« October 2009 | Main | December 2009 »

November 2009

11/30/2009

パフォーマンスに乗せられない国民性を

事業仕分そのものは大賛成だが、一連の報道を見ていると、どうも方法論が間違っているような気がしてならない。

いかにして、1時間やそこらで、事業そのものの現状を理解し、その効果を査定できるのであろうか。事業仕分を担当している「仕分人」と称される民主党の議員と民間人は、通常人には見えないものが見える特殊能力でも持っているのであろうか。

どうも、スタイル(形)だけが先行し、適正手続きすら図られておらず、予算事業に対するザルな事実認定と評価をしていると思えてならない。

しかし、国民の9割以上がこの事業仕分に賛同しているという報道を耳にする。事業仕分の方法まで国民は9割も果たして賛成しているのだろうか。

少なくとも私は、事業仕分を行うことは評価するが、方法は評価しない。こういう人間の声は、賛同する9割に含まれるのであろうか、それとも私のような意見は残りの1割なのだろうか。

世論調査では、数字が先行するが、数字の裏側にある国民の声が本当に事業仕分にもろ手を挙げて賛成しているのかはしっかり検証してほしいものである。

仮に、官僚を「敵」として、事業仕分で、立場を利用して相手をやりこめる議員の姿だけを見て、国民の9割が賛同しているとすれば、これはまさにソクラテスが嘆いた衆愚政治そのものに日本は陥ったことになるだろう。

小泉政権下で、郵政民営化および構造改革が何をもたらすか理解すらしようとせずに、「何かやってくれるだろう」という無責任な期待をした時と同じように。

私は、このままパフォーマンスと削減ありきの検証が続き、その結果がそのまま予算に反映されるとすれば、国民の当初の鳩山民主政権に対する期待は、回復し難い政治不信へと転化してしまうのではないかと危惧している。

なぜならば、パフォーマンス重視の政治は期待すら生むが、成果はほとんど生まないことが多いためである。

小泉改革が中途半端で終わり日本経済がデフレに陥ったと評されていること、オバマ政権のアフガン政策が泥沼化していること、安倍政権下での再チャレンジというスローガンが名前倒れで何一つ再チャレンジを容易にする社会構造の変革を成し遂げられなかったことなど一連の政治的パフォーマンスを目にすれば、パフォーマンスが国民の期待を一時的に高揚するものの、成果が生まれない以上、国民の期待が不信に変わるという事実は明らかである。

もっとも、情けないのは、野党第一党の自民党議員である。

野党第一党の自民党とその議員は今までの自分たちの雑な政権運営に対する真摯な反省もせずに、薄っぺらい批判ばかりしているのであるから、日本の将来はまさに泥沼化している。

政府委員も経験された公認会計士の山田真哉先生が自身のブログで、自民党政権の渡辺喜美担当大臣の下で行われた行革会議の時間も1時間だったと述べられておられた。

自民党政権下でも同じことをしてきたのであれば、従来の自公議員が民主党の事業仕分がやっているのは「拙速すぎる」と批判する資格があるのか私は疑問に思う。結局、官僚任せで、実のある無駄の削減はしてこなかったのではないのか。

いっそのこと、自民党が抜本的に生まれ変わる契機として、小選挙区を落ちた議員(比例復活も含めて)は総入れ替えくらいの意気込みが欲しいところである。

自民党の凋落ぶりをみていると、民主党の「代わり」がいないのが現状であるから、民主党にはしっかりしてもらいたいのだが、連日の事業仕分のニュースを見ていると、「しっかりしてくれ」という要求自体が過剰な期待なのかもしれないという不安に陥ってしまう。


1.事業仕分の目的を具体化すべき

なぜ、私が事業仕分方法に疑問を持ち始めたかというと、①先日の神田道子さんが理事を務める国立女性会館の事業検証の在り方が非常に乱暴な議事指揮に思えたことに加え、日本の理系学力の低下が叫ばれている中で、②日本科学未来館の事業予算の削減と、③次世代スーパーコンピューターの開発予算が削減という判断を受けたことから、「事業仕分の目的」はそもそも何なのかが気になったたことに起因する。

この点、私は、事業仕分の方法を適切に批判するのであれば、まず、この作業の趣旨目的が何かを理解しなければならないと考えている。

なぜならば、今行っている作業の目的・趣旨がはっきりして初めて、その目的達成のための手段として、現在の方法が妥当なのかという評価できるためである。

行政刷新会議の示す資料(事業見直しの視点)によれば、明確な趣旨・目的としたものはないが、事業仕分の趣旨目的と考えられる「視点」として、以下の点が挙げられている。

○事業目的が妥当であるか、財政資金投入の必要性があるか。

○手段として有効であるか。

○手段として効率的であるか。

○限られた財源の中、他の事業に比べ緊要であるか。

しかし、これは事業仕分の趣旨・目的としては不適当である。

なぜならば、これらは、手段審査に使われるべき視点であって、そもそも事業仕分をどういった観点から行うのか、つまり、どういった国家のあり方を形成するために、どういう分野でのどういう政策を重視して予算を再配分するのかという鳩山内閣の基本姿勢が明らかにならななければ、これらの視点は何の意味も持たない

例えば、事業目的が妥当か否かを視点の1つとしているが、当不当の判断をするためには、その基準が必要である。

具体的に言えば、政権が最重要課題として考える国家像、理念というものが、「友愛」という極めて抽象的なものでしかなく、その具体化をしないままで、事業目的の妥当性を検証できると考えていることがお粗末としか言いようがない。

結局、事業仕分を通じて、何を実現するのかという最も重要な点の具体化がかけており、曖昧で、かつ、場当たり的な状態でパフォーマンスに突っ走っているため、仕分の判断に疑問が生じてくるわけである。


2.仕分の手段固有の問題点

事業仕分の目的、つまり、予算を通じた国家像が明確になっていない以上、事業仕分の手段もまた迷走してしまう。

しかし、手段についても、今行っている方法には大きな固有の問題点がある。

事業仕分とは民間で行う事業評価と同じであると考えれば、一般論として、その事業に具体的にどういう無駄があるか、具体的な効率化方法を示して、事業の質を保ちながらいかにコストを削るかという分析が、事業仕分には本来求められている作業なのではないだろうか。

それを一事業、一時間程度の議論でやってしまおうというのだから、私にはどう考えても、理解できないわけである。

私の友人にDue Deligence(以下、「デューデリ」)を専門に行っている弁護士やコンサルタントがいるが、このデューデリほど地道で、時間がかかり、膨大な資料に忙殺される仕事はないという。

デューデリとは、企業買収の際に、会計士や弁護士、コンサルタントによって、買収対象の企業の資産状況を査定するものである。

一言で言ってもデューデリには、①膨大な資料から必要な情報を抜き出す作業と②その報告書に基づいて評価する作業がある。

事業仕分人に選ばれている人たちをみると、いわば②の方をやることには長けているような人々が多いが、デューデリの成否を分ける本来一番重要な部分は①の作業であろう。

なぜならば、①は事実認定作業といえ、②は評価と言い換えることができるところ、事実認定に誤りがあれば、評価も当然誤まるからである。

しかしながら、①の作業は完全に財務省主導である。財務官僚が優秀なのは認めるが、①の作業に有能な民間人を投入しなければ、官僚の発想から抜け出した本当の意味での無駄を省くことはできない。

事実認定を間違えれば、評価も当然間違える。事実認定の作業を官僚に任せておいて、評価だけやろうとするのだから、これでは何の成果も生まないパフォーマンスでしかない

下手をすれば、必要なものを削ってしまい、社会全体の財産を棄損することにもなりかねない。事実認定は慎重に行うべきである。


3.同じパフォーマンスなら実のあるパフォーマンスを!

以前の記事「日本には無駄な政治家が多すぎる」で示したように、同じパフォーマンスをして自民党との違いを示すのであれば、政治家自身が身を削ることで、国民の信頼を得るべきであろう。

不必要に事業説明をする官僚側(実際には多くの民間人もいる)を悪と決め付け、仕分人が正しいかのような捉え方は、問題の本質への切り込みを回避しているだけにすぎず、百害あって一利無い。

政治家の仕分人がそこで討論のような姿勢で、説明する側を追い詰めるシーンは、エンターテイメントとしては面白いかもしれないが、国民の財産という予算事業を扱っているという観点からすれば、非常に稚拙であり軽薄である。

まして、その事実認定部分、つまり、シナリオライターが、財務官僚であるとすれば、政治主導なんか嘘っぱちということにすらなりかねない。

同じようにパフォーマンスをするなら、まず、無駄に多い市町村や都道府県の地方議員の数をアメリカ並みに抜本的に減らすべきであろう。

それもせずして、科学技術や教育分野の事業を十分な時間もとらずに、無駄と判断して予算規模を減らすのは、将来のある若者への投資をせずして、負担だけを相続させるようなものである。

そして、国民は、「なにかやってくれそう」という浮ついた期待はせずに、パフォーマンスには乗せられない国民性を身につけなければならない。そのためには、何事も妄信せずに疑う姿勢が重要である。

さて、今日は疑うことの重要性を教えてくれる映画を紹介しようと思う。

まず、「十二人の怒れる男」である。この映画についてはこのブログで何度も取り上げているように、事実認定の難しさを教えてくれる極めて良質の映画である。この映画を見るたびに、事実認定に慎重さが求められることを肝に銘じることができる。この映画を通じて、見方を変えると、事実が変わって見えてくるということの重大性にも気がつくことができるだろう。

そして、もう1つ。「真実の行方」と言う映画を紹介したい。知っている人も多いと思うがこの映画は、エドワード・ノートンの演技が衝撃を与えた映画で、主演のリチャード・ギアよりもノートンの演技力が冴えている。この映画も、事実と真実は違うということ、および、事実認定の難しさを教えてくれる一作である。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

11/28/2009

英米を中心にスーザン・ボイル旋風再燃

先日、購入したスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんのCDを聞いて、改めて彼女の歌声の素晴らしさを痛感した。

このスーザン・ボイルさんのCDが記録的な大ヒットとなっているという。

イギリスの大衆紙、デイリー・メイルの伝えるところによれば、スコットランド出身の歌手、スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんの23日に発売されたCDアルバムが発売から24時間で13万4000枚を売り上げ、発売から1週間以内で、40万枚を売り上げる勢いだという。

また、デイリースター紙は、既に50万枚の売り上げがあり、今年リリースされたCDの中で最も速いスピードで売り上げを伸ばしていると報じており、スーザン・ボイルさんの人気ぶりがうかがえる。

もっとも、タブロイド紙ミラーによれば、CD販売により、ボイルさんへの熱狂が再燃したことにより、再度ボイルさんの精神状態の悪化を心配する声があるという。1日中自分のCDを大音量でかけているなどという奇行があったと報じているのである。

そうしたストレスの原因として、同紙の別の記事は、スター特有の孤独を感じているのではないかと分析する。かつてフレディー・マーキュリーが言った「People say I’m loved by millions, so why do I feel like the loneliest man in the world?(皆、俺は数百万人に愛されているというけど、じゃあなぜ俺は世界で一番孤独な男だと自分自身で感じているのだろう)」という言葉を引用し、ボイルさんの心境がまさに今この状況なのではないかと分析している。

イギリスの大衆紙サンも、ボイルさんへのストーカー行為やパパラッチの嫌がらせ的取材が増えていることから、プロデューサーのサイモン・コーウェル氏の判断により、ボディーガードを増員してセキュリティーを強化したという情報を伝えている。

有名になってもプライバシー権は失われないのだから、メディアも人間を取材対象にしているということを考えて行動すべきと思うが、低俗なパパラッチに正論を発するだけ無駄で、セキュリティーを強化して強制的に排除をするしか実効的な方法はないのかもしれない。

ところで、ボイルさんのCDの歌詞カード部分には、一曲ずつ手書きのメッセージが添えられている。彼女がどういうい気持ちでその曲を選曲しているのかが良く解る。最後の部分にこの曲を母親に捧げるというメッセージがあったのはいかにも欧米らしく、心温まるメッセージである。

なお、Youtube上で本版のCDにしか入っていない「翼をください」を聞いた外国人が日本以外でもこの曲をシングルでリリースしてほしいというコメントがかなり寄せられているのを発見した。輸入版より1000円以上高い日本版のプレミアがこの1曲である。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

11/27/2009

視聴者参加型番組が日本のテレビ業界を救う!?

最近テレビ業界における不況が騒がれて久しい。視聴率もかなり低迷している番組が多いと聞く。

特にバラエティー番組がマンネリ化してきており、面白くなくなってきたと感じるのは私だけではないはずである。どうも内輪ばかりで盛り上がるネタが多くなり、テレビタレントではない製作者側のスタッフまでもがお笑いのネタに駆り出されているシーンを多く見かける。

しかし、その番組のコアなファンは格別、通常の視聴者であれば、内輪のネタやスタッフをネタにするバラエティー番組には何の面白みも感じないし、ついついチャンネルを変えたくなるのではなかろうか。

最近、毎週欠かさずみたいというテレビ番組が非常に少なくなっていると私は感じる。

製作費が切り詰められたので、面白い番組作りができないという話も聞く。もしこの主張が正しいとすれば、不況が問題であるとすれば、全世界的にテレビ番組の視聴率が落ちているということになるだろう。

しかし、海外のテレビ業界を見ると、世界的不景気の影響は多少あるものの、視聴率で言えば、かなり堅調な番組が多い。海外といっても、私が知っているのは、アメリカとイギリスの状況だけなのだが、それらの堅調なテレビ番組には共通のキーワードが存在している。

それが、番組の行く末を完全に視聴者に委ねる程度の視聴者参加の形式を採用した番組作りである。

1.英米を中心に人気のオーディション番組による視聴者参加形式

このブログでも度々紹介してきた、英国ITVでは、ゴールデンタイムはほとんどこの形式のテレビ番組を採用している。

例えば、ポール・ポッツさんやスーザン・ボイルさんを生み出した「Britain's Got Talent」は、予選を除き、出場者の採点を視聴者の電話投票に委ね、一部番組側の審査員が介入する余地があるが(数回行われるセミファイナルにおいて、電話投票2位と3位から2位通過を決めるのは、審査員)、基本的に視聴者がその後の出演者を決める決定権を持っているわけである。

Britain's Got Talentの映像

この番組の視聴率はかなり高く、アメリカ版の「America's Got Talent」という番組がスタートするなど、番組そのもののファンが増えている。

また、似たような番組で、アイドル歌手をオーディションする番組として、「Pop Idol」と言う番組や、「X-Factor」という番組も、イギリスで人気を博しており、これもアメリカに輸入され、高い視聴率を確保している。

X-Factorの映像

Pop Idolの映像

これらの番組も、素人をターゲットとしているという点で新鮮さがあるが、やはり共通しているのは、電話による人気投票によって、出演者を決めると言う点で、視聴者にその後の番組の行く末を委ねるようなシステムが採用されている。

これら3つのイギリスやアメリカの人気番組はいずれも、オーディション番組なので、視聴者による電話投票というのは、あり得ることで、オーディション番組の特殊性から、視聴者参加型になっているにすぎないという見解もありえるだろう。

しかし、私は、視聴者参加型形式の番組だからこそ、オーディション番組が人気になっているのだと思う。

なぜならば、オーディション番組ではないバラエティー番組でも、英米では、視聴者参加型形式を取り入れる番組がかなり増えているのである。

なお、「電話投票に番組側が介入して、製作者の都合が良いように作っているのでは?」という疑問を持つ人もいるだろうが、少なくともイギリスでは、Ofcom(英国情報通信庁)と呼ばれる政府の機関がメディアの規制機関として、強い権限を持っており、視聴者投票などで不正がある場合には、介入することがあるため、視聴者参加を謳った番組形式において、番組の制作者側の都合のよい操作を行うのは困難であろう(実際、一部の番組で、Ofcomが不正な点を指摘したことにより、司会者およびテレビ局が謝罪と改善を約束するに至っている)。

2.バラエティー番組における視聴者参加方式

このブログでよく取り上げるイギリスの人気司会者デュオのアント&デックが司会を務める「Saturday Night Takeaway」というテレビ番組がある。

Saturday Night Takeawayの映像

これもITVのテレビ番組なのだが、以前紹介したように、この番組をインターネット上で配信する英国ヴァージン社は、日本円で約20億円の黒字が計上できたという。

このテレビ番組は、生放送で行われ、会場に数百名の観客を入れ、観客と司会者、そして視聴者が一体となったドッキリの仕掛けがあったり、視聴者が電話をかけて、簡単なクイズ1問に答えることで、番組内で豪華プレゼントを獲得できるチャンスがあるなど、観客を中心とした視聴者参加型のバラエティー番組になっている。

視聴者は、電話をしてクイズに答えるだけで、抽選で選ばれ、豪華賞品がもらえる可能性があるわけだから、それだけでも人気が上がるわけである。

いわば、フジテレビがクリスマス・イヴに放送する「明石家サンタ」(深夜にもかかわらず、だいたい7%くらいの視聴率を毎年確保している)に似ているのだが、それを、毎週1回、10週間程度を1クールとして毎年放送されている。

視聴者参加型バラエティーはこれだけではない。

今現在、イギリスのエンターテイメント情報を独占しているのが、これまたITVの「I'm A Celebrity. Get Me Out Of Here」と言う番組である。

I'm A Celebrity. Get Me Out Of Hereの映像

英米を中心に活躍するハリウッド俳優やテレビ俳優、歌手やモデル、テレビタレントなど「セレブ」が10数名ほど選ばれ、オーストラリアのジャングルで、約20日間過ごし、毎日1時間のゴールデンタイム向けのテレビ番組として、その過ごした内容が放送される番組である。

一種のリアリティー番組で、24時間、安全なジャングルの中(自然公園のような場所)で寝食を共にするのだが、ただ1つ普通のリアリティー番組と違うのが、「Bushtucker Trial (オーストラリアの奥地の食事の試練)」と呼ばれるコーナーがあり、毎日1回、10数名のセレブのうちの1人又は2人が食用の虫(ゴキブリや幼虫など)を食べたり、害のないクモなどの虫やワニ、蛇が入ったケースに手足を突っ込んで、星を獲得して、獲得した星の数に合わせて、その日の晩御飯の食材が提供されるという形式のゲームがある。

このゲームをセレブは途中で棄権することもできるが、その日の食事がかかっているので、他の出演者のためにも、簡単には棄権できないということになっている。

日本でも良くある罰ゲームなのだが、生放送の番組の中で、視聴者の電話投票があり、誰がこの罰ゲームをやるかを視聴者の投票に委ねることで、視聴者参加形式を採用しているのである。

いわば、嫌いな芸能人に嫌がらせができるわけだから、視聴者は嫌いな芸能人への投票をしたり、好きな芸能人にやらせたくないということで、別の芸能人に電話投票などをして、罰ゲームをするセレブを選べるわけである。

この罰ゲームが人気を博し、イギリスではかなりの視聴率を稼ぎ、シーズン9を迎えている。

また、この番組形式を輸入したものが、アメリカだけでなく、フランス、ドイツ、インド、ハンガリー、スウェーデンなどでも放送されている。

先にも述べたように、現在、イギリスでのエンタメ情報の話題をこの番組が独占している理由は、ケイティー・プライス(Katie Price)というモデルで、最近人気のシンガーであるPeter Andreと離婚した女性が、この番組の「セレブ」として参加していたのだが、このケイティー・プライスは、イギリス国内では、「メディアの注目を浴びるためなら何でもする女」と罵られるほどかなり嫌われており(騒がせている一例としては、有名人によるレイプ被害に遭い、警察が来たとメディアに公表したものの、警察の公式見解では、そのような事実はないと否定されたため、虚言疑惑が出ているなど)、番組開始から6日間連続で、この罰ゲームをするセレブに電話投票で選ばれ続け、ついには番組を降板したためである。

7日目の罰ゲームに選ばれた際に、番組を降板することになったのだが、このように、視聴者が嫌いな芸能人を公開処刑するかのごとき罰ゲームに視聴者自らが投票できることが人気になっているのである。

また、同番組では、数日経過するごとに一人ずつ脱落させられるのだが、その脱落者を誰にするか、ひいては最後に残って優勝させるセレブを誰にするかも、視聴者の電話投票次第というシステムを採用している。

