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December 2009

12/31/2009

スーザン・ボイルさんに日本の視聴者が感動

NHK紅白歌合戦のスーザン・ボイルさんの歌声。

本当に素晴らしかったですね。Twitterでも皆さん「すごい」というつぶやきばかりでした。

私のブログへのアクセスもボイルさんが歌った21時以降に急増しています。NHK紅白歌合戦で初めてこの方の歌声の素晴らしさを知った日本人も多かったのかもしれません。

それにしても、インターネットというのは本当にすごいですね。

まだ、スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんが歌ってから1時間もしないうちに、既にYoutube上で、紅白歌合戦のボイルさんの動画が、2つもアップロードされています。

http://www.youtube.com/watch?v=olNBZR8ouiQ

http://www.youtube.com/watch?v=HXrKEPxIYg4

後者は中国での放送をアップロードしたみたいです。

著作権の保護との関係でも、今後のNHKの対応が楽しみです。

イギリスのITVは、Youtubeでの盛り上がりをむしろ推奨しました。

果たして、日本のNHKは、どういう形の対応を取るのか!

既にイギリスの大衆紙、ミラーの電子版も、ボイルさんの紅白歌合戦の模様の動画を掲載しています。

それにしても、今年一年御世話になりました。政治的な話から、スーザン・ボイルさんのようなエンターテイメントの話題まで、御付き合いいただき、本当にありがとうございました。

来年も皆さんの一年が良い一年になることを願っています。

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Susan Boyle did a great performance in Japan

>>check also other articles on Susan Boyle

Susan Boyle made Japanese people impressed and moved with her beautifull voice on the NHK New Year's Eve music gala called, "Kouhaku Uta Gassen", Red and White Battle.

She was introduce as "A Miracle Cinderella Lady" to the Japanese audience by Yukie Nakama, an actoress and the gala's red team MC.

Susan seemed to be nervous and did not understand what Takuya Kimura, a Japanese actor and a singer of an idol group, the SMAP, said in English. So, the audience felt that Kimura's English was bad, and laughed.

When Kimura did a gesture of pratfalling, Susan took off his gesture and felt more relaxed then.

I was watching this music gala with my family. When Susan Boyle started singing on the screen, all of my family members became silent and enjoyed her beautiful voice.

When I checked the Twitter after her performance, Japanese users were all saying that Susan Boyle's song was amazingly great and they wanted to listen to her songs more on the gala.

A Japanese male singer, Yusuke, said that he was very nervous and did not want to sing right after Susan's great performance according to the Oricon,  the Japanese entertainment media.

By the way, the Internet has really strong power.

It is very surprising that Susan Boyle's performance on the NYE are now on the Youtube. It's just an hour after her performance was broadcasted on the NHK.

You can see her video clips below.

http://www.youtube.com/watch?v=a6tEU1VVSmk

http://www.youtube.com/watch?v=olNBZR8ouiQ

http://www.youtube.com/watch?v=HXrKEPxIYg4

Unfortunately, the Japanese public chose "White Team", which are consisted of all male singers over "Red Team", which are all female singers including Susan, but her performance was the best part of this NHK program.

Actually, Susan got the biggest hail of applause from the Japanese audience tonight. One of the Japanese media, Sankei Newspaper, described the applause that Susan got as "waterfall".

Many internet users in Japan evaluate SuBo's tonight performance very well, but they are very critical to the NHK and other Japanese singers who did not have enough voice ability. They seem to feel that the NHK invited unqualified Japanese singers compared to Susan Boyle.

Besides, some people criticized the NHK by using Takuya Kimura, an actor and a singer of an idol group, the SMAP as Susan's escort because they felt that Kimura and his agency are taking advantage of Susan's world fame by being with her.

I am sure SuBo attracted Japanese people very well and she did a great performance as her first one in Japan.

According to the Japanese tabloid newspaper, Daily Gendai, the NHK paid 10 milion yen, which is about 101thousand dollars to Susan for this show. Actually, it was worth to pay for her performance.

However, one big anxiety is left to Susan Boyle fans around the world. Takuya Kimura, a Japanese actor with Susan Boyle, belongs to the entertainment agency named, "Jonny's entertainment"in Japan. Its agency is infamous as being very strict on the copyrights.

So, it will be unable to see Susan Boyle's performance on NYE in Japan on the youtube soon maybe...That is really unfortunate that Susan Boyle was with this actor.   

Now, Japan is in 2010.

Happy New Year to all Susan Boyle fans around the world!

P.S. I personally believe that Ant and Dec were much better MCs than these Japanese MCs who were actors and actoresses and have no sense of humor.

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12/30/2009

海外メディアから見るNHK紅白歌合戦

スーザン・ボイルさん効果により、海外メディアもかなり日本の紅白歌合戦について詳しく紹介している。

実際、来日したスーザン・ボイルさんについて、日本のメディアより海外メディアの報道の方が詳しい記事が多い。

例えば、空港に押し掛けたファンの中に、ボイルさんにプロポーズした男性がいたとイギリスの大衆紙ミラーと同国の芸能情報サイトSTVが伝えている。

ミラー紙によれば、プロポーズした男性は2人ほどいたようである。花束を持って「結婚してください」と叫んでいた紳士がいたそうだ。

これらのメディアは、空港で、7時間ボイルさんの登場を待っていたという56歳の秋山花子(漢字に間違いがある可能性あり)さんという女性ファンの証言として伝えている。

記事は、秋山さんが、ボイルさんを待ち受けるファンやメディアの姿について、1966年のビートルズの来日以来の凄さであると語ったと伝えている。

海外メディアの報道は、これだけではない。

イギリスの他のメディアは「スーザン・ボイルに日本が熱狂」と題した記事で、来日の様子を伝えている。

また、タブロイド紙ではない、イギリスのまともなメディアもこの話題をしっかり取り上げている。イギリスのインディペンデント紙は紅白歌合戦の視聴率低迷についてまで触れ、「スーザン・ボイルが紅白に新たな命を吹き込む」と題している。

インディペンデント紙は、紅白歌合戦が当初は視聴率が80%の国民的番組であったことに触れ、1972年以来80%から視聴率は下がり始め、1989年には50%以下に下がっていることにも言及。

同紙は、紅白歌合戦に外国の歌手が出場できるのは、サラ・ブライトマンさんやシンディー・ローパーさん、ポール・サイモンさんなど例外的であることを強調した上で、「スーザン・ボイルさんは、過激なで胸の谷間を強調した服装で有名な日本の歌手、倖田くみ(27歳)さんと同じチームで歌合戦で競争する」と報じている。

なお、「スーザン・ボイルが相撲の地へ」っていう題名の記事で報じるスコットランドのメディアもあり、かなりふざけているが、良くも悪くも日本が世界の芸能情報の注目の的になっているのは確かである。

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12/29/2009

NHKの目玉が無事来日―海外メディアも速報

このブログで、以前から取り上げ、ここ最近もこの話題ばかりになっているスーザン・ボイルさんが、NHK紅白歌合戦に出場するため、無事来日したようである。

NHKにとっては、世界中から注目を浴びているボイルさんの来日が実現し、ひとまず、安心といったところだろうか。

日本のメディアはこの時期の来日の凄さについて、まだピンと来ていないようですが、世界の注目度は凄い。

来日のニュースをAPF通信が「スーザン・ボイル、大みそかに日本の歌の祭典へ」と題し、日本のメディアの報道と同じ速さで、速報を打っている。

記事の中で、日本のマスコミが、空港で、即席の歌を披露してほしいと頼んだことについても触れられており、日本のメディアの行動も逐一世界に発信されるほど(私個人としては、この要求は600万枚以上のCDを売り上げている歌手に対して、非常に失礼な要求でパパラッチ並のレベルの低さを物語っていると思うのだが・・・)。

ボイルさんの動静について、海外メディアの注目がいかに高いかを物語っている。

また、オーストラリアのメディア、Undercover.comも、無事来日したことを報道し、数日前にボイルさんの実家の庭に不法侵入し、窓からのぞいていた者がいた事件についても触れている。

さらには、ニューヨークタイムズなどの大手メディアはもちろん、アメリカ、アーカンソー州の地方テレビ局の電子版FOXニュースのミズーリ州の地方局の電子版でも、AP通信の情報として、日本に到着したというニュースとともに、NHK紅白歌合戦が60年も続く日本の伝統的テレビ番組でその年の旬の歌手を招待すると紹介。

そこで、ボイルさんが「I Dreamed A Dream(夢やぶれて)」を歌う予定であると報じている。

さらに一部の海外メディアでは、日刊ゲンダイの記事を引用し、ボイルさんへの出演料が500万円、来日費用が500万円で、併せて1000万円が支払われていると報じている。

これだけ海外の注目が高いことを考えると、先日の記事で指摘したように、少なくとも、ボイルさんの歌うシーンについては、NHKは今後動画が載せられるであろうYoutubeに対し、寛容な姿勢で臨むのか否かを真剣に考えなければならないだろう。

ちなみに、ボイルさん人気のきっかけになったイギリスのITV「Britain's Got Talent」の審査員だった女優のアマンダ・ホールデン(Amanda Holden)さんは、もしかすると、次回から審査員を外れるかもしれない。

というのも、同局のクリスマス特番のバラエティー、「Ant & Dec's Christmas Show」のゲーム内で、サイモン・コーウェル氏からの罰ゲームとして、審査員をクビにされるという話がでた。

ジョークなのか、本当の罰ゲームなのかわからないが、アマンダ・ホールデンさんがBritain's Got Talentの中でよいバランスを保つ審査員であることからすると、本当なら少し残念である。

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12/28/2009

スーザン・ボイルさんの起用がNHKの紅白歌合戦に与える影響 ― 放送後のNHKのYoutubeへの対応にも注目

今回も、海外メディアが伝える、スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんの紅白出場のニュースを紹介しながら、NHKの紅白歌合戦に与える影響について考えてみたいと思う。

先日紹介したイギリスの大衆紙、ミラーの記事に呼応するかのように、英語圏のメディアを中心に、ボイルさんの初来日やNHK紅白歌合戦を紹介する記事が増え始めている。

まず、イギリスのWhat's on TVというメディアの電子版は、ミラー紙の報道として、ボイルさんの紅白出場のニュースを報じている。大みそかに、日本という極東最大の音楽番組に出場することに驚きをもって報じているといった印象である。

また、イギリスの大手芸能メディアであるDigital Spyも、「スーザン・ボイル、アジアに照準を合わせる」と題して、ミラー紙の報じた内容を基にして、日本のフォークソングである、「翼をください」を初めて生で歌うために練習しているという情報を伝えている。

ブロードウェイミュージカルなどのエンターテイメント情報を扱うBroadway.comでも、同様の記事が、「スーザン・ボイル、2010年を紅白歌合戦のパフォーマンスで迎える」と題し、取り上げられている。

この点、NHKの発表では、企画「スーザン・ボイル、I Dreamed A Dream」となっているので、御なじみの曲を1曲だけ歌うのか、それとも、ミラー紙や他の海外メディアが報じているように、「翼をください」を歌うのか気になるところである。

NHKの紅白歌合戦をより詳しく紹介しているメディアもある。

オーストラリアの音楽情報メディア、Undercover.comは、「スーザン・ボイル、日本へ挑戦(Susan Boyle to Take On Japan)」と題し、NHKの紅白歌合戦も詳しく説明している。

スーザン・ボイルはまだ世界を制覇したわけではない。なぜなら、彼女はまだ日本に言っていないからだ。

しかし、スーザン・ボイルが日本最大の音楽番組である「紅白歌合戦」に出演するため、大みそかに訪日することになれば、世界を制覇することになるかもしれない。

この紅白歌合戦という番組は、年に一度日本で大みそかに放送されるテレビ番組である。この番組は、有名な歌手を赤と白のチームに分けて歌を歌うというもので、赤組は、すべて女性歌手や女性のグループで構成され、白組は男性歌手により構成されている。

番組に出場できるのはすべてNHKに招待された歌手に限られ、日本でこの番組に出場できることは、大変名誉なことと捉えられている。

紅白歌合戦は1951年に日本でラジオにより開始されたのがその起源である。

そこで、スーザン・ボイルは紅組に勝利をもたらすことができるだろうか?紅組は過去5年間、優勝を逃している。最近、紅組が勝利したのは、2004年、2002年、2000年の三回のみである。

アジア人ではない著名な歌手が出場した例としては、1991年の第42回紅白歌合戦におけるサラ・ブライトマンや、1990年の第41回におけるポール・サイモンとシンディー・ローパーである。サラ・ブライトマンは紅組に勝利をもたらし、ポール・サイモンとシンディー・ローパーの戦いでは、ポールの白組が勝利している。

ボイルさんは特別ゲストという形での招待だが、海外メディアは、紅白歌合戦で、ボイルさんが女性であることから、紅組が優勝するかどうかにまで注目をしているようである。

このように、普段は日本について触れることがない海外の芸能メディアが、スーザン・ボイルさんの話題性から、日本の紅白歌合戦というNHKの番組を紹介してくれることは、60年も続く大みそかの日本文化のPRにつながっていると私は思う。

正直、オーストラリアのメディアが、ここまで詳しく紅白歌合戦の番組の仕組みや歴史、過去の出演者などについて詳細に報じていることに私は驚いた。

電通などの大手PRコンサルティング会社に多額の報酬を浪費しなくても、スーザン・ボイルさんに出演を依頼し、その交渉が成功したことで、NHKは日本文化の世界に発信できる手段を確保したわけである。

大みそかにスーザン・ボイルさんを来日させたことに注目しているのは、英米メディアだけではない。

中国新華社通信の英語電子版の記事は、「スーザン・ボイルがNHKで歌う」と題し、スーザン・ボイルさんが最も成功した今年の一年を日本の紅白歌合戦で締めくくると報じている。

これらの記事を見て、私には、ボイルさんがアジア進出最初の舞台に日本を選んだこと、および、彼女にとって良くも悪くも激動だった一年を日本で締めくくることになったことを考えると、日本もまだまだ経済大国として捨てたものではないという感情がふと沸き起こった。

NHKがその舞台として紅白歌合戦の場を提供した判断は、従来の敏感さと斬新さに欠けた体質からの改善の兆しであり、英断だったと高く評価できるのではないだろうか。

しかし、こうした一連の世界の動きに鈍感で、NHKの努力に水を差したがる人物も国内に入るようである。

毎日新聞によれば、芸能界の大御所と持ち上げられている、和田アキ子氏が「「(スーザン)ボイルが目玉って何?(日本に)いる人間から目玉を作れっていうの!」と発言し、NHKやスーザン・ボイルさんを批判したようである。

実際、世界中が注目するスーザン・ボイルさん以上の目玉が国内アーティストにいるとは到底思えない。

スーザン・ボイルさんは、動画投稿サイトYoutubeが起爆剤となり、文字通り、彼女の歌声の素晴らしさに感動した世界中の人の共感を受け、初アルバムが発売から1カ月で600万枚以上という記録的な数字を打ち出した。

メディアにより取り上げられ騒がれたのも、Youtubeにおける再生回数の伸びが記録的なものとなり、インターネットという従来のPR方法とは違う形で、本人が全く意図しないところで爆発的に人気になったためである。

スーザン・ボイルさんはインターネット時代における新たな歌手としての途を切り開いたと言っても過言ではなく、彼女はまさに2009年の顔であり、世界の音楽シーンの1つのターニングポイントを象徴づける歌手であろう。

また、彼女は有名になるまでの48年間の人生において、91歳になる母親の看病や実直な私生活の中で、母親に促され歌の練習を諦めずに続けてきたというエピソードは、彼女の歌の実力と相まって、世界中の多くの人から共感を受けた。

歌手の広瀬香美さんも毎日新聞のコラムの中で、スーザン・ボイルさんがこれだけ世界中で人気になったことを的確に分析している。

そんな彼女が、2009年の締めくくりとして、日本のNHK紅白歌合戦に出演するとなれば、おのずから目玉になるのは当然であろう。

それを昔の名前で毎年出演しているような芸能人が批判するのはいささか節度がなく、説得力にも欠ける。

現に記事が配信されたYahoo Japanのコメント欄には、既に1900件以上のコメントが書き込まれ、そのほとんどすべてが和田アキ子氏に対する強烈な批判である。

いくら物議を醸すことで、有名人としてのキャラクターを作っているとはいえ、この発言は身の程をわきまえない慎重さを欠いた不適切な発言だったといえるだろう。

以前の記事で指摘したように、当初、NHKが発表した出場歌手を聞いたとき、多くの人々は、「目立ったの実績もないにもかかわらず、常連の顔ぶれが並んでいる。落ち目の歌手もかなり入っているし、わざわざ、『聞きたい』と思える歌手はほとんどいない。」と感じたのではないだろうか。

そこにきて、スーザン・ボイルさんが登場するという話題は、マンネリ化に辟易としていた多くの視聴者を「まさか大みそかに来日まで実現させるなんてNHKやるな」と感心させたに違いない。

和田アキ子氏への1900件以上の批判的なコメントは、好き嫌いということもあるだろうが、そうしたマンネリ化に対し不満を持つ視聴者の声も大きく影響しているのではないだろうか。

上記のような海外メディアの反応を目の当たりにすると、スーザン・ボイルさんの起用は、NHKや紅白歌合戦の知名度を上げるだけではなく、日本に60年間も続く、大みそかの文化としての歌番組が存在することを世界に発信する非常に良い機会になっていることが実感できる。

NHKはぜひとも残り4日間、世界への日本文化の発信という意味合いも込めて、この話題を上手く活用してもらいたい。

他方で、紅白歌合戦が世界から注目を受けるということの意味をNHKはしっかり考えなければならないだろう。

おそらく、Youtube上にボイルさんの歌った動画が違法にアップロードされるかもしれない。

確かに、NHKオンディマンドで配信することから、Youtubeへの違法な投稿は困ることも納得できる。

しかし、スーザン・ボイルさんについては、Youtubeへの著作権侵害に当たるであろう投稿が起爆剤となって、ボイルさんを始め、イギリスのITVや番組の司会者、関係者の知名度を世界的に広めたという側面がある。

