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12/19/2009

コメントに対する応答コーナー(18日に頂いたものについて)

引き続き、天皇の中国副主席との官兼問題に関する憲法的考察に関連して、18日中にいただいたコメントへの回答コーナーです。

こんばんわ。
丁寧なご回答ありがとうございます。

>ただ、これを「命令」といえるかは疑問です。少なくとも私が目を通した憲法の著名な本には、命令であるという記述はありません。
>命令というのは行政法上、私人に対して作為不作為を命じるものと定義され、天皇は私人ではありませんから、命令とは言わないと思います。

なるほど。
「法学的な用語としての命令」と「口語的な用法としての命令」の違いでしょうか。

内容につきましては納得しました。ありがとうございます。

>次に内閣法制局の話ですが、おっしゃる通り、一義的には、自民党の長期政権および政治的主導力の欠如に責任があったと思います。自民党の政治家が指導力を発揮して、内閣法制局の改革をすれば、現状のような官僚による解釈権の支配という非民主的な事態は生じていなかったでしょう。

いえ、責任論ではなく「法制局のあり方が民主的かあるいは非民主的か」について、

1.歴代自民党政権は選挙によって選出された議員の投票により選出組閣されているため(間接的ではあっても)民意の反映と言える。

2.内閣法制局長官の任免は内閣による。このため内閣法制局長官人事も民意の反映と言える。また、法制局職員の任免は長官の権限となっているのでこれも同じ。

3.内閣法制局の見解に内閣と著しい齟齬があった場合、内閣によって法制局長官を罷免し新たな長官を据える事で内閣の見解に沿った法制局見解を取り付けることが(制度上)可能。

という点から、「内閣法制局が頑なに抵抗し、行政府の解釈を事実上独占してきたこと」を(歴代自民党政権が)許してきた事は民意の発露としての内閣の意思であり、すなわち(間接的ではありながらも)民主的なコントロール下にあると考えるのが妥当ではないかと思います。

>しかし、他方で、内閣法制局が頑なに抵抗し、行政府の解釈を事実上独占してきたことも紛れもない事実で、これは官僚という立場をわきまえていない行為で、私は妥当ではないと考えます。

内閣法制局設置法3条(所掌事務)を見るに、閣議にはかられる法律案や条約案の審査修正し内閣に上申することは法制局の職務であり、さらに上で述べたように「内閣法制局は民意のコントロール下にある」とするならば、「官僚という立場をわきまえていない行為」とするのには違和感が残ります。

憲法の言うように最高裁判所が唯一違憲立法審査権を持つと言うことに異論はありませんが、そのことと内閣法制局の在り方に矛盾は無いように思われます。

以上より、内閣法制局の在り方について「非民主的である」との批判は妥当ではないように思われますがいかがでしょうか。

投稿: discon | 2009年12月18日 (金) 02時12分

>disconさん

こんばんは。再度のコメントに回答します。

私は内閣法制局のあり方が民主的ではないと言っているのではなく、官僚に内閣が左右される実態が民主的ではないと考えています。

内閣法制局の存在が問題なのではなく、内閣法制局の解釈にそれを統括すべき内閣が拘束されてしまっている実態が、本末転倒で、内閣ひいては国会による民主的コントロールが、政府の法令解釈に対しても果たして及んでいるのかということを問題にしています。

内閣法制局そのものは必要です。しかし、そこの官僚の示す見解と内閣の意思に齟齬があっても、官僚に押し切られてきた実態が政治家に責任があるにしても、非民主的ということです。

特に、憲法解釈は、違憲立法審査権の存在により、司法権が唯一の有権的解釈期間ですから、内閣法制局の示す見解は単なる意見に過ぎず、それに拘束され押し切られてきた実態が私は問題だと思っています。

違憲立法審査権への言及は、マスメディアの報道も内閣法制局の見解があたかも判例のように扱っていることもおかしな話なので、内閣法制局の見解と司法権の示す判例という有権的解釈との違いを明確にするために、司法権との対比をしているわけです。

