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October 2009

10/31/2009

失ってからこそ気づく価値 ― 大山のぶ代さんが伝説の声優第1位に

基本的に、オリコンやビデオリサーチなど既存の芸能メディアが行う視聴率や調査みたいな情報は、あまり好きでなく、信憑性を疑って見ていることが多い私であるが、今回、このランキングには納得という言葉以外出てこない。

「この声優なくして、このアニメなし」という伝説の声優がいるかという質問で、26年間ドラえもんの声優を続けた大山のぶ代さんが第一位にランクインしたという。

ドラえもんは、私にとっても思い出深い作品で、大人になったとはいえ、テレビ朝日による世代交代という暴挙(私は少なくともそう感じた)により、大山のぶ代さんの声がドラえもんの声として聞けなくなるとのニュースを聞いた時は、非常に寂しさを感じた。

ヤフーなどのコメント欄を見ていると、やっぱりドラえもんの声は大山のぶ代さんしかいないというようなドラえもんからの引退を惜しむ声が多く見受けられた。

多くの大人はドラえもんを今見たいと思っているわけではないだろうが、ドラえもんは26年間も全く同じ声優陣で続いたきただけに、自分の子供たちにも自分が見て来たアニメと全く同じ声優陣で語り継いでいきたかったという人々も多かったのではないだろうか。

以前にもブログで、ドラえもんという作品の凄さと大山のぶ代さんの話をしたことがあり、そこでも触れたのだが、私は、2005年の声優交代とその後のドラえもんの作品のあり方が、大山のぶ代さんのドラえもん像の下で育った世代には違和感をもって受け止められていることも、今回の「この声優なくして、このアニメなし」というランキングで1位にさせた要因なのではないかと思う。

もちろん、大山のぶ代さんの功績が素晴らしいという話が前提なのだが、この点、私たちが見て来た藤子・F・不二雄先生と大山のぶ代さんのドラえもんの世界と言うのは絶妙な社会風刺がされており、漫画やアニメというサブカルチャー的なものというより、教育教材としての要素もある良質の映像作品だったと私は評価している。

そこで、今回はドラえもんの映画作品をいくつか振り返りながら、藤子先生はもちろん、声優、大山のぶ代さんあってのドラえもんだと思うことを再認識したい。


1.バブルへの警鐘も織り込む ― のび太の日本誕生

具体的に例示すれば、ドラえもんの映画史上最多の観客動員数を記録した映画「のび太の日本誕生」が公開された1989年頃(公開は3月)は、冷戦の終結期であり、その年の12月3日には、ソ連のゴルバチョフ書記長とジョージ・H・W・ブッシュアメリカ大統領とのヤルタ会談により冷戦が終結したという時代背景があった。

そういう冷戦終結に至る時代背景下で作られた同作品は、のび太たちが家出をしようにも空き地も山奥もすべて、誰かに所有権があるため、家出ができず、スネ夫が、「こんなのおかしいじゃない。後から来た人間が勝手に自分の土地にしただけじゃん」という指摘をするところから人間がまだ日本にいない時代に行って家出しようという形で物語が展開し、ドラえもんやのび太たちは、太古にユートピアを作っていく。

おそらく、作者の藤子先生はそこまで意図したわけではないと思うが、私はこの作品の中にある種の戦争や領土争いをはじめ、当時の日本における土地バブルに対する皮肉が込められている気がしてならない。

つまり、同作品の最初の方に出てくる、「どこへ行っても自由な土地がない」という部分については、バブル最盛期だった1988年、1989年の日本人の土地に対する異常な過熱ぶりを皮肉にしており、同作品の後半の展開で、未来から来た犯罪者が大昔の人を使って世界征服をしようとしているという話がでてくる部分では、いつまでたっても人間が征服欲を抑えきれず、奴隷化して、欲望を満たそうという戦争や弾圧への批判が込められていると感じるわけである。

さらに、同作品では、自分の育てたペットと別れを惜しむのび太のペットへの愛情なども描かれており、バブル期に乗じて買われたペットが捨てられるなどの問題に対する皮肉が込められているのではないだろうか。

このように、藤子先生により作られ、大山のぶ代さんが演じたドラえもんには、単なるアニメとしての面白さ以上に、子どもへの教育教材としての価値があったと思う。


2.環境汚染の怖さを伝える ― アニマルプラネット、雲の王国

その後に作られた、「ドラえもんのび太のアニマルプラネット」(1990年公開)では、動物たちと人類との対比によって、より明確に、人間の自分勝手さと環境汚染問題をいち早く取り上げ、警鐘を鳴らしている。この作品の中では、太陽エネルギーや地磁気エネルギーなどクリーンエネルギーの紹介が随所にみられ、この時代にこれだけの発想をもって、クリーンエネルギーの利用を謳っていることに驚きすら感じる。

映画の中では、ニムゲという人類型の宇宙人の文明が核戦争によって滅びたという話はもちろん、のび太のママの口から、地球においても一年で日本の半分の土地に当たる森林が伐採され、砂漠化していることなどが指摘されており、この時点での鋭い環境問題に対する考察はすばらしく、現在でもこの作品には教育教材として高い価値があるだろう。

「ドラえもんのび太のドラビアンナイト」(1991年公開)では、多少メッセージ性は弱められたものの、アラビアンナイトの世界を舞台に、年老いたシンドバットのキャラクターを通じて、時には戦う勇気が必要であることや諦めない心などをのび太が説くシーンなどがあり、これも教育教材としての価値が高かったように思う。

さらに、1992年公開の「のび太と雲の王国」では、天上人がいるという設定で、地上の人間によって絶滅させてしまった動物の保護や環境破壊をテーマにして、地上の人間のあり方を激しく批判するシーンがあるなど、環境問題に対していち早く警鐘を鳴らしていたように思う。もちろん、1990年の「アニマルプラネット」でも取り上げられていたが、「雲の王国」では、より具体的な地上世界の人間(我々)の環境破壊に対する功罪を鋭く突いていた。

この作品で非常に印象深く残っているのが(自分でもブログを欠いててスイスイでてくることに驚いているのではあるが)、天上人に地上人であるのび太やしずかちゃんが非難され、地上を洗い流す計画の是非が問われているシーンで、しずかちゃんが素直に人間の過去の過ちを認め、自分たちがこれから変えていくというのでもう少し待ってほしいと訴えるシーンと、ドラえもんが自らの命を犠牲にして、地上人の天上国破壊を止めさせるシーンである。

こうした藤子先生や大山のぶ代さんをはじめとするドラえもん旧声優陣の新しい世代に対するメッセージと期待は、この映画を見た子どもや大人も強く心に残っているのではないだろうか。

ここまで見て来ただけでも、ドラえもん作品の教育教材としての質の高さは解っていただけるだろう。

他にも、1993年公開の「ブリキのラビリンス」では、機械に頼りっきりになっている人間を題材にし、利便性ばかりを追求する我々の現代社会への反省と警鐘という強いメッセージが込められている。携帯電話やパソコン、ワンタッチの便利な機械に慣れてしまっている今の我々には、それがなければ生活が困難になってしまっているという点で耳の痛いところではないだろうか。

そして、こうしたドラえもんの作品を多くの子供や大人に広めたのは、もちろん、藤子先生の作品の高さというのもあるが、やはり、ドラえもんというキャラクターに対する国民的な愛着を可能にした、声優、大山のぶ代さんの存在なくしては、語れないだろう。



3.失って気がつく価値

さて、当初から、まだまだ現役で行ける声優陣が、ある意味、テレビ朝日の一方的な形で、引退に追い込まれたという進生がぬぐえない、世代交代が起きてから4年ほど経ったが、新たな声優陣には悪いが、ドラえもんは改悪されたといっても過言ではないだろう。

結局、26年間大山のぶ代さんらとともに気づかれてきたアニメドラえもんにおける藤子先生の世界観がやはり悪い意味で壊されてしまい、作品全体がチープになったような印象を受ける。

これは、以下の記事が掲載されているヤフーのコメント欄などを見ても同じような意見を持っている人が多いようである。

もしかすると、年月が経てば、新しい声優陣も定着するという反論もあるかもしれないが、仮にこのような意見をもってテレビ朝日が世代交代を進めたとすれば、大きな誤りだと私は思う。

なぜならば、大山のぶ代さんのドラえもんが愛されたのは、単に長くやっただけではなく、彼女が様々な形で思考錯誤して、国民に愛され、親しまれるドラえもんのキャラクターを構築してきたからであり、そこには、確固たる理念があったはずだからである。