したがって、番組の行く末が完全に視聴者次第となっている視聴者参加型バラエティーなのである。

日本でも、視聴者アンケートなどを番組内で行うテレビ番組が多いが、コーナーで紹介される程度で、それに参加したからといって、さほど番組の行く末に影響をもらたすようなシステムは採用されていない。

実際、イギリスの同番組では、出演者が視聴者を意識して、番組内に残るために、色々な発言をして、文字通り、視聴者をエンターテイン(楽しませる)させなければ、最後まで残って優勝することはできないのである。視聴者に向け最後まで残してもらうために、面白さをアピールしようとする必死さも視聴者には受けているのかもしれない。

日本でも一時期、「サバイバー」という番組があったが、あくまで出演者内の内輪のゲームであって、視聴者がそこに積極的に関与する余地は番組の形式上限られていた点で、今イギリスで人気の「I'm A Celebrity. Get Me Out Of Here」とは異なる。

3.ニュース番組における視聴者参加方式

イギリス、アメリカでは、ニュース番組も視聴者参加の余地が拡大された番組が増えている。

ニュースと言えば、キャスターがいて、数名の”識者”のコメンテーターが、何の根拠もなく、アーダ、コーダいうのが従来の形式である。

しかし、その形式を打ち破るニュース番組をアメリカFOXニュースが採用している。

それが、USTREAMというサイトが運営する「FOX News Talk」である。

この番組は、司会者が一人おり、電話やツイッターで視聴者がその番組に参加し、司会者と政治の問題や社会問題を議論し合う番組なのである。私が見たときは、オバマ大統領のアフガン政策に対して、司会者と視聴者が次々と意見交換をしていた。

アメリカでは、このように、ニュース番組までもが、一方的な報道機関による発信と、視聴者による受信という伝統的な関係から変革しようと思考錯誤が繰り広げられている。

4.終わりに

日本のテレビ番組はどうも製作者と視聴者という関係から脱皮できてない。番組の行く末を完全に視聴者に任せてしまうような番組形式を採用している番組は非常に稀である。

インターネットによる双方向コミュニケーションが進む中、テレビ業界も、番組を視聴者の意思に委ね、視聴者が参加した結果が番組に反映されるようなシステム作りをした番組が増えなければ、多様な視聴者のニーズには応えられないのではないだろうか。

もちろん、全国放送である以上、一定の番組製作社側による秩序維持は必要である。

しかし、芸能人が単に競い合って賞金を取ったり、美味しいものを食べたり、内輪ネタで芸能人だけがげらげら笑っているような番組は、視聴者も飽きていると私は思う。

番組を毎回見ようと思えるインセンティブを視聴者にもたらす、視聴者参加型番組がイギリスやアメリカを中心に人気を博していることをテレビ業界は真剣に受け止めてはいかがだろうか。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

11/26/2009

アメリカ合衆国大統領に対する歪められた歴史的評価

11月13日にオバマ大統領が来日したことで、最近は日米関係などを論じたニュースが飛び交った。

また、11月21日にはオバマ大統領の最新の支持率が過半数以下になったと多くのニュースが取り上げていた(私としては、そもそもオバマ大統領には批判的な意見を持っているし、自国の政治家ではないからどうでも良いと思うのだが、日本では、自国のリーダーのようにすべてのテレビ番組で取り上げられていた気がする)。

そこで、今日は、日本の教科書や歴史の授業からは学ぶことがないアメリカ合衆国大統領の姿を紹介してみようと思う。


1.アメリカで人気の大統領は?

アメリカでもっとも人気のある大統領はご存じだろうか。

USNEWSによると、ギャラップ社がアメリカ国民を対象に今年2月に実施した調査では、

第1位がロナルド・レーガン第40代大統領、

第2位がJ・F・ケネディー第35代大統領、

第3位がエイブラハム・リンカーン第16代大統領、

第4位がフランクリン・ルーズベルト第32代大統領、

第5位がジョージ・ワシントン初代大統領

だったという。

確かに、レーガンは強いアメリカの時代を象徴する大統領であるし、フランクリン・ルーズベルトも大恐慌からアメリカの経済を復活させた強いリーダーシップのある大統領だったので、なるほど上位に入るのも不思議ではない。

A・リンカーンとG・ワシントンは歴史上きわめて大きな役割を果たした人物なので、これも納得である。

しかし、私はケネディーがなぜここまで人気なのかがよく理解できない。なぜならば、オバマ現大統領もよくメディアなどに例えられるケネディー大統領であるが、とくに実績という実績が私には思い当たらないためである(両方とも目立った実績がなく、初のアイルランド系移民かつカトリックの大統領ということと、初の黒人大統領という「お初」ものという実績くらいだと私は評価している)。

他方で、アメリカ国内はもちろん、日本でも陰謀説などの陰に隠れ、その実際の実績の割には、あまり評価されていない大統領がいる。

その人物は、故・リンドン・B・ジョンソン(以下、「LBJ」)第36代アメリカ合衆国大統領である。


2.LBJが人気のない理由

LBJは、アメリカでも日本でも過小評価されている。

その第一の原因はベトナム政策の失敗にある。とりわけ、日本の評論家がアメリカ大統領を評価する場合は、その比重が過度に外交政策に置かれることが多い。日本で、LBJに対する評価が低いのはこれに起因している。

また、第二の理由として、日本に限らずアメリカでもいえることだが、LBJのアメリカ国内の実績が、J・F・ケネディー大統領の過大評価により、反射的に過小評価に至っていることも挙げられる。

しかし、アメリカの国内政治の歴史を客観的に見れば、LBJの実績が与えたアメリカへの影響の大きさは、ケネディーのそれとは比較にならない。

そこで、以下、アメリカ大統領として私が最も評価しているLBJの本当の姿を紹介する。


3.LBJの本当の姿 ― 若かりしき頃のジョンソン

アメリカの人種差別撤廃の転換点となったものとして、1964年の公民権法が挙げられる。

この公民権法が1964年に成立したのは、LBJによる功績が大きい。

この点、オバマ大統領との予備選挙中に、ヒラリー氏が同様の発言をしてオバマ支持者の反発を買ったのは記憶に新しい。しかし、ヒラリー氏の歴史認識が本来的には正しく、批判していたオバマ支持者は歴史に無知なだけであった。

歴史の話をする上で、「仮に」というのは、ありえないことで、こんなことを言うこと自体間違っているといわれるが、LBJの対議会運営の手法がなければ、1964年の公民権法は成立していなかったし、アメリカの人種差別の撤廃の動きは遅れたと私は思う。

なぜならば、LBJが人種差別撤廃に消極的な南部を基盤とする民主党の政治家(テキサス州出身)であったからこそ、人種差別撤廃に反対する議員への対応方法も十分に熟知しており、その知識と経験がLBJの巧みな対議会戦術を支えていたためである。

もっとも、アメリカでは、JFKがキング牧師の釈放に関与したことから、JFKが人種差別撤廃への道筋をつけたとの理解があり、LBJは当初から人種差別撤廃には積極的ではなかったという評価をしている人も多い。

しかし、繰り返しになるが、後者のLBJの理解の部分は大きな誤解である。

その理由は、LBJの学生時代の活動にまで遡る。

LBJは公立学校に通っていた。高校時代に生徒会の会長に選出されているが、当時から社会的不正義に対してかなりの反発をもっており、この頃に人種差別等の不正義に対するLBJの基本的姿勢が構築されたという記録が残っている。

また、大学での政治活動として、社会的不正義(とりわけ、貧富の格差や人種問題)について、熱心に大学新聞の記事を数多く書いている

さらに、卒業後は貧困層であるメキシコ系の子供が通う学校で教職を取っており、この時期に、貧困により教育を受ける機会が無いという人々の存在を知り、生涯をかけて改善したいという気持ちを述べている

しかし、多くのアメリカ人も、こうしたLBJの若いころからの活動の事実は十分に考慮せず、前述のように、南部出身という事実だけを持って彼を評価する。

LBJの人種問題解決への尽力は、どうしてもアメリカ社会では、考慮すべき事実を考慮していない不当な評価を受けていると言っても過言ではない。

予備選挙中、ヒラリー氏も指摘していたが、LBJが大統領としてリーダシップを発揮したからこそ、キング牧師の想いを1964年公民権法という形で、法案化できたという側面があるのは否定できない事実である。

そうであるにもかかわわず、黒人層を中心にこの事実の側面は受け入れたがらない。

その理由は、ある意味当然のことで、黒人の指導者にしてみれば、自分たちの権利が差別主義の残る南部の典型的な白人の政治家から与えられたという印象を排除したいという願望が根底にあるためと考えられる。


4.LBJの本当の姿 ― 在任中の実績

LBJは、サーグッド・マーシャル判事をアメリカ連邦最高裁の判事として任命し、黒人初の最高裁判事の誕生を実現させている。

この人選の際に、LBJは、「サーグッドという黒人の子供が今年は増えるぞ。黒人の親はこれを記念してサーグットと子供を名づけるだろう」と自慢げに語ったと言われており、黒人の公民権拡大には特に個人的な思い入れが強かったことが窺われる発言である。

さらに、LBJが在任中に提唱した「偉大な社会計画(Great Social Plan)」は、現在のアメリカ政治においてもリベラル派の基本理念として根付いている。

例えば、ヒラリー氏が提唱し、オバマ大統領が導入としている国民皆保険制度の根底にある理念は、まさに「偉大な社会計画」の理念そのものである。

つまり、実際には、LBJは、積極的に、格差是正を提唱したリベラル本流の政策(フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策の継承として)を実行してきたといえる。

その根拠として、まず、LBJが上記計画の一環として、「貧困との闘い(War on Poverty)」を提唱し、アメリカの貧困層に対する医療制度の拡充や教育機会の均等が実現したことが挙げられる。

さらに、雇用機会均等法を導入したのもLBJである。

以上のような事実を総合すれば、LBJは、階層による成功の固定化を打破し、アメリカン・ドリームといわれる概念の基礎となる『機会の均等』を実現した大統領と称すべき人物である。

つまり、LBJの国内政策なくして、1970年代以降のアメリカの景気拡大と繁栄の基礎はなかったと言っても過言ではない(もっとも、1970年代は国内需要の拡大により輸入が増加し、経常赤字も増加したことから、反日製品運動に結びついた)。

そして、LBJが残した日記や手紙などを検証すると、LBJの実績のほとんどが、実際には、政治的駆け引きにより行うのではなく、彼の青年期に構築された「社会的不正義」に対する反発心に起因しているということが良く解る。


5.過大評価されるJ・F・ケネディー

他方で、JFKの政治手腕は、キューバ危機の回避という政治的なイベントを理由として、異常なほどに美化されている。

「そもそも、JFKの実績が何か?」と問われると私には何も思い浮かばない。

ビッグス湾事件(キューバ危機回避ばかり注目されており、そもそもの原因であるこの事件が取り上げられない傾向にある)では、明らかに無謀な作戦を実行し、完全に失敗している。

これは、集団極化という心理学的事例として紹介されるほど悪名の高い実績である。

さらに、JFKは、ベルリン危機とキューバ危機という2つの危機に在任中、直面している。

これらを「乗り切った」ということばかりが、評価されているが、そもそもこの危機を作り出したのは、JFKとフルシチョフの対話の欠乏と外交手腕の欠如にあるといえるのではなかろうか。

例えば、ベルリン危機により、ベルリンの壁が建設されたが、この際にJFKが単にソ連に対し強行的な姿勢を見せるだけでなく、直接対話のラインを残すなどより巧みな外交戦術をしていれば、1961年から1989年まで壁で分断されることもなかったのかもしれない。

歴史ではタブーの「If」の問題となってしまうが、この問題に対するJFKの姿勢が必ずしも評価するに値するとは言えないのである。

また、キューバ危機も一触触発の事態に至ったのは、ケネディーの外交手腕の失敗が原因である。

当時の状況からすれば、キューバとソ連が軍事的関係を強めるのは確実な状況であったにもかかわらず、ビッグス湾事件をケネディーは引き起こした。この事件を経験したカストロにとっては、ソ連の核の笠に入ろうとするのは当然の成り行きである。

つまり、アイゼンハワー時代から、冷え込んでた関係を一層冷え込ませたのがケネディーによるビッグス湾事件の実行とその後の暗殺計画だったのではなかろうか。

多くの記録をみると、カストロは1959年の革命実行時点においては、共産主義者ではなかったとされている。ケネディーによる外交上の失敗がカストロをさらに孤立化させ、ソ連にミサイル建設をさせることになったと考えるのが自然であろう。

しかしながら、そうしたJFKの負の側面はほとんど知られていない。メディアなどで特集をされるときも、暗殺された悲劇の大統領として、取り上げられるだけである。

では、なぜ、ケネディーが過大評価されるのか。

ケネディーが好かれるのは、彼がアメリカで最初のアイルランド系の移民の大統領であるというたった一つの理由に支えられていると考える

つまり、人種のるつぼであるアメリカ社会において、人種撤廃も、現代リベラルの価値も、南部出身の旧来的政治家に見えるリンドン・B・ジョンソンではなく、初の移民大統領による新しいリーダーにより作られたと語ることの方が、アメリカの歴史を美化できるというわけである。


6.終わりに

確かに、LBJのベトナム戦争開始に代表される外交政策は、はっきり言って失敗であった。

しかし、その失敗の原因も、LBJの性格である社会的不正義への抵抗とそれへの執着にあると考えられる。

例えば、ケネディーの在任中、副大統領であったLBJは、当時のベトナムに大統領の命令で、派遣され、その状況を報告する任務を任された。その報告書をみると、LBJが査察を通じ、ベトナムにおける不正義を何とかしなければいけないと考えていた記録が残っている。

LBJは、黒人屋貧困層の地位解放という国内問題と同様に、ベトナム国民を共産主義からの解放することが社会正義であると捉えてしまったのである。

すなわち、LBJは、若いころから培ってきた「強者により弱者を救済して社会正義を実現しなければならない」という信念の下で、「強者であるアメリカは、共産主義支配される弱者のベトナム国民を、共産主義による不正義から解放しなければならない」と強く信じてしまったのである。

そして、この信念に従った決断が、ベトナム戦争の泥沼化への第一歩になってしまった。

残念ながら、このベトナム戦争開始の決断という失敗が、リンドン・B・大統領の評価の全てとなってしまい、彼の実現した国内政策への尽力は正当な評価がなされていない。

もっとも、以上のLBJに関する私の考えは、きちんとした根拠がある。

それは、『Lyndon Johnson and the American Dream』という題で、ピューリッツアー賞をとったことのあるDoris Kearns Goodwin氏により書かれた本が私の上記考察のベースになっている。

そもそも私はジョンソン大統領にはあまり興味がなかった。しかし、この本を読んで、教科書だけで伝えられる歴史とは違う側面があることを痛感した。

この本は、ジョンソン大統領の私生活を含めて彼の人物像を細かく書かれており、ジョンソンの人間性が豊かに描かれている。

そして、ジョンソンのすべてに賛同するのではなく、ベトナム戦争などに至った経緯について、厳しい視点を織り交ぜながらも、国内政策の実績と正当に評価して、ジョンソン大統領の良い面と悪い面が公平に評価されている。

アメリカや日本では、外交政策の失敗という面ばかりだけが強調され、低い評価となっているが、この本を読めば、そうした評価は断片的なものに過ぎず、リンドン・B・ジョンソン大統領の歴史的実績に対する評価はもっと公平であるべきと感じるであろう。

本書は洋書であるが、英語に苦労してでも読む価値がある本の1つといえる。

最後に、一言。

私には、オバマフィーバーによって誕生したオバマ大統領をみると、ケネディー大統領への①過剰な評価及び②外交経験の未熟さという2点において重なって見える。

本当のオバマ像を知った時、もしかすると、我々は、評価されるべき人物は別にいることに初めて気がつくのかもしれない。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

Continue reading "アメリカ合衆国大統領に対する歪められた歴史的評価"

| | Comments (2) | TrackBack (0)

11/24/2009

イギリス人は二人組を好む ― Ant and Decの任天堂CMが人気

このブログで、Susan Boyleさんと同様に、何回か取り上げているエンターテイメント関連の話題がある。

それが、イギリスで一番出演料が高いと言われ、イギリスで大人気の司会者DuoのAnt and Decである。以前、任天堂のイギリス法人がこのAnt and Decをイメージキャラクターにした広告戦略を行うという記事を紹介した。

その広告が、イギリスでPeople's Choice Awardを受賞したという。

このCM効果により任天堂の売り上げが伸びているという情報もある。イギリスのゲーム関連情報を扱うウェブサイトは、先週のゲームソフトの売り上げトップ5に、任天堂のWiiの商品が3つ入っており、Ant and DecのCM効果が功を奏したと分析している。

確かに、3位のスーパーパリオブラザーズの最新作は、新発売なので売り上げが集中したとしても、4位のWii Sport、5位Will Fit Plusは、従来からの商品であり、トップ5入りしたのには、このCM効果があったのかもしれない。

さて、今、イギリスでは、1組の兄弟が話題を集めているらしい。

Jedwardというコンビ名で、イギリスITVのオーディション形式のテレビ番組「X-Factor」に登場した、John Grimes君とEdward Grimes君の双子の兄弟である。

Johnandedward_682_921095a

以下の映像はYoutubeのITV公式チャンネルより

X-Factorの決勝戦には残れなかったものの、イギリス国内で若い女性を中心に人気が急上昇し、パパラッチなどのメディアが過熱報道をしている。

Daily Star紙の電子版は、イギリスで最も出演料が高く人気司会者のAnt and Decに取って代わる存在になるとして、「気をつけろ、Ant and Dec」という見出しで、この二人の兄弟の人気ぶりを伝えている。

この「X-Factor」と言う番組も、スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんを生み出した「Britain's Got Talent」もイギリスやアメリカで人気のテレビ番組で、素人から多くのスターを排出している。

最近は、優勝できなくても人気になるという逆転現象も生じているようで、JohnとEdwardの兄弟もその一例である。

この兄弟は動画でもわかるように、審査員の一人である音楽業界の敏腕マネージャーのルイス・ウォルシュ(Louis Walsh)にも気に入られており、既に、200万ポンド以上の収益を上げることが予測されている。

例えば、ディズニー・チャンネルから司会者の依頼などのオファーが殺到していると、イギリスのタイムオンラインは伝えている。

二人のパフォーマンスについていえば、それほど歌が上手いというわけではないが、明るさやルックス、18歳の双子と言う珍しさ、フレッシュさ、彼らのキャラクターのユニークさなどからすれば、アイドルとして成功することは間違いないだろう。日本でも歌は下手だが、なぜか歌手として活動している有名人が多いのであり、イギリスでも同じことが言えるわけである。

この18歳の兄弟に対するイギリスの熱狂ぶりは過熱しすぎているとの懸念が出ている。一部メディアによるバッシングから、二人の精神的負担を心配したスーザン・ボイルさんが二人に自身の経験を直接アドバイスを送ったという報道もされている。

これだけの過熱ぶりになった原因には政治家の影響もある。

ブラウン首相が、メディアのインタビューに対し、この兄弟について聞かれ、「それほど歌が上手いとは思わない」と発言したことから、未成年者の素人に対する発言として配慮を欠くとの批判を受け、後にブラウン首相が不適切な発言と認める事態にまで至っている(BBC電子版)。

他方、野党保守党のキャメロン党首は、「私は彼らに熱狂している」と支持を表明。これに対して今度は与党労働党がウェブサイト上で、二人に兄弟の髪型をキャメロン党首と影の内閣のオズボーン財務大臣の写真にコラージュして、「彼らが買ったら、笑っては済まされない」というメッセージを入れる攻撃を加えている(テレグラフ紙電子版)。

イギリスでは、「Double Act」と称される二人組の男性Duoが人気を集める傾向があるようである。

イギリスに行った際は、現地の人と交流する話題の一つとして、Ant and DecやJedwardのJohn and Edwardの話をしてみるのもよいだろう。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

Continue reading "イギリス人は二人組を好む ― Ant and Decの任天堂CMが人気"

| | Comments (0) | TrackBack (0)

11/22/2009

Susan BoyleがAmazonの歴史を変える

このブログでは、国内外の政治社会問題を取り上げると同時に、音楽を中心とした海外のエンターテイメント情報も提供してきた。

それに代表されるのが、イギリスのテレビ番組、「Britain's Got Talent」でのデビュー以来補足してきた、スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんに関する話題である。

既に多くの皆さんが御存じのように、今年4月に番組が放送され、Youtubeで空前の話題を巻き起こしたボイルさんは、教会ボランティアとして働く無名の女性であった。

そんな彼女が、Youtube上で空前の再生回数を記録し、話題になったのは記憶に新しいだろう(こちらがスーザン・ボイルさんが最初に登場したYoutube上の動画)。

彼女が今度はインターネット小売業の大手アマゾン社(Amazon.com)の歴史を塗り替えたらしい。

ボイルさんのCDアルバムの先行予約数がアマゾン社の歴代1位に輝いた

インターネットの動画投稿サイトYoutubeで空前のブームを巻き起こしたボイルさんが、同じインターネットの販売大手であるアマゾン社で、歴代1位の先行予約数を記録したというのは、インターネットが人気爆発に一役買っただけあって、因果を感じる。

インターネットユーザーが彼女の人気を支えているということであろう。

テレグラフ紙電子版は、アマゾン社のCD販売部門の責任者であるジュリアン・モナガーン(Julian Monaghan)氏の以下のコメントを紹介している。

8か月前まで誰も彼女のことを知りもしませんでした。それが今や先行予約数で未だかつてない記録を作り出しています。

これは本当に信じられない成功です。これは、彼女が、アメリカ人やイギリス人、そして世界中の人々の心をつかんだということを示しているのでしょう。

さらに、同紙によれば、コロンビア・レコード社のスティーヴ・バーネット(Steve Barnett)会長は、「スーザン・ボイルさんのとても独特な点は、世界中の人の心に感動を与える彼女の能力である。私たちは、アマゾン社の先行予約数の歴代1位になったということ、そして、アマゾンの利用者がそうした記録を打ち出すことで、スーザン・ボイルさんへの支持をしてくれていることにとても興奮している。」とのコメントを発表している。

また、同紙は、日本のアマゾン利用者にも言及している。

同紙によれば、スーザン・ボイルさんに続く歴代先行予約数2位と3位のCDアルバムは、日本で限定販売された、2007年のノラ・ジョーンズさんのアルバムと2008年に販売されたイギリスのボーイバンドTake Thatのアルバムだという。

つまり、日本のアマゾンユーザーがこの先行予約数に大きな寄与をしているという事実が解る。記事には言及されていないが、もしかすると、ボイルさんの今回の記録には、日本のファンもかなり寄与しているのかもしれない。

現時点(11月22日午前0時)での日本のアマゾンの音楽部門売り上げランキングでは、日本語版が12位で、アメリカ版が16位となっている。

先日、日本でも報じられたが、ボイルさんは、学習障害が理解されず、学生時代に受けたいじめや体罰の経験を語っている。私はボイルさんのこのインタビューに際し発した以下の発言が少し気になった。

''I'm just I'm a wee bit slower at picking things up than other people. So you get left behind in a system that just wants to rush on, you know? That was what I felt was happening to me.