イギリスのITVはこの違法な投稿に対して、削除しようとはせずに、放置する手段を選んだようである。

日本のNHKは、Youtube上にスーザン・ボイルさんが紅白歌合戦で歌う姿が動画として投稿された場合に、どういう措置をとるのかも注目したい。

「有料の動画サイトを見ろ!」とYoutube上の動画をすべて削除するのか。

それとも、2009年最後のボイルさんの歌う姿を見たいと望む世界中のファンのために、さらなる英断をするのか(個人的にはNHKや紅白歌合戦、ひいては日本文化のPRという観点から、英断をした場合の経済効果の方が大きいと思うが・・・)。

NHKと紅白歌合戦が変化をしたかどうかを見る上で、紅白歌合戦終了後のNHKの対応も1つ注目に値する。

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12/26/2009

英国メディアが伝えるスーザン・ボイルさんの紅白出場のニュース(歌う曲は「翼をください」か)

NHK紅白歌合戦にスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんが出場するという情報が24日に流れた直後、ボイルさんに関するニュースに過熱気味の海外メディアがこの話題を取り上げないので、日本に対する関心は、そこまで低いのかとふと不安になりましたが、やはり、イギリスメディアはこの話題を見逃しませんでした。

記事によれば、ボイルさんが歌う曲も明らかにされています。

イギリスのタブロイド紙ミラーの電子版は26日付の記事で、「日本の大みそかのテレビ番組でスーザン・ボイルが見られる」と題し、以下のように伝えています。

スーザン・ボイルさんが、2010年に、極東でのスーパースターになることを目指して、日本のテレビ番組に登場する。

イギリスのITVのテレビ番組「Britain's Got Talent」によるボイル旋風により、彼女のCDアルバムの売り上げは世界で600万枚以上にも達する記録を残している。

そして、今、ボイルさんは、日本の大みそかの最大のテレビ番組に登場し、新たな熱狂的なファンを得ることを望んでいるようだ。

ボイルさんに親しい関係者の話によれば、「紅白歌合戦とは、日本で大みそかに、数百万人に視聴されているテレビ番組で、Youtubeで既にスーザンを見た人々が、新たに彼女の特別なパフォーマンスを見るべく期待している。スーザンは、『翼をください』という日本のフォークソングを今練習している。これは、彼女が初めて生放送で歌うことになる曲だ。」ということである。

この紅白歌合戦とは、人気の歌手を赤と白のチームに分けて歌わせるものだ。

「翼をください」は日本向けのCDアルバム「夢破れて」にのみ収録されているボーナス・トラックで、彼女のアルバムは、一度も来日したことがないにもかかわらず、洋楽部門で第1位に輝いている。

東京に行く前に、スーザンは家族とクリスマスを過ごし、教会に定期的に訪れている。

ミラー紙に対し、スーザンはクリスマスのメッセージとして、以下の言葉を残してくれた。

「今年は私にとって本当に素晴らしい一年だった。私を支えてくれた世界中の人に感謝してもしつくせない。私は今までの人生で一番幸せな時を過ごしています。神様は私にとって非常に重要な存在となっています。皆さんが良いクリスマスと幸せな新年を迎えることができることを祈っています。2010年を非常に楽しみにしています。」

ということで、紅白歌合戦では、「翼をください」を世界で初めて、生放送で歌うという可能性が強いみたいですね。

イギリスの別のメディアも、「翼をください」を歌うと報じています。

ボイルさんの歌う曲の予想に関しては、23日付の朝日新聞のみが「翼をください」を有力候補として挙げており、朝日新聞もなかなかやります。

ミラー紙の芸能情報のトップページで扱われるほどですから、イギリスメディアの注目度も高いことが解ります。この記事がイギリスで配信されたのが1時間前ですから、これからどんどん話題性が高まるのではないでしょうか。

NHKにとっても、世界に紅白歌合戦という日本で60年間続いているテレビ文化を発信する良い機会となるでしょう。アメリカでのDOMO君ブームも含め、NHKのコンテンツ力を世界に発信して、日本をPRする絶好の機会を活かしてほしいです。

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紅白歌合戦に出場するスーザン・ボイルさんとは?(今まで取り上げた記事をまとめました)

このブログでは、イギリスのITVの番組、「Britain's Got Talent」にスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんが登場し、Youtubeで話題となって以来、スーザン・ボイルさんに関する記事を定期的にアップしてきました。

調べてみたところ、スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんについて、その登場以来、ブログで30回以上も取り上げていたようです。

60年目を迎える紅白歌合戦にもボイルさんの登場が決まり、初来日するとのこと。

そこで、今までのブログ記事をまとめてみました。

紅白歌合戦に出るといわれているスーザン・ボイルさんをもっと詳しく知りたい人はぜひ以下のページをご覧ください。このブログのトップページにも下記ページへのリンクがあります。

http://esquire.air-nifty.com/blog/susan_boyle.html

なお、Youtube上に存在した動画をいくつか紹介していますが、何らかの理由により動画そのものが削除されているものについては現時点で視聴できなくなっています。御了承下さい。

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12/24/2009

紅白歌合戦の目玉はスーザン・ボイルさん ― NHKもマンネリ化防止に尽力か

今日は、がらりと話題を変えて、読者の方から頂いた情報に関連する話題です。

なんと、このブログで、12月5日付の記事で「NHKはスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんを紅白に起用すべき」と言っていたことが実現しそうです。

朝日新聞の電子版(以下参照)によれば、紅白に内定し、来日の可能性もあるとのこと。

多くの方が既に御存じでしょうが、スーザン・ボイルさんとは、Youtubeという今までにはないインターネットを通じて、その名前が世界中に知れ渡ったスコットランド出身の48歳の遅咲きの女性歌手。

世界的に暗い話題が多い中、インターネットという今までには無い形で、その実力が認められ、アメリカやイギリスで熱狂的なボイル旋風を巻き起こしていることは記憶に新しいでしょう。

2009年の音楽業界を振り返った時に、ボイルさんはまさに「今年の顔」だったと言えます。年末に今年の音楽業界を振り返る上で、スーザン・ボイルさんは、欠かせない存在です。

もちろん、私のブログなんかライブドアに配信されてはいますが何の影響力はないので、私の記事が影響を与えたなんていうことはありえません。

今回の起用は、NHKが、真剣に紅白のマンネリ化を避けるために、努力しているということの顕れと評価すべきでしょう。

以前の記事で、私は、「NHKはどうも受信料により安定した経営という点に甘えるだけで、それを活かした番組制作もできなければ、受信料に頼らない別収入の機会を確保すべく、海外で人気のキャラクターの外国語販売サイトを作るなどの努力も足りない」と非難しましたが、少なくとも番組製作の点については、訂正しないといけませんね。

この起用は、NHKにしては、かなりチャレンジングな試みであり、今までのNHKからの変化を印象付けるもので、私は非常に高く評価しています。

なぜならば、未だ民放各局が実現できていないことを率先して、NHKは実現しようとしているからです。仮に、既に民放がボイルさんの生出演や来日を実現した後に、紅白歌合戦に参加してもらうというのでしたら、私はこのブログでここまで絶賛しなかったでしょう。

しかし、NHKは、今回、今までに前例のないことをやろうとしているわけです。しかも、彼女の起用は2009年の音楽史を締めくくる上で、非常に重要です。

スーザン・ボイルさんに関しては、CDアルバム発売から1カ月経過しましたが、未だ英米を中心に人気が衰える兆しがありません。

彼女がイギリスのテレビ番組、「Britain's Got Talent」に登場し、Youtubeを騒がせたのが3月頃で、決勝戦が行われたのが5月。

それ以降も、多くのファンがボイルさんのアルバム発売を心待ちにし、11月の発売では、週間売り上げ数において今までの記録を打ち破り、イギリスやアメリカの音楽史を塗り替えました。

この1年間、良くも悪くも、スーザン・ボイルさんの話題は、世界中で持ちきりだったわけです。実際、AP通信が21日に発表した2009年の重大芸能ニュースでも、マイケルジャクソンさんの死去に続き、第2位にボイルさんの話題がランクインしました。

インターネットにより、世界の距離感が縮まり、Youtubeという今までにないツールが起爆剤となって、彼女の実力が世界中で評価されたというこの現象を、2009年を代表するものとして、NHKが敏感に感じ取り、日本の大みそかに行われる歴史ある国民的番組で、ボイルさんを取り上げることは、非常に意義があると思います。

先日イギリスで放送されたスーザンボイルさんの特番の中で、オーディション番組の司会者だったアント&デック(Ant and Dec)が、ボイルさんがこれほどまでに人気になった要因として、「ボイルさんは皆の希望として映っている。どんなに注目の浴びない生活をしていても、どこに住んでいようとも、見た目がどんなであろうとも、実力があり信じ続けていれば、成功するチャンスが必ずあるということを教えてくれた。」と評していました。

私も、ボイルさんの前例のない人気の要因は、司会者のアント&デックが評した通りだと思います。

リーマンショックの影響で、2009年は世界的不況という暗い話から始まり、希望という言葉や苦境の中でも努力し続けるの重要さを忘れてしまうことが多かったのではないでしょうか。

しかし、そんな中で、ボイルさんの話題は、自分の力を信じて努力すれば、チャンスを掴むことができるという良い例を世界中に教えてくれた気がします。

NHKの紅白歌合戦という今年最後の音楽番組で、スーザン・ボイルさんが登場することは非常に楽しみですし、意義深く感じます。

また、ボイルさんが日本の大みそかの恒例番組である紅白歌合戦に出場することにつき、海外メディアが今後どう報じるのかも注目したいと思います(仮に来日して、パパラッチ対策が大変ということは皆避けたいところでしょうが・・・)。

現段階では、英米メディアはボイルさんの来日や紅白歌合戦に出るという話題は報じていないようです。大みそかに来日という話ですから、そのうち報じられるとは思うのですが、仮にこのまま報道がなければ、日本への関心ってそれだけ低いってことなのかもしれないとふと不安にもなります。

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12/22/2009

メディアの平和ボケや無知が憲法精神を破壊する

今回も、多くの反響をいただいたので、補足的な意味も込めて、天皇の会見問題について触れようと思う。

最近のメディアの報道の在り方等々を見ていると、憲法の基本的知識が欠如しており、偏った憲法解釈が最高裁の判例だとか報じたり、多数説や通説、有力説を無視したマイナー説をあたかも多数説や通説のごとく報じる現状(法律の話をする場合に全く専門が違う人をあたかも「詳しい」と称して報じることも含めて)に、私は、この国のメディアの平和ボケの怖さを感じてならない。

発端は、天皇の中国副主席との会見について、宮内庁長官の政府批判発言とそれに対する小沢幹事長の発言について、私が、ブログで憲法的観点から考察をしたことにある。

価値観や感情論が織り交ざる問題だけに、様々なコメントがあるだろうことは想定してたが、驚いたのは、形式法治主義と法の支配の考え方がごちゃごちゃになっていたり、憲法の定めた民主主義、自由主義の価値観すら否定する発想なのではないかと思われるものが多々あったことである。

もちろん、一般の方は、法律論というのは難しいかもしれないが、憲法というのは法律論といっても、民法や刑法、民訴法や刑訴法に比べれば、より一般人に思考しやすい国の根本規範である。

また、主権者である国民の一人として、憲法の基本的な思考方法は身につけておくべきであろう。さもなければ、我々は、かつてドイツや我が国の先人が犯した過ちを繰り返してしまう。

とりわけ、私が危惧しているのは、「天皇や宮内庁に自主性を認めるべき」、「形式的には正しいが実質的には間違っている」とか、「ヒットラーやナチも法律的には正しかった」などという反論が寄せられたことや一部のメディアや政治家がこの種の発想に立脚していることである。

これらの見解の裏側には、ある種の国体論(君主国体説の意味)が形を変えて存在しているかのような印象を強く感じる。

そこで、これらがいかに危険な見解で、我が国の憲法秩序に反するかを考察する。

(1)天皇や宮内庁に自主性を認めることは、国民主権の否定

憲法が象徴天皇制(1条)を定め、国政に関する権能がないと明記(4条)し、唯一例外として、明文で定められた国事行為が、内閣の助言と承認を必要とする(3条)とするとした趣旨は、国民が主権者であり、天皇は国民の決定に従う者ということを明確にする点にある(渋谷p151)。

したがって、議会制民主主義が採用される我が国においては、天皇の私的行為以外の行為(多数説である三行為説に従えば、国事行為と公的行為ということになる)は、内閣(ひいては国会)の意思の下に置かれなければならない

これに反して30日ルールに依拠し、内閣の意思から自立した宮内庁の自主的判断を認めるべきという主張は、国民主権の原理に反する。なぜなら、主権者たる国民が選んだ国会議員により信任された内閣の意思は、国民の信託がある一方、宮内庁にはそうした国民の審判を受けるような機会が存在しないためである。

ましてや、天皇に自律的に判断させるべきとするのは、国民主権そのものを否定する現行憲法の根本を否定する危険な発想である。

天皇に統治権の総覧者という極めていた非民主的要素が強い明治憲法下で、天皇制に不都合な見解は一切排除して国体思想を強要し、憲法学者、美濃部達吉を弾圧した天皇機関説事件を彷彿とさせる。

「天皇の公的行為は内閣の助言と承認がいらないので自由に天皇が判断できるはず」とかいう見解が主要のメディアに踊ることは、おそらく同じファシズムに至ったドイツやオーストリアでは、起こりえないだろう。

なぜなら、現在のドイツは戦う民主主義の思想が徹底しており、ヒトラーを崇めるような反民主主義的な思想的行動は一切許されないためである。

実際、ウィーンで2007年頃に、ナチスによるホロコーストを否定した罪で有罪判決を受けた作家がいた。

この戦う民主主義が良いか悪いかという点は別として、ヨーロッパは、戦前に回帰するような非民主的思想に非常にセンシティブである。

日本のメディア*が、内閣の意思によるコントロールを政治利用と批判し、天皇や宮内庁に自主性を尊重すべきというような発想で、報道している現状をみると、日本のメディアの平和ボケもここまで来たかとの危機感を感じずにはいられない

*少なくとも、毎日新聞は法科大学院の教授として憲法を教えていた永井憲一名誉教授のコメントを引用し、時事通信は九州大学で憲法学の教授だった横田耕一教授の見解を引用しており、憲法学のメインストリームの見解を紹介している点で、偏った少数説を通説がごとく引用する産経よりまともであることは触れておくべきだろう。

(2)形式的法治主義の発想の危険

憲法的視点からの考察に対し、「法律論という形式論としては正しいが実質的にはおかしい」という反論があった。法的解釈を形式論と称して、法律論を排除しようとすることも危険な発想である。

特に憲法論をする場合は形式論にはなりにくい。なぜなら、憲法解釈というのは、国家に対する制約原理を定めた基本法なのであるから、その解釈論は実質的な考察に裏付けられなければならないためである。

宮内庁長官の「宮内庁の定めた30日ルールを守れ」という発言と「国事行為なのだから、内閣の助言と承認があれば、それに拘束される必要はない」という小沢幹事長の発言とのどちらが正しいかという議論について、憲法的に考察する上で、少なくとも私はしゃくし定規な解説をしたつもりはない。

私は、「内閣の助言と承認」という3条の趣旨である天皇の私的行為以外を内閣の意思の下に置くという点から、民主的コントロールが及んでいるのはどちらの見解かという問題設定をして、憲法4条1項が、天皇の国政に関する権能否定し、7条各号に列挙された国事行為についてのみ、3条が内閣の助言と承認があれば行えることを明記した趣旨を、多数説や有力説に従って、丁寧に考察した。

そして、鳩山内閣の意思が天皇会見をすべきというものだったのだから、民主的コントロールが及んでおり、問題はないと結論付けたわけである。

しかし、憲法という法律議論だけで、形式論だという批判をするのは、およそ法律解釈がなんたるかを理解できていないのではなかろうか。

むしろ、宮内庁長官の「30日ルールを守れ」という発言やそれを支持する見解は、形式的法治主義のそのものではないだろうか。

形式的法治主義というのは、ルールなのだから従えというものである。これは、いかなる政治体制とも結合しうる思想であり、どんなルールでも、行政や司法をコントロールできることになる。つまり、内容の合理性は問題としない発想である。

天皇が臨時代理等を置かなければいけない程度に現段階で治療を要し、優位性の高い行事が詰まっているなどの特段の事情があるならば格別、宮内庁の定めた30日ルールに反するというだけで、内閣の意思を公の記者会見の場で批判する。

これこそ、形式的法治主義そのものの発想ではなかろうか。

宮内庁の運用する30日ルールの存在という形式的な理由だけで、公の記者会見で宮内庁長官が、国民の信託を受けた内閣の意思を批判することは、国民主権の原理をないがしろにするもので看過できない。

我が国の憲法が、民主主義に立脚している以上、形式的法治主義の発想で官僚は行動すべきではない。

他方で、当初のブログ記事の中で、私は、憲法規定の仕組みや趣旨を憲法学の多数説や有力説にしたがって解釈した上で、主権者たる国民の審判を受けていない宮内庁長官が30日ルールを盾にすることの合理性を検証し、結論として、憲法が予定する秩序に違反する許し難い行為であると指摘した。

これを形式的解釈だと評するのはあまりにも価値先行的な批判だと感じる。

実質的な考察を国民主権と象徴天皇制との関係でしているからこそ、国民主権との関係で、内閣の民主的コントロール、渋谷先生が御著書で指摘するような、国会のコントロールに服させる方が、宮内庁の自律的ルールに服させるより妥当であるとの結論になるのである。

(3)ヒトラーやナチは違法、違憲

一番恐ろしいと感じるのは、「ヒトラーやナチが法的に正しい」などという主張が出てくることである。

当初は、ネオナチの思想を持った人間のコメントなのかと思ったのだが、よく読んでみると、そういう思想ではなく、単に歴史認識を誤っていることに起因する意見のようである。

小泉元首相や小沢幹事長の政治手法を批判するときに、ヒトラーに例えるものを耳にすることがあるが、これは不適切である。

確かに彼らの手腕には強引な部分があるが、それはリーダーシップの強弱問題にすぎず、独裁的なリーダーシップであるという評価はし得ても、ヒトラーのような違法、違憲な行為に支えられて権力を手中にした者とは、まったく異なるわけである。

もちろん、彼らに対し、「衆愚政治を利用した」とか、「独裁的リーダーシップで反対派を威嚇しすぎる」とか、「違う意見を持つ者に寛容ではない」という批判はありえるだろう。

しかし、ヒトラーやナチが合法的に成立したという論法は、誤まった認識に基づき、ヒトラーおよびナチ政権下における独裁政治の本当の恐ろしさに向き合っていないからこそできる無責任な批判ではなかろうか。

例えば、ヒトラーおよびナチは1923年にミュンヘン一揆を行っている。この時から、既にヒトラーおよびナチは違法行為を犯している。実際、この事件で、ナチは非合法化され、ヒトラーも逮捕されて当時の法に照らし、死刑または終身刑が確定すべき行為を行った(Gilbert & Large, p251)。

つまり、この時点において、既に、ヒトラーおよびナチが「法的に正しい」とは評価しえない。

ヒトラーの違憲違法な行為の最たるものは、1933年の全権委任法の制定行為である。この時点で、ワイマール憲法は実質的に、憲法たる存在意義を失い、死文化した。全権委任法の制定行為は、当時のワイマール憲法との関係で、違憲違法なものだったのである。

したがって、ヒトラーおよびナチ政権はその成立過程から、国民の自然権たる言論の自由や財産権等々を侵害する違憲、違法なもので、正当化しえないものであったという理解が正しいだろう。

おそらく、ヒトラーやナチが法的に正しいという評価の背景には、ヒトラー政権が国民の大多数の熱狂的支持を受け、成立したという歴史認識があるのだろう。

しかし、これは、通説的な歴史認識とはズレている。

アラン・ブロック(Alan Bullock)の著書、「Hitler A Study In Tyranny」p137-138は、ヒトラーの首相就任につき、以下のように記述し、当時のドイツ国民の過半数以上の民意がヒトラーの首相就任に反対であったと評している。

Before he came to power Hitler never succeeded in winning more than 37 per cent of the votes in a free election. Had the remaining 63 per cent of the German people been united in their opposition he could never hoped to become Chancellor by legal means; he would have been forced to choose between taking the risks of a seizure of power by force or the continued frustration of his ambition.