例えば、のび太をジャイアンがいじめるときも、「のび太のくせに」とか、「こんにゃろー」とか何となく愛らしい言葉を使うように声優陣は気を使っていたといわれている。また、ドラえもん自体も大山さんがかなりそのキャラクターに温かみを持たせるために、「僕」という一人称を使ったという話も出ている。

こうした努力があったからこそ、大山のぶ代さんのドラえもんが愛され続けて来たのであろう。

やはり、多くのドラえもんを知る人も(もしかすると世代交代を進めたテレビ朝日も)、大山さんの声を失って初めてその貴重な存在を再認識したのではないだろうか。

だからこそ、今回のランキング調査で大山のぶ代さんが他ならぬ1位に選ばれたのだと思うのである。

世代交代から4年たっても、未だに違和感があると言い続ける人が多いのは、新しい声優陣が大山のぶ代さんらが藤子先生の作品を微修正し、アニメという大衆文化向けに、築き上げてきた国民に愛されるドラえもんの世界観を崩してしまったことに問題があるのであろう。

「大山さんの声以外は、自分の親しんだドラえもんではない」という抵抗感を払しょくするのは、大山さん以上の努力が新しい声優陣に求められるということなのかもしれない。

いずれにしても、やはり、テレビ朝日の性急な世代交代の動きや芸能人の声優化による作品のレベルの低下は、大山さんのドラえもんに慣れ親しんだ我々視聴者にとっては、看過しがたいものであったということだろう。

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10/30/2009

オペラ座の怪人(Phantom of the Opera)に続編が!(私はネガティブな評価ですが・・・)

ツイッターでもつぶやいたんですが、先日イギリスで、メディアを集めたミュージカルのイベントがありました。

そのイベントは、なんと、ミュージカル「オペラ座の怪人」の続編、「Love Never Dies」が来年の3月頃にロンドンのウエストエンドで、11月にニューヨークのブロードウェイで、2011年にオーストラリアで、連続公開されるという発表のイベントだったのです。

オペラ座の怪人については、皆さんもお存じのように1989年にイギリスとアメリカで公開されて以降、世界中で大ヒットとなり、現在も、イギリスとアメリカでロングラン公演がされています。日本でも劇団四季が日本語訳したものを上演しており見た人も多いかもしれません。

その続編というのは、かなり前から考案はされていたのですが、様々な理由で見送られてきていました。

そんなところに、作曲家のアンドリュー・ロイド・ウェバーが続編を発表したのです。

オペラ座の怪人はフランスの作家、ガストン・ルルーの原作がベースとなっていましたが、今回の続編は、フレデリック・フォーサイス(Frederick Forsyth)の「マンハッタンの怪人」が原作となっているといわれています。

実際、今回の続編では、オペラ座の怪人で使われた曲とは全く異なる新たな曲で、すべて作るとロイド・ウェバーが表明していることから、全く新たなミュージカル作品と言えそうです。

現在までのところ明らかになっている情報では、舞台はオペラ座の怪人の時代から10年後の1906年という設定で、マダム・ジリ―とその娘であるメグとともに、怪人がニューヨークのコーニ―島を旅行で訪れるという話のようです。

コーニ―島は遊園地や見世物小屋などで有名な島なので、そこに怪人が生計を立て、建築家としても成功し、ひと財産築いたところで、かつて、片思いをしたクリスティンへの想いが忘れられず、一計を案じてクリスティンを呼びだし、何も知らないクリスティンとその夫(オペラ座の怪人の当時は恋人、ラウル、そして、二人の子グスタフがコーニ―島を訪れ、ひと波乱あるという展開みたいです。

上記記者発表で、演奏される曲の一部が公開されました。

あくまで私の感想ですが、前作で大ヒットを飛ばしたオペラ座の怪人に比べ、メロディーラインが耳に残るような曲ではなく、オペラ座の怪人ほどヒットしない気がします。

そもそも、オペラ座の怪人以降のロイド・ウェバーのミュージカル作品は、質が落ちたように思います。というのも、キャッツやオペラ座の怪人、エビータ、ジョゼフとアメージングテクニカラーコート、ジーザス・クライスト・スーパースターのあたりは、キャメロン・マッキントッシュという敏腕プロデューサーや、ティム・ライスという有能な作詞家と組んで作品を作り、ミュージカルの基礎である音楽の部分で非常にレベルの高いものができており、一度耳にすると、音が耳に残り、自然と口ずさんでしまうようなものが多かったように思います。

これらのミュージカルで、ロイド・ウェバーは、ミュージカルに聴覚と視覚に訴える演出で、スペキュタクラー(壮大さ)という要素を取り入れ、ミュージカルの方向性を変えたとまで評されました。

しかしながら、晩年のアンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカルは、どうもキャッツやオペラ座の怪人、Joseph and Amazing Technicolar Coatなどを歴史に残るようなヒットミュージカル生み出した全盛期と比べて、音楽そのものが心に響いてこないことが多いような気がします。

つまり、心に響いてこないからこそ、曲が耳に残らないんです。

もしかすると、サラ・ブライトマンとの離婚により、音楽性が変わってしまったのかもしれませんが、いずれにしても、ロイド・ウェバーの耳に残るようなサビが晩年は感じ取れません。

今回の公開された続編の曲、どうも好きになれません。続編を心待ちにしていただけに、難か残念です。

音楽の好みは人によって違うとは思うので、興味のある方は実際に聞いてみてください。

私は何度聞いても、この曲が今までのアンドリューロイドウェバーの曲ように、耳に残るという感想が持てません。

全くの別物と考えても、これがミュージカルとしてヒットするのか、疑問が残ります。

しかし、まだ、一部しか公開されていないので、今後、さらに内容が明らかになるにつれ、良いミュージカルソングが聞けることに期待したいと思います。

ちなみに、私がオペラ座の怪人の中で一番気に入っている歌手が歌う動画があったので、紹介します。

ファントム役のGary Mauerとクリスティン役のBeth Southardは夫婦という珍しいキャストで、ラウル役はJim Weitzerというウィスコンシン州出身の俳優でした。

この時の俳優が一番、それぞれの役を上手く巧みに演じ、歌声も一番きれいだったように思います。

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さて、この記事を読んで、オペラ座の怪人の曲が聴きたいと思った方、以下のCDがお勧めです。

このCDは1986年に収録されたロンドンのオリジナルキャストの歌声で、マイケル・クロフォード、サラ・ブライトマン、スティーブ・バートンとその後のミュージカル、オペラ界をけん引した人々の歌声で収録されています。

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10/29/2009

自民党は完全に崩壊か ― 唯一まともなのは世襲批判を受けたあの議員?!

自民党の谷垣新総裁の言動を見ていると、残念ながら日本の二大政党制は夢のまた夢なのではないかと思ってしまう。

今後少なくとも4年近くの間、自民党は野党として行動するにもかかわらず、所信表明演説の後、最初に出てきた言葉が「ヒットラー」発言である。

そして、自民党の議員たちは終始、所信表明演説中にヤジを飛ばしていた。

負けたことに対する反省が一つもない姿と有権者に対して映っても仕方ないのではないだろうか。実際、反省していないのであろうが・・・。

所信表明演説に関して、自民党の中で最も"まとも"なことを言った人物は、皮肉なことに、世襲と批判された小泉進次郎議員だったようである。

以下の記事にもあるように、小泉進次郎議員は、自民党の先輩議員のヤジに苦言を呈している。

たとえ世襲でも、28歳と若いだけに、世間の声には、60代や70代の古参議員と比べると、敏感なのだろう。若いだけマシということなのだろうか。

はっきり言って、今の自民党は崩壊してしまっている。

回復の兆しなんて微塵もない。

自分たちがこれほど大負けした原因の分析もできず、かつ、自分たちが郵政解散で2/3以上の議席を確保したときは、再可決をたびたび行い、それこそヒットラーユーゲントかのごとく、再可決を常に正当化してきた。

そのような過去は忘れてしまったのであろうか。

鳩山氏の所信表明演説の激しいヤジに対抗するかのごとき民主党議員の所信表明に対する賛同の声に対し、自民党の解党的出直しの最前線に立つ谷垣総裁が、「ヒトラー・ユーゲントがヒトラーの演説に賛成しているような印象を受けた」と、およそ下らない愚かな"イチャモン"をつける。

