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11/30/2009

パフォーマンスに乗せられない国民性を

事業仕分そのものは大賛成だが、一連の報道を見ていると、どうも方法論が間違っているような気がしてならない。

いかにして、1時間やそこらで、事業そのものの現状を理解し、その効果を査定できるのであろうか。事業仕分を担当している「仕分人」と称される民主党の議員と民間人は、通常人には見えないものが見える特殊能力でも持っているのであろうか。

どうも、スタイル(形)だけが先行し、適正手続きすら図られておらず、予算事業に対するザルな事実認定と評価をしていると思えてならない。

しかし、国民の9割以上がこの事業仕分に賛同しているという報道を耳にする。事業仕分の方法まで国民は9割も果たして賛成しているのだろうか。

少なくとも私は、事業仕分を行うことは評価するが、方法は評価しない。こういう人間の声は、賛同する9割に含まれるのであろうか、それとも私のような意見は残りの1割なのだろうか。

世論調査では、数字が先行するが、数字の裏側にある国民の声が本当に事業仕分にもろ手を挙げて賛成しているのかはしっかり検証してほしいものである。

仮に、官僚を「敵」として、事業仕分で、立場を利用して相手をやりこめる議員の姿だけを見て、国民の9割が賛同しているとすれば、これはまさにソクラテスが嘆いた衆愚政治そのものに日本は陥ったことになるだろう。

小泉政権下で、郵政民営化および構造改革が何をもたらすか理解すらしようとせずに、「何かやってくれるだろう」という無責任な期待をした時と同じように。

私は、このままパフォーマンスと削減ありきの検証が続き、その結果がそのまま予算に反映されるとすれば、国民の当初の鳩山民主政権に対する期待は、回復し難い政治不信へと転化してしまうのではないかと危惧している。

なぜならば、パフォーマンス重視の政治は期待すら生むが、成果はほとんど生まないことが多いためである。

小泉改革が中途半端で終わり日本経済がデフレに陥ったと評されていること、オバマ政権のアフガン政策が泥沼化していること、安倍政権下での再チャレンジというスローガンが名前倒れで何一つ再チャレンジを容易にする社会構造の変革を成し遂げられなかったことなど一連の政治的パフォーマンスを目にすれば、パフォーマンスが国民の期待を一時的に高揚するものの、成果が生まれない以上、国民の期待が不信に変わるという事実は明らかである。

もっとも、情けないのは、野党第一党の自民党議員である。

野党第一党の自民党とその議員は今までの自分たちの雑な政権運営に対する真摯な反省もせずに、薄っぺらい批判ばかりしているのであるから、日本の将来はまさに泥沼化している。

政府委員も経験された公認会計士の山田真哉先生が自身のブログで、自民党政権の渡辺喜美担当大臣の下で行われた行革会議の時間も1時間だったと述べられておられた。

自民党政権下でも同じことをしてきたのであれば、従来の自公議員が民主党の事業仕分がやっているのは「拙速すぎる」と批判する資格があるのか私は疑問に思う。結局、官僚任せで、実のある無駄の削減はしてこなかったのではないのか。

いっそのこと、自民党が抜本的に生まれ変わる契機として、小選挙区を落ちた議員(比例復活も含めて)は総入れ替えくらいの意気込みが欲しいところである。

自民党の凋落ぶりをみていると、民主党の「代わり」がいないのが現状であるから、民主党にはしっかりしてもらいたいのだが、連日の事業仕分のニュースを見ていると、「しっかりしてくれ」という要求自体が過剰な期待なのかもしれないという不安に陥ってしまう。


1.事業仕分の目的を具体化すべき

なぜ、私が事業仕分方法に疑問を持ち始めたかというと、①先日の神田道子さんが理事を務める国立女性会館の事業検証の在り方が非常に乱暴な議事指揮に思えたことに加え、日本の理系学力の低下が叫ばれている中で、②日本科学未来館の事業予算の削減と、③次世代スーパーコンピューターの開発予算が削減という判断を受けたことから、「事業仕分の目的」はそもそも何なのかが気になったたことに起因する。

この点、私は、事業仕分の方法を適切に批判するのであれば、まず、この作業の趣旨目的が何かを理解しなければならないと考えている。

なぜならば、今行っている作業の目的・趣旨がはっきりして初めて、その目的達成のための手段として、現在の方法が妥当なのかという評価できるためである。

行政刷新会議の示す資料(事業見直しの視点)によれば、明確な趣旨・目的としたものはないが、事業仕分の趣旨目的と考えられる「視点」として、以下の点が挙げられている。

○事業目的が妥当であるか、財政資金投入の必要性があるか。

○手段として有効であるか。

○手段として効率的であるか。

○限られた財源の中、他の事業に比べ緊要であるか。

しかし、これは事業仕分の趣旨・目的としては不適当である。

なぜならば、これらは、手段審査に使われるべき視点であって、そもそも事業仕分をどういった観点から行うのか、つまり、どういった国家のあり方を形成するために、どういう分野でのどういう政策を重視して予算を再配分するのかという鳩山内閣の基本姿勢が明らかにならななければ、これらの視点は何の意味も持たない