ヒトラーは、自由選挙において、37%以上の得票を獲得することは一度もなかった。残りの67%のドイツ国民は、一致してヒトラーが権力の座に就くことを反対していたのであり、このような状況で、ヒトラーが首相に合法的になることを望むことすらできなかった。そこで、ヒトラーは、強制力により権力を得るというリスクを取るのか、それとも野望による葛藤を続けるのかという選択に迫られていた。

すなわち、ヒトラー政権は、国民の熱狂的な支持により誕生したのではなく、むしろ、当時のドイツの右翼政党や保守政党が、自分たちの保身のために、ヒトラーとナチスの危険性を看過して、権力を与えてしまったことにより誕生した(Bullock, p139)。

the heaviest responsibility of all rests on the German Right, who not only failed to combine with the other parties in defence of the Republic but made Hitler their partner in a coalition government.

したがって、ヒトラーやナチは、当時のワイマール憲法下において、ドイツ国民の民意により誕生したというよりは、違憲違法な非合法的手段によって権力を獲得するに至ったというのが通説的な歴史認識となっている。

(4)終わりに

最後に、間違ってほしくないのは、今回の小沢幹事長の見解は論理的に正しいということと、小沢幹事長の政治的手腕が正しいかということは別問題ということである。

これらを混同して、小沢幹事長の政治手法が嫌いだから、宮内庁長官が正しいという発想をしてしまえば、戦前の国体思想の復活を狙う危険な思想に容易く利用されてしまう

小沢幹事長の剛腕な政治手法は、小泉元首相の独裁的なリーダーシップと同様に、別途批判の対象となることはあるが、それと今回の宮内庁長官の発言は全く次元の異なる話である。

この国のメディアが、容易に戦前の国体思想の復活を狙うかのごとき危険な思想を持つ論者の意見に流され、天皇や宮内庁に、国民主権により代表された内閣の意思に反する自律性を認めることが、いかに戦前回帰につながり恐ろしいかを今一度考えてほしい

私たちは、メディアの平和ボケや無知により、国民主権の原理を失わせる「君主国対の復活を求める思想」には断固として反対しなければならない。

明日は天皇誕生日。

クリスマス前に、憲法における象徴天皇制に意味を考えたり、憲法の定める国民主権の原理がいかに等々犠牲の下に達成できたかという歴史を振り返る機会にしてみるのはいかがだろうか。

なお、上記に引用した本は以下のもの。

歴史に関する2つの書籍は洋書だが、バランスのとれた視点でヒトラーとナチドイツ時代をわかりやすく記している本である。

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12/20/2009

コメントに対する応答コーナー(19日に頂いたものについて)

コメントに関する回答です。

憲法に定める正当な手続きで選ばれた者の発言こそが正しいというのなら、ヒトラ。ーのナチ政権も、戦前の我が軍国政権も皆正当な手続きによって行われた政治です。
 今回の事件も、問題は、単に手続きが正当と言う外見上の問題ではなくその発言の発端が、個人の政治家の思惑によって為されたという本質にあります。
 政治の場に於いて、外見が正当で真っ当な手続き等という者は当然にして当たり前のこととしてあります。
 独裁者は、常に、熱狂的に迎えられます。そして常に、定められた正当な手続きによって独裁者の意図は具現化してきました。
 憲法の定めがどう有れ、今回の発言の法的根拠がどう有れ、小沢独裁政治が露呈した最初の瞬間です。
 手続きが正しいかどうか出はなく、その実相が如何なるものかを見極めることこそ必要なことです。

投稿: 傍観者 | 2009年12月19日 (土) 09時55分

>傍観者さん

まず、「ヒトラーとナチ政権も、正当な手続きによって行われた」という認識には著しい事実誤認があると考え、私は賛同しかねます。

ヒトラーおよびナチは1923年にミュンヘン一揆を行っています。この時から、ヒトラーおよびナチは違法行為による政治手法に訴え始めます。実際、この事件で、ナチは非合法化されましたし、ヒトラーも逮捕され、終身刑が確定しました(Gilbert & Large, p251)。この時点において、既に、ヒトラーおよびナチが正当な手続きによっているとは評価できません。

そして、1933年には全権委任法が制定されました。この時点で、ワイマール憲法は実質的に、憲法たる存在意義を失い、死んでしまったわけです。つまり、全権委任法の制定行為も、当時のワイマール憲法との関係では、違憲な法だったといえます。

したがって、ヒトラーおよびナチ政権はその成立過程から、国民の自然権たる言論の自由や財産権等々を侵害する違憲なものでした。

さらに、貴殿はヒトラーが国民の大多数の熱狂的支持を受け、その首相(Chancellor)の地位についたと思われているようですが、これも歴史的事実と反します。

アラン・ブロック(Alan Bullock)の著書、「Hitler A Study In Tyranny」p137-138は、ヒトラーの首相就任につき、以下のように記述し、当時のドイツ国民の過半数以上の民意がヒトラーの首相就任に反対であったと評しています。

Before he came to power Hitler never succeeded in winning more than 37 per cent of the votes in a free election. Had the remaining 63 per cent of the German people been united in their opposition he could never hoped to become Chancellor by legal means; he would have been forced to choose between taking the risks of a seizure of power by force or the continued frustration of his ambition.

概略しますと、以下のようになるでしょう。

ヒトラーは、自由選挙において、37%以上の得票を獲得することは一度もなかった。残りの67%のドイツ国民は、一致してヒトラーが権力の座に就くことを反対していたのであり、このような状況で、ヒトラーが首相に合法的になることを望むことすらできなかった。そこで、ヒトラーは、強制力により権力を得るというリスクを取るのか、それとも野望による葛藤を続けるのかという選択に迫られていた。

また、私は、他のコメントに対しても述べましたが、形式的法治主義は危険であり、法の支配の理念こそが重要であると答えてきました。

これの意味するところは、ヒトラーおよびナチ政権が行ったような、違憲な法律、国民の有する自然権を侵害する法律を作り、それらの違憲な法律に従っていることのみで、政府の行為を正当化する考え方である形式的法治主義は許されないということです。

素晴らしい人権規定が謳われていたワイマール憲法があったにもかかわらず、ナチスの台頭を許してしまったのは、当時のドイツ国民の貧困等による無知が、その憲法の精神を理解せず、法の支配ではなく、形式的法治主義を容認してしまった、または容認せざるを得ない状況と作ってしまったことにあります。

このような考察からすれば、むしろ、「我が国の憲法が意味する象徴天皇制は何か」、「国事行為を内閣の助言と承認を必要とすると定めた精神は何なのか」、「天皇に国政に関する一切の権能を認めないと定めた精神は何か」を探求し、憲法学説の多数説が、天皇の国事行為および公的行為について、内閣の意思の下に置くべきとし、その観点から今回の政治問題を考察することは、法の支配の理念に即したあるべき姿なのではないでしょうか。

私は、宮内庁長官という一官僚に過ぎない立場の者が、形式的な30日ルールを盾にし、内閣のコントロールに反するような行為を行うこと、および、それに賛同する方が形式的法治主義の最たるものであり、不適切だと思います。

小沢幹事長も、小泉元首相もそうですが、彼らのリーダーシップは従来の日本の政治家に比べると、強いものであり、それを独裁的と評したくなるのは理解できますし、そういう批判は妥当なものだと思います。

しかし、ヒトラーが行ってきた違憲、違法な独裁政治状況と、小沢幹事長や小泉元首相の実践している独裁的リーダーシップによる政治状況とは、本質が違います。

後者は基本的に、ミュンヘン一揆のような違法性もなければ、全権委任法を制定するような違憲性もありません。これらを引き合いに出すことも、私は不適当であると考えます。

貴殿の「憲法の定めがどうであれ」という発言部分は、形式的法治主義のような思考であり、法の支配という現代憲法の根本原理に反する危険な考え方であると私は思います。

なお、上記に引用した本は以下のものです。英語ですが、バランスのとれた視点でヒトラーとナチドイツ時代をわかりやすく記している本です。

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12/19/2009

コメントに対する応答コーナー(18日に頂いたものについて)

引き続き、天皇の中国副主席との官兼問題に関する憲法的考察に関連して、18日中にいただいたコメントへの回答コーナーです。

こんばんわ。
丁寧なご回答ありがとうございます。

>ただ、これを「命令」といえるかは疑問です。少なくとも私が目を通した憲法の著名な本には、命令であるという記述はありません。
>命令というのは行政法上、私人に対して作為不作為を命じるものと定義され、天皇は私人ではありませんから、命令とは言わないと思います。

なるほど。
「法学的な用語としての命令」と「口語的な用法としての命令」の違いでしょうか。

内容につきましては納得しました。ありがとうございます。

>次に内閣法制局の話ですが、おっしゃる通り、一義的には、自民党の長期政権および政治的主導力の欠如に責任があったと思います。自民党の政治家が指導力を発揮して、内閣法制局の改革をすれば、現状のような官僚による解釈権の支配という非民主的な事態は生じていなかったでしょう。

いえ、責任論ではなく「法制局のあり方が民主的かあるいは非民主的か」について、

1.歴代自民党政権は選挙によって選出された議員の投票により選出組閣されているため(間接的ではあっても)民意の反映と言える。

2.内閣法制局長官の任免は内閣による。このため内閣法制局長官人事も民意の反映と言える。また、法制局職員の任免は長官の権限となっているのでこれも同じ。

3.内閣法制局の見解に内閣と著しい齟齬があった場合、内閣によって法制局長官を罷免し新たな長官を据える事で内閣の見解に沿った法制局見解を取り付けることが(制度上)可能。

という点から、「内閣法制局が頑なに抵抗し、行政府の解釈を事実上独占してきたこと」を(歴代自民党政権が)許してきた事は民意の発露としての内閣の意思であり、すなわち(間接的ではありながらも)民主的なコントロール下にあると考えるのが妥当ではないかと思います。

>しかし、他方で、内閣法制局が頑なに抵抗し、行政府の解釈を事実上独占してきたことも紛れもない事実で、これは官僚という立場をわきまえていない行為で、私は妥当ではないと考えます。

内閣法制局設置法3条(所掌事務)を見るに、閣議にはかられる法律案や条約案の審査修正し内閣に上申することは法制局の職務であり、さらに上で述べたように「内閣法制局は民意のコントロール下にある」とするならば、「官僚という立場をわきまえていない行為」とするのには違和感が残ります。

憲法の言うように最高裁判所が唯一違憲立法審査権を持つと言うことに異論はありませんが、そのことと内閣法制局の在り方に矛盾は無いように思われます。

以上より、内閣法制局の在り方について「非民主的である」との批判は妥当ではないように思われますがいかがでしょうか。

投稿: discon | 2009年12月18日 (金) 02時12分

>disconさん

こんばんは。再度のコメントに回答します。

私は内閣法制局のあり方が民主的ではないと言っているのではなく、官僚に内閣が左右される実態が民主的ではないと考えています。

内閣法制局の存在が問題なのではなく、内閣法制局の解釈にそれを統括すべき内閣が拘束されてしまっている実態が、本末転倒で、内閣ひいては国会による民主的コントロールが、政府の法令解釈に対しても果たして及んでいるのかということを問題にしています。

内閣法制局そのものは必要です。しかし、そこの官僚の示す見解と内閣の意思に齟齬があっても、官僚に押し切られてきた実態が政治家に責任があるにしても、非民主的ということです。

特に、憲法解釈は、違憲立法審査権の存在により、司法権が唯一の有権的解釈期間ですから、内閣法制局の示す見解は単なる意見に過ぎず、それに拘束され押し切られてきた実態が私は問題だと思っています。

違憲立法審査権への言及は、マスメディアの報道も内閣法制局の見解があたかも判例のように扱っていることもおかしな話なので、内閣法制局の見解と司法権の示す判例という有権的解釈との違いを明確にするために、司法権との対比をしているわけです。

形式的な判断ならそうかもしれません。「形式的」には。その内閣を実際に動かしてるのがいち政党の幹事長だ、ってことに目をつぶれば。小沢幹事長のあの逆ギレ会見を見れば、誰の指示だったかなんて一目瞭然でしょう。そういうところを考慮しないで形式だけに注目するというのは、現実を見てないんじゃないでしょうか。

与党とはいえ大臣でもない、ただの幹事長のごり押しで天皇陛下の行動が左右されて、それをマスコミが擁護する。30日ルールが憲法に則しているかどうか、なんて事よりはるかに「法治国家」としてのシステムを揺るがす事態だと思いますが。それでも「形式的には」整っているからいいんだ、というならもう何も言うことはないです。

投稿: aro | 2009年12月18日 (金) 03時13分

>aroさん

はじめまして。

私は形式的に考察したつもりはありません。記事やコメントに対する回答で何度も明確に述べていますが、この記事は憲法論としてどうなのかという視点から、発信している情報であって、小沢氏の政治的手法等々は別の問題であるとはっきり示しています。

むしろ憲法学の深い議論を念頭に、宮内庁長官の会見行為が内閣の天皇に対するコントロールという憲法上の要請を阻害するものであることを問題にしているわけです。

記事中にも、形式的に正しいので、すべて正しいなんていうことは一切言っていません。

30日ルールも現在の内閣の意思の下でそれが運用されるのであれば問題なく、私はそれが憲法に則していないなどという考察もしていません。

30日ルールを盾に、現在の内閣の意思に反するような羽毛田宮内庁長官の会見行為が問題であることを指摘しているわけです。

また、憲法の基本的理解に欠ける一部の新聞では、国事行為ではなく公的行為だから、助言と承認は必要がなく、宮内庁のルールが妥当するというかのような馬鹿げた議論をしています。公的行為でも当然内閣の意思の下に置くことが象徴天皇制の趣旨なのですから、こうした誤まった理解を頒布し、一定の危険な思想に誘導する現在のメディアには恐ろしさを感じたので、今回の記事を書きました。

 丁寧なご返答ありがとうございました。おかげ様でモヤモヤとしていた疑問が解消されました。
 要するに、矛盾する二つの要請をどう考えるかという問題に帰結するということですね。すなわち、日本国憲法の趣旨から象徴ないし天皇という存在をどう解釈するかによって、どちらの要請(助言と承認を経ているから政治利用が可能とするか、あくまで謙抑的にすべきと解するか)を重視するかが決定される。その意味で小沢氏の発言も正しく、他方批判の声も筋が通っている。憲法は矛盾を抱えているという共通認識を理解してほしいということですね。大変納得いたしました。

投稿: しげ | 2009年12月18日 (金) 17時36分

>しげさん

再度のコメント有難うございます。貴殿の疑問の解消になれば幸いです。

おっしゃるような理解で良いと思います。

ただ、一部メディアでは、公的行為は内閣の助言と承認が不要という部分だけを取り除いて、戦前の天皇制を認めるかのような議論がなされていることに私は強い危惧を感じます。

以前にも指摘しましたが産経新聞は、とりわけ、憲法議論を通説の理解するところから外れ、マイナーな見解をあたかも憲法学の共通認識かのように報じます。こういう誤まった情報が広まるのは非常に危険ですね。

公的行為を認めるにしても内閣の意思の下に置かなければならないことは憲法学上の共通理解です。

その上で、内閣が政治的色彩の強い行為を天皇に行わせる場合はどう考えるべきかかという次の問題点が出てくることになり、渋谷先生のような考え方があるわけです。

いずれにしましても、多数説、有力説(高橋和之先生の10号該当という見解)の考えからすれば、小沢幹事長の考え方は正しく、宮内庁長官による30日ルールを破ったという批判は、現在の内閣の意思よりも、宮内庁のルールを守れということにつながり、これは民主主義から大きく外れる危険な発想と私は思います。

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12/18/2009

コメントに対する応答コーナー(17日に頂いたものについて)

以下、17日までに頂いたコメントと私の回答です。

回答ありがとうございます。

>貴殿の言われる命令がどういう意味として使っているかが解りませんが

少し舌足らずで申し訳ありません。
「命令」は拒否権を与えない依頼とでも言いましょうか。

(ESQさんの追認になってしまいますが)憲法を読んでいますと、天皇は「国政に関する権能を有しない」かつ「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と書かれていますので、内閣の「助言と承認」があった場合「国政に関する権能を有しない」が故に天皇に拒否権は無い。

つまり内閣による「助言と承認」は実質的に天皇に対する「命令」(職務命令と言ったほうが近いかも)であると読めるのですが間違っていますでしょうか。

>法制局については、法制局の存在が問題といっているのではなく、政府の憲法解釈をそこが独占し、歴代内閣による変更を許さない状態にあることが非民主的だと言っているわけです。

ちょっとよくわからないのですが、「法制局の局長を時の内閣が任命できる」、かつ、「内閣法制局には憲法解釈の有権的権限を憲法が認めている規定は一切無い」のであれば、「時の内閣に有利な見解を出す法制局長を任命し内閣の見解に沿った法制局見解を出させれば良い」のではないでしょうか。
#制度上そうは出来ないようになっているのでしょうか・・・?