これでは、有権者の信頼回復は、まずもって無理であろう。

仮に、民主党が支持を失う大失態をしても、自民党が今のままでは、その離反した票が自民党に戻るという安易な状態にはならないと私は思う。

小泉進次郎議員は、以下のように自身のブログで語っている

民主党政権に対しては、批判ではなくて「検証」をする。民主党政権が進めようとしている政策が国益に沿うのか、もしそうなら協力すべきです。

しかし、もしそうでないと思われる場合は、しっかりと対案を出して自民党の考えをぶつけていくという姿勢で臨まなくてはいけないと思います。

今日からの臨時国会は私にとっては初めての国会論戦の場になります。国民の代表の一人として、論戦を見届け、与えられた役割を全力で全うしたいと思います。

世襲世襲と批判された小泉進次郎議員が一番まともなことを言っているというのが自民党の現状なのである。

そもそも、自民党の問題は、世襲云々というより、長年の古参議員の意識が民意とかい離しているという点である。

自民党が復活し、日本に真の二大政党制が根付くとすれば、国民意識からかい離している議員を公認せず、大幅に新人中堅議員に公認を与えるという荒療治くらいしなければ、だめなのかもしれない。

その場合でも、小泉チルドレンとか小沢チルドレンといわれて、テレビにばっかり出ている浮ついた素養のある議員では駄目である。

下らないバラエティー色の強い情報番組には出演しないというような重みのある議員かどうかをしっかり精査すべきだろう。

知名度ばかり売りたがる議員にろくな奴はいないのではないだろうか。

その点、小泉進次郎議員は下らない情報番組に出ている形跡は今のところなく、上記引用のように、まともな指摘をしているので、世襲というマイナスから始まった自己の評価を変えるべく、重みのある政治家になって、自民党を変えて、日本に正常な二大政党制を根付かせてほしいと期待しておこうと思う。

なお、民主党参議院議員の松浦大悟氏のツイッター上のコメントによると、とんでもない野次を飛ばした自民党議員もいたようです(以下、引用は同氏のツイッターより)。

鳩山首相の所信表明演説。青森に遊説に行った際、息子が職に就けず自殺した年配の女性が、絶望の中で握手した手を離さなかったという話をされたのですが、自民党の議員から「そんなものどこにでもいるよ!」というヤジ。あまりに酷い

事実だとしたら、誰がそうした野次を飛ばしたのであろうか。

憲法51条は、「議員の議院で行った演説、討論、表決について、院外で責任は問われない」と定め、法的責任から解放し、議員の職務執行の自由を保障しているが、政治的責任は免責されないから、発言した議員は自ら名乗り出て、自分の発言に政治的責任を持ち、批判にさらされるべきであろう。

そもそも、私は野次がすべて悪いとは思わない。

しかし、日本の野次ってイギリスの野次と比べてレベルが低いし、聞き苦しい。

イギリスの場合、賛同する場合に、「イエイ」と賛同する側の野次が多い。

他方で、同じ欧米でも、イギリスでは野次に寛容だが、アメリカは非常に厳格でである。

オバマ大統領が議会で、国民皆健康保険についての演説中、共和党の下院議員のジョー・ウィルソン(Joe Wilson)議院が、「うそつき!(You Lie!)」と野次ったということがあった。

この野次に対しては、オバマ大統領と選挙戦を争った共和党のマケイン上院議員ですら、「非常に不敬な行為だ(Very Disrespectful)」と非難した。

その後、野次を飛ばしたウィルソン議員もメディアの批判に耐えかねずホワイトハウスに謝罪したようである。

野次をどこまで許容するかという問題もその国の文化との関係で考えていく必要があるだろう。政権交代を機に、立法府である国会内部の改革もしっかりしてほしい。

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10/28/2009

メディア内の風土を変える必要性の一例か。それとも単なる邪推か。

以下の記事、本当なんでしょうか。

ネット上で、精神的な病気ではないかという憶測があったのは知っていましたが、いくらゴシップ記事といっても、記事になるほど噂になっているということなんでしょうね。

だとしても、あくまで信ぴょう性は疑わしいゴシップ記事ですから、信用できるかはわかりませんが、仮に、万が一この記事の内容が真実だとしたら、今の日本の一番の問題点はマスメディアの内部の人間が腐っていることなのかもしれませんね。

ふざけたバラエティーアナウンサーが多いフジテレビにしては、正直珍しくまじめで客観的にニュースを読んでおり、好感の持てるアナウンサーでしたから、仮にこの記事のような内容が真実であり、そういう有能な人がつぶされてしまう土壌があるとすれば、残念です。

いずれにしても、27歳のアナウンサーですから、早期回復が望まれます。

ただ、テレビメディアを中心とした不祥事、不適切な番組内容は依然改善の余地が見られません。TBSでの島田紳助氏の暴行疑惑はその後全く報じられませんし、NHKの国際問題にまで発展しかねない偏向放送問題もその後十分な説明がなされていません。

フジテレビも、「○○○○番長」という卑猥な発言や「外人」という常識に欠ける発言生放送をしたアナウンサーをそのまま何事もなかったかのように朝のテレビ番組に起用したままというのは何とかしてほしいものです。

民放もテレビ放送メディアを事業主体とする会社は、公共の電波という公共財を事業に使う特許が与えられているわけですから、いわば、特別の地位が付与された企業であって、純粋な私企業とは全く性格がことなります。

政治家など公権力を扱う者に準じ、メディア自身がしっかりと説明責任(社会的な責任という意味での)を果たし義務があると私は思います。

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10/26/2009

Susan Boyleさんがクリスマス特別番組に出演か?(Plus アルバムの内容が明らかに)

イギリスメディアによれば、英国ITVの「Britain's Got Talent」というテレビ番組の予選映像がYoutubeで一大旋風となり、世界的に有名になったスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんがChristmasの特別番組に出演するという噂があるそうです。

ボイルさんは11月23日(イギリス時間)に初CDアルバムを発売するということで、何かと欧米メディアを中心に注目を集めています。

ただ、良い取り上げ方だけではなく、ゴシップ的にも良いネタにされているようです。

イギリスのタブロイドメディアは、先日、ボイルさんがフットボールのセルティック戦にゲストとして登場した際に、その登場姿を捉えた写真を紹介し、ズボンのチャックが下がっていることを大々的に取り上げています。

そういう下らない話は置いておいて、今日はボイルさんの近状はどうなっているのか気になっている人のために、イギリスでボイルさんがクリスマスの特別番組に出演するという話題をより詳しく紹介しようと思います。

以前このブログでも、ボイルさんがアメリカのテレビ番組で、自身が登場した「Britain's Got Talent」の姉妹番組である「America's Got Talent」に出演したことを紹介しましたが、その瞬間視聴者数は2000万人に達したそうで、アメリカを中心に以前その人気は衰えていません。

最近は体調を崩し腹部の痛みを訴えて入院したという話が出ており、心配されていましたが、どうやら健康に問題はなかったようです。

既に、クリスマスの特別番組に「Britain's Got Talent」を始めITVの人気司会者DUOのAnt and Decと欧州を中心に人気ロック歌手のロビー・ウィリアムズ(Robbie Williams)のクリスマス特別番組が放送されるという話がイギリスメディアで伝えられていますから、ボイルさんの番組も放送されるとすれば、イギリスITVの年末は今年の3月の「Britain's Got Talent」の再来のような状況になるかもしれません。

なお、Ant and Decとロビー・ウィリアムズは以前にも英国のITVクリスマス特別番組に共演し、高視聴率を獲得したことがあります。

さて、ボイルさんのCDですが、そのカバーと内容が明らかになりました。以下のインターネットニュースでも、アルバムのカバー写真について取り上げられています。

円高を反映してか、アメリカ版とイギリス版の輸入版と日本版の価格差がかなり大きくなっています。

アメリカとイギリスからの輸入版は全12曲のようで、以下の曲が含まれています。

1. Wild Horses
2. I Dreamed A Dream
3. Cry Me A River
4. How Great Thou Art
5. You'll See
6. Daydream Believer
7. Up To The Mountain
8. Amazing Grace
9. Who I Was Born To Be
10. Proud
11. The End of The World
12. Silent Night

