、前記平成15年判例は、たとえ、単純な個人識別情報であっても、扱い方によっては人格権侵害が成立する余地があると考え、公開されることが予定されていない個人識別情報につき、「自己が欲しない他人にみだりにこれを公開されたくないと考えるのは自然なことで、その期待は法的保護に値する」と判示しています。

つまり、憲法学者の棟居快行教授が判例の解説として述べているのですが、「それ自体としては秘匿性の低い個人情報であっても、本人が提供した相手から自由に第三者へと情報が流通し、大量に集積され分析に対象とされる場合には、『固有情報』を中心とする個人の内面に迫りうる可能性も生じる」ことを重視しているわけです(憲法判例百選Ⅰp47参照)。

以上のような理解からすれば、判例は安易に個人情報であるということから、広範囲に保護を拡大しているのではなく、

①秘匿性の高い固有情報に当たる情報が意に反し公開された場合、

②秘匿性は低いが"公開を予定されていない"個人識別情報が意に反して公開され、私生活上の平穏が害されると評価できるような場合、

に限定をして、プライバシー侵害が成立する範囲を画していると理解できるのではないでしょうか。

私見も、現段階では、前記平成15年判決は、プライバシー権侵害の多様性という社会背景からすると、プライバシー権の請求権的側面があることを認めた非常に重要かつ画期的な判断であると思いますし、保護の範囲も、未だ十分限定されていると考えています。

貴殿の御著書も拝読させていただきます。

Posted by: ESQ | 12/14/2009 at 06:52 PM

早速、懇切丁寧なコメントをいただき恐縮しております。有難うございました。小生も、ご意見にほとんど共感いたします。ただし、プライバシーの日本における根拠法を憲法13条に求めるのは無理があると考えます。第一に、憲法は国の在り方についての客観的秩序を示す基本法であること、第二に、「幸福」という概念はあまりにも漠然・広範囲であるので他の種のどんな人権でも根拠としうること、第三に、具体的権利の根拠条文としては当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法などが明らかになっていないこと、第四に私人間効力の問題があるので一般性がないこと、および第五に、プライバシー権は自然権とはいえない新しい権利であるから、新たに妥当な立法手続き経て根拠法を作るべきこと、です。詳しくは前掲の拙著をご参照ください。
 なお、現行の個人情報保護法は表現は悪いのですがもうむちゃくちゃで、「プライバシー保護」とは何の関係もないと考えています。詳しくは拙著「個人情報『過』保護が日本を破壊する」(ソフトバンク新書)をご参照ください。内容は書評ですが
http://www.ht21.co.jp/news/press/kahogo_sinsyo_2006_12.pdf
にかなり詳しく紹介されています。
今後ともどうかよろしくお願いいたします。 青柳武彦

Posted by: 青柳武彦 | 12/15/2009 at 06:02 PM

>青柳様
いえいえ、こちらこそ丁寧なコメント有難うございました。

特に、立法化により具体的な権利内容を明確化すべきという点は鋭い視点だと思います。

一般論として、憲法上の主張というのは、どちらかというと負け筋の主張という実務上の現実があります。訴訟的にも具体的権利を付与する立法化は確かに望ましいかもしれませんね。

貴殿のご意見について、御著書の方を参照させていただきます。今後もよろしくお願いします。

Posted by: ESQ | 12/15/2009 at 11:36 PM

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