>しかし、それがあたかもすべての行政機関を拘束する解釈権限を有する組織として事実上扱われ、歴代内閣による変更を阻むことすらあることが非民主的だと考えるわけです。

前内閣までの歴代総理大臣を(一部の例外を除き)自民党の総裁が占めていましたので、歴代内閣による変更を「法制局見解を自民党見解としたことによって」阻まれ、さらにその自民党の内閣が行政府の長であったことによって、行政機関が法制局見解に縛られていたことは法制局の職能に帰する問題では無く、自民党による長期政権であったことに帰するべき問題であるかと思いますがいかがでしょうか。

投稿: discon | 2009年12月17日 (木) 0時38分

>disconさん

国事行為に内閣の助言と承認が必要とするのは、天皇の国事行為について、内閣の意思の下に置くという趣旨です。また、象徴に基づく天皇の公的行為も、内閣のコントロールの下に置くことが要請されています。

これに対し、天皇が拒否できるのかという点ですが、先ほども書きましたが、天皇は拒否しないという性善説を前提としており、憲法はそこまで想定していません。

象徴ですから、国民の選んだ国会議員により信任されている内閣の意思に反することはしないという暗黙の了解があるともいえそうです。

イギリスでも、こうした議論はされていて、イギリスの陸軍は、Royal Armyなどと王室の軍隊で、その指揮権は女王陛下にあることになっています。

女王陛下が首相の判断に逆らって、兵を出さないという事例は机上の議論としては面白いですが、そんなことをすれば、国民の選んだ内閣の判断に逆らうこととなり、民主主義の否定になるので、イギリス国民は許さないとイギリスの法律学者から学んだことがあります。

日本の天皇制についても同じことが言えるのではないでしょうか。

なお、国事行為の実質的決定権の所在については、他の条文との関係で、内閣または国会にあると考えていくことになると思います。

また、貴殿のおっしゃるように、憲法の明文に拒否できると読み込む余地はないですから、国事行為についての拒否権はないと考えるという考え方も説得力があり、妥当のように思います。

渋谷秀樹「憲法への招待」p151も「『国民=国政の最高決定権者、天皇=国民の決定に従う人ということを明示したのです』」と指摘しており、渋谷先生の考え方は貴殿の御考えの「天皇には拒否権がない」という理解と共通しているのだと思います。

ただ、これを「命令」といえるかは疑問です。少なくとも私が目を通した憲法の著名な本には、命令であるという記述はありません。

命令というのは行政法上、私人に対して作為不作為を命じるものと定義され、天皇は私人ではありませんから、命令とは言わないと思います。

次に内閣法制局の話ですが、おっしゃる通り、一義的には、自民党の長期政権および政治的主導力の欠如に責任があったと思います。自民党の政治家が指導力を発揮して、内閣法制局の改革をすれば、現状のような官僚による解釈権の支配という非民主的な事態は生じていなかったでしょう。

しかし、他方で、内閣法制局が頑なに抵抗し、行政府の解釈を事実上独占してきたことも紛れもない事実で、これは官僚という立場をわきまえていない行為で、私は妥当ではないと考えます。

法律学的見解から「公的行為」が「国事行為に準ずる行為」であることが証明されていませんが、法律学とはそのようなものなのでしょうか?そうだからそうなのだ、というように感じられました。さらに、「国事行為に準ずる行為」が「国
事行為」に当たるというようにも読めるところも解せません。
どのあたりが法律学に基づいているのか、法律の素人にも分かるように説明して頂けると助かります。

投稿:  | 2009年12月17日 (木) 2時36分

>無記名の方

名前の記載がない場合は今後回答しませんので、よろしくお願いします。

以下、多数説に従った見解を紹介します。

公的行為というのは象徴にという地位に基づく行為です。たとえば、旅行に行くとか、生物学的な研究を行うとかは、私的行為ですが、親善外交などは、私的行為とはいえず、7条各号に列挙された国事行為にも当たりません(この点、有力説は10号の儀式に当たると考えますが、なぜそう考えるのかは説明を省きます。興味があれば、高橋和之「立憲主義と憲法」p44をご参照ください)。

したがって、親善外交等は天皇の象徴という地位に基づく公的行為と解することになります。

公的行為は、私的行為と違う以上、内閣のコントロールを及ぼす必要があります。なぜなら、これらの行為を野放しにするのは、戦前の明治憲法下の君主制に回帰することにもなり危険で妥当ではないからです。

そこで、国事行為に準じるものとして、内閣のコントロールを及ぼしていく考えるというのが憲法学の多数説の見解です。

前掲渋谷p156は、「天皇が憲法で規定された国事行為ではないが現実には公的な行為をしているのですから、そのような行為を現行憲法の基本的な理念と制度にふさわしいものとするために、内容を限定し、それを内閣、そして最終的には国会のコントロールの下におくということが重要でしょう」と述べています。

渋谷先生の御著者は丁寧にこの辺の議論を整理して、多数説の問題点も指摘されています。

興味が御有りでしたら、渋谷先生の御本や既に何回かこのブログで紹介している長谷部先生や高橋先生、芦部先生、さらには、四人本と呼ばれる憲法の本がありますので、参考にされると良いと思います。下記に掲示しておきます。

一番詳しいのが、左から3つ目の四人本と呼ばれるものです。私として、一番左にある渋谷先生の御著書がコンパクトで読みやすく、この問題を理解する上でも必要十分だと思います。

論理的には正しいと思います。ヒットラーやスターリン、古くはジャコバンの政治が法的に正しいのと同じくらいに。
しかし、多分、「法匪の論理」としか働かないと思います。

投稿: KU | 2009年12月17日 (木) 6時52分

>KUさん

はじめまして。

私は、ヒトラーやスターリンが法的に正しかったという貴殿の御意見には賛同いたしかねます。彼らについては国際法上の違法行為(Crime Against Humanityなど)があったと考えております。また自国民への虐殺行為は国内法における殺人罪を構成し、到底法的に正しいことを行ったとは言えません。

法律論はともかく、今回の状況として。
百数十名の自派の国会議員を引き連れて彼の国の元首に拝謁し、記念写真を撮る栄に浴し、膝を折って友好親善を要請してきた身としては、例えそれが慣例に反する以来であったとしても、受けざるを得なかったというのが今回の事件の有様ですね。
 だから、俺のメンツを潰すかと恫喝して、強行を迫る。
 それは明らかに、内閣の助言と承認という原理とは遙かにかけ離れて逸脱していると言わざるを得ません。
 形式論で考えると誤ります。

投稿: 傍観者 | 2009年12月17日 (木) 8時24分

>傍観者さん

はじめまして。

記事の最初でも断ったように、憲法学的に考えればどうなるかということを示すことがこの趣旨です。間違ってほしくないのは、そのことと小沢幹事長の政治手法に対する評価は別物ということです。この点は記事に明確に示したつもりです。

また、法律的に物事を考えるのは重要です。法治主義は良くありませんが、法の支配は民主主義および自由主義を支える根本的な価値観です。

永住外国人の地方参政権の問題もそうですが、この種の話題においては、好き嫌いという感情論に走る前に、「憲法論的にはどうなのだろう」、「通説的理解はどうなっているのだろう」、「判例はどういう立場なのだろう」と立ち止まる姿勢が、嘘の情報に騙されないためにも、私は重要だと思います。

こんにちわ
とあるブログからこちらのブログを知り、今回の記事を読んで、明快な分析に非常に感銘を受けました。

さて先日以下のような事件が起きました。

http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-424.html

事件のくわしい背景や状況は以下のブログがくわしいようです。

http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20091215
http://d.hatena.ne.jp/kiimiki/20091208/1260279562

もしよろしければ、お暇なときにでもこちらで、朝鮮学校が公園を授業に使用していたことの違法性を分析していただけないでしょうか?
在特会という団体が、朝鮮学校が公園に設置したゴールポストを動かしたり、利用する子どもの安全のために設置されたスピーカーの線を切り、朝礼台と一緒に校門前に投げつける行為は法的に許されるのでしょうか?

投稿: とるねーど | 2009年12月17日 (木) 9時18分

>とるねーどさん

初めまして。コメント有難うございます。感銘を受けたとのコメント嬉しく思います。

ご質問の件ですが、このブログでは、私の気になったニュース等に対する私見の1つとして、法的観点からの意見を紹介することはありますが、そういう形ではなく、個別的事案の法律相談に該当するような質問には応じない方針としています。

個別具体的事案において、法的な問題がある場合は、地域の弁護士会や行政機関等が主催する無料法律相談、又は直接、弁護士等に相談することをお勧めします。

貴殿の御質問は、特定の団体の行為が含まれており、事実関係も現在進行中の具体的事件を対象にした質問となっていますから、インターネット上で御伺いした情報だけで、私が違法とか適法という判断を示すのは不適当であると考えます。

申し訳ありませんが御理解のほどよろしくお願いします。

日本人は過去の戦争を反省しているのです。だから、今回の件には感覚的に反対できるのです。多分、それを理解できないのは、その感覚が無いかわからない人だと思います。そして、いくら理論的に説明してもその感覚は動かないと思います。

今回の件について言えば、会った相手が重要かどうかだったということは基本的に関係ありません。法律ではないとはいえ、政権がルールを破ったことが問題と感じるわけです。反対している人は、こういう行為から過去の戦争につながったことを知っているからです。宮内庁長官が直接国民に訴えた理由も多分そういう感覚から生まれているのではないでしょうか。

憲法論等からはずれた内容になってしまっていますが、天皇制は非常にデリケートなものと言われているように、こういう感覚を大事に思っているかどうかで最終的に判断されているのではないかと思います。それこそ法律的には問題無い等の杓子定規で運用されることも同様に問題と思う人も多いはずですので、理論的に説明する場合でも、この観点は重要になるはずです。

投稿: bb | 2009年12月17日 (木) 16時30分

>bbさん

貴殿の御意見は御意見として理解しましたが、私は賛同しません。

なぜならば、そもそも1カ月ルールと称するものに、内閣のコントロールが及んでいないとすれば、これはもはや憲法の予定する象徴天皇制とはいえないからです。それこそ、戦前のように天皇の自律的な行動を認めることにつながります。このような考え方は現行憲法によりはっきりと否定されているはずです。

宮内庁という一行政機関が、内閣の意思に反するルールを盾にすることの方が、私は問題だと思います。宮内庁は国民の審判を受けていません。

他方、内閣は、国民により選ばれた国会議員により信任を受け、国会のコントロールが及んでいるわけです。

我が国が民主主義、自由主義を基調とする立憲国家であることからすれば、宮内庁の意思より、内閣の意思によるコントロールが天皇の国事行為および象徴としての公的行為に及ぶことの方が私ははるかに重要であると考えています。

はじめまして。リンクをたどってきたところ、丁寧な文章と明確な論理で書か
れており、興味深く拝見させていただきました。読んでいるなかで疑問が生じましたので、1点質問させていただきたく存じます。
 自主的に行うのではなく、内閣の助言と承認を経るから天皇の国事行為・公的行為が形式的・儀式的なものになるというのは理解できます。しかし、この結論から、形式的・儀式的な公的行為を内閣が政治的に利用できないと直ちにいえるのでしょうか。助言と承認は天皇側からの政治関与を防ぐものですが、内閣の側が天皇を政治の世界に引き込んでよいのかというのは別問題とも考えられます。
見る限り、大方の批判がこの点からでてきているように思われるからです。
 あるいは、助言と承認を経る以上純粋に政治性のない国事行為・公的行為は存在しないと考えた場合でも、憲法の趣旨から考えて上限は存在しないかが問題になりそうな気がします。どうも私自身が論理誤謬に陥っているように思えますので、ご指摘頂ければ幸いです。

投稿: しげ | 2009年12月17日 (木) 17時14分

>しげさん

はじめまして。コメント有難うございます。

なかなか鋭い視点ですね。結局、天皇が政治的色彩を帯びることへの懸念ということなのでしょうが、そもそもその懸念は、象徴という曖昧な地位を認めていることに内在する矛盾なのだと思います。

天皇は国事行為に列挙された行為以外はできないという規定があれば、たとえば、内閣による衆議院の解散権についても、内閣の助言と承認により内閣が責任を持つ以上、結果として、天皇の行為は形式的、儀礼的なものにとどまり、政治的色彩を帯びないということになるでしょう。

しかし、象徴として、親善外交等々の列挙事由以外の行為かつ私的行為とはいえないものを認めてしまう以上、国事行為では説明ができなくなってしまいます(もちろん、有力説として国事行為に含める説もあります)。

そこで、多数説は、公的行為というものを観念するわけですが、これにより、皇室外交を行わせると、それが有効であればあるほど、政治的色彩を帯び、象徴にとどめて、法的権限のある国家機関とは違ういわば、「イメージに止めた」趣旨から反することになります。

つまり、天皇の政治的色彩を弱めようする要請と、象徴たる地位から公的行為を観念し内閣のコントロールに服させようという要請はどうしても矛盾を生じる関係にあるのだと思います。

こうした批判に、多数説は、私的行為として野放しにするより、内閣の意思の下に置く方が安全であり、この矛盾は仕方ないと反論します。

また、多数説を一歩進めて、前掲渋谷p157は、「公的な行為はその範囲が拡張してしまうおそれがあり、また政治的思想から公的な行為が選択的に実行されるおそれもあるわけですから、内閣の助言と承認にとどまらず、事前に国家の承認を必要とするなどのような、より明確な歯止めを置くべきです。」という提案がなされることになるわけです。

したがって、貴殿の抱かれた疑問は、こうした多数説の矛盾によって生じるものなのではないでしょうか。

私が、あくまで、小沢氏の発言の方が、憲法上正しいという記事を書いたのは、このような多数説や有力説からすれば、天皇に政治的色彩が及んでしまうのは仕方ないことであり、それを緩和するために、内閣の意思の下に置くことが国民主権から要請されるという憲法学の共通認識部分をまずは理解してほしいと思ったからです。

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12/17/2009

コメントに対する応答コーナー(16日に頂いたものについて)

昨日に引き続き、今日も訪問者がかなり多く、コメントもいつもより多いです。折角ですので、昨日の質問と回答も合わせて、コメント欄における返答ではなく、ブログ記事内で、皆さんの丁寧なコメントとそれに対する私の見解を紹介する形にしたいと思います。

読者の方から送られたコメントは、不適切と考えるもの以外は、私の見落としがない限り、ここで紹介し、かつ、コメント欄でも公開しておこうとおもいます。

なお、繰り返しになりますが、個々のコメントへの返信をする前に1点注意させていただきたいことがあります。

16日の7時36分頃、「一」というニックネームの方から、特定の政治家に対する殺人予告とも取られかねない表現を含んだコメントが寄せられました。

管理人として、このような公序良俗に反し、刑法上罰すべき行為に当たりかねないコメントは、許し難く、ニフティーに通知の上削除し、公開致しません。

健全かつ法に適った言論活動を行う上でも、自身の御意見を表明したい場合は、法や公序良俗に反しない適切な表現行為で行ったほしいと願います。

それでは、以下、個別のコメントに対し回答いたします。

小沢氏に対する批判としては、そもそも小沢氏が「内閣」ではないというところに起因する意見もあると思いますが、いかがでしょうか。
つまり今回の招聘において内閣の指示は「従」であり、元は、民主党という政党の外交に利用されていると。これは政治利用にあたるのではないかと、個人的には感じています。

この部分についての見解を補足いただければ幸いです。

なお後半部分についてですが、現政権は、官僚とも、(同士であるはずの)閣僚とも圧倒的に意見交換が不足しているように感じますね。

投稿: Rucker | 2009年12月16日 (水) 10時39分

> Ruckerさん

はじめまして。コメント有難うございます。

確かに、小沢氏は内閣の一員ではありませんが、鳩山総理大臣を長とする鳩山内閣の助言と承認またはこれに類する内閣のコントロールに基づいて、天皇の国事行為または公的行為を行うことを決めている以上、私は政治利用という批判は妥当しないと考えます。

鳩山首相が小沢氏に従属しているかどうかという問題と、内閣の助言と承認に基づく天皇陛下の国事行為または公的行為なのかという話は別問題でしょう。

政党外交という点も、我が国は政党政治が定着していますし、鳩山首相は民主党の党首なのですから、政党外交も、外務省の外交もすべてその権限と責任は鳩山内閣の長である内閣総理大臣およびその内閣に依拠しています。

よって、天皇陛下の国事行為として、鳩山内閣の助言と承認を与えているのであれば、これは、法律上何の問題もないという結論に変わりはありません。

もっとも、記事でも示しましたが、小沢氏の政治姿勢などについては、憲法議論とは別に、政治家のあり方として議論の余地はありますが、メディアをはじめ、この種の問題に誤まった憲法議論を持ち出すことに危惧を感じます。

この件に関する報道に対して違和感を持ち続けてきましたが、このブログをみて、やっと確信が持てるようになりました。
私は中国が嫌いです、なぜならこの国は一党独裁国家であり、そのため自由がないからです。しかも、チベット・ウイグルなどで今でも残虐な行為を続けています。
しかし中国が嫌いだからという理由で、我が国の民主主義の精神を踏みにじる訳にはいきません。もしそれをないがしろにした場合、日本が中国よりすばらしい国であるといえるでしょうか?