親しみのある良い曲が選ばれています。

アメリカ輸入版

イギリス輸入版

そして、日本版なのですが、なんと曲が1曲多いんですね。しかも2つのディスクで販売するようです。ただ値段も輸入版に比べれば1000円近く高くなっていますね。

ディスク:1

1. ワイルド・ホース

2. 夢やぶれて

3. クライ・ミー・ア・リヴァー

4. 偉大なるかな神(輝く日を仰ぐとき)

5. 愛をこえて(ユール・シー)

6. デイドリーム・ビリーバー

7. アップ・トゥ・ザ・マウンテン

8. アメイジング・グレイス

9. フー・アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ビー

10. プラウド

11. この世の果てまで(ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド)

12. きよしこの夜

13. 翼をください~Wings To Fly

ディスク:2

1. I DREAMED A DREAM

日本版

できれば、1曲多い日本版を聞いてみたいところですが、円高の恩恵を受けるためにも、輸入版で購入するという選択肢も捨てきれませんね。

身近なところで円高の恩恵を感じることができる良い例ではないでしょうか。

どちらのバージョンにもクリスマス向けの曲が入っていますから、今年はアメリカンドリームならぬブリティッシュドリーム(インターネットドリームと言うべきかもしれませんね)をつかんだ女性の歌声を聞きながらクリスマスを過ごすのも良いかもしれません。

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10/23/2009

足利事件再審とその報道に思うこと

ここ最近、ご存じのように様々な司法関係のニュースが多く流れていますね。

足利事件の再審、高相被告の初公判などなど。

芸能人の薬物事件には、別の観点から興味がそそられる事実(元弁護人が犯人隠避に当たるかのような行動をしたことを高相被告が証言したこと)がありましたが、それは色々複雑な背景事情との絡み合いもあるため、その話は今回はしません(というか、下手なことをいうと名誉棄損にもなってしまうため、今後もしないかもしれませんが・・・)。

やはり、足利事件についてです。

決して、この事件の上告審で審理した最高裁裁判官を弁護するわけではないのですが、やはり、今の謝罪すべきかどうかというマスメディアの論調には私は非常に大きな違和感を感じるわけです。

つまり、謝罪があるかどうかという感情論が問題なのではなく、「司法権と冤罪」というより高度な問題なわけですから、重要なのは、「客観的に、どうして冤罪を見抜けなかったのか」という点を裁判過程を振り返って慎重に検証することなのではないでしょうか。

その点で、今回の再審事件を担当している宇都宮地裁の受訴裁判所はなかなか丁寧かつ巧妙な裁判を尽くそうという姿勢がみられるのではないかと私は評価(むしろ現段階では期待というべきでしょう)しています。

さて、従来から指摘している私の考えについては、以下の過去の記事を参考にしていただければと思います。

私は足利事件の過程を特に評価できるほど十分にフォローしていませんし、提出された証拠を見て評価することもできないので、過去の裁判過程を振り返って、客観的にどこに問題点があったかを指摘できるほど事実関係に詳しいわけではありません

しかし、この事件を検証すべき方向性がどうあるべきかについては、少なくとも指摘できる程度の知識はあると思うので、ツイッターでもつぶやいたのですが、昨日の報道ステーションのこの事件の取り上げ方と、古館キャスター、および長野智子氏の報道姿勢に対する疑問について中心にお話ししたいと思います。

もちろん、以下で、同番組内で取り上げられた亀山継夫元最高裁判事のコメントにも言及しますし、亀山元判事のコメントについてについても、結果的に判断を間違った判事というレッテルを極力排除して、中立的に彼の考えが間違っているのかどうかも検証してみたいと思います。



1.報道ステーションにおける報道内容の方向性の問題点

まず、報道ステーションでは、「裁判所は謝れ」、「結果として間違っていたから悪い」などという感情論が先行報道姿勢でした。こうした主張を当事者の菅家さんがすることは理解できますし、耳を傾けるに値します。なぜなら、冤罪の苦しみというのは、当事者でなければ解らないですし、当事者だからこそその苦しみを他に伝えたいと思うことは当然のことだからです。

しかしながら、マスメディアという報道機関がそうした感情論先行の報道を行い、事実関係に詳しくない視聴者を感情論で誘導するのは、問題の本質を見誤らせ、衆愚的リアクションにより、思考を停止させることになるだけでなく、冤罪が起きた裁判過程の問題点を正しく洗い出すことの妨げになります。

先の報道ステーションでは、キャスターの古館氏も、レポーターの長野智子氏も、「裁判官はなぜ謝らないのか?」という事ばかりを追っており、当時の上告審の裁判長裁判官だった亀山継夫元最高裁判事に突撃取材をし、突然の取材攻勢に不快感をしめしつつも、答えている亀山元判事の姿勢を感情論先行で批判していました。

しまいには、古館氏は、今回の再審を担当している裁判長裁判官の「公平中立な立場で臨んだ上で、最終的に裁判所の対応について示します」という裁判所の謝罪を求める菅家さんへの発言を、「解りにくい言葉で言わず、なぜ率直に謝れないのでしょうか」と非常に馬鹿げた(裁判という本質を理解していない)発言をしていました。

私は当初、「この発言に共感してしまう一般視聴者は多いのかな?」と思っていたのですが、意外にツイッターで反応を見ている限りだと、今回の報道ステーションの報道内容に批判的な人も多く、また、法律関係の話しに疎い私の家族の一人も、「は?何言ってるのこの人(古館氏のこと)?」と言っていたので、案外、メディアのような劇場型、感情先行型の視聴者は少ないのではないかと安堵しました(裁判員制度もはじまって国民の司法に対する意識レベルが意外に高く知識も多いのかもしれませんね)。

さて、なぜ、上記古館氏の発言が馬鹿げているのか?

その答えは簡単です。

再審でありなんであり、裁判である以上、そこに提出された事実と証拠により、予断を排除して、公正中立に審理に臨み判断すべきなのであって、この佐藤正信裁判長の発言は何らおかしなことを言っているわけではないためです。

今まさに再審により無罪であるかどうかの確定をしようという時に、裁判の冒頭で、「冤罪でしたごめんなさい」と謝る方が、おかしな話なのです。

それに、佐藤裁判長は、「最終的に裁判所としての対応を示す」とまで言っているのであって、判決で冤罪が確定する際には何らかの謝罪を求める菅家さんへの回答をすることを約束しているわけですから、むしろ、菅家さんの主張に配慮した姿勢を示しているのです。

それを、「判断を誤った裁判所が悪い、謝れ!」と扇動して、「解りにくい言葉で言わず、素直に謝れないのか」と批判する報道自体、報道として不適切というのは明白でしょう。裁判とはそういう軽いものではないのです。

古館氏も長野氏も、終始、「裁判所が国民の意識からかけ離れている」と非難し続けましたが、佐藤裁判長の訴訟指揮を見る限り、今回の再審審理は非常に妥当なのもですし、国民意識からかけ離れているとは思えません。

弁護人の佐藤弁護士も指摘されていましたが、裁判所がテープの証拠提示を命じています(刑事訴訟法規則192条の提示命令)から、報道機関は「判断を先送り」と批判していますが、佐藤弁護士が言うように、おそらく多くが証拠採用されるのではないかと思います。

なお、補足的な話ですが、この提示命令が出されたからといって必ずしも積極的な証拠決定が出るとは限らず、裁判所の自由裁量によることとなります。

今回の場合、検察の主張を見ていると、①事件との関連性が乏しいとか、②証拠価値が低く取り調べに多くの労力を要するという形で、消極的判断を求めているようで、確かにこれらに当たる場合は、証拠採用されない場合もあります。

しかし、提示命令を出した以上は、その証拠内容を確認する必要があると少なくとも裁判所は考えているわけです。

もし菅家さんや弁護人の主張に反し、受訴裁判所が形式な再審で終わらせよう考えているとすれば、再審で検察も無罪を主張している以上、そもそも証拠調べが不要として、提示命令を出す必要はありません。

にもかかわらず、受訴裁判所は提示命令を出し、証拠採用の判断を次回まで見送りました(即断しなかったわけです)。

また、検察側の①②に当たるかどうかは、その内容を確認しなくても、その属性から客観的に解る場合が多いですから、提示命令をわざわざ出し、判断を次回に持ち越したということからすれば、裁判所は証拠採用可能性が高いだろうという推測が働くわけです。