私はほかの人と比べると物事を理解するのにほんの少し遅いの。だから、ドンドン詰め込んだり、急ぐようなシステムの下では取り残されてしまうのよ。わかるでしょ?それが私に起こったことだと思うの。

現在、競争原理、市場至上主義がもたらしている弊害が注目されている中で、ボイルさんの成功は、そうした競争原理や市場至上主義のようなものでは測れない成功をしたことにもその意義を見出せるかもしれない。

競争システムの中では、取り残されるような人物であったため、他の人にはない素晴らしい能力があったにもかかわらず、無視され続けた。その結果、彼女の能力は今まで発揮されることがなかった。

しかし、ボイルさんは歌うことを続けた。そして、「Britain's Got Talent」という番組に出演したことを契機にして、彼女の歌声がYoutubeで取り上げられ、その歌声に多くの人々が心を打たれ、感動した。

こうした彼女のサクセスストーリーには、既存のマーケティングなどの市場の知識からは図れないものを私は感じる。

なぜならば、ボイルさんも、英国の名プロデューサー、サイモン・コーウェル氏も、番組の予選段階で、これだけの注目をボイルさんが集めるとは予期していなかったはずである。いわば、勝手にインターネット上で、言語の壁を越え空前のヒットを飛ばしたわけである。マーケティングなどの小細工をしなくても、彼女の歌声が広く人々の心を捉えた結果の成功だと考えるのが自然であろう。

すなわち、インターネットという新たな情報伝達手段が、競争社会では発掘できなかった彼女の才能を世界中の人々に広め、彼女に歴史的な成功をもたらしたのである。

一時期は精神的ストレスが心配されたボイルさんであるが、最近はイギリスメディアのインタビューに対し、当時を振り返って、①精神病のクリニックに入院したことはもう良く覚えていないが相当なストレスが当時かかっていたこと、②当時の彼女には目の前にカメラがない時間が必要だったこと、③自分でも醜いアヒルの子が白鳥のように変身したように感じていること、④外見は多少磨かれたと思うが内面はあまり変わっていないことなどを語っている。

内面が変わっていないというのは本当のようである。英国メディアによれば、彼女は10万ポンドの大金(契約料のみ)を手にしても生まれ育った今の家を離れ、どこか良いところに引越すつもりはないとのこと。猫のペブルスがこの家を離れるのは嫌がるというのが理由らしい。家族が30年以上住んできた現在の借家の家を買い取ることを考えているそうである。大金を手にしたり注目を浴びて一変しないのにも好感がもてる。

こちらが、ボイルさんのCDアルバムの一部である。

本当に美しい歌声をしており、ダイレクトに心に響いてくる感じがする。

私は、ボイルさんの歌う、「I Dreamed a Dream」は、邦題の「夢破れて」という感傷的なものではなく、夢を持ち続けることの大切さ、諦めない信念の重要さを我々に教えてくれているような気がしてならない

Amazonでは、イギリス輸入版、アメリカ輸入版、日本オリジナル版の3つが販売される予定で、発売日は11月23日月曜日となっている。

アメリカとイギリスからの輸入版は全12曲のようで、以下の曲が含まれている。

1. Wild Horses
2. I Dreamed A Dream
3. Cry Me A River
4. How Great Thou Art
5. You'll See
6. Daydream Believer
7. Up To The Mountain
8. Amazing Grace
9. Who I Was Born To Be
10. Proud
11. The End of The World
12. Silent Night

親しみのある良い曲が選ばれている。

アメリカ輸入版

イギリス輸入版

そして、日本版は曲が1曲多く収録されている。ただ値段も輸入版に比べれば1000円近く高い。

ディスク:1

1. ワイルド・ホース

2. 夢やぶれて

3. クライ・ミー・ア・リヴァー

4. 偉大なるかな神(輝く日を仰ぐとき)

5. 愛をこえて(ユール・シー)

6. デイドリーム・ビリーバー

7. アップ・トゥ・ザ・マウンテン

8. アメイジング・グレイス

9. フー・アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ビー

10. プラウド

11. この世の果てまで(ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド)

12. きよしこの夜

13. 翼をください~Wings To Fly

日本版

できれば、1曲多い日本版を聞いてみたい。

ただ、円高の恩恵を受けるためにも、輸入版で購入するという選択肢も捨てきれない。身近なところで円高の恩恵を感じることができる良い例ではないだろうか。

どちらのバージョンにもクリスマス向けの曲が入っているので、今年はアメリカンドリームならぬブリティッシュドリーム(インターネットドリームと言うべきかもしれない)をつかんだ女性の歌声を聞きながらクリスマスを過ごすのも良いかもしれない。

私も早速購入の予約を入れました。

アメリカの雑誌Peopleの電子版によれば、このアルバムの発売イベントとして、ボイルさんは月曜日からニューヨークに滞在予定とのことである。今回が初めてのニューヨーク訪問になるらしい。NBCテレビの番組に出演し、スタジオの近くであるロックフェラーセンターで、彼女のCDから3曲が生で聴けるとのことである。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

Continue reading "Susan BoyleがAmazonの歴史を変える"

| | Comments (3) | TrackBack (1)

11/20/2009

自公の強行採決とは質的な違いがある ― 自民党議員はもっとしっかりしろ

おそらく、今日のメディアも、自民党や公明党の議員も、中小企業者等金融円滑化臨時措置法案の衆議院採決について、「強行採決だ!」、「数の暴挙だ!」などと薄っぺらい批判を繰り返いていたのであろう。

しかし、私は、非常に下らない批判であると思う。

実際、自公政権下の強行採決と今回の民主党政権下での強行採決には、大きな質的な違いがある。

それは、今回は、「野党の一致した採決反対」が存在していないということである。

つまり、共産党は、議場に残って、「賛成」票を投じている。

したがって、与党+野党1党により、法案が成立しており、これは、自公政権下で、自民と公明という与党のみの賛成多数で、強行採決してきたことと質的には大きな違いがある。

私は、この共産党が賛成しているという事実は大きいことだと思う。

何でも反対というような万年野党の共産党が、審議時間が少ないと言いつつも、結局、この法案には賛成しているのであるから、審議時間の少なさも含め、野党である共産党はこの法案を良しとしたわけである。

「野党の一致した審議時間不足への抵抗」としての議場退席と言う事実がない以上、自民・公明の議場退席は、強行採決への抵抗というよりは、野党として反対の意思表示を示すことの放棄という意味合いが強いのではなかろうか。

そうであるにもかかわらず、共産党が賛成しているという事実を看過し、メディアも、そして野党議員も、「強行採決だ」という部分ばかりを強調して、形式的な批判に終始している。ここからは、日本の政治が変わる兆しは見てとれない。

さらに、少なくとも、自民党の議員にとって、「強行採決だ」といきり立つ姿は、マイナスであろう。

彼らの民主党への批判は、仮にこの採決行動について審議時間が少なかったという点で、国民の共感を得られても、「やっぱり自民党の方がよい」という結論にはつながらない。なぜならば、この種の批判をいくら行っても、「お前が言うな」の一言が妥当し、有権者を白けさせるためである。

特に、与党時代に国対委員長で、強行採決を行ってきた自民党の大島幹事長がそういう批判を熱く行っている姿を見ると、「はいはい。あなたも今まで同じことやってきたんでしょうが。」としか感じない。むしろ、「あーあ、これだから今の自民党は・・・」というブーメラン効果絶大の主張である。

また、小泉政権以降の、安倍、福田、麻生政権は、「民意による審判を受けず」に強行採決をしてきた。

これに対し、鳩山政権は、8月の選挙により一応政権としての信託は受けているのであって、安倍、福田、麻生政権下での強行採決とは意味あいが異なってくることも忘れてはならない。

民主党の行った行動に問題がある場合に、攻撃材料を手に入れた自民党議員が、どういう態度を示すのかが重要だと私は思う。

自分たちのやってきたことは省みず、このような薄っぺらい批判に終始することしかできないのであれば、政権に返り咲くのは夢のまた夢と言っても過言ではなかろう。

もっとも、民主党に問題がないわけではない。

ただ、それ以上に、今の自民党には、まず自分たちの過去の行動を真摯に反省したうえでなければ、どんなに批判をしても、有権者の心には響いてこないということを自覚してほしい(今自民党議員がすべきことについては、「政権交代を実感 ― 民主党議員を近く感じる」を参照)。

なお、そもそも、この中小企業安定化法案は、緊急経済対策に意味合いが強く、迅速性が要求されている問題である。また、モラトリアムと言われている部分についても、努力義務を設けているにすぎず、金融機関に当初言われていたような過大な負担が生じるわけでもない。そうであるならば、どうしても長時間確保して審議しなければいけないたぐいの法案ではないだろう。

私はむしろ、予算の執行という国民の生活により影響のある民主党の事業仕分の拙速さの方が問題(「事業仕分に違憲の疑い!?― パフォーマンスより実績を」を参照)だと感じる。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

| | Comments (2) | TrackBack (0)

11/19/2009

Facebookが日本人を孤立化から救う? ― Twitterの次はFacebookか

最近、「国会議員の数が多すぎる」とか、「外国人参政権の問題」とか、政治的、法的テーマが続いたので、軽ルチャーな話題を今日は取り上げようと思う。

皆さんはFacebookというウェブサイトを御存知だろうか。

おそらく、海外で生活していたり、海外の友人などが多い人は既に知っている人も多いだろう。

いわゆる、ミクシーやグリーの英語版・海外版といったものなのだが、ミクシ―やグリーのアカウントを持っていた私も既にこれらはほとんど利用せず、最近は、Facebookを時々利用する程度である。

そもそも、ソーシャルネットワーキングサイトは、私はどちらかというと苦手で連絡ごとはすべてメールにて行う。

なぜなら、ネットワーキング(Wallと呼ばれるメッセージボード)上に残した特定の者への情報が、友人仲間とはいえ、第三者に見られるのが好きではない。

しかし、そんな私でも、Facebookは、他のソーシャルネットワーキングサービス(SNS)に比べ、比較的利用しやすい。

そこで、今回、なぜFacebookはミクシ―やグリーより利用しやすいと感じるのか考えてみたことを紹介しようと思う。

このFacebookが私にとって利用しやすいという理由は2点ある。

1点目は、実際に面識のある人物との情報共有に役立つという点である。

Facebookは、本名で登録することが義務付けられている(もちろん偽名を使う人もいるだろうが)。

元々、Facebookはアメリカで、大学生向けに友人同士の交流に利用された同サイトが、その後卒業生、さらには一般人と利用が拡大してきたものである。

このFacebookを使うと、大学時代の覚えているが、連絡先が解らなくなった友人など検索するのが容易であるし、最新の自分の情報を一定の友人にのみ公開することで、疎遠になっていた友人といつでも必要に応じて連絡が取れる。

メールでの連絡の取り合いは、しばらく連絡をしていないうちに、アドレスが変わっていたりして、自然と疎遠になってしまうことが多い。「そういえば、今あいつ今何してるんだろう?」とふと思ったときに、連絡が取れるというのは非常に便利である。

また、授業で何回か一緒だった程度でなんとなく話したことがある知り合い程度の人が実は友人の友人で、Facebook上で、改めて、当時の授業の際の面白い話に花を咲かせることもできる。

なお、私は積極的に利用しないが、多くの人は、上述したWallと呼ばれるところにコメントを書き込んで、掲示板感覚で交流し合うようである。

さらに、Facebookのおかげで一期一会の出会いから継続した友人になる場合もある。

昔、私は、ニューヨークのブロードウェイで、友人数名とミュージカルを見た際に、たまたまステージドアから出てきた主役級の俳優と話をしているうちに、意気投合し、その俳優がステージの裏のツアーを即席でやってくれたことがあった。

その後しばらくして、その俳優もFacebookを利用していることがわかり、連絡したところ、覚えていたことから、今でも連絡を取っている。最近も、ブロードウェイの有名ミュージカルの主役に抜擢され、活躍している。

本来、「一期一会」で終わってしまう出会いを、「長い付き合い」へと持続可能にしてくれる機会を提供してくれたのは、Facebookというテクノロジーとだったと言っても過言ではなかろう。

2点目の理由は、交流の幅が日本と言う枠にとらわれないという点である。日本人はもちろん、アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、スウェーデンなど大学時代や何かの関係で知り合った人々と1つのサイトで、コミュニケーションが図れる。

ミクシ―やグリーはどうしても日本語が利用できる日本人のみが対象になってしまうが、Facebookだと、世界中の友人とコミュニケーションを図ることができ、彼らの関心ごとを知ることができる。

さて、今日このFacebookを取り上げたのは、Facebookが日本法人を設立して、日本での進出を本格化させるという下記のニュースを見たためである。

昨今、日本人の若者を中心に、内向き傾向が強まっていると言われている。インターネット等の発達により、海外に実際に行かずとも、海外の情報が手に入るので、それで満足だという人が増えていると言われている。

しかし、海外の人との交流をしてみなければ、現地の生の情報は得られないことも多い。

とはいっても、皆が皆、海外に行ける状況にはない。

そこで、Facebookのように1つのウェブサイトにより、世界中の人と交流が図れるツールが日本に本格進出すれば、そこでのコミュニケーションを契機にして、外に興味を持ち、国際感覚に優れる日本人の若者が今以上に増えるかもしれない。

何も国際的感覚が磨かれるべきことは若者に限ったことではない。

最近の政治やメディアの報道姿勢を見ていると、どうも日本特有の言動をすると思うことが多い。

例えば、政治家が選挙中に土下座までする姿は日本特有であり、異様な光景である(投票してくださいとそこまで遜るということは、実績や資質がそもそもないから必死にお願いするんだろうと私の英米の友人たちは言っていた。私も同感である。)。

欧米では、およそ相手にされないような恥かしい陰謀論を唱える人が平然と日本のテレビメディアで面白おかしく取り上げられたりする(9・11テロがアメリカの自作自演の陰謀だという話がゴールデンタイムのテレビ番組で取り上げられていたが、9・11テロを現地で経験した者としては、ねじ曲がった情報を真実のように扱っており、非常に荒唐無稽かつ不謹慎だと怒りすら感じた)。

さらに、日本のメディアには、「アメリカの政府筋」となんとも怪しいソースタイトルで、「アメリカ政府は日本に不信感を持っている」などと下らない煽り行為を行うメディアや自称"識者"で溢れかえっている。

しかし、こうした政治家の異様な行動やメディアや自称"識者"のいい加減な海外情報は、海外の友人ネットワークをしっかり持っていたり、自分で海外の情報を何らフィルターを通さずに入手できる手段があれば、すぐに「変なことやってるな。変なことを言っているな。」と気がつくことであろう。

つまり、外国を知ることは、日本を知ることにもつながる。

昨今の日本人が内向きになっているといわれている傾向に、一石を投じるコミュニケーションツールに、Facebookがなりえるのかにも注目してみたい。

既に、洋書ではあるが、Facebookを利用したマーケティング方法など、Facebookでの商売を考えた本も出ている。日本だけでなく海外にも広く利用されたFacebookはマーケットの市場としては大きいことに疑いはない。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

Continue reading "Facebookが日本人を孤立化から救う? ― Twitterの次はFacebookか"

| | Comments (2) | TrackBack (0)

11/17/2009

政権交代を実感 ― 民主党議員を近く感じる

先日、「国会議員による事業仕分は国会法に抵触? ― 河上発言の意図を探る」という記事を書いている際に、民主党政権が行う事業仕分人の法的地位が解らないという話をしたのを覚えているだろうか。

これは、「外国人の地方参政権付与について」という記事の中でも、外国人の公務就任権の問題との関係で、重要なことであり、どういう立場の人間なんだろうかとかねてより気になっていた。

そこで、事業仕分そのものを評価する記事をそのうち書こうと思い、その情報収集も兼ねて、ツイッターで、「①事業仕分に関する公式の目的・趣旨を記載したものがあるのか、②事業仕分人の法的地位はどういう位置づけなのか」の2点について、知っている人はいるかつぶやき質問をしてみた。

当初は、駄目で元々という感覚で、あまり期待せずにつぶやいたところ、ツイッター上の民主党関連の情報を扱う方がそのつぶやきを他の方にも広めてくださり、数分もしないうちに、事業仕分に関心を持ってツイッターを利用していた方々から返信をいただき、①の質問に関しては、非常に有益な情報をいただくことができた。

他方、②の質問に関しては特殊な質問であったこともあり、ある利用者の方が、「民主党の藤末健三参議院議員がツイッターを利用しているので、質問してみてはどうか」というアドバイスをくれたので、私は、相手にしてもらえないのではないかと思いつつ、質問を試みることにした。

ちなみに、失礼ながら、私はこの時初めて、藤末健三(ふじすえけんぞう)という人物がおり、民主党所属の参院議員であるということを知った。

初めて話しかける人に不躾に質問するのはどうなのかと戸惑ったが、藤末議員のアカウント宛てに質問をしたところ、一時間もしなううちに、すぐに返信をいただき、「明日調べてみます」という回答をいただけた。

そして、翌日のお昼ころには、以下のような回答を下さった。

事業仕分け人の法的地位は、行政刷新会議議長(=総理大臣)からの「委嘱」という扱いで、国家公務員のような法的地位は付与されていないとのことです。

これに伴う、事業仕分人の前述した2つの問題に対する私見は別の機会に発信するとして、今日は、この回答をいただいた時に私が痛感したことを紹介したい。

それは、私が、この藤末議員の反応から、「政権交代による変化を実感」したということである。

藤末議員をはじめ、民主党の議員には、逢坂誠司衆院議員などツイッターにアカウントをもって、情報発信をしている方が多いのだが、単に一方的に情報発信にとどまらず、丁寧に質問に答えてくれる。