例えば、事業目的が妥当か否かを視点の1つとしているが、当不当の判断をするためには、その基準が必要である。

具体的に言えば、政権が最重要課題として考える国家像、理念というものが、「友愛」という極めて抽象的なものでしかなく、その具体化をしないままで、事業目的の妥当性を検証できると考えていることがお粗末としか言いようがない。

結局、事業仕分を通じて、何を実現するのかという最も重要な点の具体化がかけており、曖昧で、かつ、場当たり的な状態でパフォーマンスに突っ走っているため、仕分の判断に疑問が生じてくるわけである。


2.仕分の手段固有の問題点

事業仕分の目的、つまり、予算を通じた国家像が明確になっていない以上、事業仕分の手段もまた迷走してしまう。

しかし、手段についても、今行っている方法には大きな固有の問題点がある。

事業仕分とは民間で行う事業評価と同じであると考えれば、一般論として、その事業に具体的にどういう無駄があるか、具体的な効率化方法を示して、事業の質を保ちながらいかにコストを削るかという分析が、事業仕分には本来求められている作業なのではないだろうか。

それを一事業、一時間程度の議論でやってしまおうというのだから、私にはどう考えても、理解できないわけである。

私の友人にDue Deligence(以下、「デューデリ」)を専門に行っている弁護士やコンサルタントがいるが、このデューデリほど地道で、時間がかかり、膨大な資料に忙殺される仕事はないという。

デューデリとは、企業買収の際に、会計士や弁護士、コンサルタントによって、買収対象の企業の資産状況を査定するものである。

一言で言ってもデューデリには、①膨大な資料から必要な情報を抜き出す作業と②その報告書に基づいて評価する作業がある。

事業仕分人に選ばれている人たちをみると、いわば②の方をやることには長けているような人々が多いが、デューデリの成否を分ける本来一番重要な部分は①の作業であろう。

なぜならば、①は事実認定作業といえ、②は評価と言い換えることができるところ、事実認定に誤りがあれば、評価も当然誤まるからである。

しかしながら、①の作業は完全に財務省主導である。財務官僚が優秀なのは認めるが、①の作業に有能な民間人を投入しなければ、官僚の発想から抜け出した本当の意味での無駄を省くことはできない。

事実認定を間違えれば、評価も当然間違える。事実認定の作業を官僚に任せておいて、評価だけやろうとするのだから、これでは何の成果も生まないパフォーマンスでしかない

下手をすれば、必要なものを削ってしまい、社会全体の財産を棄損することにもなりかねない。事実認定は慎重に行うべきである。


3.同じパフォーマンスなら実のあるパフォーマンスを!

以前の記事「日本には無駄な政治家が多すぎる」で示したように、同じパフォーマンスをして自民党との違いを示すのであれば、政治家自身が身を削ることで、国民の信頼を得るべきであろう。

不必要に事業説明をする官僚側(実際には多くの民間人もいる)を悪と決め付け、仕分人が正しいかのような捉え方は、問題の本質への切り込みを回避しているだけにすぎず、百害あって一利無い。

政治家の仕分人がそこで討論のような姿勢で、説明する側を追い詰めるシーンは、エンターテイメントとしては面白いかもしれないが、国民の財産という予算事業を扱っているという観点からすれば、非常に稚拙であり軽薄である。

まして、その事実認定部分、つまり、シナリオライターが、財務官僚であるとすれば、政治主導なんか嘘っぱちということにすらなりかねない。

同じようにパフォーマンスをするなら、まず、無駄に多い市町村や都道府県の地方議員の数をアメリカ並みに抜本的に減らすべきであろう。

それもせずして、科学技術や教育分野の事業を十分な時間もとらずに、無駄と判断して予算規模を減らすのは、将来のある若者への投資をせずして、負担だけを相続させるようなものである。

そして、国民は、「なにかやってくれそう」という浮ついた期待はせずに、パフォーマンスには乗せられない国民性を身につけなければならない。そのためには、何事も妄信せずに疑う姿勢が重要である。

さて、今日は疑うことの重要性を教えてくれる映画を紹介しようと思う。

まず、「十二人の怒れる男」である。この映画についてはこのブログで何度も取り上げているように、事実認定の難しさを教えてくれる極めて良質の映画である。この映画を見るたびに、事実認定に慎重さが求められることを肝に銘じることができる。この映画を通じて、見方を変えると、事実が変わって見えてくるということの重大性にも気がつくことができるだろう。

そして、もう1つ。「真実の行方」と言う映画を紹介したい。知っている人も多いと思うがこの映画は、エドワード・ノートンの演技が衝撃を与えた映画で、主演のリチャード・ギアよりもノートンの演技力が冴えている。この映画も、事実と真実は違うということ、および、事実認定の難しさを教えてくれる一作である。

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