したがって、最終的な判断は、受訴裁判所の合理的な裁量の範囲で判断されますから、どうなるかわかりませんが、おそらく積極的な判断になるのではないでしょうか。

いずれにしても、今回の再審事件の審理は、非常に妥当なものなのですから(少なくとも報道を見る限り、弁護人の佐藤博史弁護士も訴訟指揮に満足しているようでした。)、報道ステーションの放送内容は、どうも裁判所を批判しようという(似非)ジャーナリズムが先行しており、私は強い違和感を感じます。



2.亀山元最高裁判事へのインタビューについて

次に、亀山元判事への突撃取材が報道ステーションでは取り上げられていました。そもそも、あの手の突撃取材は、取材側を不快にわざとさせ、印象が悪く映るように見せている場合も多いわけです。

亀山元判事も例外なく突撃取材を受けたために不快感を示した態度で映っていました。

私はそれでも、感情をわざと逆なでするかのような長野智子氏のインタビューに答えていた亀山元判事には一定の理解を示します。

さて、亀山元判事のインタビュー内での回答について、私見がどう思うか以下で紹介します。

この点、亀山元判事は、

①上告審は法律審であり、原審の事実認定を前提に法解釈の適用及び事実誤認があるかを判断する制度であって、事実認定をやり直す場ではないこと、

②菅家さんが捜査段階だけでなく、公判廷で一度自白してしまっていることから、否認に転じた以後の供述の信ぴょう性が低くなってしまうこと、

③証拠そのものが上告審には提出されていないこと

という3つの点を指摘されていました。

①②はおっしゃる通りで、亀山元判事の言い分その通りとしか言いようがありません。

なぜ再鑑定しなかったのかという点について、③の指摘ですが、正直この点については、亀山元判事の指摘がそもそも正しいのかどうかすら、私は解りかねます。

弁護人は、上告棄却前までに不一致を示す独自の鑑定結果を提出したと言っています。亀山元裁判官がどういう認識をしていたかはわからないので、なんとも言いようがありません。

まさに、こうした点の検証が必要なのであって、弁護人提出の鑑定結果がなぜ重要視されていなかったのかが足利事件上告審の最大の問題であり、メディアを含めてこの部分の検証が必要でしょう。

なお、憶測で話しますが、おそらく、裁判所は、公判廷で自白した以上、自白供述の証拠価値は高く、その後に否認した供述についての信頼性が低いということを前提に、DNA結果について、安易に科学的立証ということから過信しすぎたということなのだと思います。

いずれにしても、以下にあるような報道ステーションの流した報道内容で、③および亀山元判事ら当時の最高裁の判断に改善すべき点があったか否かを判断することは困難です。

しかしながら、以下の動画を見れば明らかですが、報道ステーションのキャスター陣は、裁判所が悪いという価値判断先行で、物事を語ろうとしているため非常に薄っぺらい取材およびその報道になっていると私は思います。

【足利事件】 当時の最高裁裁判長 亀山継夫氏を直撃インタビュー 2009/10/21
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削除される可能性があるので、以下に再現しておきます。

長野智子氏(以下、長野):菅家さんに謝罪は何かしないのですか?

亀山継夫元最高裁判事(以下、亀山):そういう問題ではないと思うんですよ。

長野:(いきり立ちながら)どういう問題ですか?人一人の人生が奪われて、真犯人はまだ捕まってないんですよ!

亀山:それを言うなら、警察とか検察庁に言ってください。裁判所というのはね、裁判に出てきた場にある証拠だけを判断するわけです。それしか判断できない。

長野:(亀山の話を遮り)結果として判断を間違ったんですけど、それについてはどう思うのですか?

亀山:何が結果だか、私は自分のした裁判、自分のところに出てきた裁判のことしか考えてませんから、特段の感想はありません(もっとも、亀山元判事は、冒頭には遺憾のことだと思うと発言しているので、編集による作為も感じられる点は付言しておく)。

長野:間違った原因は何だと思われますか?

亀山:もしそれが間違っているとしたら、それは色々なことがあるでしょう。ただね。これ、私は自分の裁判のことではなくて、この事件のことをずっと客観的に見ています。この事件の一番の問題点はね。公判廷で犯人が自白しているということです。被告人がね。公判廷でね、後で、いやそれはウソだったんだというふうなことになっているんです。公判廷でそうむやみやたらにね、ウソでたらめを言ってもらうと困るんですよ。

突然、インタビュー映像は切れ、別の映像(公判廷での自白が仕方ないという印象付けの映像)が流れだす(私はこの後亀山元判事が何を言っているかが一番重要だと思うのですが、編集されてしまっています)。

長野:最高裁に弁護側が再鑑定を申し出て、それから、10年間、菅家さんは無罪のまま、中に入り、真犯人は外にいるわけですよね。

亀山:それに関してはね、なるほど、客観的には遺憾なことですが、それは遺憾だとしか言いようがないよ。そうでしょ?

長野:客観的にって、当事者で裁かれたのですよね?

亀山:当事者で裁くったって、我々は全力でベストを尽くして、やっているんですから、それで、あれ以外にやりようがなかったということですよ。

長野:何か菅家さんに対しておっしゃりたいことは?

亀山:いや、全然ありません。

長野:ないですか?

亀山:全然ありません。

長野:謝罪はされませんか?

亀山:いいえ、全然そういう気はありません。

長野:それはどうしてですか?

亀山:どうしてって、そういう筋合いじゃないんだもん。謝罪をする筋合いじゃないの。制度的に言っても、この事件から言っても。ともかくそういう気はありません。

また、別の映像が流れだす。

亀山:この証拠が怪しいから再鑑定をやってくれとか、そういうことをいちいちどんな事件でもやっていたら、最高裁で、事実審理を全部やりなおさないといけないじゃないですか。そういうことはできないんですよ。

長野:でも、7年たっていて、そこで再鑑定してもよかったんではないですか?科学的な進歩を鑑みれば。

亀山:それならそれでそういう風な再鑑定といわれる、あるいは鑑定をしたそういう風な証拠を、証拠自体を出すべきだったんですよ。

長野:でも出していますよね?

亀山:いや、再鑑定をしてくれという申請しか出していないんだから。それはよく調べて御覧なさい。

長野:弁護側はDNA鑑定出してます!出してますよね?

亀山:いや、それは全然別のDNA鑑定だもん。あの事件のじゃないもん。

長野:いえいえ、足利事件ですよ。

亀山:いやそうじゃないよ。

ナレーションが突然入りだし、その後の亀山元判事の会話が聞き取れない状態になる。

長野:足利事件というのはどういう事件だったんでしょうか?

亀山:どういうってことはない。普通の裁判でしたね。そんな特にあれだということはない。

なお、一般の方からすれば、この亀山元判事の態度が気に食わないとか、おかしいと思う人も多いかもしれません。

確かに、法律家特有の割り切った考え方に賛同できない人もいるかもしれません。

しかし、前述したように、私は同情的です。

まず、長野智子氏の突撃取材取材と質問が、謝罪謝罪を強調しすぎており、被取材者に対する礼儀がありません。亀山元判事の判断が結果的に間違っていたからといって、犯罪者ではありませんし、冤罪が起こったとしても道徳的責任は別として、その個人には一切の法的、社会的責任はないし、それは問えないと考えるべきです。

したがって、真相解明のために取材することは良いのですが、取材姿勢に重大な欠陥があるわけです。

にもかかわらず、亀山元判事が「自分の裁判とは別に、客観的に見た限りにおいて」と断ったうえで、ここまで答えていることには、逆に「よく答えてくれたな」と驚きすら感じます。

多少、割り切った言い方過ぎる部分もありますが、法律家特有の言い回しとして、許容範囲を超えないと私は思います。

なお、重複になりますが、今回、ツイッターなどを見ていて、マスメディアの嫌がらせ的取材攻勢と感情論先行の結論ありき報道に騙されない一般視聴者が多くいることを心強く思ったことを強調しておきます。

最後に、以下の新聞記事についても一言述べておきます。

この記者は、名誉回復と真実発見が対立するかのような検察の主張そのまんまの論理で記事を欠いていますが、真実発見を合理的な範囲でやることは名誉回復機能にも資するのですから、必ずしも相矛盾するものではありません。

宇都宮地裁の再審事件の受訴裁判所も、今回の再審でそのことを十分に意識したうえで、審理に臨んでいるように私は思います(少なくとも現時点においてはという留保をつけますが)。