藤末議員は今回、別の方の質問である「事業仕分人の報酬」についての質問にも、丁寧に答えておられた。

つまり、"与党"の議員に対して、誰もが身元を明かさずに気軽に質問をすることができ、それに答えてくれる土壌がインターネットを通じて存在している。

このことは、従来の自公政権下では考えられなかったことではなかろうか。

他方、自民党にも、小池百合子衆院議員(比例復活)のように、衆議院選後の最近になってツイッターをやられている方もいるが、そのつぶやきを見る限り、有権者の質問に答えたり、丁寧な対話をしているとは、感じ取れない。

一方的な、自己の情報発信のみの宣伝という感じである(ツイッターを登録されて日が浅く、使いこなせていないのかもしれない)。

行政刷新会議の事業仕分という注目と批判が渦巻いている現状において、明らかに批判される得る可能性の高い情報である「仕分人の日当報酬」や、国会議員の兼職禁止規定(国会法39条)や外国人の公務就任権との関係で問題となりうる、「仕分人の法的地位の情報」を、ツイッター上でのつぶやきという極めてフランクな形での情報請求をして、1日も経たないうちに調べて、丁寧に答えてくれている

このような与党議員が自公政権時代にいたであろうか。

少なくとも、私は、近年の自民党議員の姿勢から、大臣などの経歴を振りかざして宣伝したり、テレビなどで顔を売るだけの者は多くいたが、ツイッターに限らず、一般人との「対話」を重視しているという姿勢を感じ取れなかった

※公平を期すために言及すると、自民党議員にも、田村耕太郎参議院議員のように、ツイッターで対話をしようと試みている議員もいる中にはいるようである。

例えば、自民党の広報というツイッターアカウントの過去のつぶやきを見ても、単なる情報発信であり、そこに一般人と政治家の対話は存在しているようには思えない。

これでは、ツイッターがブログとチャットの中間といわれている特性を全く活かせてないのであって、ホームページ上の情報発信と何ら違いはなく、ツイッターでつぶやくだけ無駄である。

従来の自公政権では、我々は、与党議員に対し、憲法16条の請願権を行使する場合、身元を明かし、地方議員に申し入れをしたり、国会議員と直接面会を求めて、行う場合がほとんどであった。

場合によっては、陳情により請願権を行使しようとしても、会ってすらもらえないということも多々あったのではないだろうか。

その1つが薬害問題であり、被害者が判決を受けて強く求めた薬害問題の陳情に対し、当時の川崎厚生大臣や柳沢厚生大臣が面会すら拒否し続けたのは記憶に新しい。

しかし、今やツイッターでつぶやくことにより、与党議員に対して、何人も気軽に声を届けることができる土壌が存在する。

政権交代で実績を作らなければならない忙しい時期であるにもかかわらず、有権者の声に耳を傾け、時間がある限り対話してくれる与党議員がツイッターにはいる。

このことは、私にとって政権交代を実感させてくれる大きな出来事であった。

この点、先の予算委員会では、自民党の町村信孝衆院議員(比例復活)が、民主党党内で一元管理する陳情方法について、「(民主党政権は)市町村長を(政務三役に)なかなか会わせない。いじめをやっている」という薄っぺらい批判をしていたようである。

しかし、一元化する制度において問題が顕在化もしていない段階で、そうした下らない批判をすることに何の意味があるのだろうか。

今の自民党に必要なのは、そうした下らない与党批判ではなく、どうやって自己改革をし、民主党に対抗できる政権政党として復活するかを模索することのはずではないか。

そのためには、まず、与党という「のれん」の上に胡坐をかいていた自分たちへの自己批判を徹底し、ライバルである民主党の藤末議員のような一般人と対話する姿勢をもつことを学ぶべきであろう。

自民党が若返るかどうかが良く議論されるが、それは本質的な問題ではない。

自民党が支持を失ったのは、国民との対話の姿勢が欠けていたことが原因である。

自民党が従来行ってきた既得権益ほしさに群がる"支持者"とのみとの対話では、この高度に発達した情報化社会において、国民の総意を吸収し、それには対応することができないのは明白である。

誰もが気軽に質問や陳情、意見をいうことができ、そこに耳を傾けることのできる政治家への転身を図ることが、今の野党自民党に求められているのではないだろうか。

もしかすると、野党時代に民主党の個々の議員が有権者と対話するためにしてきた努力が民主党議員を身近に感じさせ、有権者の政権交代という判断につながったのかもしれない。

そして、藤末議員のツイッターでの対応はそうした個々の民主党議員の努力の一例であろう。

与党になった民主党議員には、注目と批判が渦巻いている種々の政策に対し、拙速のイメージをもたれるパフォーマンス活動ではなく、対話の努力を惜しまず、十分な検証と丁寧な「説得のリーダーシップ」(リンク先の最後にこの説明あり)を発揮して、本当の意味での国民目線の政治を実行することを国民は望んでいると私は考える。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

| | Comments (0) | TrackBack (0)

11/16/2009

国会議員による事業仕分は国会法に抵触? ― 河上発言の意図を探る

先週に引き続き今回も、「バンキシャ!」の話題。

日曜日の日本テレビ系報道番組「バンキシャ!」内での河上和雄先生が以下のような御指摘を民主党による事業仕分についてされていた。

重大なことは、それは国会法っていう法律があって、これは事業仕分けはおそらく政府の行為としてやってるわけです。

政府の行為としてやってる場合に国会議員が入っているわけですから、本来は衆議院と参議院の両方の了解を得なきゃだめなんですよ。

やらないでいきなり国会議員が出てきてやっているわけですね。彼らは違法行為を犯してるわけです。

この御指摘を聞いても、おそらく一般の方はよくわからないだろう。既にツイッター上でつぶやいた時の反響が良かったので、ブログ上では、もう少し丁寧にこの問題を取り上げたい。

河上先生の発言の意図と一致しているという保証はできないが、番組内の発言を聞く限りにおいて理解しうる範囲で、河上先生の指摘された点を説明しようと思う。

国会法は、簡単に言うと、国会および各議院の運営方法について定めた法律である。

今回の事業仕分においては、事業仕分人として、大臣、副大臣、政務官ではない、国会議員の立場において、数名が派遣されている。

この点、河上先生は「両院の了解」と言っておられるので、国会法39条但書の部分を指して、国会法に抵触する行為であると指摘していると考えられ、39条の兼職禁止規定の問題として捉えられているのであろう。

しかし、国会法39条本文による議員の兼職禁止規定を問題とする前提として、国会議員の事業仕分人の法的地位が、行政各部の委員等であるということが必要であるが、この仕分人の法的地位が政府委員なのか否かが不明であるため、以下のような反論が考えうる。

つまり、国会法39条の問題として捉えたときに、「国会議員の事業仕分人は政府の委員ではなく、国会議員の地位に基づいて意見を聞いているだけで、兼職規定に反しない」との反論である。

もっとも、この反論を前提としても、国会議員の事業仕分人については、国会議員を国政に関する調査として派遣しているということになるため、この場合も、国会法103条にいう、「各議院が必要と認めた」という手続きを踏まなければいけないことになる。

国会法第12章の「議院と国民及び官庁との関係」という章において、103条という条文がある。

103条 各議院は、議案そのほかの審査若しくは国政に関する調査のために又は議院において必要があると認めた場合に、議院を派遣することができる。

確かに、民主党の党幹事長である小沢一郎議員すら、当初は事業仕分について把握しておらず、人事の相談もなかったという趣旨の発言をしていたことからすれば、衆参両院において、その所属議員を派遣することにつき、何らかの議決なりの一定の手続きが踏まれたという話は聞かないので、違法状態であるという指摘は間違っていないように思われる。

しかしながら、注意しておかなければならないのは、国会法というのは特殊な法であるということである。

憲法はそもそも国会法を予定して作られておらず(実際には憲法とともに施行されたが、憲法規定にその存在を前提とする規定はない)、憲法58条2項において、「両議院は各々その懐疑その他の手段及び内部の規律に関する規則を定め、又、秩序をみだした議院を懲罰することができる」と規定し、各議院に自律権を認めている。

そうすると、議院内部の議事等の手続きについては、各議院の自律権に服することが前提であり、司法審査に当たっては、政治部門である両院の自主性を尊重すべきという要請が働く。

そこで、国会法など議院の自律に関わる法規に違反する行為があるとしても、それが直ちに裁判所の審査に服するとは限らないという考え方が導かれる。

この点、最判昭和37年3月7日(警察法改正無効事件)において、最高裁は、両院の自主性の尊重を理由として、裁判所は議事手続きに関する事実を審査し、有効無効を判断すべきではないと判示している。

これらのことを前提に考えると、国会法も憲法の各議院の自律権を前提に作られて法案であることからすれば、各議院の自律権の尊重の要請は働く(この話とは直接は関係ないが、国会法と議院規則のどちらが優越するかという論点がある)。

そうすると、たとえ、民主党の事業仕分行為に河上和雄先生が御指摘されたような違法状態が国会法の規定との関係であるとしても、事業仕分行為について、裁判所が審査し、違法があるとして無効になるという話には直結しないと考えられる。

この点は誤解がないようにしておくべきであろう。

いずれにしても、国会法の定めた手続きを踏まずしてやっているとすれば、やはり、パフォーマンスが先行し、結論ありきの事業仕分になっているのではないかという危惧が高まることは避けがたい。

もちろん、公開して予算の審理を行うことは非常に重要だとは思うが、十分な手続きを図った上でやらなければ、その正当性が揺らいでしまう

初めての本格的な政権交代だからこそ、そうした点には細心の注意を図るべきだったのではなかろうか。

さて、今日の話題に関連し、DVD1つと本1冊を紹介します。

事業仕分の方法を見ていますと、蓮舫参議院議員や枝野衆院議員の財務省からの情報を疑わず、結論ありきの検証スタイルを見ていると、どうもこの「十二人の怒れる男」に出てくる「有罪と決めつけ、さっさと帰ろうとする」陪審員たちに見えて仕方ありません。事業仕分人の中に一人でも、陪審員8号(ヘンリー・フォンダ)のような人物がいればと思うのですが・・・。

政治を語る上で憲法を知っておくのは良いことです。一般向けの本としては、渋谷先生の書かれたこの本がオーソドックスでよいと思います(この本の中身をじっくり読んだことがないですが、渋谷先生の他の著作物からすると、基本的には独自説を通説がごとく記載する方ではないですし、憲法学者としても実績がある方で、その方が一般向けに書いた文庫本ですから、読みやすいと思います)。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

| | Comments (0) | TrackBack (0)

11/14/2009

外国人参政権問題の反響がもたらしたネットに対する認識の変化

ブログで色々私見を発していますと、コメント欄に、誹謗中傷に代表されるように、「相手にする時間が馬鹿馬鹿しいコメント」を書く人がどうしてもいます。

そして、そういった誹謗中傷がネット社会では溢れているというイメージを持っている方も多いのではないでしょうか。

私もその一人でした。

今回ライブドア社に記事が掲載されることになり、このブログが、今まで以上に多くの目にさらされることになったので、誹謗中傷のようなコメントが増えることを予想していました。

さらに、先日、立て続けに議論を呼ぶトピックを扱い、アクセス数が急増したため、そういう誹謗中傷の幼稚なコメントが増えるなと覚悟してました。

しかし、意外にも、「ネットは誹謗中傷をする人で溢れており、マナーが悪く、陰湿だ」という前提は多少間違っているのではないかと思い始めました。

というのは、今回扱ったテーマが、永住外国人への地方参政権付与というホット・トピックで、訪問者が案の定急増したにもかかわらず、意外にも、新規訪問者の読者の皆様のマナーが良く、1200人を超える訪問者数を記録したのですが、誹謗中傷コメントは1件だけでした。

誹謗中傷を割合にすると、「1/1200」、「0.08%」ですから、1%にも程遠いわけです。

そうしますと、「ネットは誹謗中傷をするような人で溢れている」という前提が間違っており、「誹謗中傷をする人はネット利用者全体からみると本当に極僅かな人間によって行われている」のかもしれません。

さて、この1件の誹謗中傷コメントですが、「閉鎖しろよ、売国奴」という一言で、典型的な誹謗中傷でした。

もちろん、削除しましたし、書き込んだIPアドレスとホストサーバーは把握しているため、書き込みの禁止措置を取りました(ネットは匿名と言いますが、アクセスや書き込んだ時点でのIPアドレスとホストサーバーは解ってしまうので完全な匿名の世界ではないですよね)。

ネットでこうした「売国奴」というような表現が多々見られますが、厳密に言えば、こういう書き込みは刑法231条の侮辱罪に該当します。

刑法231条は、「事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱したものは、拘留または科料に処する」と規定します。

ネットと言う不特定多数が知りえる状態は、「公然」といえ、『売国奴』などという表示は、他人の人格に対する単なる軽蔑の価値判断を示す行為で、「侮辱」の構成要件に当たります。

いつもはこういう書き込みがあると、すぐにニフティーに迷惑行為と通知して削除し、書き込みを禁止するという措置をとり、コメントそのもにはほとんど気に止めません。

しかし、今回わざわざこうやって皆さんにお知らせした理由は、極めてマナーが良い方が大多数であって、こうした馬鹿な書き込みをするという人の割合は、1/1200の確立、0.08%であるという現実に驚き、それをお知らせしたかったためです。

読者の皆さんも、今回のような価値判断が先行するトピックを扱うと、いわゆる、ネット右翼といわれるような人たちが嫌がらせをしたりするのではないかと思ったのではないでしょうか。

私もそう思っていました。

しかし、結果は、承認制にしていることも起因しているのかもしれませんが、誹謗中傷(侮辱罪に該当する行為)は0.08%という数字で、これはかなり意外なものでした。

そのような結果から推察しますと、誹謗中傷にあたるような書き込みを行う人は、実際、極僅かな少数者で、そういう人間があたかも複数人になり済まして、侮辱罪に当たるような書き込みを複数回行うことで、ネットが犯罪の温床とか、無法地帯とかいうイメージをもたれているのかもしれません。

そうだとすれば、こうした少数のマナー違反が多数人の迷惑になっているという構図は、ネット社会も現実の社会も同じと言えそうです。

話題をこの永住外国人の参政権付与の問題に戻しますと、記事公開後に、非常に有益な質問をしてくださった人もいました。

それが以下の質問です。

今回の判決文で重要となるポイントは憲法93条の「住民」という単語をどう解釈するか。という事だと思われます。
傍論前半では憲法前文及び憲法15条に触れ、憲法93条でいう「住民」とは「日本国籍を有する日本国民」であると定義しています。
しかし傍論後半部分では上記の定義に触れず「住民」というのは国籍関係なく居住地域の公共自治体と緊密な関係をもつものである。したがって法律により選挙権を付与することは憲法違反には当たらないとしています。

前半部分の論点に従って憲法15条と93条を合わせ読むと(特別職とは言え)公務員の一員たる地方議会議員を選定・罷免することは日本国籍を有する国民固有の権利である。というように解釈出来るのですが それがなぜ後半部分につながるのでしょうか?
判決文の読み方に詳しくないのでこの前半と後半の違いが全く理解できません。
お忙しいところ申し訳ございませんがご教授願えませんでしょうか。

これに対する私の回答は、以下のとおりです。

貴殿の抱えた疑問ですが、非常に筋の良い疑問だと思います。

判決文の読み方に詳しくないとのことですが、かなり読み込まれているなと感心しました。

ただ、本題に入る前に1つ説明させてください。

貴殿のおっしゃる「傍論」という点ですが、記事でも書きましたが、傍論という制度がないため、どの部分を指して行っているのか正確に把握できません。

察するに、判決理由の部分を傍論と言い間違っているだけなのかと思いますが、一応説明させてもらいます。

判決には、2つのパートで構成されています。
1つは「主文」、もう1つは「理由」です。これだけです。

したがって、傍論と言われても、「なお」とか、「念のため」という接続語を使っている判例なら格別、そうでない以上は、どこを指しているのかわからないので、以後判例の判旨部分を説明するときには、使わない方が良いと思います。

以降の私の回答は、「貴殿がおそらく理由中の第一パラグラフを前半、第二パラグラフを後半部分と言う意味で話しているのだろうな」という理解で書きますので、仮に質問の趣旨とズレた回答でしたら、お許しください。

まず、貴殿のご質問の趣旨ですが、、「第一パラグラフ部分において、憲法上の国民と住民をともに日本国民と限定しつつ、第二パラグラフ部分で、一定の外国人に参政権を認めてもよいとすることは矛盾するのではないか?」という疑問を持たれているのではないでしょうか。

これは、判決に対する学説からの有力な批判の1つです。

したがって、判例がそうした矛盾を抱えておかしいという批判は、禁止説や保障説(憲法上の参政権の保障が外国人にも及ぶという説)から行うのは可能ですし、現にそういう批判があります。

もっとも、判例が、貴殿の言うように、「地方議会議員を選定・罷免することは日本国籍を有する国民固有の権利」という解釈していると読み込むことはできないと思います。

その点につき、以下、説明します。

判決理由中の第一パラグラフ部分の「『住民』とは日本国籍を有する日本国民である」という定義に至る判例の論理の流れですが、端的にいえば、国民主権の原理から導いています。

つまり、
1.憲法は前文、1条から、国民主権原理における「国民」とは日本国籍保有者である。

2.そうとすれば、憲法15条の権利の保障は日本国籍保有者を対象とし、外国人は保障の対象ではない(つまり、保障が及ばない)ということになる。

3.地方自治も我が国の統治機構の不可欠な要素

4.よって、住民とは、日本国民を意味し、外国人に選挙の権利を保障したということはできない。

という流れですね。

ここまでの流れで、判例は、「憲法による権利保障が誰に及ぶか」という話をしているに過ぎません。

そして、判例は一言も、「国民固有の権利である」とは言っていません。

15条の参政権は憲法第3章の基本的人権の1つですが、それにつき判例は、冒頭「保障は、権利の性質上国民のみを対象としているものを除き、...外国人に等しく及ぶ」とも言っています。

つまり、あくまで、判例は、「憲法上の権利の保障が誰に及ぶか」という話を前半部分(第1パラグラフ部分)で言っているわけです。

この前半部分の文言から、「地方議員を選定・罷免する権利が日本国籍を有する者の固有の権利と言っている」とまでは読み取ることは困難です。

したがって、前半部分はあくまで、「誰に保障が及ぶか」という話をしており、後半部分は、「『地方自治という重要性』、つまり、『地方自治の本旨である住民自治(地方自治は住民の意思が反映され、それに基づいて行われるべきとする価値)』に鑑み、一定の関係を持つに至ったものに対して、立法で権利を付与することは憲法が禁止したものではないという許容性の話」をしているにすぎないわけです。

簡単に言えば、前半部分は「誰に保障されているか」という話で、後半部分(第二パラグラフ部分)は、「立法措置で付与するのが許容されるのか」という話をしているのです。

しかし、このように説明しても、最初に言ったように、判例は、国民主権の原理を持ち出して、「あたかも国民固有の権利であるか」のような思考をしたうえで、「国民」、「住民」を日本国籍保有者に限定しておきながら、外国人への参政権付与を許容するのは、内在的論理に矛盾があると感じるという指摘も説得力があります。

以上のように、貴殿の御指摘は、判例の矛盾点をつくものとして、かなり筋の良い思考です。

ただ、あくまで、判例に対する批判としてありえる思考であって、判例が貴殿の言われる思考をしていると読み込むべきではないと思います。

紹介した渋谷先生の本を今日手に取る機会があったので、目を通してみましたが、この部分につき、判例の批判として貴殿と同じような疑問を指摘されていました。

参考になると思うので、折角興味を持たれたのでしたら、当該部分(外国人の参政権という論点について書かれている部分)だけでも本屋などで目を通して見られると良いかもしれません。

法律を学んだことのないという一般の方にしては、鋭い指摘で有益な議論だと感じたので、この記事の中で、紹介させていただきました。

さて、次回の予告(最近忙しくて、シリーズ化した「節度のないマスメディア」の続編もまだ書いていないので、本当にこの内容になるかわかりませんが・・・)ですが、民法の話題で、「意見・評論と名誉棄損の成否」などについて、判例の考え方なんかを紹介できればと思っています。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

※ 今回の一件の侮辱罪に該当するコメントですが、当初この記事の中で、IPアドレスやリモートホスト名も公開しようかと思いましたが、大人げないですし、そのIPアドレスが知れ渡り、他の人のサイトなどで、閲覧禁止や書き込み禁止とかにされてしまうと、自業自得とはいえ可哀想なので公開しません。また、別の方が同じIPアドレスを使っている場合に迷惑を被る可能性もあるそうです。いちいち反応すると、似たような行為に快感を抱く方が増えても面倒です。もっとも、この方の本ブログへの書き込みは禁止しました。今回こうした誹謗中傷コメントをあえて記事で取り上げたのは、「この0.08%の誹謗中傷率と言う結果が私のネット社会に対する認識に変化をもたらせた」という話をするための特例であって、誹謗中傷や迷惑コメントは公開せずに削除するのが私の管理方針ですので御了承下さい。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

11/13/2009

事業仕分に違憲の疑い!? ― パフォーマンスより実績を

先日の「外国人の地方参政権付与について」という記事に関連し、面白い時事通信配信の記事(下記参照)を見つけたので、一言述べようと思います。

亀井氏はさらに、モルガン・スタンレー証券のロバート・フェルドマン経済調査部長が仕分け作業に当たっていることを問題視。「事業仕分けは権力の行使そのもの。外国人を入れるのはおかしい」と、メンバーを人選した仙谷由人行政刷新相らを批判した。

この亀井大臣の発言を聞いて、皆さんはどう感じましたか?