投稿: 一般学生 | 2009年12月16日 (水) 11時31分

> 一般学生さん

はじめまして。コメント有難うございます。

おっしゃる通りだと思います。私も中国とは一定の距離間をもって外交に臨むべきだと思っています。中国ではまだまだ人権蹂躙が公に行われていますし、あくまで共産党独裁国家であるという事実に変わりはありません。民主主義が根付いているとは到底言えません。

しかし、おっしゃる通り、その問題と日本が民主主義の精神を規定した憲法に従って宮内庁ではなく、内閣が助言と承認を与えることは切り離して考えるべきで、後者の問題についての現在のメディアの理解には誤りがあると思います。

 天皇に対する内閣のコントロールが、積極的なものか消極的なものかの問題だと思います。
 自分は今回の内閣からの要請自体はさして問題はないと思いますが、天皇が拒否権を持たない以上、内閣が積極的に天皇を外交の手段として使うことは、内閣に事実上天皇に対する命令権限があることになり、これはあたかも天皇が内閣あるいは宮内庁の下部機関にすぎないような外形を備えることになるので、天皇の地位として不当だと思います。内閣からの命令を「助言」としてとらえるのには無理があるでしょう。
 ですから「助言」はあくまで文字どおりの助言としてとらえ、公正取引委員会などと同じように、天皇および宮内庁には高度な自主性を認めつつ、正当な理由がないのに助言を無視したり、国事行為や公的行為に政治的恣意性が認められる場合に限り、その作為または不作為を「承認」しないという拒否権が、内閣に認められるべきです。
 このように天皇に対する内閣の「コントロール」は消極的であるべきです。小沢氏の発言の問題点は、内閣は天皇に対する命令権限があり、民意を受けた内閣は天皇をいかようにでも操れるととれるような表現であったからです。我が国の天皇に対する一般的な感情は英国のものとは異なります。憲法で許されているからといって何をやってもいいというのは支持率の低下を招くでしょうが、その民意の反映は最長で4年後になるわけで、総選挙時の民意を盾に今現在の民意を無視してゴリ押しするやり方は、次の総選挙までの間、国民にとって専制に等しく、そのことに対する小沢氏の理解が欠けているという点が問われているのではないでしょうか。

投稿: gase2 | 2009年12月16日 (水) 11時52分

>gase2さん

はじめまして。

天皇陛下の地位についてですが、これはあくまで象徴であって、それ以外の役割は何も持たないことが憲法により明記されていると理解するのが憲法学上の通説です。したがって、統治機構とは切り離されたものです。

天皇の国事行為および公的行為をあくまで内閣のコントロールに服させることが憲法3条の趣旨ですから、天皇や宮内庁に自主性を認めることは、日本国憲法が予定するものではなく、憲法秩序に反します。したがって、私は妥当ではないと考えます。

憲法は最高法規であり、国政を考える上で、憲法により許容されるかどうかが一番重要だと私は考えます。

法的私もマスコミの扇動の仕方には以前から疑問を持っており、危惧しております。
根拠を使って学術論的にこの問題を丁寧に読み解く人が不思議なことに一人もいなかったため、非常に参考になります。

投稿: 通りすがり | 2009年12月16日 (水) 12時48分

>通りすがりさん

初めまして。コメント有難うございます。

参考になったとのこと幸いです。こういった国民の関心の高い話題だからこそ、法律の専門家、とりわけ、通説、有力説に依拠する学者は、積極的に情報発信して、通説的理解の共通認識をきちんと説明すべきなのかもしれませんね。

天皇陛下と習国家副主席との会見に付いての国民の捉え方。憲法上は小沢幹事長の考え方は正しいかと思います。ただ国民の気持ちからすると、VIPが天皇陛下と会見される場合、我々の常識では一ヶ月どころか、半年前に設定されるのではないかと、想像しています。にもかかわらず、急な用件でもないのに、突然会いたいと申し入れてきた中国の常識に私は腹が立ちました。メディアはその点を追究せず、宮内庁と小沢氏の喧嘩と捉え、面白可笑しく発信している様に思えます。ただ想像ですが、小沢党首が国会議員を140人も中国に連れて行き、胡錦涛国家主席と各々握手写真を撮らせて貰える事を条件に、中国の非常識な申し入れに応じたのではないかと国民は類推して、非難の声が上がったのではないかと思いました。私は胡錦涛主席がよく我慢して議員個別に写真を写させてくれたことだと感心しています。今回の多数の国民の非難は1ッカ月ルール云々でなく、写真を撮らせて貰えるという裏の為に、見返りに突然会見設定の負い目を持った事に対してではないかと私は思います。先生の憲法解釈記述とは別ですが、あえて今の気持ちを書かせて頂きました。

投稿: yumeoibitooda | 2009年12月16日 (水) 14時51分

>yumeoibitoodaさん

はじめまして。コメント有難うございます。

私は中国側と小沢幹事長の間のやりとりを知りうる立場にはないので、今回の記事はあくまで純粋な憲法学の視点から書いたものです。

貴殿の御気持ちは理解いたしました。

マスコミ側が、外国元首との会見は公的行為であり内閣の助言・承認は必要としない、と言い返しております。
このエントリーを読んだ私にはマスコミ側の無知がありありと分かるわけですが、しかし公的行為を内閣のコントロール下に置くべきかどうかは(多数派は置くべきとの考えだが)やはり議論もありますし一概に言えることでも無いような気がします。
それに「内閣の助言と承認」にも一定の節度という物が求められるべきであり、節度がなければ天皇は完全に内閣の駒となってしまいます。これは法律で決めてしまうと緊急時に柔軟な対応が出来ませんし、いきなり決めるというのも難しいでしょう。やはりそこはしきたりの様なもの(慣習法と言えるのかはよくわからないですが)で制限されるべきだと思うのです。それが今までの30日ルールなのではないのでしょうか?それは今まで必要であったから自然と確立された物であり、内閣が変わったからといって一瞬で変えることが許されるのでしょうか。たかが副国家主席ですよ。しかもかなりの友好状態にある中国の。

投稿: サテー | 2009年12月16日 (水) 14時54分

>サテ―さん

お久しぶりです。コメント有難うございます。

おっしゃるように、マスコミの報道の仕方には問題がかなりあります。それは先日私が産経新聞の永住外国人への参政権付与の問題についての報道で、判例につき誤まった理解があると指摘したことに代表されるように、法的議論を捻じ曲げて報道する偏向性が著しく、それを読者が正しいと理解してしまうことに危惧をしています。

この種の憲法上の議論には判例が存在しませんから、「誰が何を言ってもよい」と言われればそれまでかもしれませんが、私は少なくとも、通説、また憲法学において有力説と評される学説に対する法律家の共通認識をまず理解したうえで、少数説を紹介すべきだと思います。

自分の独自の憲法解釈をするのは自由にやって良いと思いますが、やはり、通説、有力説といわれるところの共通認識に対する敬意は示したうえでなされなければ、正しい法律議論とはいえません。

しかし、メディアはわけのわからない学者を専門家と称して、非常に偏った、法律界では相手にされないようなマイナー学説を通説かのように報じたり、通説の上っ面な結論(定義)のみを紹介し、その背景にある共通認識を報じません。

私の今回の記事で一番訴えたい点は、こうした誤まった憲法解釈議論をせずに、まずは通説と有力説に対する共通認識を理解すべきということにあります。

なお、御指摘の宮内庁の定めたルールですが、私は、憲法3条に定める内閣の助言と承認の範囲を実質的に制約するもので、民主的コントロールとして内閣の助言と承認に委ねた同条の趣旨に反すると思いますから、これには法規範性はないと考えます。

始めまして!
成る程、切り離して考えれば確かにその通りかも知れませんね。
でも切り離して考えれていないのは宮内庁や批判している側だけでは無いように見受けられます。
それ故の、『政治利用ではない』発言ですし。
なまじ批判側だけが切り離して語るとそれはそれであまり良くないような気がします。

また、政治利用としても相手に媚びていると思われる日程の組み方は、今後の利用のあり方についてもマイナスイメージだよな、と感じます。

投稿: | 2009年12月16日 (水) 15時18分

>最初の無名の方(15時18分ころに投稿された方)

はじめまして。次回からは何でも良いので名前を入れてください。私の返信の対象が不明確になりますから、よろしくお願いします。

「憲法上違憲だ」とか「憲法上許されない」という主張がマスコミに踊っていることに私は違和感を感じます。

もちろん、小沢氏に対する強引な手法への批判について、小沢氏が「憲法上許されているから良い」と反論している点は、憲法解釈としては正しいと思いますが、それが批判に対する応答方法や説明する態様として正しいかは別問題だと考えます。

あまりに、高圧的な態度はイメージ的にも良くないですし、疑問が残るでしょう。

私の記事は、あくまで、憲法という法的観点から、憲法学の通説的理解に基づいて考えればどうなるかということを示したわけです。

この点、上記にも書きましたが、マスコミが引用する専門家は憲法学者として通説的、オーソドックスな方ではない人の意見を引用し、それが通説的理解のように報じているので、「それは違いますよ」という情報を提供しようというのが今回の記事の趣旨です。

法律論的に正しければ、法で規制されていなければ、
何をやっても許されるべきですよね。
批判する方がおかしい。
法で決まっていないないんだから。

投稿: | 2009年12月16日 (水) 16時49分

>二番目の無名の方(16時49分頃投稿された方)

はじめまして。次回からは何でも良いので名前を入れてください。

無名の方が続きますと、私の返信の対象が不明確になりますから、よろしくお願いします。

法で規制されていなければなんでも許されるということですが、そのような考え方もありえるのではないでしょうか。

ただ、法律には民法90条の「公序良俗」とか、「過失」とか規範的要件がありますから、こうした規範的要件に当たるかどうかも含め、法の不知は違法性を阻却しないという刑法の法理に代表されるように、しっかり行動する側が判断しなければならないということにもなりますね。

参考になりました。

ところで、内閣の助言と承認は、閣議決定を経て行われるものだとされています。
宮内庁の官僚が行うことができないのはもとより、内閣総理大臣も内閣官房長官も、単独で助言と承認をすることはできません。
そうすると、小沢幹事長の言うように、今回の習近平副主席の接待を国事行為と捉えると、助言と承認の閣議決定がなされていない鳩山内閣の対応は、憲法違反ということになりますね。
もっとも、今回の件で個人の具体的な権利が侵害されているわけではありませんし、高度に政治的な問題は裁判の対象とはならないらしいですから、違憲を問われるような訴えを提起されることはないのでしょうけれども。

投稿: 難波拓矢 | 2009年12月16日 (水) 17時28分

>難波拓矢さん

はじめまして。コメント有難うございます。

おっしゃる通り、国事行為に対する助言と承認権限は内閣にあります。

仮に、今回の中国副首相との会見が親善外交として国事行為たる7条10号に当たるという説に立てば(高橋p44)、内閣の助言と承認が必要となります。

現段階で、閣議に上程されているのか私は把握していませんが、助言と承認は、通説に従うと、事前か事後のいずれにが閣議でなされれば良いということになります。

したがって、仮に、助言の段階で閣議に上程されていなくても、承認という事後的な上程で足ることになります。よって、現段階で違憲ということはいえません。

他方、公的行為であるという説(学説の多数説)に立てば、必ずしも閣議による必要はなく、内閣の助言と承認に準じて、内閣によるコントロールが及んでいれば良いということになります。

したがって、内閣総理大臣を長とする内閣が何らかの形で、決定し、その決定に従って、象徴たる天皇陛下が会見したのであれば、憲法上違憲の問題は生じないという結論になるのではないでしょうか。

現在の行政実務はおそらく後者の考え方に立ち、閣議決定しなくとも内閣のコントロールが及ばせることで足ると考えていると思います。

つまりは、憲法を改正した方が、より世論や実情に近づくということですね。

象徴天皇制について、憲法を改正しようという動きはないのでしょうか???

投稿: おやぶん | 2009年12月16日 (水) 22時52分

>おやぶんさん

お久しぶりです。コメント有難うございます。
憲法改正が良いかどうかは、私には判断しかねます。
象徴天皇制を変えようという動きは、右翼的な思想の方の中、保守的な思想の方の中にはいるかもしれませんが、それだけの改正のために、硬性憲法たる日本国憲法が改正されることはないと個人的には思います。

お返事ありがとうございます。

一点気になったことがあります。
ものの本(長谷部恭男・『憲法』)によると、助言と承認は、通常は一度の閣議決定であり、事前に行われるようにするのが通例であり、それが通説だと思います。
助言と承認のどちらかが行われればよいと考えるのは、憲法制定直後の政府の説明であり、現在の政府がとっている態度とは異なるはずです。
 
今回の習近平副主席との会見については、助言と承認の閣議決定は、一切なされていませんが、それは、小沢さんの言うような国事行為ではないと考えるのが行政実務なのだから当然だということですよね。
そもそも、閣議の案件となったとはされていませんから、何らの民主的コントロールもなされていないという疑いもあります。
でも、先述の本には、「内閣の直接あるいは間接の補佐が必要」とあるので、宮内庁への指示がこの補佐にあたるといえば、民主的コントロールはなされていると考えられるのでしょう。

ここまで書いてきて、ようやく私が腑に落ちていなかった点がわかりました。
それは、「助言と承認」という憲法上規定された文言をESQ様は広く解していて、公的行為にも助言と承認を行うべきだというように(少なくとも本文を読む限りでは)読めてしまったということです。
本文における「助言と承認」は、憲法の文言とは離れて読めばよかったのですね。
法や政治の議論を生業としているせいか、文言に厳格になってしまい、大変申し訳ありませんでした。

投稿: 難波拓矢 | 2009年12月16日 (水) 22時55分

>難波拓矢さん
再度のコメント有難うございました。
公的行為として国事行為に準じるという場合は、助言と承認という(閣議)形式でなくても、内閣による民主的コントロールに服す必要があるというのが学説の多数説です。

記事中では、助言と承認という文言を、貴殿のおっしゃるように、広い意味で使ってしまったため、厳格に見れば、誤解を生じやすくなっていたかと思います。その点、きちんとかき分けるべきでしたね。訂正しておきます。

おっしゃるように、公的行為説に立てば、内閣のコントロールに服していれば、閣議という形式を経なくても良いことになります。後は貴殿のご理解で正しいと思います。

なお、長谷部先生の御本にあったという閣議の開催時期の点ですが、助言と承認という1つの行為で足り、事前か事後かは問わないのが通説だと認識しております。もちろん、事前が望ましいとは思います。

先ほどの返信で、「いずれかが」と書いてしまったために、助言と承認にいずれかという形で、誤解を生んでしまったようです。正しくは、「事前か事後かのいずれかに」です。この点も、訂正しておきます。
御指摘ありがとうございました。

長谷部先生が事前に行うのが通例というのも、事後的なものが一切許されないという趣旨ではないと思います。その方が望ましいという見解だと認識しております。

芦部先生はこの点につき、「(助言と承認)は1つの行為であり、閣議は一回開けばよいが、天皇の発意を内閣が応諾する形での閣議は認められない(芦部憲法三版p48)」とし、事前でなければならないとはしていません。

はじめまして。

小沢発言(行為?)は違憲だとする意見には懐疑的でしたので憲法論としての見解を興味深く読ませて頂きました。

普段憲法論に触れておりませんものでピンと来ないのですが、憲法における天皇にたいする「助言」というのは実質的に命令であるとされているのでしょうか。

別の点で、内閣法制局について
>これほど非民主的な制度はないでしょう。
とされておりますが、内閣法制局の局長は時の内閣によって任命されていますので、法律設計上は(間接的ではありますが)民主的な制度になっておるかと思いますがいかがでしょうか。

投稿: discon | 2009年12月16日 (水) 23時41分

>disconさん
はじめまして。
コメント有難うございます。

貴殿の言われる命令がどういう意味として使っているかが解りませんが、助言と承認というのは内閣の権限として、1つの行為として、閣議で行われるものと理解しておけばよいのではないでしょうか。

そして、助言と承認という制度の目的は、天皇の国事行為という行動を内閣の意思の下に置くことにあるという理解をしておけば良いと思います。

命令かどうかという議論は私は聞いたことがありませんが、あるのかもしれません。これ以上はわかりません。

憲法学上、天皇が国事行為を拒否した場合どうなるのかという議論はあるようですが、私は憲法学者ではないのでそこまで詰めて理解していません。

天皇は拒否できない、拒否しないことが前提となっていると思います(いわゆる性善説的な立場ですね)。

法制局については、法制局の存在が問題といっているのではなく、政府の憲法解釈をそこが独占し、歴代内閣による変更を許さない状態にあることが非民主的だと言っているわけです。

内閣法制局には、憲法解釈の有権的権限を憲法が認めている規定は一切なく、裁判所にのみ違憲立法審査権が認められますから(憲法81条および最判昭和25年2月1日)、内閣法制局の解釈は単なる意見に過ぎません。

しかし、それがあたかもすべての行政機関を拘束する解釈権限を有する組織として事実上扱われ、歴代内閣による変更を阻むことすらあることが非民主的だと考えるわけです。

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12/16/2009

憲法秩序に反しているのは宮内庁 ― 天皇の親善外交について憲法学から考える

今日は、シリーズ化した「名誉毀損に関する正しい理解」の最終回(第5回)を前に、別の話題をひとつ取り上げたいと思います。

この問題を記事にする場合、法律のカテゴリーなのか、政治のカテゴリーなのか迷いましたが、憲法論という法律論的視点から私は意見を発信しようとしていますから、法律のカテゴリ―に入れました。