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10/21/2009

読売新聞の世論調査に愕然とした話

先日、危険な数字によるイメージ操作の典型例ともいえる衝撃的な記事を発見しました。

もしかすると、皆さんの目にも止まったかもしれません。読売新聞の14日の朝刊記事です。

なんと、その記事で、85%の人が新聞が信頼できると答え、91%が新聞は必要だと答えたというのです。

最初の私の感想は、「本当か?新聞取ってない人多いのでは?」というものでした。

ただ、よくよく記事を読んでみると、明らかにこのように新聞の存在意義を強調するための「作られた数字」(公認会計士の山田真哉先生の言葉を借ります)であることに気がついたのです。

この世論調査には、以下、3点のような問題があります。

まず、皆さんで考えてみてください。(考える時間の目安:1分)








さあ、3つ思い浮かびましたか?様々な解答が予想されますが、私の考える3つの問題点は以下の通りです。

一つ目は、調査方法です。

面接方式を採用しているわけです。これは、サンプルとなる人物を会社などに呼び出して、面接官を前にして、サンプルの回答を引き出す方法です。この方法は有効回答数(あいまいな回答や回答拒否などを除いた回答)を高くするには優れているのですが、面接官による影響が受けやすく、面接官による誘導に乗りがちです。

また、わざわざ新聞社(ないしその関連会社や委託会社)が呼び出して、それに応じて来た人をサンプルにしているわけですから、自然と新聞社に好意的な人が集まる傾向が高くなります。

時間帯によっては、面接に行ける人間は非常に限られてしまいますから、意図的に新聞を好意的に読む層をサンプルに組み込んで、実態とかけ離れた「作られた数字」が生まれる恐れが非常に高いわけです。

さらに、面接方式の場合、電話方式などと比べ、サンプル数には限界があります。

したがって、面接方式というだけで、以上のような信ぴょう性に疑問を生じさせる問題があるわけです。

2つ目は、新聞は必要か不要かという二者択一での回答を求めている点です。

私自身、新聞があったことにこしたことはありませんが、必要か否かと問われれば、必要と信念を持って答えません。つまり、「不要だ!」と信念を持って明確に答える以外の「どちらかといえば必要とか」、「あってもよいけど、不要とまではいえないな」というような中庸の回答がどこに含まれているかわからないのです。

しかし、そういう回答をどこに含めるか(そもそもそういう回答を認めるのか)により、調査結果は大きく変わります。それを「新聞は必要」に含めてしまうと、新聞に対する認識を正確に反映できているとは言えません。

また、上記の面接方式にも関係してくることですが、あいまいな回答があった場合に、面接官が、「じゃあ、不要というわけではないのですね?」と確認した場合、「そうですね」と回答してしまうことが容易に予想されます。

そのような場合、面接官の誘導と回答方法の二者択一ということが相まって、調査側の欲している「作られた数字」が生まれてしまうことになります。

3つ目は、利害関係を有する新聞社自体がこの調査を行っている点です。

これが最大の問題点です。全くの利害関係のない団体が行った調査と、利害関係を有する団体の調査では、前者の方が後者より信頼できると経験則上いえます。

これは裁判における証拠調べにおいても同じことが言えます。

証人尋問において、全くの利害関係がない目撃者の証言と、被害者又は加害者と利害関係がある目撃者の証言とでは、証拠価値(証拠としての信頼性)は前者が相対的に高いのに対し、後者は相対的に低くなります。

したがって、新聞社がこのような調査をすること自体、結果ありきの調査となるのは必然的な帰結であって、「作られた数字」であるという疑惑が生じさせる最大の理由がそこにあるのです。

さて、皆さんの回答と私の回答は一致しましたか?

他にも色々な問題があるでしょうが、とりあえず、私は以上3点が直ぐ思いつきました。

つまり、この調査は「新聞社の、新聞社による、新聞社のための調査」ということです。

ただ、私はこの記事を読んだときに、それを恥かしげもなく、「このような世論調査の結果が出ました!」と言い切れる、メディアの面の皮の厚さに驚いてしまいました。

読売新聞は私企業ですからどういう世論調査をしようと勝手ですが、下らない世論調査にお金と労力を使うくらいなら、もう少しまともな記事を日々書くように社員教育する方が、読者のためになるのではないかと私は思います。

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10/18/2009

イギリス任天堂CM戦略の第一弾がいよいよスタート

以前このブログで紹介した、イギリスでの人気司会者Duo、Ant and Decを使った任天堂の広告戦略(Ant and Dec Advert)についてです。

そもそも、私がこの二人を知ったのは、スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんがアメリカで取り上げられ始めた時に、ボイルさんが出演した番組、「Britain's Got Talent」の司会者をしていた二人の動きが、ディズニーキャラクターのチップとデールに似ていて、「誰なんだ?」と思ったのが始まりでした。

恥ずかしながら、イギリスに数カ月住んでいましたが、彼らの人気には気がつかず、最近この二人がイギリスの若者から中年、お年寄りまで幅広く人気を集めていることを知ったのです。

前回、任天堂が日本とアメリカではメーカー希望小売価格を下げる一方、イギリスでは価格を維持したままで、イギリスで最もテレビの出演料が高い(人気者であるにもかかわらず、ITV以外のテレビ局とはレギュラー番組を持ってはいけないという拘束型出演契約をしていること、プロデューサーとして番組作成にかかわっていることなどから、金額が膨大になっているという要因もある)といわれるAnt and DecをメインにしたCMをクリスマス商戦向けにこの秋から打ち込むという話題をお伝えしました。

そのテレビCMがYoutube上にあったので、紹介します。

最初のAntの「Decは電気代を節約したいから、いつも俺の家でゲームをやっているよ。」ジョークの後に、否定せずに、「True」とつぶやいているDec、面白いですね。

この動画の最後にあるウェブサイトでは、マリオカートを競い合う、アント(Ant)とデック(Dec)のCMが第1弾として紹介されています。

http://enjoynintendo.com/#/tvchallenges

任天堂がイギリスという現地に根付いたCMを打っておりなかなかやるなと思うのは、「Ant and Dec' TV Challenge Ant VS Dec」というタイトルをつけている点です。

この二人の人気番組、「Saturday Night Takeaway」の人気コーナー、「Ant VS Dec」というものに掛けていると見られ、マリオカートに熱中している二人の姿が自然で、二人のキャラクターを上手く出しているように思えます。

また、一般人を巻き込んでゲーム対戦をし、盛り上がっている姿を見せるのは、Ant and Decが今まで、一般人を巻き込んだバラエティー番組で成功してきたことを考えると彼らの持ち味が十二分で引き出せているCMだと思います。

今後、イギリス中を回って、一般人の任天堂ユーザーを対象に、Ant and Decがいろいろ挑戦したり、インタービューしたりするそうなので、「Saturday Night Takeway」という一般視聴者参加型の彼らの人気番組を意識したCM戦略であろうことが推測できます。

このCM、15日からイギリスでスタートしたらしいのですが、ガーディアン紙の電子版でも取り上げられており、Ant and Decというイギリスで国民的人気のあるテレビ司会者を起用した効果はそれだけでも大きいでしょう。

イギリスメディアによれば、彼らはクリスマスにも、ITVで特番を持つようですし、人気絶頂といったところでしょう。人気への便乗効果も得られるんではないでしょうか。

英国任天堂の代表取締役、デビット・ヤーントン(David Yarnton)氏は「Ant and Decが、イギリスで、孫から祖父母という幅広世代に人気があること」が起用理由と言っています。

日本の任天堂のCMでは、あまり印象に残るCMは最近はありませんが(昔、スーパーファミコンの時代に「スパーマリオRPG」というゲームがあり、そのCMの歌が非常に印象的でした)、ガーディアン紙の前記記事によれば、海外ではニコール・キッドマンさんやパトリック・スチュアート氏を起用しているそうです。

日本の任天堂の場合は、かつて、有名人がマリオとかに扮したというものが多かったりしましたが、やはりゲームのCMで一番良いのは、実際にゲームを楽しんでいる姿を流したり、その映像を流すのが購買につながるんではないでしょうか。

そういう意味で、日本の任天堂のCMでも、最近は有名人が、実際にゲームをしている姿を流すというのが多いように思います。

今回の英国での任天堂のCMキャンペーンが今後どういう展開になるのか個人的に楽しみです。

ところで、イギリスのAnt and DecによるWii Fit PlusのCMと日本のWii Fit PlusのCMがYoutube上にあった。日本のCMとほとんど同じ内容なのはやはり本社からの指示によるものなのだろうか。