私は、「お、見た目によらず、なかなか鋭い事を言うんだな」と思い、感心してしまいました。

先日の上記記事にも書きましたが、外国人の公権力行使等公務員への就任は「我が国の法体系が想定するものではない」と最高裁判決は言っています。

*先日問題視した産経新聞の記事のような不正確なことは言いたくないので、あえて言いますが、この判例は地方公務員における公権力行使等公務員の定義をしたもので、国家公務員について直接言及したわけではありませんが、公権力等行使公務員を定義する上で、両者に違いを設ける必要性が私としては疑問なので、以下、同義だという解釈の下、お話します。

私自身、この「事業仕分人」という方々が、具体的にどういう身分関係なのかわかりません(公務員たる地位が付与されているのか、賃金をもらっているのか、完全なボランティアなのかは残念ながら調べましたが把握できませんでした)。

最高裁のいう「公権力行使等公務員」の定義は、「住民の権利義務を直接形成し、その範囲を確定するなどの公権力の行使に当たる行為を行う者」、若しくは「重要な施策に関する決定を行い、又はこれらに参画することを職務とする者とされています。

そうすると、事業仕分人が、全くのボランティアである場合は格別、国から賃金をもらっているとすれば、国家予算の配分という重要な施策に参画を職務として行っているとして、「公権力行使等公務員」に該当するような気がします。

これにつき、平野官房長官は、産経ニュースの報道によると、以下のような反応をしたようです。

 12日午前の記者会見で、行政刷新会議の「事業仕分け人」として外国人が参加していることについて「(仕分け人は)専門家としての考え方を述べているのであり(最終決定ではないので)公権力の行使にあたらない」と述べた。問題はないとの認識を示した発言だ。

しかし、最高裁が定義する、「公権力行使等公務員」に当たるかは、決定権の有無により決するわけではなく、「重要な政策に参画することを職務とする者」なのか否かで判断するわけですから、上記の平野官房長官の言い訳は的を得ていません。

少なくとも、憲法の問題が絡んでくることが明らかになったのですから、政府は「事業仕分人」の法的地位(国との契約関係)について、丁寧に説明すべきです。

仮に、賃金をもらっているとすれば、外国人の公務就任権が許容されているのか、禁止されているのかという昨日の記事の内容が、直接的に問題になってくるわけです。

個人的には、現在の鳩山政権が、仮に賃金を払って、職務として、予算の配分という"国政"の重要な施策に決定に参画させているとすれば、違憲の可能性が極めて高いと思います。

もっとも、我が国は抽象的な違憲審査を行わず、具体的権利義務の判断に必要な範囲で行われる付随的違憲審査制度を採用していますから、これを訴訟上どう争うかというのは別途、面白い議論として残るでしょう。

つまり、事業が廃止され給付金を受けられなくなった法人等が、その給付撤回処分を取消訴訟で争うとか、行政法上の訴訟選択について面白い議論ができるかもしれません。

しかし、そうした訴訟法的観点の話はマニアックすぎるので今日はこれ以上深入りしません。

さて、亀井大臣ですが、見た目の印象などから、失礼ながら、あまり賢くないようにも見えてしまい、乱暴な旧来的な政治家と捉えていました。

一般的にも印象があまり良くないのではないでしょうか。

しかし、亀井大臣って、よくよく聞いてみると、結構まともなことを言ったりするんですよね。亀井大臣ってモラトリアム法案のときもそうでしたが、発言が丁寧でないので、印象も含め凄く損をしているように思います。

「実際は結構良いことを言っているのでは?」と今回の発言から、有権者の一人として、亀井大臣を再評価し直しました。

それにしても、行政刷新会議の事業仕分人のニュースから、先日の記事で説明した外国人の公務就任権の問題が絡んでくるとは思いもしませんでした。

なお、あらゆるところで話題になっている民主党の事業仕分。

事業仕分を行うことそれ自体はマニフェストの基本的な部分であって、非常に良いと思いますし、民意を経た政策なのですから大いにやるべきだとは思うのですが、今回、その方法論には疑問を持たざるを得ません。

そもそも、1時間で結論が出せるような問題なのかと思うわけですね。

蓮舫議員や枝野議員の過剰なパフォーマンスじみた発言とかを目の当たりにすると、なんだか本気で国民の目線で、事業の洗い出しをしているのかと思ってしまいます。

例えば、透明性を高めたりするのは良いですが、いくら官僚が無駄遣いをしてきたと言っても、事業について発言したがっている者の発言を許さずに判断をするというのはどうも雑だと思います。

裁判でも、不規則発言は格別、原告被告が主張したいと言っているのに、「聞きません。裁判所の聞くこと以外発言を許しません」という訴訟指揮をし、当事者に不満が残ったまま一方的に裁判官が判断してしまえば、その裁判官への当事者の信頼は失われてしまいますよね。

そういうことへの配慮って極めて重要だと思います。つまり、事業仕分においても、あんまり乱暴に無駄と決めつけてかかり、「質問したこと以外の事業担当者の主張は許さない」というような印象を与えることはマイナスなのではないでしょうか。

重要なのは、国民の本当の利益のために、しっかり検証することであって、官僚と無駄な戦いをしている姿をアピールすることではないと私は思うわけです。

そういう暇があるなら、これも先日の記事「日本の政治家の数は多すぎる!?」で指摘したように、地方議員の数を減らせと言いたくなってしまいます。

ただ、今の段階で、民主党の行っている事業仕分に意味がないとかいう批判は私は控えたいと思います。なぜなら、そういう批判は実績が出てきて初めてできるのであって、今はその段階ではないからです。

最後に、独立行政法人「国立女性教育会館」の理事長である神田道子さんがあたかも官僚の抵抗勢力のような描かれ方に凄く違和感を感じました。

面識はありませんが、神田さんは、女性の地位向上の第一人者で、長く民間人として活躍されてきた方として有名です。

東洋大学の初の女性学長としても活躍され(私の記憶が正しければ、神田さんは総合大学で初の女性学長であったと思います)、女性の社会進出と言う問題については、蓮舫議員とは比べものにならないくらいの実績と知見がある方と聞いています。

彼女をあたかも既得権益にしがみつく官僚のように描いた報道やそれを意図したかのような「仕分人」の対応には、「国民の利益を本当に考えているのか?」と個人的には非常に疑問に思った瞬間でもありました。

無駄の名の下に、必要な予算が削られ、結局は官僚の思うがままという事態は、本当に政治不信を招くので、パフォーマンス政治はやめてもらいたい。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

Continue reading "事業仕分に違憲の疑い!? ― パフォーマンスより実績を"

| | Comments (5) | TrackBack (0)

11/12/2009

外国人の地方参政権付与について

先日私は、「嘘を平気でついてしまう産経新聞」と題し、永住外国人への地方選挙権付与については、判例は許容説に立っているという解説をした。

その後、私のブログに反論が寄せられ、それは判決が「①傍論で言ったに過ぎず、②傍論には拘束力がない、③そして判例は外国人の参政権を否定しているので、違憲だと言った」というものだった。

「なぜこんな間違った理解をしているのか?」と不思議に思ったのだが、その理由は、またまた最近の(11月10付)産経新聞の不正確な報道にあったようである。

こちらの記事をみると、

 在日韓国人ら永住外国人に地方参政権を与えようという動きは、この問題が「国の立法政策に委ねられている」とした平成7年2月の最高裁判決を機に強まったといわれる。だが、判決のその部分は拘束力のない傍論の中で述べられたものにすぎず、本論部分では、憲法93条で地方参政権を持つと定められた「住民」は「日本国民」を意味するとして、外国人の参政権を否定している。

という記述がある。

不正確な理解をあたかも法律家の共通認識かのように新聞社が報じるのはいかがなものであろうか。

この点、①参政権付与について、傍論で述べられたという理解をしているようだが、これは「なお書き」、「念のため」という傍論で述べたものではない。

このことは判決の原文を見れば明らかである。どう見たってまともな法的センスがある人間であれば、これを傍論であるとは読まないであろう(少なくとも、この判決の当該部分について傍論と言っている"まともな"憲法学者および実務家を私は知らない)。

②の点について、「念のため」にいうと、そもそも傍論という制度は我が国では制度化されておらず、一部の判例において、「念のため」とか「なお書き」で付加されている部分を勝手に、法律家が傍論だと解釈しているに過ぎない。

どこまでが傍論なのかということも明確ではないし、判決理由中の判断であることに変わりはなく、最高裁の先例としての価値が変わるものではない。

この点は、朝日訴訟(最判昭和42年5月24日民集21巻5号1043頁)の「なお書き」部分が先例的価値を有するものとして扱われていることからも明らかなのである。

したがって、百歩譲って、傍論だという理解をしたとしても、判例としての「拘束力がない」なんていう話にはなりえない。

そして、上記産経新聞のいう③の部分であるが、正確には、「外国人の参政権を否定している」のではなく、「外国人の参政権の保障が及ぶことを否定している」のである。

つまり、外国人の地方参政権は憲法上保障されていないと言ったに過ぎず、憲法上禁止したとは言っていないので、付与そのものが違憲と判例が言ったという理解は成立し得ない

新聞の言うことは正しいと思い込んでいる人はまだまだいるのであるから、産経新聞社は、最高裁判例について新聞購読者に紹介するのであれば、もう少し正確な報道をしてほしい。

お金を出してねじ曲がった解釈を吹き込まれるのであれば、購読者はたまったものではないだろう。

外国人への参政権付与につき、禁止説を主張するのは一向に構わない。

しかし、最高裁がその立場だという嘘は止めてほしいと望むことは、価値判断先行の新聞社に対しては、許されない願いなのであろうか。

さて、ここからが本日の本題。

ここまでの私の主張を見ていると、私の考えが地方参政権付与につき賛成する立場の人間だと思っている人も多いかもしれない。

しかし、私は、「新聞社とあろうものが、成立しえない解釈をして、あたかも最高裁判例が違憲と言ったなんていうトリックを使うな」と言っているに過ぎない。

私自身が、現段階における立法による地方参政権付与について賛成しているかどうかは別問題である。

そこで、今日はこの問題について、マニフェストに明記された政策ではなく、国民の審判を経ていないため、政権発足から100日間は批判しないという紳士的ルールの例外として、厳しく批評していきたい。

端的に答えると、現時点において、私はこの政策には、反対であり、もし法案化をするのであれば、来年の参議院選挙の争点の1つとして、マニフェストに示したうえで、その結果を持って判断すべきであると考える。

なぜ、今国会での永住外国人への地方選挙権付与について、反対の立場なのかについては、以下のような理由によります。


1.まずは国民を巻き込んだ十分な議論を

永住外国人への地方参政権付与(以下、私は意識的に、「地方参政権」という言葉と「地方選挙権」という言葉を使い分ける。なぜなら、最高裁判決で、明示的に示されているのは、地方選挙権の付与について憲法上の許容されているとしているに過ぎず、被選挙権に対する判断は示されていないためである。)の問題は、国民主権の原理に密接にかかわる問題であり、国民レベルの議論が十分に進み、国民によるこの問題への認識が十分に図られ、国民による選挙を通じた十分な信託を受けていない現状での、法案化は百害あって一利ない。

にもかかわらず、選挙を通じて訴えて来た政策の実現すらされていない現状で、この問題の立法化を行う理由が私には理解できない。

この問題は、参政権という、いわば憲法15条の公務就任権の問題である。

国民主権の原理から、憲法15条の保障は、日本国民に限られるという現在の最高裁判例や通説的理解を前提にすれば、たとえ、憲法上地方選挙権の付与が憲法上禁止されていないとしても、国民主権の担い手である日本国民の明確な意思表示がなければ、立法化すべきではない

明確な意思表示というのは何も国民投票のような直接的意思表示を求めろというわけではない。

しかし、少なくとも、選挙中の争点の1つとして、与党議員と政権政党を政治的に拘束するマニフェストに掲げた上で、国民の審判を受けた政策でなければ、ならないという基本的なことを言っているにすぎない

これを無視した法案化は、国民主権の原理を軽視する政治家の暴挙と言っても良いだろう。

私は、かねてから主張しているように、民主党政権のマニフェストに掲げた政策については、少なくとも政権発足から100日間非難すべきではない、その後であってもマニフェストの基本的部分に反対するような行為はメディアも慎むべきだと思っている。

なぜなら、マニフェストを掲げた政党が勝利した以上、国民の民意が示され、その基本的部分に反対したり、実績が作れない段階である100日間に批判をするのは、無責任かつ民主主義を否定する暴挙だからである。

そして、これが少なくとも英米政治における共通認識である。

しかし、この永住外国人への地方選挙権付与の問題は未だ選挙の重要な争点として、マニフェストに掲げられ、国民の信託を仰いでいない。

さらに、雇用問題、社会保障問題、景気対策、行政のスリム化など今すべき重要課題に優先させてこの問題を扱う必要性も許容性も私には見いだせない。

国民の審判を仰ぐのを避けるかのような法案化は、政治家のエゴであり、民主主義の原則にもとるのではないだろうか。


2.参政権の内容が未だ不明確

前述で触れたように、最高裁は、永住外国人への地方選挙権の付与は憲法上禁止されるものではないと言っている(最判平成7年2月28日)。

しかしながら、参政権の付与といった場合、そこには被選挙権の付与も含まれると考えられる。

仮に、永住外国人への地方被選挙権の付与も立法化するとすれば、そこにはひとつクリアーしなければならない問題がある。

それが、「外国人が『公権力行使等地方公務員』に就任することは、本来我が国の法体系が想定するところではない」と判断した最高裁判例最判平成17年1月26日民集59巻1号128頁)との関係である。

この判例は、地方公務員のうち、住民の権利義務を直接形成し、その範囲を確定するなどの公権力の行使に当たる行為を行うなどの公務員を「公権力行使等地方公務員」と定義したうえで、憲法の国民主権の原理から、地方公共団体の統治のあり方については、国民がその最終的な責任を負うとの考え方から、上記のように、、「外国人が『公権力行使等地方公務員』に就任することは、本来我が国の法体系が想定するところではない」との判断をしている。

ただ、最高裁はこの判例において、明示的に外国人の公務就任権を否定(禁止)しているわけではない。「想定するところではない」と言うに過ぎず、ここから導かれるのは、「保障はされていない」ということだろうという解釈である。

つまり、藤田裁判官の補足意見にもあるように、この事案の解決において、外国人の公務就任権の存否については、これが禁止されているのか、許容されているのか、最高裁は判断する必要がないとして回避しているのである。

なぜこのような判断になったのか。

それは、この事案では、永住外国人の東京都の管理職への登用が問題になったのであって、管理職=公権力行使等地方公務員ではないため、公権力行使等地方公務員への就任それ自体が問題になったわけではないためである。

そうすると、未だ、永住外国人が公権力行使等地方公務員への就任が憲法上禁止されているのか否かを含め、未だ最高裁の判断は出ていないのである。

したがって、まとめると、

①最高裁は、地方公共団体の長および議会議員の選挙権の付与につき、許容する立場を明確にしている。

②最高裁は、地方公共団体の長および議会議員の被選挙権の付与については、明確な判断を一切していない

③もっとも、最高裁は、公権力行使等地方公務員への外国人の就任につき、「我が国の法体系が想定するところではない」と言っており、保障していないことは読み取れるが、禁止なのか許容なのかは不明である

④そして、地方議員になることは、公権力行使等地方公務員に就任することそれ自体といえる。

以上が、憲法の番人たる最高裁判所の見解であると考えられるのである(もっとも、③の部分は、判例の不明確な文言をどう解釈するか問題であるため、許容していると理解している学者も多いだろうし、そういう解釈を展開する余地はあるが、私としては禁止説と考える余地も十分にあり、どちらともいえないと考えている)。

こうした司法判断の存在を踏まえて、民主党が想定する「参政権付与」の内容をまずは具体化し、その上で、上記判例法理との矛盾・抵触がないかを国民レベルで検証しなければならないのではないだろうか。

しかし、そういった最高裁判例の検証を現在の立法府が行っているというニュースは聞こえてこない。

もし、これらの判例の存在を十分考慮しない形で議員立法化するとすれば、それは、国民主権の原則を軽視するだけでなく、最高裁に違憲審査権を与え、三権分立を図った憲法の精神すら没却する恐ろしい行為ではなかろうか。

この法案の議員立法化を現時点で進めようとしている国会議員にはまず、国会議員には憲法99条による尊重擁護義務があることを再認識してほしいと切に望む。

3.適切な民意の審判を経れば、地方参政権付与も許容

私は、

①次の国政選挙である来年の参議院改選においてマニフェストに掲げて争点化し国民の審判を仰ぐこと

②それまでの間に上記2つの最高裁判例の存在と射程の問題を十分議論し国民に十分な情報抵抗を行うこと

という2つの条件をクリアーすれば、外国人への地方選挙権(および被選挙権)の付与は問題ないと考えている。

この問題をメディアで取り上げると、大抵の場合、イデオロギー対決となったり、根拠のない誹謗中傷合戦や不正確な知識に基づくうそつき合戦に発展することが多い。

しかし、少なくとも政治家やメディア、そして、”識者”を自称する人々は、そうやって政治劇のように煽って面白おかしく取り扱うのではなく、重大な問題であるという認識を新たにして、冷静に司法権が示した解釈を踏まえ、国民への適切な情報提供を行い、国民の判断に委ねるべきではなかろうか。

さて、外国人の参政権という論点を扱う本は数多くあるが、どうもこの論点を一般向けに分かりやすく、正当な憲法学の理解に基づいて、解説している本と言うのは少ないように思う。

例えば、アマゾンなどで、「外国人の参政権」というキーワードで検索しても、あまり耳にしない著者(私の無知のせいかもしれないが、法学者としてあまり実績を聞かず、有名でない方)の本が多い。

こうした外国人への参政権付与という憲法上の問題を理解する上で妥当な一般向けの本を紹介するのは非常に難しいため、今回は憲法学における正統な本を紹介しようと思う。

そもそも、憲法というのはどうしても価値判断が先行してしまうため、学者の色が出てしまう。

ただ、我が国の憲法が故・芦部信喜博士の通説的理解を中心に発達してきたのは紛れもない事実であろう。したがって、芦部憲法が未だに通説的理解の根底にあることはだれも否定できない。

もっとも、近年は最高裁判例が芦部憲法とは違う理解をしているという批判が多くなっているという。また、芦部博士が亡くなって久しく、取り扱っている判例も古くなっている。

そこで、 憲法判例の理解に当たっては、芦部憲法に加え、以下の本もお勧めである。

まず、この高橋先生は芦部博士の一番弟子といわれており、芦部憲法を前提に最近の議論が説明されていることは憲法学における通説的な理解をするのに良い本である。

最近の判例の理解を深めるという観点からは、戸松先生のこの本は訴訟的観点から判例を丁寧に分析しているので解りやすい。

なお、これらは法律家向けの専門的なものであることは否めない。

そこで、私自身は読んだことがないが、一般向けの本としては、渋谷先生の書かれた以下の本がオーソドックスでよいのではないかと思う(中身は読んだことがないが、渋谷先生の他の著作物からすると、基本的には独自説を通説がごとく記載する方ではないし、憲法学者としても実績がある方で、その方が一般向けに書いた文庫本なのだから、お勧めして問題はないという判断)。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

Continue reading "外国人の地方参政権付与について"

| | Comments (1) | TrackBack (1)

11/10/2009

日本の政治家の数は多すぎる!?