形式的な判断ならそうかもしれません。「形式的」には。その内閣を実際に動かしてるのがいち政党の幹事長だ、ってことに目をつぶれば。小沢幹事長のあの逆ギレ会見を見れば、誰の指示だったかなんて一目瞭然でしょう。そういうところを考慮しないで形式だけに注目するというのは、現実を見てないんじゃないでしょうか。

与党とはいえ大臣でもない、ただの幹事長のごり押しで天皇陛下の行動が左右されて、それをマスコミが擁護する。30日ルールが憲法に則しているかどうか、なんて事よりはるかに「法治国家」としてのシステムを揺るがす事態だと思いますが。それでも「形式的には」整っているからいいんだ、というならもう何も言うことはないです。

投稿: aro | 2009年12月18日 (金) 03時13分

>aroさん

はじめまして。

私は形式的に考察したつもりはありません。記事やコメントに対する回答で何度も明確に述べていますが、この記事は憲法論としてどうなのかという視点から、発信している情報であって、小沢氏の政治的手法等々は別の問題であるとはっきり示しています。

むしろ憲法学の深い議論を念頭に、宮内庁長官の会見行為が内閣の天皇に対するコントロールという憲法上の要請を阻害するものであることを問題にしているわけです。

記事中にも、形式的に正しいので、すべて正しいなんていうことは一切言っていません。

30日ルールも現在の内閣の意思の下でそれが運用されるのであれば問題なく、私はそれが憲法に則していないなどという考察もしていません。

30日ルールを盾に、現在の内閣の意思に反するような羽毛田宮内庁長官の会見行為が問題であることを指摘しているわけです。

また、憲法の基本的理解に欠ける一部の新聞では、国事行為ではなく公的行為だから、助言と承認は必要がなく、宮内庁のルールが妥当するというかのような馬鹿げた議論をしています。公的行為でも当然内閣の意思の下に置くことが象徴天皇制の趣旨なのですから、こうした誤まった理解を頒布し、一定の危険な思想に誘導する現在のメディアには恐ろしさを感じたので、今回の記事を書きました。

 丁寧なご返答ありがとうございました。おかげ様でモヤモヤとしていた疑問が解消されました。
 要するに、矛盾する二つの要請をどう考えるかという問題に帰結するということですね。すなわち、日本国憲法の趣旨から象徴ないし天皇という存在をどう解釈するかによって、どちらの要請(助言と承認を経ているから政治利用が可能とするか、あくまで謙抑的にすべきと解するか)を重視するかが決定される。その意味で小沢氏の発言も正しく、他方批判の声も筋が通っている。憲法は矛盾を抱えているという共通認識を理解してほしいということですね。大変納得いたしました。

投稿: しげ | 2009年12月18日 (金) 17時36分

>しげさん

再度のコメント有難うございます。貴殿の疑問の解消になれば幸いです。

おっしゃるような理解で良いと思います。

ただ、一部メディアでは、公的行為は内閣の助言と承認が不要という部分だけを取り除いて、戦前の天皇制を認めるかのような議論がなされていることに私は強い危惧を感じます。

以前にも指摘しましたが産経新聞は、とりわけ、憲法議論を通説の理解するところから外れ、マイナーな見解をあたかも憲法学の共通認識かのように報じます。こういう誤まった情報が広まるのは非常に危険ですね。

公的行為を認めるにしても内閣の意思の下に置かなければならないことは憲法学上の共通理解です。

その上で、内閣が政治的色彩の強い行為を天皇に行わせる場合はどう考えるべきかかという次の問題点が出てくることになり、渋谷先生のような考え方があるわけです。

いずれにしましても、多数説、有力説(高橋和之先生の10号該当という見解)の考えからすれば、小沢幹事長の考え方は正しく、宮内庁長官による30日ルールを破ったという批判は、現在の内閣の意思よりも、宮内庁のルールを守れということにつながり、これは民主主義から大きく外れる危険な発想と私は思います。