今日取り上げるテーマは、中国の副首相と天皇の会談をめぐる羽毛田宮内庁長官と小沢幹事長の批判についてです。

中国が嫌いかどうか、民主党政権を支持するかどうか、小沢幹事長が好きか嫌いか、右翼的な思想か左翼的思想かなどは別として、法律論的に言えば、結論として、小沢幹事長の発言が正しいことは明らかです。

これには2つの理由から説明が可能です。

1つは天皇が中国の副主席と会うことなどの親善外交は、憲法7条10号の「儀式を行うこと」に該当し(高橋p44)、これは天皇の国事行為であるところ、憲法3条は「天皇の国事行為に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う」と定めているからという理由です。

もう1つは、天皇の親善外交は、象徴としての地位に基づく公的行為であり、公的行為についても、国事行為に準じて内閣によるコントロールが及んでいる以上許容されるという考え方です(学説の多数説)。

いずれの説にたっても、内閣の助言と承認または内閣による民主的コントロールが存在する以上、憲法上の問題はなく、政治利用という批判はおかしな話です。

つまり、宮内庁に助言と承認権限があるのではなく、内閣に助言と承認権限がある以上、それに従うのは憲法の要請するところであって、内閣が助言と承認として、中国副主席との親善外交を天皇陛下が行ったのであれば、問題は法律上一切ありません。

宮内庁長官をはじめとして、無責任に職務を放り投げた元首相やそれ以降も無責任な首相を容認してきた自民党の議員、さらにはメディア等も、憲法の基本中の基礎知識すら欠如して、「政治利用だ」という批判をしていますが、天皇の親善外交は国事行為または公的行為として国事行為に準ずる行為ですから、助言と承認行為を政治的利用と批判するのであれば、あらゆる天皇の国事行為および公的行為が政治利用で不適当ということになってしまいます。

そもそも、国事行為は形式的・儀礼的なものといっても、天皇が象徴たる地位に基づき、内閣の助言と承認を必要とする以上、一定の政治性が帯びてしまうのは不回避的です

例えば、環境問題の水に関わるシンポジウムに参加することでさえ、環境問題は既に政治化してしまいますから、これも政治利用ということになってしまいます。

つまり、公的行為である以上、政治性は帯びるのが当然であって、純粋な政治性のない国事行為なんてありえません

この点、メディアやインターネット上で、国事行為の理解につき、通説である芦部説の定義のみを覚え、誤解している人が散見されます。

芦部説は、天皇の国事行為について、「政治(統治)とは関係しない形式的・儀礼的行為」と定義付けています。

しかし、この定義の重要な部分は、「なぜ、政治性が無くなるのか」という部分です。

多くの人はこの部分を見落として、内閣の助言と承認に基づき、宮内庁のルールが曲げられたから、「政治利用だ!」と批判しています。これは批判として本質を見誤っています。

この点、通説は、もともと国事行為とは、国政に関する行為であり、政治性を有する行為であるが、内閣が助言と承認を行うことにより、その結果として天皇の行う国事行為が形式的・儀礼的なものになると説明します。

したがって、内閣の助言と承認がない国事行為は、そもそも政治性を有する国政に関する行為といえます。

よって、「内閣の助言と承認に基づく、天皇の政治利用を止めろ」というのは、「国事行為そのものを行うな」という話になってしまい天皇の存在意義を否定することにつながりかねません。

また、この問題について小沢幹事長を批判する人々は、国事行為という憲法上の天皇の権能の問題と、対中国外交の是非や小沢氏の強引な政治手法に対する批判とを混同してしまっているのではないでしょうか。

私個人の意見として、小沢氏の対中国外交姿勢や永住外国人の地方参政権付与に対する姿勢、さらには説得のリーダシップを尽くさない粗雑なメディアへの対応には問題があると考えていますし、賛同しかねます。

しかし、その問題と天皇の国事行為に関し内閣が具体的に助言と承認を与えることの是非という憲法議論は、切り離して考えなければなりません。

体調不良を理由に職務を放棄し、責任も取らなかった元総理大臣のように、自分の政治思想に反するとか、自分の気に食わない外交方針であるというだけで、「政治利用だ」と薄っぺらい批判をし、内閣による天皇の国事行為に対する助言と承認の所在を宮内庁に今まで通り許そうとする方が、よっぽど天皇陛下を利己的に利用しています。

また、一官僚に過ぎない宮内庁長官が政府の決定に異議を公に唱えている点もはおかしな話です。

日本は閣僚も含め統一感がなく、バラバラのことを言いたがります。

しかし、日本よりも自由主義が浸透しているアメリカでは、行政府の政治家、官僚は、通常、大統領の決定に反する発言を公にはしません。自分の地位と発言の重みを知っているからです。自分の信念に反する大統領の政策が行われる場合には、辞任するのが通常です。

もっとも、政治家は民意を経てまたは今後経るという立場の下で、意見を言うわけですから、そうしたバラバラな意見を言うことの是非は民意により判断されれば良いでしょう。

しかし、官僚ということになれば話は違います。彼らは民意を経ていない官僚に過ぎません。

上級官僚が公に内閣の方針にあからさまに批判することは、憲法72条の定める内閣総理大臣の行政各部に対する指揮監督権に背くものであり、憲法秩序を乱す許し難い行為です。

今回を機に、内閣の助言と承認のあり方についても、宮内庁任せにせず、しっかりと内閣において、憲法秩序に従った運用をしてほしいと思います。

例えば、「君臨すれども統治せず」の理念の下にあるイギリスでは、女王陛下と首相が週に1回程度、会食をして、社会問題や政治問題、外交問題に対して意見交換します。

これらのことは一切公開されませんが、女王陛下が国民の関心事項や政治問題を把握する上で極めて重要な機会となっています。

ブレア元首相がイラクへの派兵決定をする際にも、エリザベス女王陛下と意見交換したと言われています。

確かに我が国は、象徴天皇制で、英国とは制度が違います。天皇の地位については、エリザベス女王と同じ国家元首なのか、それとも国家元首は首相なのかという議論があるくらいです(この点、学説の多数説は国家元首を首相と考えています)。

しかし、憲法3条が天皇の国事行為に関するすべての行為を内閣の助言と承認を必要と規定した趣旨には、英国型の君主制を1つのモデルとして想定していたことは否定できません。

そうであるならば、天皇の国事行為等を宮内庁に任せきりにするのではなく、天皇陛下に内閣総理大臣が週1回程度など頻繁に会って意見交換をし、国情を把握してもらうことや象徴として首相に対し考えを非公開で伝えてもらうことは、現行憲法3条が規定する内閣の助言と承認を行う上で極めて重要なことではないでしょうか。

今までの自民党が、内閣の助言と承認を事実上宮内庁の官僚に任せきりにして、閉鎖的な皇室像を作ってきたことが問題だったと私は思います。

これは内閣法制局についても同じことが言えます。

9条の解釈について、政府見解を内閣法制局が定め、それに歴代の内閣を拘束させてきています。

しかし、内閣法制局は所詮内閣の下部組織に過ぎず、彼らには一切の有権的憲法解釈権限はありません。

事実上、民意を経ていない内閣法制局の官僚による憲法解釈に歴代の内閣が拘束され、またはそれを望んてきたに過ぎません。

これほど非民主的な制度はないでしょう。

そもそも、憲法解釈の有権的な判断が唯一憲法上許されているのは司法権を司る最高裁を頂点にした裁判官のみです。

裁判官が作った判例、裁判例で示される憲法解釈以外は、政府見解や学者の学説もすべて、単なる意見に過ぎません。

そうであるならば、歴代の内閣がそれぞれ独自の憲法解釈を自由に行い、それを国民が選挙を通じて審判できる制度の方がよっぽど民主主義に即しています。

現にアメリカの政治家は、積極的に憲法判断について自己の意見を表明します。それに基づいて、有権者はその人物が公職に適当かどうか判断が可能なのです。

「政治家が自由な憲法解釈をやれば、国民の憲法上の権利が侵害されやすくなる。だから、官僚による連続性ある解釈が必要なんだ。」という反論を官僚はするでしょう。

しかし、奢りも良いところです。立場をわきまえない馬鹿げた反論です。

憲法上権利侵害が起こった場合に救済するのは裁判所です。司法権が行政権および立法権に対する抑制として存在し、違憲立法審査権が付与されていることの意義は、権利侵害を憲法の番人として救済するためだからです。

官僚の出る幕は憲法上予定されていません。

仮に司法権が、憲法判断を回避し、立法と行政の国民に対する権利侵害を容認し続けるのであれば、有権者がそうした裁判官を指名している最高裁判所の裁判官の国民審査において、彼らにNOを突き付け、失職させればいいのです。

これこそが憲法の予定した制度運用のはずです。

しかしながら、この国のマスコミはそうした憲法秩序等に対する知識を持たなければ、持とうともせずに、間違った情報と批判を垂れ流し、国民を扇動していると言っても過言ではないでしょう。

話を今回の問題に戻しますと、天皇に対する助言と承認権限が内閣にあるにもかかわらず、1カ月ルールという法的規範性のないものに依拠して、民意の審判を受けていない宮内庁の官僚が、助言と承認権限を事実上独占してきたのがおかしな話なのです。

換言すれば、憲法の規定する秩序に違反して、天皇を利用しているのは、宮内庁であると言っても過言ではないでしょう。

なお、この問題について、揚げ足取りが得意な共産党の志位委員長は、「外国の賓客との会見は国事行為ではない」と小沢氏を批判しています。

共産党はそもそも天皇制に極めて批判的ですし、一部の県連ではHP上ではっきりと、天皇制廃止の方向である言っていることからすれば、天皇の親善外交そのものがやるべきではないという発想なのかもしれません。

ただ、国事行為に当たるか、それとも国事行為に準ずる公的行為なのかという論争ははっきり言って何の意味もありません

重要なのは、内閣の助言と承認という民主的コントロールが及んでいるかどうかです。

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12/14/2009

名誉毀損に対する正しい理解(4) ― 名誉権とプライバシー権との違い

第3回までは、名誉毀損と表現の自由の関係を説明してきた。今日は、プライバシー権との違いについて、概説したい。

4.プライバシー権との違い

プライバシー権とは、みだり私生活上の事実を公開されない自由(東京地裁判決昭和39年9月28日)と一般に理解されている。

プライバシー権に関する最高裁判例としては、最判形成6年2月8日の「逆転」事件があり、その中で、プライバシー権という言及はないものの、「みだりに前科等に関わる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益」があることを判示している。

さらに、近年、最高裁がプライバシー権の内容を具体化したものとみられる判例として、最判平成15年9月12日の早稲田大学江沢民事件があり、「自己の欲しない他人にはみだりに公開されたくないと考えることは自然なことであり、そのことへの期待は保護されるべきもの」と判示している。

このように、最高裁は、プライバシー権が人格権であるとはっきり述べていない。

最高裁が積極的にプライバシー権の内容を定義していないのは、おそらく、人格的利益であることは間違いないが、人格"権"まで高められた価値としては、未だ成熟していないという理解があるのかもしれない。

いずれにしても、最高裁ははっきり定義していないが、一連の判例から、プライバシー権が憲法13条により保護される個人の生存に関わる人格的利益として、把握していることは間違いない。

では、名誉権とプライバシー権はどのような違いがあるのだろうか。

まず、プライバシー権は一旦侵害されると回復が困難という特性がある。つまり、一旦プライバシーに関わる事柄が公開されてしまうと、取り返しがつかないという性質を有する権利である。

次に、プライバシー権は、対抗言論による回復が不可能である。名誉毀損の場合であれば、対抗言論を用いることで、社会的評価の回復が可能である。例えば、「弁護士甲は事件処理を非弁に任せている違法弁護士だ」という名誉毀損的表現に対しては、事件処理を自分で行っていると反論することにより名誉回復は可能である。

しかし、例えば、「芸能人Aには・・・という性癖がある」という事実は、全くの私生活に関する事柄である。このようなプライバシーに関わる情報は、一旦公開されてしまうと、そのような事実がないと反論したところで、プライバシー侵害のない状態に戻ることは不可能である。

さらに、プライバシー権を侵害する表現をしたものが、その事実につき真実性を立証しても違法性が阻却されないという特性がある。当然である。プライバシー権は、みだりに私生活上の事柄を公開されない権利なのだから、真実かどうかは問題にならない。

したがって、こうした3つの違いがあるため、(a)プライバシー権はどのような場合に保護の対象になり、また、(b)どのような場合に表現の自由が優先されうるかにつき、名誉毀損とは異なった見地から調整を図る必要がある。

(a)プライバシー権として保護されるための要件

プライバシー侵害が成立するための要件としては、裁判例ではあるが、東京地裁判決昭和39年9月28日が一般的にそれを示したものとして理解されている。

その要件は、

①私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのある事柄であり、

②一般人の感受性を基準にして、当該私人の立場に立った場合に、公開を欲しない事柄であり、

③一般の人々に未だ知られていない事柄

という3つである。

プライバシー権として保護されるための事実についても、①でまず私生活上の事実とその周辺の事実に保護対象を限定し、その上で、②一般人の感受性を基準とした客観的に公開を欲しない事実という絞りをかけているところに、表現の自由との調整を図る意識が見える。

この基準からすれば、芸能人の交友関係だとか、性癖だとか、夫婦関係いう事実は、すべてこれらの要件を満たすことになり、限度を超えた芸能情報リポーターの取材行為はプライバシー権の侵害で民事上は違法な行為ということになるであろう。

(b)表現の自由が優先される違法性阻却事由

もっとも、公人およびそれに近い人々のプライバシーに密接にかかわる情報の場合、それが、公共の利害にもかかわる重要な事実である場合も多い。

例えば、政治家の愛人関係というのは、確かに、その政治家の私生活上の事実ではあるが、同時に、愛人の存在というのは、社会通念上の良俗に反するものであり、政治家としての資質の問題に関わる公共の利害を有する事実である。

そこで、以前にも紹介した月刊ペン事件(最判昭和56年4月16日:宗教法人S会のI会長(当時)の女性関係に関する私的な行動についての記事が名誉毀損罪の①の要件に該当するのかが争われた)で、最高裁は、「私人の私生活の行状であっても、...その社会的活動に対する批判ないし評価の一資料として、公共の利害に関する事実に当たる場合がある」と述べている。

この判決は、宗教法人の会長という一見公人とはいえない立場でも、政治活動などの社会的活動への批判としてなされたと評価される場合には、私人の私生活上の行状に対する事実は、公共の利害に関する事実として、プライバシー権としての保護範囲からは外れることを示唆するものである。

したがって、政治家や社会的活動をする社会的影響力のある私人に関する愛人報道などは、そのものの社会的活動に対する批判としてなされた場合には、プライバシー権の保護範囲からは外れるという理解が可能であろう。

では、一般に判例はどういう場合に、プライバシー権より表現の自由を優先させて、違法性を阻却させているのであろうか。

最高裁は、沖縄で米兵を死傷させた私人Xの前科に関する事実をノンフィクション作品として発行したYに対する損害賠償請求事案である最判平成6年2月8日のノンフィクション「逆転」事件で、以下のような判示をしている。

(Xは)みだりに、前科等に関わる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益を有し、その公表によって新しく形成している社会生活の平穏を害され、その構成を妨げられない利益を有する。

(しかし、)刑事事件・裁判という社会一般の関心・批判の対象となるべき事項にかかわるので、①事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的意義が認められるような場合、②その者の社会的活動の性質あるいはこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度いかんにおいては、その活動に対する批判・評価の位置資料として、公表を受忍しなければならない場合もある。さらに、③社会一般の正当な関心対象となる公的立場にある人物である場合には、公職にあることの適否等の判断資料として、公表は違法とはならない。

つまり、最高裁は、①②③という3つの場合に限り、違法性阻却を認め、表現の自由との調整を図っていると理解することが可能である。

しかし、③の場合について、誤解してはいけないことがある。

それは本件が前科に関わる事実を扱った事件で、プライバシー一般に関するものではないという事案の範囲の問題である。

つまり、公的立場にある人物であれば、あらゆるプライバシー侵害について違法性を阻却するという趣旨ではなく、前科情報に限ってみれば、公職に当たることの適否の判断資料として違法性が阻却されると述べているにすぎない。

したがって、公人だからといって一切プライバシーがないと理解するのはいささか法的バランス感覚に欠如している結論であるといえるだろう。

そこで、前記最高裁判例から規範を抽出するとすれば、プライバシー権の侵害があった場合でも、違法性が阻却される場合として、以下のように3つに整理が可能ではなかろうか。

①公表することに歴史的・社会的に意義のある事実である場合。

②当該私人の社会的影響力が大きい場合には、その社会的活動に対する批判の位置資料として利用される事実である場合。

③前科など公人の私生活上の事実が、公職に当たることの適否の判断資料となる場合。

したがって、芸能人の熱愛報道等の野次馬的関心は、表現の自由や知る権利としての保護の射程外ということになりそうである。

マスコミ、とくに、低俗な雑誌関連の記者がしつこく芸能人を追い回している行為は、プライバシー権侵害行為と評すべき場合が多いと言えるだろう。

次回はいよいよ最終回。

アメリカの判例法理を日本でも採用しようという学説(京大系の憲法学者に多い主張のように思われる)の主張の問題点を指摘しようと思う(東大系の憲法学者は逆にアメリカの判例法理の採用には否定的のようである)。

さて、今回は以下の2つの本を参考にしています。

長谷部先生の本は深い話が多いので、あまり実務的ではないですが、憲法知識を深めたいという趣味として読むには定評がある本です。

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12/09/2009

日本社会が衰退する理由

法律の話の続きをしないといけないのですが、最近忙しく、法律以外のことを考えたいので、もう1回だけブレイクです。

公認会計士の就職難に関連し、大塚耕平金融担当副大臣が「今のペースで(会計士の)人数が増えていいのかも検討課題」と発言しました。

おかしな話です。

公認会計士の試験を通った人が就職難だから、合格者を減らす。これでは、完全に中世ヨーロッパ時代のギルドであり、それを国が主導しようというのですから、合法的なカルテルです。