日曜日夕方18時の日本テレビ系ニュース番組、「バンキシャ」を見た方はどれくらいいるだろうか。

私は、番組内での福澤朗キャスターと元東京地検特捜部長で弁護士の河上和雄先生とのやりとりが好きで、よくこの番組を見ている。

特に御意見番として登場される河上和雄先生は、他のテレビメディアに頻繁に登場される法曹関係者とは違い、刑法や刑訴法で多くの有力説を唱えるなど学術面においても業績を残しておられ、個人的には、番組製作者や大衆に迎合しないその正確な法律の解説や安定感のあるコメントが気に入っている

その河上和雄先生が、番組内で福澤キャスターにたばこ税の増税の話題について聞かれ、「増税するまえに、国会議員の数と歳出費を減らすべきですよ。」とおっしゃられてたシーンを見て、私はふとあることを思い出した。

それは、日本は先進国と比べ、政治家に余分な人材が多すぎるということである。

以前から何度か指摘している問題なのであるが、折角の機会なので今までの私の主張を整理してみようと思う。



1.多すぎる日本の地方議員数

そもそも、日本の政治家の数が多いといっても、政治家には、国会議員もいれば、地方議員もいる。

そこで、今回は、誰もが疑問の余地を持たないであろう、「日本の地方議員数の異常な多さ」について、アメリカの例と比較して以下紹介する(私はもちろん国会議員の数も多く減らすべきと考えているが、その点は別の機会に私見を紹介したい)。

私の生まれた市の人口は、10万人以下である。中規模の市町村といったところであろう。この市議会議員の数は、20名近くいる。

これに対し、カリフォルニア州にあるストクトン(Stockton)という市は、人口が約28万人いる。

では、読者の皆さんは、市議会議員の数はどれくらいであると予測されるであろうか。

10万人のおよそ3倍だから、60人?

それだと多すぎるから、同じ20名くらい?

なんと、人口約28万人に対して、6名しかいない

この数字を見て、まず、驚嘆した人も多いのではないだろうか。

ストクトン市は、市内が6個の選挙区に分かれており、それぞれ1名ずつ選出している。私の地元より約3倍も人口がいるのに、議員の数は約1/3という数字なのである。

おそらく信じられない人も多いだろう。疑う人は、以下のリンクで、自分の目で、確認してほしい。

こういうことを言うと、必ず日本の政治家は、「議員を減らせば、市民や国民の要望に応えられない」という必死の弁解を行う。

しかし、果たしてこの弁解は本当に妥当なのであろうか。

なにも上記のストクトン市の例は、私があえて地方議員数の少ない市を選んで比較し、数字による印象操作をしようとしたわけではない。

アメリカの市議会なんて、どこもこの程度の人数で運営しているのである。

つまり、ストクトン市の人口と議員数の対比の例は、アメリカの一般的な市のモデルなのである。

そこで、他の地方議会の例も見てみよう。

ニューヨーク市は、47名の市議会議員がいる。これならば、日本の中規模から大規模都市における地方議員数と同じような数字のように思える。

しかし、ニューヨーク市の口は、およそ821万人である。

前述の私の生まれた市の人口の80倍の人口であるが、議員数は2.5倍に過ぎない

ただ、人口10万人以下の都市と821万人の都市との比較だけでは妥当ではない。

では、同じ大都市ということで、規模が近い東京都と比較してみるとどうであろうか。

ニューヨーク市の人口は821万人であるのに対し、東京都の人口は1297万人(2009年5月時点)である。

およそ、東京都の人口が、ニューヨーク市の人口の1.6倍となる。

議員の定足数はどうであろうか。

ニューヨーク市には47名の市議会議員がいるが、他方、東京都議会の議員定足数は127名である。

単純に人口と比較して、ニューヨーク市の議員数を1.6倍と考えれば、本来、都議会議員の数は、75名で足るはず。

しかし、現在の東京都の定足数は127名。

つまり、東京都議会だけで、52名も無駄な議員がいるのである。



2.アメリカは、有権者たる住民の声を無視している?

アメリカは日本よりも国土が大きいし、当然、有権者も点在している。

だとすれば、日本以上に、地元住民の声を聞くのは難しいだろう。住民向け集会を開くのに、点在している人々を集めるのだって大変である。

そうすると、アメリカは市民の声を無視しているのであろうか。

そんなことはあり得ない。

アメリカは民主主義国家である。有権者である住民の声を無視するような市議会議員は再選できない。

議員数が減ってしまうと、「住民の多様な声を政治に反映できない」というような批判は、単に政治家が自己の保身で議員のイスを減らしたくないための詭弁に過ぎない

もし、本当に有権者の市民の声を聞いて、その意見を地方政治に反映できない考えているならば、それは、その政治家がそもそも無能であるか、議員の椅子にふんぞり返っている怠惰の証といっても過言ではないだろう。

もっとも、日本の地方選挙制度にも問題がないわけではない。

日本の地方議会の選挙の場合、市町村レベルでは、たとえば、市内で議席20個が定足数として存在し、それを同一の選挙区で、候補者30人が争うというような形で行われる。

これでは、市民も、自分の選んだ候補者という意識は薄れてしまいかねない。

他方、アメリカでは、市内をいくつかの選挙区に分け、そこに議席を1つずつ配分する。選挙区選出なので、自分を代表する市議会議員という意識は持ちやすいのではないだろうか。

アメリカ政治に話が及ぶとき、多くの場合は連邦政治(中央政治)ばかり注目を集めるが、私は、アメリカの民主主義の本質的価値は、このような地方選挙制度のように、自分たちの代表であることを認識させるプープル主権の思想に近い選挙制度にあるような気がする。

なぜなら、一番有権者にとって身近な存在が、地方公共団体の最小単位たる市町村レベルの議会制民主主義だからである。

しかし、現実には日本の国政問題以上に、地方政治は腐敗し、機能不全に陥ってはしないだろうか。

これだけ「無駄」に地方議員数が多いにもかかわらず、土建などの既得権益にしがみつく人々の声のために働く議員はいても、本当に有権者全体、市町村全体の利益を考えて行動している地方議員がどれだけいるのであろうか。

少なくとも私はそういう議員の存在を知らない。



3.地方議員を1人削減すると、最低年間500万円の財源が生まれる

さて、上記考察から、日本の地方議員の数がアメリカに比して異常に多いことは明らかであろう。

では、地方議員の議席数を1つ減らした場合、いくらの「無駄」が省けるであろうか。

この点、全国市議会議長会という団体が示す資料(平成17年度の調査)によれば、地方議員の議員報酬は年間、平均498万円であるという。

さらに、この資料から以下の点が明らかである。

○1つの市における議席数の平均が31.4議席。

○市の数(調査当時)は778市。

○議席の総数(調査当時)が24,441議席。

ここにどれだけの「無駄」が存在するのであろうか。

「官僚支配をぶっ壊す」とか、「官僚から主導権を取り戻す」という声は聞こえるが、「自分たち政治家の数を減らす」という声はなかなか聞こえてこない。

地方議会の定足数を1議席減らせば、年間500万円の財源が恒久的に確保できるのである。

もちろん、これは報酬のみの算出なので、それ以外の歳費(例えば、政策費など)を含めれば、かなり削減できるはずではなかろうか。

これほど簡単(政治家にとっては難しいが・・・)に無駄を省く方法が存在するのである。



4.政治家も官僚そのものという発想が必要

この問題について、政治学に詳しい私のアメリカ人の親友に意見を聞いてみたところ、「とんでもなく酷い官僚機構の一例だね。こんなに無駄な地方議員を税金で養うなんてアメリカではありえない。こっちを先にぶっ壊した方が良い」という意見が返ってきた。

ここで注目すべきは、日本では、国家公務員や地方公務員のみを官僚として扱っているが、「政治家も含めて官僚」と考える発想が欧米人の思考にはあるようである。

つまり、国民の税金から報酬を得ている者は本来すべて官僚なのである。

日頃、多くの政治家やメディアが「官僚による無駄をなくそう」という主張をし、政治主導が常に叫ばれているが、その政治家自身も官僚そのものであり、そこにも無駄に多いというのはある種の盲点なのではないだろうか。

しかし、マスメディアを始め、今回初めて政権与党となった民主党や長年長期政権に胡坐をかき野党第一党に転落した自民党はもちろん、社民党、国民新党、公明党、共産党のいずれの政党も、地方議員数を削減しようと話しは全然行わない)。

日米比において、日本の地方議員数が異常に多いという事実を知らなかった人は、かなり多いと思う。

では、なぜ、大政党である自民党や民主党だけでなく、いつも理想ばかりを追求する(?)社民や共産党すらこの地方議員が多い現状を問題視して、世論に訴えないのであろうか。

答えはある意味簡単である。

既存の各政党の選挙運動は、中央の国会議員を頂点にして、都道府県議会議員から、市町村議会議員へとこれらを下部機関にして、組織的に選挙運動をしている。

もし、議員数を削減するなどと言えば、下部機関たる地方議員は選挙運動なんか協力しない。つまり、どの政党の国会議員も自分たちの選挙戦術にマイナスになるような「無駄」を省くことはしたくないのである。



5.地方議員の削減方法は簡単!?

もしかすると、地方議員数の削減は、各地方自治体の条例によって定められなければならないから、実際に削減するのは困難だという政治家の声があるかもしれない。

しかし、それは間違いである。

制度的には、地方議員の削減方法は非常に簡単で、国会議員が今日にでも削減すべきと決意さえすれば、今国会中に簡単にできる。

そこで、地方議員をどうやって削減するかという立法改正論を以下に示す。

まず、地方議会の議員の定数については、公職選挙法4条3項が地方自治法によると規定する。

地方自治法90条1項と91条1項は、定数を条例で定めるとしつつ、90条2項1号~3号と、91条2項1号~11号で、人口の規模に合わせて上限を規定している。

すなわち、地方自治法の上限を低く設定すれば、簡単に地方議員数の大幅削減が可能というわけである。

そもそも現行法の上限が2000人未満の町村で12人とかなり多めに設定しているのだが、この事実を知っている国民は少ないであろう。私も意識的に調べて初めて気がついた。

もっとも、法律論として可能という話と実際にそれを実行できる状況に現実があるかは別問題である。

我が国が政党政治であることに鑑みると、上述のような選挙組織として地方議員の活躍が期待される政党に所属する国会議員が、地方議員の削減を決意して、自らの議席の喪失覚悟で、贅肉を落とす(無駄の削減をする)とは考えにくい。

我々有権者にできることと言えば政治家の言動に注視し、①薄っぺらい批判だけで何もしていない、②実績(少なくとも国会議員の場合は法案の提出件数なども考慮すべき)を作るべく必要な活動をしていないなど、政治家として報酬を得るに値する活動をしていない政治家を監視し、これらの者に対して、選挙の際にしっかりと「ノー」を突きつけるという抵抗方法くらいしかないのかもしれない。

ただ、「何も知らず」、「何もせず」、という無関心になるよりは、日本の政治家の数が異常に多いという現状をまずは知ることが重要ではないだろうか。



6.結びに

私はタバコを吸わないので、どちらかというと、非喫煙者として、たばこ税は増税すべきと考えている。

仮にたばこを吸う自由が憲法13条の幸福追求権の1つとして保障されるとしても、たばこには副流煙があり、健康被害を喫煙者以外の他者にも振りまいていることからすれば、喫煙者が今まで以上に大きな税負担をしたとしても、それは甘受すべきと思っている。

ただ、消費税であろうが、たばこ税であろうが、他の税であろうが、民主党は「まず、無駄をなくす」と国民にマニフェストで、約束したはずである。

また、野党に転落した自民党も無駄をなくすという点に対しては異議はないのではないだろうか。

だとすれば、まず、約束した無駄の削減を徹底的にやるべきであろう。

そして、無駄をなくす対象に、自分たちの身を削ることになるとしても、多すぎる地方議会議員の削減を真摯に検討してしかるべきである。

こうした自分たちの身を削るような改革をしなければ、無駄を削っているなんていえない。

その意味で、「増税する前に、政治家の数を減らして歳出を減らせ」という「バンキシャ」内での河上和雄先生の一言にはなるほど納得させられる面があると感じる(もしかすると、河上先生が喫煙者で争点をすり替えたかったための発言だったのかもしれないが、それでも説得力があると感じるのである)。

さて、最後に、このテーマに関連し、ぜひ見てもらいたい映画を紹介したい。

以前も紹介したのですが、この古き良き映画は、政治家の本質的なあり方を考える上で非常に良い作品だと思うので、再度紹介することにした。

邦題は「スミス都に行く」、原題は「Mr. Smith Goes to Washington」という映画。

1939年に制作された古い映画だが、アメリカの政治制度や議会制度の仕組み、民主主義の本質とは何なのか、政治家たるべき理想姿は何かを考える上で非常に優れた作品である。

社会派ドラマでアカデミー賞11部門にノミネートされ、最優秀脚本賞を獲得した。

この映画のストーリー中には、先日の「アメリカで気候法案が成立に向け前進」という記事でも触れたアメリカ議会に特徴的な『フィリバスター』が行われる場面が出てくる。

ぜひ、腐敗した日本の政治に嫌気がさしたと思考を停止させてしまう前に、一度この映画を見て、政治とは何か、民主主義とは何かという本質を考えてみるのも良いのではないだろうか。

ちなみに、この作品は、アメリカの政治家や政治を学んだことのある人間で、この映画を知らない人はいないと言っていいほど、アメリカで政治を勉強した人は一度は見ているはずの映画である。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

| | Comments (8) | TrackBack (0)

11/09/2009

企業年金の支給額は減額できないのか?

最近、JALの再建問題との関係で、企業年金の支給額の減額という話が話題に上がることが多い。

また、この企業年金の支給額の削減の可否については、最近、裁判例が多い分野でもある。

そこで、JAL再生問題という政治的経済的な話題は多くのメディアが取り上げているので置いておき(別途これについても既存のメディアの論調とは異なり、①日本の国土発展のために空港を無計画に設置した行政側の問題や、②航空業界特有の職種別労組の問題、③ANAについても類似する問題があるにもかかわらず、ANAの株主である朝日新聞は表立ったANA批判に消極である一方、JALの問題については激しく批判を従来からしておりメディアの公平性に疑問があること、など諸般の事情を考えると、一方的にJALの企業体質が特殊なものであるとして批判することはできないと考えているが、今回はJALへの批判についての妥当性は論じない)、今日は、この企業年金の支給額の削減が法的に可能なのかどうかという話題について少し説明してみようと思う。

そもそも、どういう形で法律上問題になるのかというと、まず、企業年金というのが、労働基準法上の「賃金」当たるのかという点が1つ問題になるわけである。

「賃金」に当たるとすれば、労働基準法24条の「全額支払いの原則」が適用されることになるため、企業の側で一方的に削減することができるという訂正変更条項が仮に存在したとしても、無効ということになってしまう。

この点、個別具体的な事案を離れて、一般論として語るのは難しいが、裁判例(大阪地裁平成10年4月13日判タ987号207頁)や通説的見解を参考にすると、企業年金は、恩恵給付的性格を有しており、退職金と同様に、労働基準法上の「賃金」には該当しないと考えられる。

しかし、退職金と同様に、企業年金とも、労働契約の内容となっているので、これを改定して、支給額を削減するには、年金規定の改定権の根拠規定が必要となる。

まず、この明確な年金規定の改定を定める条項が企業と元労働者の側を拘束する形で存在している場合、①必要性と②相当性が具体的事案において認められれば、削減も可能となるであろう。

もっとも、①必要性と②相当性がないにもかかわらず、削減を行えばもちろん権利濫用として無効になるであろう。

したがって、一部の報道にあるような、企業年金の支給額は削減できないという論調はミスリーディングである。

では、こうした明確な規定がない場合は、削減が全く許されないのであろうか。

従業員であれば、就業規則等の(不利益)変更により労働契約の変更を行って、その効果により、企業年金削減の拘束力を従業員に及ばせることは可能であるが、他方、退職者は既に労働契約関係の外にあるため、いかにして削減の拘束力を肯定する法理を見出すかが問題となる。

1つの方法としては、就業規則の不利益変更の法理を類推適用して、「高度の必要性」がある場合には、一方的な不利益変更を容認するという考え方があり得る。

つまり、就業規則の不利益変更の法理を類推する以上、労働契約法10条の「合理性」が要求されるため(もっとも、判例法理上、合理性は労働契約法成立前から要求されてきた)、「変更の必要性」と「労働者の不利益」の比較考量により、企業年金の削減に、合理性があると言えなければならないが、企業年金の場合、先述したように、退職者は労働者と同視できない。

そこで、類推適用という形で、退職者であるというの特殊性に鑑み、変更の必要性につき、「高度の必要性があること」を要求して、調整を図ることになるだろう。

もう一つは、民法の一般法理である、事情変更の法理により、ⅰ.予測が不可能であり、ⅱ.当事者に帰責性がなく、ⅲ.契約通りの履行が信義に反するといえることを要件として、減額を認めさせる方法である。

もっとも、後者の事情変更の法理による場合、支給の減額理由として経営困難を理由にすると、ⅰ、ⅱという要件の充足を企業側がこれを立証するのはかなり困難になるのではないだろうか。なぜならば、経営悪化の経営責任がある以上、企業側の帰責性が肯定される方向に働きやすいためである。

いずれにしても、JALのような大きな企業の場合は、企業年金の規定中に改定権の言及があるので、①必要性と②相当性の充足の問題をクリアーすれば良い。

したがって、企業側の視点から言えば、今後削減に向けては、「②相当性」をいかに担保できるかが問題となってくる。

そこで、重要なのは、いかに手続的妥当性を図っていくか、削減内容を社会通念上相当といえる程度に担保していくかである。

なお、JALの場合は確定給付企業年金という制度なので、確定給付年金法の適用を受け、「②相当性」の担保のためにも、法令で定められた手続きを踏む必要がある(これが以下で付言するメディアの報道する2/3の同意が必要という現行法の部分である)。

この辺は、ポピュリズム的にJALの企業体質を批判して、特別立法などという強制手段を使い、性急に行うのではなく、労働法の専門家(学者や労働法事件に明るい法曹)を踏まえて、十分な検討をすべきであろう。

例えば、厚生労働省の外局には、労働法の大家である中央労働委員会会長で東大名誉教授の菅野和夫先生や、中央労働委員会の公益委員の教授など素晴らしい人材がいるのだから、こうした専門家に依頼して、企業年金をどこまで、どのような方法で削減すれば、裁判で争いになっても勝訴できるかなどの検証をすべきであろう。

また、同法が「減額措置時点での年金原資の現在価格を既得権として保護」していることは無視すべきではない

実際、最高裁の判例がまだ出ていない(今まさに係争中の案件が多い)分野なので、鳩山政権は、司法の動きを注視して慎重な判断をしてほしい。

多くのメディアでは、同法が要求する2/3に同意は困難と言っているが、JALを倒産させてしまえば、支給額は0になるのであって、日航OBだって馬鹿ではないのだからそれくらいわかっているはずである。2/3の同意も決して不可能なハードルではない

今政府に求められるのは、英国のトニー・ブレア前首相が、行ってきた「説得するリーダーシップ」であり(作家の塩野七生さんもブレア首相のリーダーシップを同じように評価していることで有名です)、日航OBに対しても、このままではJALをつぶしてしまうしかないという鬼気迫る説得を続けることが必要であろう。

もし日航OBが強行に反発するとすれば、そこには潰れることはないという安心感があるのであり、その安心感はもはや存在しないという「説得のリーダーシップ」を実践することが前原国交大臣以下の政治家に求められているのである。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

浅井先生は労働法に非常に明るい実務家弁護士です。労働法を専門にしている弁護士と言うとなんか「色」がある気がてしまいがちですが、浅井先生は企業法務としての労働法という立場で活動されているためか、非常にバランスが取れており、判例の解説も非常に解りやすいです。以下、労働関係を理解するうえでは、2つの本がおすすめです。

Continue reading "企業年金の支給額は減額できないのか?"

| | Comments (0) | TrackBack (0)