イギリスのAnt and DecによるナレーションのCM

日本のCM

日本のCMと海外のCMで全く同じ内容が流れているというのもある意味面白い。

ちなみに、印象に残っているスーパーマリオRPGのCMは以下です(このゲーム自体はやったことがないのですが、CMソングは異常に耳に残りました)。

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10/17/2009

フジテレビの田淵アナウンサーの無期限休養について

フジテレビのアナウンサーで、元プロ野球選手の田淵幸一氏の長男の田淵裕章アナウンサーが体調不良を理由に無期限休養するという。

ネット上では、病名について、「精神的なうつ病では?」とか、「難病では?」などの様々な憶測が飛び交っている。

スーパーニュースに7月から起用されており、時間帯が夕方なのでなかなかみることもなく、ときどき見かける程度であったが、ニュースの読み方も淡々としていて、好感がもてるアナウンサーであった印象がある。

スーパーニュースは、アクの強い(良い意味か悪い意味かはその人によって違うと思うが)安藤優子キャスターと木村太郎キャスターがメインで出ているので、ある種中和させる雰囲気で、長野翼アナウンサーと田淵裕章アナウンサーの存在は大きかったように思われる。

インターネット上では、以前このブログでも取り上げた長谷川豊アナウンサーによる滝川クリステルさんの「外人差別発言」と絡めて、田淵アナウンサーが女優のジャネット八田さんに息子でクウォーターに当たることから、フジテレビでまた「外人」といじめらたのではないかという憶測も流れている。

この手の憶測は邪推の域を出ないと思うが、万が一、社内や番組内における精神的な負担による体調不良だとすれば、テレビメディアにおける閉鎖的な風潮、旧態依然としたカルチャーの刷新が必要ということになろう。

いずれにしても、フジテレビが採用している男性アナウンサーには、セクハラ不祥事を起こしたり、不倫関係が暴露されたり、売春を告白したり、卑猥な言葉や差別的発言を生放送中に行うなどの不祥事が目立つ中、際立って浮いた話もなくしっかり淡々とニュースの読める田淵アナウンサーが体調不良で、最前線から欠けることになったのは、フジテレビにとっては痛手ではないだろうか。

滝川クリステルさんやな田淵裕章アナウンサーのように、品位あるニュースの読み方(どこかの政党や政治家に肩入れしたような印象操作をするアナウンサーではなく、淡々とニュースを読むようなアナウンサーの読み方)をする若手アナウンサーが画面から消えていくのに、どことなく違和感を感じる。

若干27歳なだけに、これからますます活躍する時期だっただけに、早期回復でまた淡々とニュースを読む(意図的な印象操作をしない)アナウンサーとして復帰してもらいたい。

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10/16/2009

意外な事実(最近見かける映画のCMでは解らないこと)

最近テレビのCMを見ていると、よく見かける映画のCMがある。

東映が配給元で、「仏陀再誕」という映画である。何気なくインターネットを見ていたら、この映画について書かれていることを目にして、意外な事実をしてしまった。

当初は、この映画について、不覚にも、「あれ?手塚治虫の『ブッダ』の関係の映画なのかな?」という程度理解で、「手塚治虫のアトムもハリウッド映画化されたし、ブッダも日本で映画化されるんだな。数ある作品の中で、宗教色の強いブッダをアニメ化に選ぶなんて、やっぱり暗い時代を背景にしているのかな?」なんていう感想を持っていた。

しかし。なんと!!!

この映画、実はこの前の選挙戦あたりから、政界進出を計画している幸福実現党の母体である宗教法人幸福の科学の教祖、大川隆法の本が元になっていることをインターネットで初めて知ったのである。

もともと、私自身宗教に興味がないのであるが、この事実を知って、ある種の恐ろしさを感じたため、今回取り上げることにした。

私の記憶が確かならば(ええ、料理の鉄人の鹿賀丈志さんのセリフです・・・)、約15秒ほどのテレビCMでは一切、大川隆法とか、幸福の科学という情報がないので、「仏陀再誕」という本が大川隆法の原作だということを知っている人でない限り、おそらく、気がつかずに、映画を見てしまう人も数多くいるのではないだろうか。

驚いてしまうのは、配給元が東映ということである。天下の東映が、いくら発行部数が多いといっても、新興宗教の宣伝につながるようなアニメの配給元となり、大々的なテレビCMを流していることが許される世の中になっていることに私は驚きを隠しえない。

もちろん、この議論、私の専門とする法律的な話に持っていけば、信教の自由や宗教的表現の自由とか色々話をすることができるが、今回はそれにはあえて言及しないでおく。

つまり、私が言いたいのは、①幸福の科学という宗教団体が、創価学会と同じくらいの集金力を持ち始めているということ、②資金力があるために大手配給元を使い、大々的なテレビCMが流されていること、③インターネットと無縁の人は特に、この映画が新興宗教団体の教祖が原作であることを知らずに、映画館に行ってしまうこと、④そうすると、中にはマインドコントロールされる人がでてくるおそれがあること、の4点である。

インターネットは万能ではないが、テレビをはじめとする既存のメディアだけでは、得られない情報があるということの良い例ではないだろうか。

こういう新興宗教団体の宣伝につながる映画が、何のためらいもなく、しかも、全国的なネット網のある東映系の劇場で配給されていることに(都内だけでも主要な映画館では取り扱うようである)、違和感を感じるのは私だけだろうか。

この手の映画が他の映画と同じような扱いを受けることに、デフレ状態にある日本におけるある種のモラルハザードを感じてしまう。

最後に、「手塚治虫先生、勘違いしてしまってごめんなさい」と心から言いたい。

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以下は、上記映画とは全く関係ない、手塚治虫先生の「ブッダ」です。私はこちらの方が好きです(といっても上記映画が新興宗教団体の教祖の原作と知った今、どんなことがあっても見ることはないと思うのですが・・・)。

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10/13/2009

広島・長崎のオリンピック招致には疑問(日本の評価を下げる可能性が高い)

数日前にもツイッターでつぶやいたのですが、今日は広島と長崎が共同で検討しているといわれるオリンピック招致についてです。

私も当初は、東京よりもやる意味はあるのかなと一瞬思ったのですが、よくよく考えてみると、招致活動や開催方法を慎重にならなければ、非常に日本にとってマイナスになることが多く、もろ刃の剣といえそうだと考えるにいたったので、今日はその考えを紹介したいと思います。


1.広島・長崎で開催するメリット

まず、当初、東京での開催よりも、納得できると思った要素について検討してみます。

①地方都市の発展につながること

無駄な公共事業の削減という話が出ていますが、仮に広島や長崎で開催することになれば、それに向けた整備は必要となります。

その際に、中国・九州地方の発展、利便性の向上を踏まえた整備がなされることは、非常に有益でしょうし、一極集中した東京にさらにお金を投じて整備事業をやるよりは、地方都市での開催による整備事業への税金の投入の方が、目的・効果の面からそれなりの評価ができると考えました。

②世界的な知名度の高さ

「Hiroshima」、「Nagasaki」という言葉を知らない人は世界中でも少ないでしょう(場所を知っているかは別として)。日本の都市の中で、数少ない世界に認知されている都市名です。

ただ、被爆都市という暗く、後ろ向きなイメージが先行しているのも事実ですから、オリンピックの開催によるポジティブなイメージへの転換も期待でき、そこで開催することによる意義は一定程度あるのかもしれません。


2.疑問その1-発表のタイミング

しかし、よくよく考えてみると、やはり、この招致運動は浅はかさを感じますし、おそらく失敗します。そこで、以下、3つの疑問という観点から、なぜこの招致活動に問題があると考えるのか、私見を紹介します。

まず、元々広島と長崎が招致について十分計画してきたのなら格別、仮にオバマ大統領のノーベル平和賞賞が後押しになって、その話題性の乗じてやろうとしているのであれば、絶対にやるべきではありません。

そもそも、オバマ大統領のノーベル平和賞に対する疑問が世界中で強く示されており、アメリカ国内でも、共和党だけでなく民主党の一部の支持者からも、演説という言葉だけで受賞することへの疑問と、その受賞を受けることへの政治的浅はかさを指摘する声がかなりあります。ある種、アメリカでは国を二分して、評価が分かれてしまっています。

また、日本でも、先日このブログで紹介したように、8割近い人が今回の受賞に疑問を持っており、この市民レベルの反応は、ドイツやフランス、イギリスでも同じような状況にあるでしょう。