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Comments

憲法に定める正当な手続きで選ばれた者の発言こそが正しいというのなら、ヒトラ。ーのナチ政権も、戦前の我が軍国政権も皆正当な手続きによって行われた政治です。
 今回の事件も、問題は、単に手続きが正当と言う外見上の問題ではなくその発言の発端が、個人の政治家の思惑によって為されたという本質にあります。
 政治の場に於いて、外見が正当で真っ当な手続き等という者は当然にして当たり前のこととしてあります。
 独裁者は、常に、熱狂的に迎えられます。そして常に、定められた正当な手続きによって独裁者の意図は具現化してきました。
 憲法の定めがどう有れ、今回の発言の法的根拠がどう有れ、小沢独裁政治が露呈した最初の瞬間です。
 手続きが正しいかどうか出はなく、その実相が如何なるものかを見極めることこそ必要なことです。

Posted by: 傍観者 | 12/19/2009 at 09:55 AM

憲法解釈の点から質問させてください。

今回における天皇会見の「公的行為」該当性については、議論の余地があるのではないでしょうか。

お話によれば、天皇の新善外交が「公的行為」に該当することを前提にして、議論を展開されていると思います(高橋説はここでは無視して、「儀式を行うこと」には不該当とします)。

確かに、芦部本などを読むと、天皇が外国首脳と接受することは、公的行為に該当するようです。

しかし、今回の天皇会見は非常に特殊であり、多数説が予定した「外国首脳との接受」とは同列に論じることができないのではないでしょうか。多数説が予定した「外国首脳との接受」は、おそらく形式的・儀式的なものであると思います。他方、本件の天皇会見は、(事実関係とその評価は難しいですが)、非常に政治的な駆け引きのために天皇が利用されていることが疑われます。

そもそも、憲法4条は「国事に関する行為のみ」として、天皇の権能を限定的に規定しています。その趣旨は、時の政府が天皇を利用することを制限することにあると解されます。ならば、「公的行為」概念を認めるとしても、その範囲は決して無制限のものではなく、むしろ限定的に解されるべきものです。このことに考えれば、政治利用の天皇会見は、(たとえ形式的には該当するとしても)実質的に公的行為に該当するかは、議論の余地があると思います。

この点については、いかがお考えでしょうか?

Posted by: mi3caduki | 12/20/2009 at 12:38 AM

>mi3cadukiさん

初めまして。
多数説は、三行為説ともいわれますが、天皇の行為には、国事行為、象徴の地位に基づく公的行為、私的行為の3つがあると考えます。7条9号は外交使節の受け入れの際のアグレマンの場合を想定していますから、天皇の副主席との会見はこれにも当たりません。

そこで、私的行為か、公的行為かといえば、後者に分類されると考えるもので、至ってシンプルです。ゆえに範囲が明確ではないという批判を受けます。

しかし、渋谷先生の御著書にも書かれていますが、多数説は、想定する公的行為には一定の政治的色彩が帯びてしまうことを容認したうえで、内閣の意思の下に置けばよいと考えるわけです。なぜならば、天皇が独自の判断に基づくよりは、内閣によるコントロールを及ばせる方が、国民主権の原理に適うと考えるからです。

4条1項の趣旨は、貴殿の言われるような「時の政府が天皇を利用することを防ぐ」というものではなく、「天皇による統治権の関与を例外的なものに位置付け、天皇は国民の決定に従う者という位置づけを明確にした」と考えるのが多数説の見解だと思われます。

つまり、天皇が利用されることを禁止しようという発想ではなく、天皇に権限が与えられることを禁止しようという発想が優先しているように思います。

詳しくは渋谷p150-152を御参照ください。

したがって、結論から言えば、多数説は貴殿のように公的行為の中身を分析的には考察しませんから、多数説にしたがえば、今回の会見が公的行為に当たるのは当然であって、議論の余地はないということになるでしょう。

もちろん、多数説に対する批判として、公的行為の範囲を限定しようという議論は当然ありますが、どういう形の限定が良いのかは学者によってまちまちで、多数説や通説としての一致には至ってないと思います。

Posted by: ESQ | 12/20/2009 at 12:52 AM

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