11/06/2009

アメリカで気候法案が成立に向け前進(鳩山イニシアティブに追い風か)

日本でも一部のメディアや識者から批判の強い鳩山イニシアティブだが、アメリカでは、温室効果ガス削減に向けた取り組みが連邦議会にて具体化し始めた。

AP通信の報道によると、議会上院において、民主党が提案している気候法案(Climate Bill)の成立に向けた動きが活発化している。

上院の環境・公共事業委員会は委員長であるバーバラ・ボクサー議員(民主党)が「未だ法案がアメリカ経済に与える打撃について検証されていない」という共和党の抵抗を考慮し、気候法案の委員会採決を先延ばしにしてきたが、上院民主党が早期採決を求めて動議を提出したことをうけ、共和党議員が欠席する中、11対1で委員会採決が行われた。

これにより、アメリカ史上初めて温室効果ガスの削減目標を定めた法案が成立に向け第一歩を歩み出した。

.今回の法案は2004年の大統領選の民主党候補でもあったマサチューセッツ州選出のジョン・ケリー議員らにより、9月下旬に提案されたもので、ケリー上院議員は「共和党のボイコットにもかかわらず、この法案が成立に向け一歩進んだことを嬉しく思う」とのコメントを発表している。

ただ、法案を問題なく成立させるには、100議席中60人の賛成が必要となる。なぜ、過半数以上の60人が必要かと言うと、アメリカ上院にはフィリバスターと言う制度があるためである。

このフィリバスター(filibuster)というのは、法案の本会議における議決をする前に、上院議員が一人で演説する限り、採決はできないという合衆国憲法により定められた制度。

つまり、たった一人の意見で、法案の採決を妨害できる。上院というのは、各州から2人ずつ選出され、各州を代表する議員により構成され、元々の性格は元老院のようなものであるため、非常に強い権限がある。

このような上院議員の性格上、フィリバスターにより、その議員の体力が尽きるまで、多数派の横暴を防止しようという多数決民主主義への歯止めとして用意された立憲民主主義の性格が強い制度である。

しかし、たった一人によって、議会が機能不全に陥ることもしばしばあった。

そこで、現在では憲法が修正され、60人以上の賛成があれば、フィリバスターを止めさせることができる。

そこで、現在でも60人の賛同を得られる法案でなければ、成立が困難だといわれているのである。

今回委員会採決では、民主党議員の1人が採決に反対した。

反対したのは、モンタナ州選出のマックス・バウカス(Max Baucus)議員で、同氏は2020年までに温室効果ガスを20%削減するという現在の法案は法案可決に必要な60票を獲得するのが難しいとし、17%に下げるべきと主張している。

もっとも、同議員も「他の国が20%近い目標を採用する場合は、20%の削減目標にすべき」、「私は上院で可決できる法案を目指しているにすぎない」とも言っており、同議員が抵抗勢力として、法案化阻止に向けた民主党の内部対立を引き起こす意図はないようである。

今回の法案について、ペンシルバニア州選出の民主党のアーレン・スペクター(Arlen Specter)上院議員は、「他の先進国に対して、同じような削減目標を採用するように促すシグナルになる」とも語っているように、鳩山首相が2020年までに25%削減という目標を掲げたことに対する追い風になることは間違いないだろう。

いわば、鳩山イニシアティブがアメリカ国内の民主党リベラル派の追い風になり、そして、今回の上院での法案化の進捗具合が、今度は逆に日本の国会における法案化の追い風になるという関係にあると言えるのではないだろうか。

したがって、今後、鳩山イニシアティブに対する批評をする場合、アメリカ議会の動きも考慮した世界の流れを注意深く見なければ、「井の中の蛙」として、遅れた発想というレッテルを貼られてしまうかもしれない。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

Continue reading "アメリカで気候法案が成立に向け前進(鳩山イニシアティブに追い風か)"

| | Comments (0) | TrackBack (0)

思想の自由市場に寄与できるか

今日の訪問者数ですが、いつもより多くなっています。

これには理由があります。問題発言や問題のある動画を掲載して、このブログが炎上しているわけではありません。

株式会社ライブドアと本ブログとの間で、ブログ記事を株式会社ライブドアの「Livedoorニュース ― BLOGOS」というコーナーに掲載する旨の合意をし、今日掲載が開始されたためです。

ライブドア社さんから、既存のメディアによる一方的な報道だけでなく、様々な観点から情報を発信しているブログを統合し、メディアリタラシーを高めるような情報サイトの立ち上げを企画しているため、そこにブログ記事を掲載させてほしいという話があり、今回の掲載が開始されました。

私はこの「Livedoorニュース―BLOGOS」というサイトの試みは非常に面白いと思っています。

その目的として、同サイトには、「『BLOGOS』は、ブロガーの裾野を広げ、ネットメディアがマスメディアに対抗しうる存在になるための土壌づくりを目指しています。」という記載があるのですが、私自身もこのブログでの私見発信により、既存のメディアの情報だけが鵜呑みのされる時代からの変革に少しでも寄与できればと思い共感しました。

実際、同サイトには、政治家や学者、ジャーナリストから一般人と様々な方のブログを集めており、当然、様々な「色」も混在しています。

そういう様々な「色」のある情報が集まったサイトにおいて、自分自身がどう考えるかを構築していくというのは非常に重要なことのように思います。

私はかねており言っていますが、アメリカの大学の学生は、自分の信じる意見をしっかりと発信します。もちろん、おかしな意見や無謀な意見、教授に食ってかかる学生すらいます。

しかし、そこには、学生と教授の間の共通認識として、思想の自由市場というべき価値が存在します。

つまり、おかしな見解は論破されたり賛同を得られずに消えていくのに対し、良質の意見はそこに残っていくという発想です。

そして何が良質かを判断するのが他でもない情報の受信者ということになります。

しかしながら、従来の日本ではそういった教育は残念ながら実践されてこなかったように思います。

義務教育段階でも、学生に対し意見を求めるという教育ではなく、一方的に知識を講義により覚えさせる事ばかりに集中してきました。

センター試験というマークシート方式の試験方法により、思考をめぐらして答えを「考えさせる」のではなく、「答えを探す」という弊害が生じているという指摘をノーベル物理学賞を受賞した益川教授が以前指摘していたことは記憶に新しいと思います。

また、大学でも、講義中心の授業や講義ノートを吐き出せば単にを取得できるといった状況にある中、なかなか日本人の一般人がこの思想の自由市場を実践する場というのは限られていたのではないでしょうか。

今回こうしたサイトをライブドア社が立ち上げたことは、思想の自由市場という表現の自由の根本的な発想に寄与する試みかもしれません。

さて、このブログも今までは、好き勝手なことを思いついたままに書いてきましたが(その都度それなりの注意は払ってきたつもりですが・・・)、ライブドア社という巨大なポータルサイトで掲載されるということは、必然的に、訪問者も増えるでしょうし、私見に接する人も増えることになります。

つまり、このブログも、ライブドアというポータルサイトを背景に、その影響力が少なからず増大することになるでしょう(影響を受けていただけるほど、良質な情報を発信しているかは解りませんが・・・)。

もちろん、このブログはあくまで私が片手間に書いているもので、職業としてジャーナリズムの道にいるわけではありません。

とすれば、それとの対比において職業倫理上の責任はありませんが、今まで以上に巨大ネットメディアを背景に情報を発信する以上、自分の発信する私見に対し、その社会的責任は今までよりも増大することになると考えています(もっとも、法的責任は今までと変わらないと思います)。

他方で、社会的責任の重さから萎縮し、巷に溢れているようなそれ相応の批評しかできないとすれば、このブログの社会的価値は失われることになります。

そこで、筆者としましては、今回のライブドア社による掲載開始という機会に、情報を発信することの責任の重さを改めて認識するとともに、今後もより一層、適正かつ有益な言論活動を実践することで、我が国における思想の自由市場に少しでも寄与できるよう努力していきたいと思います。

従来からの読者の皆様におかれましては、今後も変わらぬご支援をいただければと思います。

なお、本ブログ上のコメント、トラックバックについては、従来と同様に、公序良俗、秩序維持の観点から、不適切と判断したもの等については、公開せずに削除しますので、御理解のほどよろしくお願い致します。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*上のバーナーをクリックすると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

Continue reading "思想の自由市場に寄与できるか"

| | Comments (0) | TrackBack (0)

11/05/2009

嘘を平気で書いてしまう産経新聞

新聞社が嘘の記事を書くのはいけません。

しかし、全国紙のような主要メディアが平然と嘘の記事を書いてしまうことがあるんです。

私も驚きました。

産経新聞ひどいです。

下記で引用した記事の後半に以下のような記述があります。

だが、外国人への参政権付与はもともと憲法違反(平成7年の最高裁判決)だ。

違憲ならそもそも参政権付与なんて話できないわけですよ。

だって、憲法改正もしないで、憲法で禁止されていることをどうやって法律で定めるんですか?憲法に反する法律は無効ですよ。こんなこと一般の方々だって解っているはずです。

しかし、平然とこういう嘘を記事にしてしまうんですね。びっくりしました。

この産経新聞の記事がいう平成7年判決っておそらく、最判平成7年2月28日判決なんだと思いますが、どう読んだら定住外国人への地方参政権付与が違憲と読めるんでしょう。

おそらく、10人中10人がそのようには読まないと私は断言します。

なぜなら、この判決は、「地方公共団体における選挙権の定住外国人への付与については、憲法上禁止されているわけではない」とはっきり言った判決で、許容説に立っているからです。

もちろん、以前私がブログで指摘した通り、この判例は、「参政権」ではなく「選挙権」の付与を問題にしていますから、被選挙権の付与については、違憲と判断される可能性は残されている判例です。

しかし、判例は被選挙権について一言も言ってませんから、そこから被選挙権を違憲と判断したなんて読み込んで、この判決を「参政権付与を憲法違反とした」と引用する人は、非常に筋の悪い人で、少なくとも法律家としては失格です(嘘の情報を確認もせずに記事にして配信しているんですから、記者としても失格では?と私は思いますが・・・)。

産経新聞は保守的な新聞ですから、外国人への参政権付与反対でも何でも良いですが、最高裁の判例と言う権威を利用して、嘘をつくのは辞めてほしいものです。

プロパガンダの一例かもしれませんね。

なお、ふと、思ったので一応書いておきます。

「外国人への参政権付与はもともと憲法違反」っていう部分につき、地方参政権ではなく、国政参政権という理解をしているのかなと善意解釈しようとしました。

しかし、最判平成7年2月28日はそんなこと言及してませんし、もしそういう解釈なら、国政選挙について外国人には選挙権が保障されないとし、国会議員の選挙権は権利の性質上日本国民のみに限るとした最判平成5年2月26日を引用するはず。

やっぱり、産経新聞の記事はおかしいです。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*「にほんブログ村」というサイトがアクセス数のランキング等をつけるので、ブログを書いてて張り合いを持たせるために登録してみました。上のバーナーやリンクをクリックされると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

Continue reading "嘘を平気で書いてしまう産経新聞"

| | Comments (4) | TrackBack (0)

11/04/2009

前哨戦の知事選では共和党がすべて勝利しオバマ大統領に暗雲。日米外交に影響も。

おかげさまで、ココログに移転して以降の累計訪問者数が9万人を超えました。

今後も、できるかぎり、既存のメディアとは違った独自の視点を紹介できればと思います。

さて、昨日のツイッターでつぶやいたのですが、アメリカでは今後のアメリカ政治を占う上で、重要な3つの選挙が行われ(選挙自体は3つ以上行われたのですが注目されたのが3つと言う意味です)、その結果がでました。

なぜ、アメリカ政治に重要かというと、アメリカでは来年、連邦議会下院の改選、いわゆる、中間選挙が行われ、今回の3つの選挙区は、その前哨戦として注目を集めていたわけです。

まず、バージニア州の知事選。

同州は伝統的に民主党優位の地域ですが、今回は事前の世論調査でも、共和党候補が11ポイント差を付けていました。結果は58%を共和党のボブ・マグドーネル(Bob McDonnell)候補が獲得し、41%の民主党候補を破りました

次に、ニュージャージ州、ここも民主党の牙城ですが、事前の予測では、共和党とデットヒート状態でした。

結果は、泡沫候補の無所属が5%を獲得、現職の民主党候補、ジョン・コージィーン(Jon Corzine)知事が41%にとどまったのに対し、共和党の新人、クリス・クリスティー(Chris Christie)氏が49%を獲得して、共和党の知事が誕生しました。

最後に、ニューヨーク州第23選挙区選出の連邦議会下院議院選挙です。

なぜ米国メディアの注目を集めているかと言うと、同州には保守系の政党として共和党の他に保守党というのがあり、この地域は、保守分裂選挙となりました。

しかも途中で共和党候補が棄権し、民主党候補を支援するという動きも…。

このような保守分裂という混沌とした中であるにもかかわらず、最新の世論調査では保守党の候補が民主党の候補に対し5%から17%の差をつけて優位といわれており、本来保守分裂選挙で、有意であるはずの民主党候補が苦戦していることでも注目を集めました。

ここで、もし保守系が勝利すれば、「中間選挙で民主党が大きく負けるのでは?」とオバマ政権の行き先に暗雲が立ち込めているわけです。

結果は、かろうじて民主党候補が、保守党候補に4%リードし死守した報道がなされました。

さて、このアメリカ情勢ですが、日本にとっても極めて重要な問題です。

アメリカCNNの報道では、今回の選挙が前哨戦という位置づけから、「オバマ大統領へのリファレンダム」という意味があったのではないかとの分析をする政治アナリストが多くいます。

もちろん、民主党系のアナリストは地方選に過ぎないとこれを否定し、共和党系のアナリストはこれを強調しているという状況で、どっちもどっちです。

ただ、今回の結果から明らかなのは、オバマ大統領に対するリファレンダムという意味があるかどうかは別として、オバマ政権に批判を強める共和党陣営が重要視された2つの知事選でかなりの大差で勝利し、そのことはオバマ政権も無視できないということでしょう。

今回の結果を受けて、共和党が、オバマ政権の進めようとする国民皆保険制度に対する批判と反対運動を強めることは予想されます。

また、最新のCNNの世論調査では、この問題に対するオバマ大統領への支持が42%であるのに対し、57%が不支持という数字が出ています。

こうした状況を考え併せると、オバマ政権は今までのようなリベラル色の強い政策を打ち出しにくい状況に追いやられていると言えます。

例えば、共和党はもちろん、民主党の保守系議員がリベラル色の強い国民皆保険制度に対して抵抗し、本年度中の成立が困難になる可能性がでてきています。

さらに、アフガン問題に対する糸口が見いだせていない状況の中、オバマ政権は国内だけでなく、国際問題においても未解決の問題が積み重なっており、今回の選挙結果は、いわゆる風が共和党に吹き直している(少なくとも民主党やオバマ政権への風は止まってしまった)ということが明らかになったわけで、来年の中間選挙を考えると大きな痛手といえます。

さて、これが日米外交にどういう影響を与えるかですが、このように国内問題で失点が続いているオバマ政権にとって、日米首脳会談で、さらに、米軍問題に対する日本の抵抗に会うとなると、オバマ政権の失点はさらに増えてしまいます。

このような国内状況を見越して、オバマ政権は、先日ゲーツ国防長官を使って、日本に日米合意を覆す動きをさせないように、暗黙のプレッシャーをかけて来たわけです。

今までの自民党政権なら、問題なくホワイトハウスの思惑通りの展開になったのでしょうが、現在の鳩山政権では、鳩山首相や岡田外務大臣といったアメリカに対して、はっきりと日本側の主張を伝えるという意思を表明している閣僚が多いことから、ホワイトハウスの思惑通りには現在のところ行っていません。

そこで、考えられるホワイトハウスの戦略としては以下のことがありえます。

まず、日米首脳会談を突然キャンセルし、自民党への水を向ける。

日本のメディアも、日本の国民も、アメリカの国内情勢の分析はできていませんから、突然日米首脳会談をキャンセルすれば、日米関係が鳩山政権により悪化したと大々的に報じるでしょうし、自民党もそういう批判をするでしょう。ホワイトハウスが、今の民主党政権を来年の参議院選挙で終わらせたいと思えば、このような強硬な手段を使うことも考えられます。

また、日米首脳会談をこのまま開催した場合に、オバマ政権が得られる利益は非常の乏しいわけですから、こうした会談キャンセルという手法もないとはいえません。理由は、アフガン情勢や国内問題の見通しがつかないという理由でいくらでも作れます。

ただ、この強行手段はもろ刃の剣です。オバマ政権も馬鹿ではありませんから、日本の民意の分析を十分に行っています。

やはり衆議院での300議席超えは大きく、補選でも民主党が勝利していることに鑑みると、強行手段は日本国民のアメリカに対する抵抗感を増幅させることにつながることはわかっているでしょう。

また、民主党政権が日本で基本的には4年間続くことを考えれば(念願の政権交代を氏、300議席以上あるのに簡単に解散をするわけありませんから)、下手に日本の民主党政権との関係をこじらせるのは得策ではありません。

そこで、今回の日米首脳会談では、沖縄の問題を抽象的にしか取り上げないということが考えられ、これが一番有力だと私は思っています。

というのも、鳩山首相はあまりアメリカ国内の情勢を読み込んで、弱みに付け込んで外交を優位にしようというほど戦略的なリーダーではありませんから、アメリカの状況を慮って、沖縄問題に踏み込まないという予測です。

日米関係悪化というわけのわからない批判を真に受けて、民主党政権が上記のような行動をとってしまうように私は思います。

私見としては、弱っている今がチャンスなのですから、オバマ大統領に対し、日本の、沖縄の直近の選挙で示された民意を伝え、政権としては現在の日米合意は受け入れられないという強い姿勢で臨むべきだと思います。

オバマ大統領も、日本に来た以上、日本の意見を無視するような反論は彼のリベラル色の強い政治姿勢からはすることができないでしょう。

また、アフガン問題で他国の負担を求めたいアメリカの現状を考えれば、日米関係悪化のイメージが出てしまうことも、避けたいはずです。

日本にとっては今が沖縄問題解決の絶好の機会のはずです。

このような機会に付け込まずに、アメリカに恩を売るという日本的な発想で、自民党政権がやってきた外交の結果が、沖縄への負担増大とアメリカの思うがままの日米同盟だったのではないでしょうか。

知り合いの外務省職員にも多いのですが、どうも日本人は外交交渉になると下手に出てご機嫌伺いをするのが効果あると思っているようですが、友人の米国国務省職員にいわせれば、外交交渉とはいかにふっかけるかが重要だということでした。

日米の外交官の意識には大きな差があります。

先日の国会の予算委員会の質疑でも、従来型の外交姿勢から抜け出せない自民党の町村信孝議員は「オバマ大統領が来日とり辞めたらどうするか」と鳩山首相に言ってましたが、米国の「お菓子をくれなきゃ行かないよ」っていうのに付き合う必要ありません。外交はハロウィーンではありません。

今日も、自民党の石破議員が、「日米同盟が危機にひんしている」などと国民の不安をあおるような大衆迎合的発言をしていましたが、これもおかしな話です。

アメリカに沖縄の負担の軽減や、沖縄県民の声を日本政府が代弁すれば、日米同盟が危機にひんするほど脆弱な関係だと本当に思っているのでしょうか。

そうだとすれば、日本は敗戦国としてアメリカの言うことを未来永劫聞き続け、自国の意見を発することができない状況になければ、日米同盟は堅持できないのでしょうか。

そんな日米同盟なら、だれも望んでいないはずです。

石破議員や町村議員のいうような脆弱な日米関係ならば、北朝鮮が攻めて来たって、アメリカがきちんと対応し日本の防衛に寄与してくれるとは思えません。それこそ、日米同盟に固執せず、日英同盟や日豪同盟、日加同盟などアメリカ以外の民主主義、自由主義という価値を共有する国と軍事協力をし、日本の防衛力を高める方が日本にとってより安定的な安全保障をもたらすことになるでしょう。

アメリカの言うことを何でも聞く外交は、アメリカの国際的プレゼンスが著しく低下し始めている現状では、日本の国益に適いません。

にもかかわらず、国民を犠牲にし、「対等」ではない日米地位協定の存在なども無視し、日米関係は対等と言い張る町村信孝議員や、米国を恐れて、「日米同盟の危機だ」と煽り、アメリカの言うとおりにすべきと主張する石破茂議員ような、国民を犠牲にする政治家は要りません。