日本がデフレだと騒がれていますが、結局、日本は、自由競争をすべきところができていないこと、および、切磋琢磨できる環境作りのための緩やかな競争原理の導入ができていなこと、が最大の問題なのではないでしょうか。

公認会計士など資格により職業選択の自由(憲法22条1項)を制約する以上、資格試験は絶対評価であるべきです。

つまり、その資格を与えるに足る知識を有する者は合格させ、知識がない者は落とす。これが本来の資格制度のはず。

にもかかわらず、合格者が増えて就職難だから、合格者数を制限しましょうというのは、本末転倒です。就職できるかどうか、就職先が安定的であるかどうかは、いくら資格保有者であっても、本人の努力次第ではないでしょうか。

もちろん、現行の公認会計士制度では、実務経験が必要になるわけですから、試験に合格しても公認会計士になれないというのは問題です。

必要な知識は試験で十分に問うてるはずですから、実務経験の要件を削除するとか、別途実務経験における知識を2年後に問う試験を設けるなどの措置は考えられます。

しかし、大塚副大臣の発言は、既存の資格保有者の既得権益保護という考えが根底にあるように思えてなりません。

法曹も、医者も、建築士もそうですが、資格試験を設ける以上、その運営は必要な知識の有無により判定されるべきです。既存の資格保有者を保護するために、新規参入を妨げるという発想の制度運営をすれば、日本の国力は衰えます

アメリカがリーマンショックなどを経験してもなお活力を取り戻しつつあり、少なくとも日本より元気な社会なのは、機会的平等の理念が徹底されているからです。

誰でも、努力すれば、成功できるという社会認識があり、それが担保される仕組みがあるからです

アメリカでは、あらゆる資格試験は絶対評価で人数制限なんて御法度、その後の就職の問題は自己責任。

これが当り前の姿なのですが、日本はどうしても、資格保有者に特権を与えたがりますし、既存の資格保有者も特権を欲しがります。

こうした社会が活力を取り戻せるでしょうか。経済大国第1位と第2位の日本とアメリカの差はそこにあります。

アメリカンドリームがあり、ジャパニーズドリームがないのは、実力のある者を評価する社会的共通認識がアメリカにある一方、日本は実力のない者でも、既得権益の名の下に評価される途があるためです。

日本がバブル崩壊以降、経済が沈んでいるのは、日本社会に実力を評価する社会認識が欠けているからです。

社内ポリティックス、稟議制度などにより、無駄な力が評価され、責任の所在を不明確にすることにばかり力を注ぎ、実力ある人間が育っても海外に流出してしまいます。現に私の友人で、私が有能だと思う人々はほとんど外資系の企業に採用(転職を含め)され、海外で生活を楽しみながら活躍している人が多いです。

弁護士においても就職難を理由として、人数制限を求める既得権益保護主義者がいます。

しかし、資格保有者であっても、その他の社員と同じ待遇であれば、採用してくれる企業は沢山あるはずです。企業に採用してもらえないのは、「俺は、資格保有者だ」というおごりがあるからです。

アメリカの法曹資格者であれば、「人数制限しろ」なんていう発想は持ちません。なぜなら、それはアメリカ社会の根本的価値である「Equality of Opportunity」の否定になるからです。

そして、アメリカの法曹資格者は、就職難で一流事務所に行けなければ、一般企業に就職しつつ、次のチャンスを狙います。非常にハングリー精神が旺盛で、フロンティア精神そのものではないでしょうか。マインドが違うわけです。

いつもはエンターテイメントの話題として紹介するスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんの人気も、このアメリカ人のマインドに関連しています。

地元のイギリスだけでなく、番組の放送されていない、特にアメリカで異常な人気ぶりなのは、彼女に素晴らしい歌声という実力があるにもかかわらず、評価されずに48年間も普通の人して、日が当らない存在だったからこそ、衝撃的に受け止められ、彼女は評価に値すると支持する人が多いわけです。

アメリカのファンにとっては、彼女の実力ある歌声が正当に評価され有名になることは、アメリカンドリームそのもので、それが熱烈な支持につながっていると言えるでしょう。

弱者保護は大切です。民主党政権が生活者、消費者重視というスローガンには共感できました。

しかし、弱者保護のように見せかけた既得権益保護、ひいては、一旦、特権的な地位を得れば、努力をしなくても生きていける社会なんていうのは、切磋琢磨する土壌を奪います。百害あって一利ないのではないでしょうか。

競争原理はある程度必要です。しかし、過度な市場主義は逆にモチベーションを低下させます。

そこで、8月の選挙で、有権者は、民主党に対し、①既得権益への切り込みと、②弱者保護政策を両輪でやってもらいたいと期待したのではないでしょうか。

既得権益保護のための政策なんて、国民の総意は望んでいません。

民主党も、政権を取ったとたんに、自民党と同じ既得権益保護政党になるのでしたら、有権者は4年後、民主党や自民党に代わる政党に政権を託したいと望むかもしれません(問題はそうした政党があるかどうかですが・・・)。

さて、日本とアメリカの違いとして、マインドの違いと言いました、これは、フロンティア精神の有無です。以下の本は、先日W杯の予選が決まったということもあって、ちょうど良いサッカーというトピックを通じて、日本人選手と海外選手の精神論の違いを説明しています。

また別の機会に話しますが、新渡戸稲造の武士道は結構アメリカ人に好まれて読まれます。この武士道はフロンティア精神に近いと評したアメリカ人の友人もいました。もしかすると、日本の既得権益にしがみつく姿は、武士道精神の失われた姿なのかもしれません。

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12/05/2009

NHKは収益機会を喪失している ― 必要なのは情報への敏感さと斬新さ

ここ数日、法律の話が続いているので、ちょっとブレイクの意味も込めて、今日は、別の話題を紹介しようと思う。

11月23日に初のCDアルバムデビューをしたスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんの話題を素材にして、NHKのもったいない収益機会の損失について私見を発信しようと思う。

詳しくない方のために説明すると、スーザン・ボイルさんとは、イギリスのテレビ番組「Britain's Got Talent」というオーディション番組に4月に出演し、その予選で、ミュージカルレ・ミゼラブルの「I Dreamed A Dream(夢破れて)」を歌う姿が、インターネット動画投稿サイト、Youtube上で公開され、1億回以上の再生回数を記録し、世界的に話題になった48歳(当時)の女性である。

彼女の歌声の上手さと晩年の成功というのは、日本で言う、秋元順子さんを連想する人もいるかもしれない。

その、スーザン・ボイルさんについて、BBCの12月4日付電子版によれば、イギリスのITVで、クリスマス特番として、「I Dreamed A Dream - The Susan Boyle Story」という番組名で、有名なゲストスターや歌手を交えた番組が企画されているという発表があった。

番組にはボイルさんをはじめ、彼女の家族や友人が登場し、一夜にして有名になった彼女のサクセスストリーについて語るという。

さすがは、イギリスのエンターテンメント番組で成功をおさめるITVだけあって、この番組企画は、イギリスの芸能メディアでかなり取り上げられている。

さらに、BBCニュースによれば、ボイルさんのデビューアルバムは、イギリスとアメリカで、歴史的な記録を作っている。

販売初日の売上数が、13万枚以上となり、イギリスで歴代一位を記録。さらには、11月30日時点で、41万枚の売上げで、イギリスの公式CDチャートで、第一位になったという。

また、アメリカでは、販売開始第1週の売り上げ数が女性シンガーのデビューアルバムとして、歴代1位のなった。

既に、現在までに70万1,000枚の売り上げ数に達している。

ボイルさんの記録的な売上は英米に限ったことではない。オーストラリアニュージーランドでも彼女のCDアルバムが、1週間の売り上げ数No1にランクインされている。

日本では洋楽でありながら、オリコン5位にランクインするなど、世界的ヒットとなっている。

世界的に見れば、今年のエンターテイメントでの「顔」はまさに、スーザン・ボイルさんだったと言っても過言ではないだろう。

さて、昨今、NHKの紅白歌合戦の視聴率低迷が伝えられている(あのような番組内容で、30%~40%維持できているのだから、マンネリ化に我慢してくれる視聴者に相当感謝すべきだろう・・・)。

今年の出場歌手名が先日発表され新聞などにも載っていたが、いまいち、「あ、そうなんだ。特に見たいとは思わないな・・・」という顔ぶれだった。

目立ったの実績もないにもかかわらず、常連の顔ぶれが並んでいるが、落ち目の歌手もかなり入っているし、わざわざ、「聞きたい」と思える歌手はほとんどいなかった。

NHKも若い女性に人気の「嵐」が初登場するなど、話題性は意識しているようだが、それでも、「あ、そうなんだ」とい程度のインパクトしかない(むしろ、今まで嵐の出演がなかったことに、意外性を感じたが)。

紅白歌合戦の1つのコンセプトとして、幅広い年齢層に受け入れられる年越しの番組作りや今年1年の音楽を振り返るということがあるとすれば、あまり成功していないように思われる。

確かに、嵐の起用は、幅広い女性の支持層からの注目を集めるという点では、成功するようにも思うが、他方で、最近は落ち目と言われているようなSMAPや、大した実績を感じないが毎年出ている和田アキ子、演歌歌手たちの最近の常連組が今年もいつものごとく出演歌手に名を連ねているところを見ていると、「紅白歌合戦という番組」が、コンセプトを失い、世代間格差を生む場に陥っているように感じる。

つまり、若い人は一部の自分の見たい歌手だけ見れればいいし、中高年はむしろ昔の歌を聞きたいのであろうが、NHKのコンセプトからすれば、その両者に受け入れられる歌手の起用を考えるべきである。しかし、実際の顔ぶれをみると、バラバラの要求に、別々に応える歌手を起用していると私は感じてしまう。

NHKに力量があるならば、そうした最近実績のない常連歌手はズバッと切り捨てて、単なる新人歌手というのではなく、今年1年で話題になった曲、さらには、今年1年の世情を風刺するのにぴったりのオールドソングを歌う歌手を起用することで、イメージを一新させるべきでだったのではないだろうか。

例えば、仮に、サプライズゲストとして、スーザン・ボイルさんの出演(衛星放送などエンヤの歌を流した時のように)をNHKが今年企画でき、日本向けCDに歌われた「翼をください」とか、スコットランド出身なので民謡の「蛍の光」を英語で歌ってもらう企画などを考えれば、話題性としてはかなり成功していたと私は思う。

アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどにおけるボイルさん旋風は異常なほどの盛り上がりを見せているし、日本でも彼女についてはかなり多くの人が知っているだろう。

仮に、ボイルさんが出演するとすれば、NHKに対する世界の注目度が格段に上がるし、日本の大みそかの文化を伝える上でも、非常に有効なPR効果があったはずではなかろうか。この種の発想がないとすれば、機会損失であろう(実際に交渉して受け入れてくれるかは別として)。

NHKは、海外向けの放送も行っているといっているが、実際にはどうもそういった日本の文化面でのマーケティング機能を果たしていない。

なぜならば、NHKの企画に問題があるのは紅白歌合戦だけではないからである。

例えば、NHKのDOMO君がアメリカで、子どもだけでなく大人を中心に異様な人気ぶりを見せている。私のニューヨークにいるアメリカ人の友人もこのキャラクターを非常に気に入っていた。

しかし、DOMO君キャラクターのアメリカ人向け(外国語ユーザー用)の販売サイトはNHKは持っておらず、折角の収益の機会を逃してしまっている。

NHKはどうも受信料により安定した経営という点に甘えるだけで、それを活かした番組制作もできなければ、受信料に頼らない別収入の機会を確保すべく、海外で人気のキャラクターの外国語販売サイトを作るなどの努力も足りないようである。

今NHKに必要なのは、敏感な情報収集能力と斬新な企画力なのだろうが、おそらくNHKの体質を考えれば、それは期待するだけ無駄なのかもしれない。

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12/04/2009

名誉毀損に対する正しい理解(3) ― 評論活動における名誉毀損

さて、既に2回にわたって、「名誉毀損に対する正しい理解」と題して、我が国の判例状況を一般向けに説明してきた。一般向けと言っても、法律用語が多く理解できないという御批判もあるだろうが、あまりに単純化してしまうと、それはそれで誤解を招き不正確知識を与えかねないので、多少の専門用語を使っている点はご容赦願いたい。

さて、今までの2回分を簡単に振り返ると、第1回では、「そもそも名誉権は何か」というサブタイトルを題して、名誉権の法的性格とその重要性を説明してきた。

端的に言えば、名誉権とは、人の社会的評価を保護の対象とする人の人格的生存に不可欠な権利(人格権)であり、憲法上保障された権利と言える。つまり、非常に重要な権利と言うことである。

第2回では、「表現の自由との調整原理についての判例の状況」というサブタイトルで、表現の自由により名誉権が侵害される場合に、憲法21条1項の表現の自由の保障という憲法上の重要な権利との調整をどのように図るべきかについて、判例の状況を刑事責任と民事責任に分けて解説した。

名誉毀損的表現であっても、①公共の利害にかかわる事項について、②専ら公益目的で、③それが真実であるとの立証があれば違法性が阻却されること、および、真実との立証ができなくても、真実であると誤信し、誤信したことに相当の理由があると言える場合には、故意が阻却され、刑事責任も民事責任も負わないという判例法理があることを紹介した。

さらに、①②の要件が緩和されていること、真実であると信じたことにつき相当の理由すら立証できないような表現の自由の行使は、他人の名誉権侵害を許容してまで優先されるべき価値がなく、内在的制約に服するべきであり、判例法理がバランス感覚に優れた法理であると説明した。

第3回は、これらの前提知識を踏まえ、意見・評論活動が名誉毀損に該当する場合はあるのか、どういう場合は判例は想定しているのかについて解説する。

3.評論活動による名誉毀損

事件・事故などのニュースに対して、多くの個人が感想を持ち、様々な意見や評論活動を行う機会は多々あるだろう。例えば、識者として登場するテレビのコメンテーターや、新聞のコラムニスト、さらには、ブログで個人が意見を発信することが容易になっている。

テレビ、新聞、雑誌、書籍上、さらにはインターネット上で、自分の意見と相反する意見がいかに間違っているかを訴える評論活動も無数に行われているわけである。

こうした意見・評論であっても、限度を超えれば名誉毀損に該当するのか、それとも意見・評論活動は、単なる事実の指摘とは異なり、無制限に許されるべきであるのかについて近年は裁判上争われ、判例法理が形成されている。

まず、妻の殺人事件関与が疑われたXについて、疑惑報道がされていたところ、Xが起訴された前日の紙面で、Y社はXと親交のあった女性Aおよび元検事Bの談話と言う形で、それぞれ「Xは極悪人で死刑」、「Xは凶悪犯で、前代未聞の手ごわさ」という題名の記事を掲載したところ、Xが損害賠償請求をした事案がある。

この事案では、「死刑」とか、「凶悪犯」とかいう表現部分が意見・論評の表明であり、事実の摘示による名誉毀損が成立するのか否かが争われた。

これにつき、最判平成9年9月9日(民集51巻8号3804頁)は、以下のように判示する。

ある事実を基礎としてなされた意見ないし論評の表明による名誉毀損にあっては、①その行為が公共の利害に関わる事実に係わり、かつ、②その目的が専ら公益を図ることにあった場合に、③意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であることの証明があったときには、人身攻撃に及ぶなど意見ないい論評としての域を逸脱したものでない限り、違法性を欠く

そして、前提としての事実が真実であることの証明がないときにも、行為者において事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、故意、過失は否定される

ここで、重要なのは、判例が「ある事実を基礎としてなされた意見・論評の表明による名誉毀損」と限定している点である。

つまり、判例は、名誉毀損の類型として、3つの場合を想定しているわけである。

1つ目は、典型的なケースである、事実の摘示による名誉毀損の場合である。たとえば、「政治家Aは、不倫関係にある」とか、「芸能人Bは暴力団甲組に1億円を払って、芸能活動をしている」というようなことを記事にしたりした場合である。

2つ目は、上記判例の事案のように、意見・論評の表明に事実の摘示が含まれ、その事実の摘示部分の表現が名誉毀損を構成するの場合である。例えば、上記事件で言えば、「Xは極悪人で死刑」等に表現には、Xが犯罪事実を犯したという事実を断定的に主張することで、事実の摘示がなされており、同時に行為の悪性を強調する意見表明がなされたと言え、事実の摘示部分に名誉毀損が存在するわけである。

3つ目は、(事実の摘示部分が含まれる場合でもその事実の摘示には名誉毀損的表現は存在せず)意見・論評の表明による表現が名誉毀損を構成する場合である。たとえば、先日の亀井大臣が述べたように、「事業仕分人に外国人が入っていることは憲法違反だ」という発言は、純粋な意見・論評の表明に過ぎない。これが、名誉毀損を構成する場合について、最判平成16年7月15日(民集58巻5号1615頁)は、「意見ないし論評の表明については、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、不法行為は成立しない」という

ここで、感の良い人は、2つ目の場合と3つ目の場合を具体的にどう区別すべきなのかという疑問を持つのではなかろうか。

この点、判例は、特定の表現について、「証拠等を持ってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項(客観的事実)ということができる場合」か否かによって、事実の摘示なのか意見ないし論評の表明なのかを決するという判断基準を示している。

例えば、「事業仕分人に外国人が入っていることは憲法違反だ」というのは、法的な見解の表明であって、これは証拠によってその存否を決することにはなじまないものであるから、事実の摘示を含んでいないと考えるわけである。

逆に、「Xは極悪人で死刑」という表現に含まれる、Xが犯罪事実を犯したか否かという点は証拠によりその存否を決することができる事項であるから、事実の摘示を含む意見ないし論評の表明と言えるわけである。