もっとも、私は鳩山政権の外交方針を積極的に評価しているわけではないことも付言しておきます。というのも、現状では外交方針を評価しきれるだけの実績がなく、評価の対象が存在しないからです。

したがって、鳩山外交に下での日米関係のあり方はこれからが勝負なのであって、今の段階で、アーダコーダ言っている自民党議員も、メディアも薄っぺらく感じるわけです。

自民党議員も、既存の主要メディアも、そういう下らないことに時間を費やす前に、対米外交を本当に考えるのであれば、今回のアメリカの重要な前哨戦の2州の知事選とニューヨーク州第23区連邦議会下院選挙の結果がアメリカの国内政治に与える影響をしっかり分析すべきでしょう。

なお、今回のアメリカでの選挙ですが、このほかにも注目すべき選挙がありました。

例えば、ニューヨーク市長選もあり、結果は現職のブルームバーグ市長が事前の予想に反して苦戦はしたものの、4%リードして勝利しました。

オハイオ州ではカジノの合法化の住民投票が行われ、賛成がややリードしています。

また、メーン州では同性間の婚姻を認める法案の廃止をめぐる住民投票が行われ、結果は53%の得票率で現在リードしている廃止派が既に勝利宣言をしています。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*「にほんブログ村」というサイトがアクセス数のランキング等をつけるので、ブログを書いてて張り合いを持たせるために登録してみました。上のバーナーやリンクをクリックされると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください

| | Comments (0) | TrackBack (0)

11/01/2009

節度のない報道メディア(1) ― 政治に対する未熟さ

最近、日本の報道メディア(とりわけテレビ報道)を見ていて、本当に「節度がない」と感じることが多い。

そもそも、「節度」とは、「言行などが度を超さず、適度であること。ちょうどよい程度。ほど。(Goo辞書より引用)」をいう。

もっとも、今のメディアの現状で視聴率が維持できているわけだから(維持できていないにもかかわらず、そういう報道が続けられている訳ないはずだから)、風が吹けば桶屋が儲かる方式で考えると、結果的には、現代の日本人に節度がないという結論に至ってしまうのかもしれない。

もちろん、この無制限の因果関係的思考そのものには問題があるのであって、日本人の節度が無くなったという帰結には至らないと信じたいところではある。

しかし、メディアによる視聴者への影響の大きさを考えると、少なくとも、メディアの節度のなさについて危惧せざるを得ない状態にあることは間違いないだろう(私はどこかで日本人全体を見たときに節度のない社会になっているのではないかという危惧も多少もっている)。

そこで、「節度のない報道メディア」というタイトルで、シリーズ的に何回か不定期の形で、様々なニュースや社会問題を題材にして、私見を発していこうと思う。

もっとも、いつもの記事のメディアに対する危惧は触れているので、いつもと変わらないという感想を持つ読者もいるかもしれない。

しかし、いつもは個々のニュースや事件をベースにして、私がどう思うかという視点(あえていうなら帰納法的視点)で発しているのに対し、このシリーズ化しようと思っている記事は、テーマごとに様々な例を挙げ、テーマに掲げた結論が正しいという形で私見を発していきたいと思っている(あえて言うなら演繹法的視点)。

むろん、科学的実証ではないし、私自身理系の人間ではないので、正確な帰納法や演繹法を実践できるわけではない。

したがって、帰納法や演繹法になっていないという御批判はご容赦いただきたい。

さて、第一回目は「政治に対する未熟さ」と題したわけであるが、私が現在の日本の報道メディアに節度がないと考える理由の1つとして、「政治的な未熟さ」が挙げられる。

「政治に対して未熟」というテーマに掲げた表現を私はどういう定義で使っているのかまずはじめに明らかにしておくべきだろう。

私は、「政治に対して未熟」というのは、「政治制度や民主主義、自由主義という理念を理解できていない(理解しようとしていない)人間が、政治を知ったかぶりしている様」と考る。

これを報道メディアとの関係に換言すれば、政治制度や諸原則を理解できていない(若しくは理解しようとしていない)報道内部の人間が、どのようなニュースを報道すべきか否かを判断しているため、その基準が不適切であり、結果として、不必要な情報ばかりが氾濫し、重要な報道が抜け落ちているという状況を意味する。

そこで、まず、私がなぜ現在のメディアが政治に対して未熟と感じるのかを以下説明していこう。


1.なぜメディアが政治的に未熟と感じるのか

8月末に本格的政権交代を行い、やっと成熟した民主主義社会になったかと思った人も多いのではないだろうか。

確かに日本が今までの思考停止した自民党妄信社会から脱皮できたという点で、成熟した政治的判断が日本人によってなされた例であるといえる。

しかし、問題はその後のメディアの姿勢とそれに影響を受けていると思われる世論の動向である。

政権発足から1カ月半弱しか経っていないのに、既存のマスメディアやそこに登場して"識者"を自称している人々は、揚げ足取り的報道や今になってマニフェストの中身を批判するという前代未聞の節度の無さを露呈している。

私はこのブログで、不祥事は格別、100日間は「政権の実績に対する」批判や不安をぶつけたりはしないつもりである。なぜなら、それが成熟した民主主義社会におけるルールだからである。

もちろん、政治に対する意見を表明しないというわけではない。あくまで、「新政権の実績に対する」批判は100日後までしないと言っているだけである。

どうして批判しないと決めているのか。

それは批判の対象である実績は、およそ政権発足後から100日間は存在しえず、建設的な批判ができないからである。

従前の政権と考え方が異なる政権が権力の座に就いた場合、どうしても一定の混乱が生じるのであり、また、前政権による積み残しの問題の解決が迫られてしまう。

また、手続き的な問題もある。行政行為には法律の留保(法律の根拠なくして行うことはできない)が要求されるという原則があるため、安易な権力の行使は許されない。

本格的に政策を実行し、実績ができるのが政権発足からおよそ100日程度経過した時点であるというのが、民主主義が最も早く実現した欧米社会の経験則により明らかになっているのである。

しかしながら、現在の日本の報道メディアには、こうした経験則を一切無視し、建設的な批判をしようという考えはなく、いかに視聴率が取れるか、いかに面白おかしく報道できるかという観点から、新政権に実績を要求し、新政権が手こずっているというイメージを与える報道が目立つ。


2.政治的に未熟な報道の具体例その1 ― 国家戦略室に対する批評

例えば、国家戦略局(現在は室)が機能していない、管副総理が他の閣僚と権力争いをしていて指導力が発揮できていないなどという批判を耳にする人も多いだろう。

しかし、このような批判をまともに聞いて、そうなのだと信じ込んでいるようでは政治的に未熟といわざるを得ない。

そもそも、この国家戦略室は行政規則として、以下の目的で設置されている。

内閣官房に、税財政の骨格、経済運営の基本方針その他内閣の重要政策に関する基本的な方針等のうち内閣総理大臣から特に命ぜられたものに関する企画及び立案並びに総合調整を行うため、当分の間、国家戦略室を置く(国家戦略室の設立に関する規則第1条)。

この条文からも明らかなのように、現在のところ、内部的にも他の行政機関に対し、何ら権限を有する機関ではあることは読み取れない。

また、国家戦略室は、行政規則によってその設置が定まっているに過ぎないため、内部法にすぎず、何らかの対外的な権限を持つこともない。

したがって、機能していないも何も、あくまで国家戦略室は企画・立案・総合調整を行うだけであり、対外的、対内的には何の権限もない以上、現段階で「予算の骨格や重要政策、国家ビジョンを策定」は無理なのである。

行政機関内部においても上記行政規則上何も権限が見いだせない形になっていることに対する批判は置いておき、対外的に何らかの権限を持たせるためには、法律による個別の授権が必要となる。

すなわち、国家戦略室が対外的に権限を行使できるようになるためには、国会の法律によりその設置がなされなければならず、国会が開かれるまで、機能できないのは当然である。

もっとも、私が前述の部分で、「置いておき」と述べたように、内閣総理大臣決定という行政規則を出す段階で、対内的な権限の付与し、もう少し臨時国会前に活動させることができたのではないかという行政組織法的上の議論は別途できるのであるが、そういう議論をマスメディアがしている形跡はない。

メディアは単に、国家戦略室が機能していないというのみである。

そもそも国家戦略室設置時点で、国家戦略室には対内的にも対外的にも権限がないことは明らかなのであって、私は、「それを機能していないと改まって批判することなのか?」と思ってしまうわけである。

さらに言えば、現時点で別の行政機関が有している権限を国家戦略室に移行するには、法律上の処分権限の移行となるため、法律の根拠が必要となる。

したがって、臨時国会が開かれるまで、国家戦略室は内閣総理大臣に対するアドバイスなどを行う補助機関としての意味合いしかないのであって、そこにリーダーシップを発揮させ、予算編成の骨格を主導させようということ自体無理なのである。

もちろん、予算の策定権限は憲法上内閣にあるわけだから、内閣の一員として閣議において担当大臣が主導するという方法もあるが、それは国家戦略室として活動しているとはいえないだろう。

このように、国家戦略室および局の報道1つを取り上げても、報道は上記のような解説を一切しない。

にもかかわらず、鳩山内閣の目玉が既に機能不全という薄っぺらい批評ばかりが溢れている。

この例からも明らかなように、既存マスメディアのほとんどが政治問題の本質を理解せずに、無知な批判を繰り返しているのであり、これは政治に対して未熟であると言わざるを得ない(古代哲学者、ソクラテスの言葉を借りれば、無知の知を知らずに批判しているというべきかもしれない)。

したがって、私は、こうした無知かつ大衆迎合的批判を公共の電波に垂れ流してでも視聴率を稼ごうとする現在のマスメディアの姿勢に対して、節度がないと感じているのである。


3.政治的に未熟な報道の具体例その2 - マニフェストの中身批判と世論操作

私は今更になって選挙中に掲げたマニフェストを批判することもおかしいと思う。

なぜならば、選挙という制度上、選挙中に十分有権者が吟味したという前提で投票され、民主政権が300議席以上確保したのであるから、そのマニフェストを今更になって批判し出すのは筋違いだからである。

しかし、マスメディアや自称"識者"は、実績に対する上記のような批判に加え、マニフェストの中身の基本的部分に対する批判ばかり繰り広げ、さながら稚拙な政治ショーを毎日のように多くのメディアが行っている。

週末くらいゆっくり物事を考えられる契機になる番組に触れたいのだが、週末も、およそ下らないバラエティーとしかいえないような報道番組が溢れかえっている。

もちろん、そういう番組を見ている視聴者がすべてその番組の趣旨などに賛同して楽しんでみている人ばかりではないと思う。

私のように不満がたまっている視聴者もかなりいるだろう。

しかし、問題なのはどの程度の人がテレビ番組を批判的に見ているのかという点である。

あくまで推測の域を出ないが、半数近くは番組の編成内容に乗せられ、思考が停止した状態でテレビを見ているのではないだろうか。

私はよく、「思考停止するな」という表現をブログの記事で書くことが多い。この思考停止というのは、頭が悪いとか良いとかいう話ではない。

思考停止というのはどんな賢い人、頭の良い人でも起こりうるし、どんなに頭が悪いと自分で思っている人でも思考停止はしていない人もたくさんいる。

つまり、「思考停止」というのは、「偏ったの情報を鵜呑みにし、自分の物差しで考える力がない人の状態をいう」と私は定義している。

しかし、実際これを実践するのは難しいことであり、意識的に実践しなければ、思考停止はすぐ生じる。

この思考停止の良い例が、八ッ場ダム問題である。

私は以前よりこのブログで、八ッ場ダムの中止反対派住民や利益団体の抵抗が非民主的であり、話し合いの場を自ら放棄するような彼らの意見は聞くに値しないということを指摘しているが、既存メディアは、当初このダム推進派住民の意見のみに沿った感情的な報道ばかりをして、世論への影響力を行使してきた。

政権発足直後、八ッ場ダム問題をあまり国民が知らず、反対派住民の声ばかりが報道されていた時期の世論調査を見ると、

まず、JNNの9月19日、20日付世論調査では、建設中止に賛成が36%、建設中止に反対が41%と中止反対派が上回っていた。

また、同じ時期のテレビ朝日の報道ステーションの世論調査では、建設中止に賛成が33%、反対が34%という数字で、建設推進が1ポイントリードしていた。

ところが、それ以降メディアの報じるダム推進派住民の声に疑問を持つ声や、進捗状況が予算の7割であって工事の7割でないという指摘、さらには、中止した場合と継続した場合のかかる費用算定が恣意的であるという指摘など、ダム推進派にとって不利な情報が出てくるに至り、一部のマスメディアが取り上げ始めると、状況が一変し始める。

10月19日付で毎日新聞が発表した世論調査では、「前原国交相は八ッ場ダムの建設中止を表明しました。民主党が衆院選で公約していた政策ですが、地元には建設を求める声もあります。建設を中止すべきだと思いますか。」という質問の下で、中止すべきが58%、中止反対が36%である。

他方で、同日付の産経新聞を見ると、「前原誠司国土交通相が民主党のマニフェスト(政権公約)に基づき就任直後に宣言した八ツ場(やんば)ダム建設中止については「賛成」が45・4%で、「反対」の32・2%を上回った。」とある。民主政権に批判的な保守系新聞の調査でさえ、ダム建設中止派が10ポイント以上のリードをつけている。

さらに、日本テレビが10月16~18日に行った調査では、前原大臣のダム計画見直し支持が63.8%で、不支持の22.3%を大きく上回る結果が出ているのである。

つまり、マスメディアの報道次第で、世論が大きく変化しているのである。

当初、感情論が先走った既存メディアのダム推進派住民への肩入れ報道により、かなりに数の人が、いわばこの問題を「知った気」になり、前原大臣のダムの見直しの姿勢に反対するかのごとき世論が形成されてしまった。

しかし、その後はインターネットなどで、上述のようなダム推進派の主張がおかしいという指摘がなされ、既存メディアもそれを無視できなくなり、そういった情報に接した視聴者が、今度は、ダム見直しに賛成する世論を形成し、1か月でここまで変化するに至った。

結果としては、正しい情報に接した結果、健全な世論になってきているわけであるが、私がこの例で指摘したいのは、

①マスメディアの流す情報というのは、マスメディア自身が思考停止した状態で、情報の真偽を十分に精査せず、先走って報道されるため、中立性が保持されていない場合が多いということ、

②世論というのはそれだけマスメディアに影響を受けてしまうもろいものであり、その原因が国民の思考停止にあるということ、

の2点である。

まず、①については、既存メディアの政治に対する未熟さそのものが原因である。

利害関係人から出てくる情報を精査せずに、何らかの意図がその情報の裏にあるのではないかという検証をせずに、右から左へと情報を垂れ流す。

出てきた情報や数字がダム建設推進派の人間によって操作されているのではないかという疑問を持たずに、「ダム建設の7割が終了している」などという不正確な情報と住民の「泣き」の感情論に揺さぶられ、正確な報道は全くできていないかった。

そして、こういう報道に接した結果、②の状況が相まって、国民の真意とは食い違った世論形成が9月の段階で出来てしまったのではないだろうか。

八ッ場ダムの建設中止はマニフェストに明記されていたものである。

そもそもマニフェストとは、選挙中の争点になるべきものであって、選挙後にゼロベースで再吟味すべきものではない。

それを、産経新聞やフジテレビなどの一部メディアはマニフェスト至上主義への疑問などともっともらしいタイトルで批判を展開し、ダム推進派は中止ありきでは話し合いには応じないと民主主義の結果を無視して、強行突破しようとしている。

しかし、私からすれば、こんな批判は自分たちの無能さをさらけ出すに等しい無責任な批判であると思えてならない。

なぜならば、選挙中に検証できたのに検証しなかったのはマスメディアの責任だし、ひいては有権者の責任だからである。


4.本来あるべき選挙後の報道の姿

私自身、以前も述べたように、子ども手当など民主党のいくつかの政策については基本的に反対である。

しかし、8月の選挙では、総合的な考慮により、民主党に一票を投じた。

そうである以上、私はマニフェストに掲げた中身の基本的部分についての批判は、すべきでないと自戒している。

マスメディアであっても、同じことが言えるのではないだろうか。

民意として民主党が300議席以上を確保するということが示された以上、選挙中の争点たるマニフェストの中身の基本的部分を批判するのは、やはり控えるべきではなかろうか。

なぜなら、そうしたマニフェストの中身の基本的部分に対する批判は、民意が示されたことを再度蒸し返すという行為そのものであって、非民主主義的行為といえるためである。

今、メディアがすべきことは、こうした節度のない政権批判ではなく、もっと建設的な検証及び批判であろう。

例えば、マニフェストには示されなかった政策で、鳩山政権が行おうとしている外国人への地方選挙権の付与の問題や、夫婦別姓の問題などをもっと報じるべきである。

なぜなら、これらについては十分な民意による審査を受けていないためである。

また、マニフェストに言葉はあるが、具体的な中身を示していないもの、例えば、東アジア共同体構想については、「東アジア共同体の構築を目指し」としか書かれていないし、そもそも東アジア共同体とは何なのかすらはっきりとしない。

こうした部分については大いに検証・批判を加えるべきであると私は考える。

しかし、外交問題では、「緊密で対等な日米関係を築く」というマニフェストの部分を検証したがるメディア報道が多い。

正直、こんなものは今までの日米同盟のあり方、日米の関係からすれば、何を民主党が目指しているのか明らかなのであって(例えば、マニフェストにも掲げられている日米地位協定の見直しなど)、それほど報道すべき価値があるとは思えない。

実際の報道も、「アメリカを怒らせては困る」というような視点からの報道が多く、日本の国益は中国だろうがアメリカだろうがはっきりと主張するという視点からの報道は少ない。

こういう消極的姿勢の報道を好むのは一部の外交問題を「知った気になっている」軍事外交オタクのような自称"識者"や、従来の同盟関係を維持してアメリカの国益を優先したいアメリカ合衆国だけである。

むしろ、報道が少ないという点で恐ろしく感じるのは、東アジア共同体構想の方である。

「東アジア共同体」という話を鳩山首相はあらゆる外交場面でしているようであるが、この構想の具体像が国民に共有されておらず、民意を反映しているとはいえない。マニフェストでも中身が全く説明されていない。

このような状況で、どれだけ多くの人がこの東アジア共同体構想を具体的に説明できるだろうか。少なくとも、私は東アジア共同体構想について何一つ理解できていないし具体的なイメージが沸かない。

にもかかわらず、鳩山首相は日本国の代表として外交舞台でこの構想を提唱しているのである。外交政策の具体的中身が明らかになっておらず、国民の審判を受けていないものを、国の代表として、海外の首脳に提唱しまくっているわけだかだから、これこそ民主主義の観点からは恐ろしいことではないだろうか。

このように見て来たように、国民の民意が十分に示されていない問題について、マスメディアは、鳩山政権がやろうとしていることは正しいことなのかどうかを十分検証して、そこにプライオリティーをつけて報道すべきであり、それこそが社会的権力として、国民の知る権利に資するために存在する既存マスメディアの使命であろう。

そうした姿が、本来の民主主義社会におけるメディアの役割ではないかと私は思う。

しかしながら、現在の既存メディアは視聴率が稼げるかどうかという観点のみで、ニュースを扱っているのであって、政治に対して未熟であり、節度がないと言わざるを得ない。

そして、こうしたマスメディアの現状に疑問を持たず、満足している視聴者も、政治に対して未熟であり、節度がないマスメディアを妄信するという極めて恥かしい状態にあるといえるのではなかろうか。

次回は、裁判報道に見るメディアの節度の無さを評論したい(次回がいつになるかは言えませんが・・・不定期になるかもしれません)。

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学へ
にほんブログ村

*「にほんブログ村」というサイトがアクセス数のランキング等をつけるので、ブログを書いてて張り合いを持たせるために登録してみました。上のバーナーやリンクをクリックされると、ポイントが入りランキングに反映され、多くの方に閲覧されるチャンスが増えるようです。この記事を読んで、他の人にも広めたいと思った方は、クリックしてみてください。

本日のおすすめの本はこちらです。私はかねてから養老孟司先生の鋭い指摘が非常に好きです。新しい発見をさせてくれる貴重な方だと思います。その養老先生とダムなどの管理をしていた国土整備行政の実務家である竹村氏との対談という形式は面白いですね。

| | Comments (6) | TrackBack (0)

« October 2009 | Main | December 2009 »