上記最判平成16年判決の事案は、次のようなものであった。

ある大学講師Xが出版した書籍に、Yが連載した従軍慰安婦問題の漫画が無断で使用されていたことから、Yが自身の漫画上で、Xによる漫画の無断掲載は「ドロボー」であり、Xの書籍が「ドロボー本」であるという主張を繰り返し、著作権侵害であるとの法的意見が表明された。これに対して、Xが名誉毀損による損害賠償を請求した。

判例は、「ドロボー」という表現には、著作権侵害に当たるという主張であり、この法的見解の表明は、証拠等を持ってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項ということができないのは明らかであるとして、上記分類の3つ目の類型として考え、評論の域を超えたとまでは言えないという判断をしている。

このように、意見ないし論評の表明について、人身攻撃に及ぶなどその域を超えたかどうかという緩い基準で名誉毀損の成否を決する理由について、判例は、「意見ないし論評の表明の自由というのは民主主義社会の根幹を構成する重要な自由であるため」と述べていることから、憲法21条1項が表現の自由を保障していることへの配慮であるといえる。

そこで、今後は、どういう場合に、意見・論評の表明が人身攻撃に及び、その域を超えたものとして違法と評価できるのかという点についての判例、裁判例の集積を待つ必要があるだろう(私の知る限り、現時点で最高裁判例が違法と評価した事案はないと思う)。

もっとも、平成16年判決からも、意見・論評の表明そのものが違法と評価される場合についての基準を抽出することができる。

上記判例の事案は、Xの無断引用の事実につき争いはない事案において、Xの著書での挑発的な言辞に対し、Yが「ドロボー」、「ドロボー本」という表現を用いた漫画を掲載したことにつき、違法性がないという判断をしたものである。

そうであるとすれば、名誉毀損的意見表明が、挑発的言辞がなされたことに対しての反論としてなされたわけではなく、「ドロボー」以上の過激な表現であれば、人身攻撃に至っていると評価され、違法性があると判断される余地があるだろう。

したがって、

①挑発的言辞の応酬の中でなされた表現行為か否か、

②先行する挑発的言辞の過激さの程度、

③それに対する応酬としての当該意見ないし論評の表明における表現の過激さの程度(例えば、無関係な私生活上の暴露を行っているか、「ドロボー」という表現以上に過激な表現であるかなど)

等を考慮要素とし、「人身攻撃に至っていると評価できるか否か」の判断基準をすることになりそうである。(あくまでも判例および調査官解説は該当する事例を例示していないので、本件事案から推測するしかない)。

以下の2つの事例は、私が想定した架空の事案である。

事例1:

Xの法的見解に賛同しないYが、「Xの勤務している団体は、知的レベルが低く、Xもその団体と同じ程度の低い頭脳しか持っていないし、Xの父親Aは禁治産者だったからその遺伝子を受け継ぐXは、法律を理解できる能力がない。だから、Xは間違った法的見解を雑誌甲で披露している。」という意見を雑誌乙の記事で執筆した場合。

このような事例においては、まず、Xの法的見解に賛同しないYが一方的に(Xは何らYに対して挑発的言辞を用いた意見ないし論評を先行して行っていないにもかかわらず)、「父親が禁治産者であった」という法的見解とは無関係な私生活上の暴露を行っているのであり、人身攻撃に至る表現を用いているといえるのではないだろうか。

この場合には、Xとの関係では、意見ないし論評の表明の域を超えたと評価できるのと私は考える(なお父親Aとの関係では事実の摘示による名誉毀損が成立しそうである)。

事例2:

独裁国家N国への人道支援活動をしているXに対し、それを良く思わないYが、インターネット上で、「Xの人道支援活動は売国奴のすることである」という意見に加え、「Xは、低学歴のくせに、ヒトラーの研究をしていたから、頭がおかしくなった。独裁国家N国の政治体制維持に寄与しており、殺人国家を支持している」という書き込みをした場合。

この場合も、Yが一方的に(Xは何らYに対して挑発的言辞を用いた意見ないし論評を先行して行っていないにもかかわらず)、Xの活動に無関係な「低学歴のくせに」などの表現をしており、人身攻撃に至っているのではないかと私は考える。

もっとも、「独裁国家N国の政治体制維持に寄与しており、殺人国家を支持している」という表現部分に限ってみれば、非常に過激な表現ではあるが、Xの人道支援活動そのものに対する意見ないし論評ということができ、「低学歴」などの無関係な事柄を用いているわけではないので、人身攻撃には至っていないと考える。

今回の判例法理についての考え方は、以下の文献に掲載された最高裁解説を参考にしているので、興味がある方は参照してみると良いだろう。

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12/02/2009

名誉毀損に対する正しい理解(2) ― 表現の自由との調整原理についての判例の状況

2.表現の自由と名誉権保護の調整原理

第2回目は多少判例が多いので、法律になじみのない人には辛いかもしれないがなるべく平易に説明できるように心がけたい。

第1回の「そもそも名誉権とは何か」でも説明したように、名誉権とは、憲法上も保護される人格権という性質を持っている権利であり、その内容は人の社会的評価である。

他方、表現の自由も、憲法21条1項で保護される重要な権利である。

しかしながら、表現の自由の行使により、他人の名誉権が毀損される場合があることは想像に難くない。この調整原理をどのように我が国の法は取り扱っているのかを以下で説明する。

(1)刑事責任と名誉毀損

まず、刑事上、刑法には名誉毀損罪が規定され、以下のような形で、表現の自由との調整を図ることが明らかにされている。

第34章 名誉に対する罪

(名誉毀損)

第230条 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。

2 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。

(公共の利害に関する場合の特例)

第230条の2 前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。

3 前条第1項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

つまり、不特定、または多数が知りうる状態(伝播性がある状態で)において、人の社会的評価低下させるに足りる具体的事実を告げる行為を行えば、名誉毀損行為には該当するわけである。

しかし、これでは、①事実が公共の利害に関わるものであって、②専ら公益を図る目的で摘示され、③その事実が真実であるとの証明があるときまで、名誉棄損として、刑法上罰せられるとすれば、表現の自由という憲法上きわめて重要な権利を国家が刑法と言う法により侵害していることになってしまう。

そこで、刑法230条の2は、3つの要件が満たされた場合には、違法性が阻却されるとして、表現の自由との調整を図っている。

さらに、犯罪事実の場合や公務員等に関する事実の場合においては、前者につき230条の2第2項において①の要件を不要とし、後者につき同条第3項において、①②の要件を共に不要と規定している。

つまり、これらの場合は、公共の利害にかかわる事実であること、公益性が担保されているので要件を緩和しているのである。

もっとも、③の要件である真実であることの証明ができる場合に限定して、厳格に適用した場合にのみ表現の自由が許されるとすれば、表現の自由に対する萎縮効果は絶大なのであって、判例はこれらの要件を緩和している。

まず、夕刊和歌山事件(最判昭和44年6月25日刑集23巻7号975頁)は、③の要件について、以下のように述べている。

刑法二三〇条ノ二の規定は、人格権としての個人の名誉の保護と、憲法二一条による正当な言論の保障との調和をはかったものというべきであり、これら両者間の調和と均衡を考慮するならば、たとい刑法二三〇条ノ二第一項にいう事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解する。

つまり、判例は、真実であると誤信し、誤信したことに相当の理由があれば、違法性阻却事由を基礎づける事実に錯誤があるため、責任故意が阻却されると考えていると言える。

より平易にいえば、表現者が自身の主張した具体的事実が真実だと信じ、そう信じたことに相当の理由があるという証明ができれば、刑法上の責任は問えないという法理を生み出して、表現の自由の保護を図っているわけである。

考えてみてほしい。

例えば、ある新聞社の記者Yが、政治家の不倫問題を記事にする際に、その記者自身が、「これは胡散臭い話だな」と思いながら、好き勝手に書いて許されるとすれば、これは表現の自由という権利を濫用、悪用している。

政治家であっても、どのような立場の人間であっても、表現者自身が真実と信じていないような妄想で好き勝手書かれてしまい、社会的名誉を低下させられてはたまったものではない。

少なくとも、記者が十分な取材を尽くし、「この話は真実だ」と信じ込んでおり、「そう信じることに相当の理由がある」と言える場合に限って、当該表現の自由を保護することとすることは、正当な表現の自由の行使までをも害しているとはいえないだろう。

この規範では、表現の自由に対する萎縮効果が大きいと主張する一部の学者もいるが、他人の人権を害するような表現には一定の制約が当然内在しているのであって、こうした批判は妥当ではない(後の回で説明するが、アメリカ最高裁の法理に現実の悪意と言う法理があるが、アメリカでは懲罰的損害賠償が認められるなど、我が国の訴訟体系とは明らかな違いがあるので、アメリカの法理が我が国でも妥当すると考えることはできないと考える)。

さらに、判例・通説は、①の要件については、広く公衆の批判にさらすことが公益を図る上で妥当かどうかという緩やかな判断をしている。

例えば、宗教法人S会のI会長(当時)の女性関係に関する私的な行動についての記事が名誉毀損罪の①の要件に該当するのかが争われた最判昭和56年4月16日では、「私人の私生活の行状であっても、...その社会的活動に対する批判ないし評価の一資料として、公共の利害に関する事実に当たる場合がある」と述べている。

また、②の要件との関係では、主たる動機が公益目的であればよいと理解されている。

このように違法性阻却事由の要件が緩和されていること、および法定刑に選択刑として罰金刑が設けられていることからすれば、我が国の名誉毀損的表現に対する刑事上の制裁はさほど重たいものではない。

(2)民事責任と名誉棄損

民事上は、刑法230条に当たる条文は、民法709条の不法行為責任の範疇となる。しかしながら、民法上は違法性阻却事由を明文で定めた、刑法230条の2のような規定は存在しない。

この点、新聞社の衆議院議員(当時)に対する記事が民事上の不法行為としての名誉毀損行為に当たるとして争われた、最判昭和41年6月23日(民集20巻5号1118頁)は以下のように判示する。

民事上の不法行為たる名誉棄損については、その行為が公共の利害に関する事実に係りもっぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である(このことは、刑法二三〇条の二の規定の趣旨からも十分窺うことができる。)。

つまり、判例法理は、刑法上の違法性阻却事由の考え方が民事上も妥当することを明らかにしている

一般になじみのある事件としては、ロス疑惑の報道に関し、共同通信社が配信した記事に基づいて、記事を掲載した新聞社Yに対して、当時被告人であったXが提訴した不法行為に基づく損害賠償請求事件である最判平成14年1月29日(民集56巻1号185頁)が挙げられる。

この事件では、新聞社は定評のある通信社の記事を掲載したのだから、相当の理由があるという配信サービスの抗弁を主張した。

それに対し、この判決は、現在の報道機関および記者のあり方を厳しく律し、以下のような判決理由を述べている。

本件各記事は,通信社が配信した記事を,Yらにおいて裏付け取材をすることなく,そのまま紙面に掲載したものである。そうすると,このような事情のみで,他に特段の事情もないのに,直ちにYらに上記相当の理由があるといい得るかについて検討すべきところ,今日までの我が国の現状に照らすと,少なくとも,本件配信記事のように,社会の関心と興味をひく私人の犯罪行為やスキャンダルないしこれに関連する事実を内容とする分野における報道については,通信社からの配信記事を含めて,報道が加熱する余り,取材に慎重さを欠いた真実でない内容の報道がまま見られるのであって,取材のための人的物的体制が整備され,一般的にはその報道内容に一定の信頼性を有しているとされる通信社からの配信記事であっても,我が国においては当該配信記事に摘示された事実の真実性について高い信頼性が確立しているということはできないのである。

(中略)

仮に,報道機関が定評ある通信社から配信された記事を実質的な変更を加えずに掲載した場合に,その掲載記事が他人の名誉を毀損するものであったとしても,配信記事の文面上一見してその内容が真実でないと分かる場合や掲載紙自身が誤報であることを知っている等の事情がある場合を除き,当該他人に対する損害賠償義務を負わないとする法理を採用し得る余地があるとしても,私人の犯罪行為等に関する報道分野における記事については,そのような法理を認め得るための,配信記事の信頼性に関する定評という一つの重要な前提が欠けているといわなければならない

つまり、最高裁は、通信社を含め日本の報道機関が十分な裏付け取材もせずに、どこかから出てきた一方的な情報のみを垂れ流すだけの報道を行っており、報道機関の報道には信頼性を確保する努力がなされた痕跡が無く、報道機関の報道には信頼性が確保されているという前提がそもそも欠けていると考えているのであろう。

こうしたスクープ至上主義、行け行けドンドンの節度のない報道は、今も沢山の事件報道で続いている。

結局のところ、十分な裏付け取材もせずに報じる表現活動は、他人の名誉権という人格権への侵害を許容してまで保護に値するだけの価値がないと言えるのではなかろうか。

換言すれば、表現する側が、伝播性のある空間において、他人の社会的評価を下げる具体的事実を告げるのであれば、その事実が真実だと信じることができる程度の取材を尽くせば、保護されるわけであり、その程度の努力は可能であるし、尽くしてしかるべきである。

したがって、最高裁が示している、名誉毀損的表現の違法性阻却事由および責任故意の阻却という表現の自由との調整法理は、非常にバランス感覚に優れた法理であると言える。

さて、今回の刑事責任の解説には、以下の本を参照されると良いだろう。

また、民事分野の解説としては、以下の本がお勧めである。

次回は、名誉毀損的表現が、論争の中での意見および評論として行われた場合に、どういう場合に民事責任が発生するのかという話をしたい。

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12/01/2009

名誉毀損に対する正しい理解(1)― そもそも名誉権とは何か

以前に、名誉毀損に関し判例の状況がどうなっているのかを説明すると書いた記憶があるのだが、しばらくそれを実行していない。

それを思い出したので、名誉毀損に対する正しい理解」と題し、5回に分けて、記事にしたいと思う。

なお、何を持って「正しい」というのかについては、判例・実務・通説を基準にしたい。

学説も多々あるが、所詮学者の意見に過ぎないし、実務は判例を中心に動いているので、学者の皆さんには申し訳ないが、学説については極力触れずに、判例の共通認識を一般人向けに解説できればと思う。

良く法律知識の乏しい人や法的センスのない人が、「有名人には、名誉毀損は成立させるべきではないとか、プライバシーはそもそも存在しない」などという暴論を言っていること耳にしたことはないだろうか。

少なくとも、そうした理解は判例・実務が許容するところではない。

有名人であっても、また、刑事事件の被告人であっても、当然、プライバシー権もあれば、名誉権も存在する。後者の刑事被告人など特殊な場合においては、権利が制約される範囲が広いだけに過ぎない。もちろん、制約される範囲を超えた侵害がなされれば、当然違法の評価を受けるわけである。

しかしながら、表現の自由を行使して利益を得ているマスメディアの関係者は、この点の理解が著しく乏しい。おそらく、理解しようという姿勢すらないだろう。つまり、「行け行けドンドンで、やった者勝ち」、「スクープ至上主義」というメディア文化が存在している。

これはインターネット上での言論活動にも言えることで、インターネットという誰もが閲覧できる媒体の自由性を悪用して、「言った者勝ちという発想」や、「注目を浴びるための過激な主張」などを通じて、当該言論が他人の名誉を毀損し、プライバシーを侵害するような行為か否かに十分な注意を払うことのない悪質な行為がかなり散見される。

もちろん、表現の自由というのは重要な価値を有しているので、十分な配慮が必要であるが、他人の権利や公益を阻害する場合にまで、無制限に許容される自由ではない。

そこで、①名誉権はどういうものなのか、②名誉権は表現の自由との関係でどう調整が図られているのか、③評論による名誉毀損はどういう場合に成立するのか、④プライバシー権との違いは何か、⑤アメリカにおける調整法理の問題点、という5点について、5回程度に分けて、判例・通説の考え方を紹介しようと思う。

1.名誉権とは

そもそも、名誉権とは何かを考えたことがあるだろうか。一言で「名誉」といっても、様々なものがある。例えば、「客観的な人格的価値」から、「社会が人に与える評価」、「主観的な価値意識」などがある。

しかし、法律上、名誉毀損との関係で問題になる「名誉」とは、いわゆる外部的名誉と呼ばれる「社会が人に与える評価」である。

つまり、名誉とは、人の社会的評価であって、自然人はもちろん法人も社会的実在である以上、当然享受する権利である(さらに、法人格のない団体であっても、名誉権は享受する)。

そして、民事上、名誉は「人格権」を構成すると理解される。

人格権を一義的に定義することは難しいが、民法上は「自らの生命・身体・名誉・貞節・氏名・肖像・信用・私生活の秘密などに関する権利」(内田p127)とか、憲法上は「個人の身体的および精神的完全性への権利」と定義される(高橋p128)。

ひとまず、人格権とは、「人の生存に必要不可欠な人格的利益が憲法上の権利として保護されるまでに至ったもの」とここでは定義しておく。

そして、民事上、人格的利益は法律上保護に値する利益と考えられている以上、人格権も当然民事上保護の対象になるのである。

したがって、名誉権の対象たる人の社会的評価は、人格権を構成する重要な価値であり、憲法上保護された権利ということができる。

もっとも、こういった観念的な説明をしても、法律学を学んだ者以外にとっては非常にわかりにくく、理解したようで理解できない状態ではなかろうか。

より平易に説明するとすれば、人は必ず社会的評価を受けて生活しなければならないため、その社会的評価を低下させるようなことをされれば、精神的にひどく傷つくのであって、名誉権とは、その重大な精神的な損害発生を回避するために、対私人との関係だけでなく、対国家との関係でも憲法によって保護すべき価値があるものと理解してほしい。

さて、名誉権がいかに重要な権利なのかは上記の考察から理解していただけたであろう。

次回はいよいよ本題である表現の自由と名誉権の保護を判例はいかにして調整しているのかという点を説明しようと思う。

*定義につき、内田貴「民法Ⅰ」、高橋和之「立憲主義と日本国憲法」から引用

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