つまり、喜んでいるのは、アメリカの熱狂的なファンと世界中の一部の左翼的思考の強い人々といっても過言ではないでしょう。

そして、この話題は、絶対4年後までその話題性を維持できません。核軍縮に向けた動きも、おそらく成功しないでしょう。ロシアのメディアの反応を見てますと、今回の受賞には非常に皮肉たっぷりですし、かなり批判的な反応すらしています。

さらに、BBCの記事によれば、1976年に、北アイルランドの平和活動を行い、最年少の32歳でノーベル平和賞を受賞した、マイレッド・コリガン・マグワイア(Mairead Corrigan Maguire)さんは、今回のオバマ大統領の受賞のニュースに「とても悲しく思う(very sad)」とのコメントをしています。

マグワイヤさんは、「ノーベル賞選考委員会は、アルフレッド・ノーベルの遺志として示された条件を満たした選考をしていなません。なぜなら、アルフレッド・ノーベルは軍国主義や戦争を止めさせた人、軍備縮小を行った人に与えるように要求しているためでです。オバマ大統領は未だ中東問題やアフガニスタンの戦争に対して真剣に向き合う姿勢を示していません。」と厳しく批判しています。

広島市や長崎市、被爆者の方は、(私は不思議でたまらないのですが)、何もやっていないオバマ大統領の受賞を盲目的に評価して、喜んでいるとの話が伝えられてきます。

しかし、世界の世論はそこまで能天気ではありません。

オバマ大統領によって、核軍縮はまだ何も進んでいないこと、イラク、アフガンでの戦争が何1つも終わっていないこと、中東問題におけるアメリカのリーダシップが何一つ示されていないことという現実を直視すれば、盲目的に評価できない非常に疑問が残る受賞であることは明白でしょう。

このように、受賞そのものに対して、強い疑問が世界中で示されているにもかかわらず、その受賞に盲目的に賛同して、その話題性に乗じて、広島、長崎でのオリンピック開催を訴えたとしても、世界中のIOC委員の心に響くような十分な大義名分にはなりえないでしょう。

また、オバマ大統領そのものに対し、IOC委員は冷ややかだったという事実も忘れてはいけません。先日の投票では、鳴り物入りでシカゴの応援演説に駆け付けたオバマ大統領でしたが、(アピール力や交渉力で疑問のあった)東京にも第1回の投票で負け、IOC委員はオバマ大統領が来たからといって能天気にシカゴを支持するような人々ではないことが明らかになりました。

トニーブレア前イギリス首相は2012年のオリンピック招致に向け非常にしたたかな活動を長く行い、投票日直前も数日前に会場入りし、数日間のロビー活動を徹底的に行いました。このような形で、政治的リーダーが信頼関係をつかむのと、オバマ大統領のように演説だけで招致できると思っている浅はかなリーダーの行動とは、かなり大きく違うわけです。

そうした分析や東京敗北の総括もできていないのに、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞というチープな話題性に乗じようとこのタイミングで、招致委員会発足の発表をしたことは非常に浅はかですし、世界のすう勢を見据えていない著しく愚かな判断だったと私は思います。

話題性という薄っぺらい人気に沸くような形で先行し、スタートがこれほど愚かなのに、4年後に招致が成功するはずがありません。数百億円をドブに捨てる結果になるだけでしょう。



3.疑問その2-どうしても被爆都市としての主張に終始してしまうこと

広島市や長崎市は、必然的に核廃絶などを訴えることになると思うのですが、被爆都市がやることの意味を慎重に考える必要があります。

つまり、被害者の自己満足的な主張をすれば、世界から抵抗をもって受け止められてしまうということです。

ここには2つの問題があります。

1つ目は、高度に政治的な主張が組み込まれてしまうこと、2つ目は、過去の行為の批判に終始していると受け止められ、非建設的な主張であると受け止められる恐れが強いことです。

まず、第1の問題について、考察すると、そもそも、近年はオリンピックの政治的な利用に対する反省が強くなってきており、政治的な意図のために、利用すべきでないという批判が強くなっています。

北京オリンピックは、中国の人権問題を解決できることを1つの条件に支持されましたが、結果的に、チベット問題等々が顕在化し、聖火リレーをめぐって多くの対立も起きました。

過去の大会では稀に見る混乱ぶりだったといっても過言ではありません。

次のオリンピックはロンドンで行われるわけですが、ロンドンの招致活動は政治的メッセージが非常に少なく、むしろスポーツや文化振興を強調したり、オリンピックの開催が商業化ではなく、貧困地域の再開発支援や教育支援になることをアピールしたりしました。

政治的メッセージは希薄であり、いわゆる文化交流やスポーツを通じた青年の育成などの側面が全面に出たPRです。

確かにオリンピック理念には平和というのがありますが、これは政治性を排除してスポーツの下での交流を深めようという抽象的な平和理念であり、核兵器の恐怖を悲惨さを訴えるといった個別具体的な平和理念の主張を取り込むことは、政治性を排除したいというIOCの流れに反するものであり、共感の得られる大義名分にはなりえないと考えます。

次に、2つ目の問題についてですが、これは以前にもブログで指摘したことと同じです

中国や韓国の例を出すと解りやすいと思います。

例えば、南京大虐殺や韓国人に対する労働強制等の話題が出て、その悲惨さを訴えていることが、そのうち、日本バッシングになってくることはよく目にする光景です。つまり、被害者という立場で、悲惨さを訴えれば、かならず加害者批判という形で受け止められるわけです。

こうした場合、多くの日本人が、中国の南京大虐殺問題などの過激な発言を聞くたびに、過去への反省という気持ちだけでなく、むしろ、「いつまで批判され続けなければならないんだ」、「もっと建設的な視点はないのか」という感情を持つにいたるのではないでしょうか。

広島、長崎の原爆の場合はより状況が悪いです。アメリカでは、原爆投下自体は正当であるという理解が通説的理解です。そうした状況の中で、核兵器の悲惨さを訴えたりするオリンピックを行えば、アメリカをはじめとする欧米の多くの人が、「あの投下自体は正当だった」、「戦争を起こしたのは日本だろ」、「自分たちのことを棚に上げて、批判するな」、「建設的な主張ではない」という印象を持つにいたるでしょう。

立場が違うからこそ、この種の主張というのはかなり慎重にしなければならず、被害者の立場で、自分たちの理論を振りかざすだけでは、理解を得ることはできないのです。

しかしながら、過去の広島、長崎、および被爆者の主張を見ている限り、その観点が非常に欠落している場合が多いと言わざるを得ません。

政治活動として、原爆の悲惨さを訴えることは大いにやるべきですが、それとオリンピックという非政治的な姿が求められる場面での活動とは区別すべきです。

広島、長崎のオリンピック招致活動がこうした観点を欠いた活動になった場合、これは日本の国益にとっても非常にマイナスでしょう。

つまり、南京大虐殺問題での中国のジャパンバッシングに対して日本人が感じる違和感と同じような違和感を欧米諸国、とりわけ、アメリカに与えかねず、それが逆に欧米でのジャパンバッシングにつながると私は考えます。



4.疑問その3-地方財政の問題

地方経済が疲弊し、財政問題が顕在化しているのは、広島市や長崎市も例外ではありません。

これに対しては、オリンピック開催による経済効果は○○○億円だという主張だったり、その分カバーできるといういかにも思考が停止してしまったような議論がなされることが多くあります。

公認会計士の山田真哉先生が自身の著書、「食い逃げされてもバイトは雇うななんて大間違い(下)」という本のp45-46で、「経済効果のウソ」というタイトルで、根拠の乏しい弱い数字であるという話をされています。

経済効果として含まれる範囲が明確でなく、マイナス要素が十分に反映された数字になっているわけではないという指摘で、なるほど数字に強い方のもっともな御指摘であると思いました。

さらに、言えば、経済効果はオリンピック招致が成功した場合の数字なのであって、失敗した場合に得られるものは0です。

地方財政が安定していることや日本経済が安定している状況で、かつ、綿密に計画された上での招致活動であれば格別、そうでない以上、失敗とそれに伴う広島、長崎、ひいては国の財政的負担増は目に見えています。

一時のタイムリーな話題性で、浅はかな決断により、地方をさらに疲弊させるようなことは避けるべきではないでしょうか。



5.最後に

私自身は、日本でのオリンピック招致に必ずしも反対ではありません。

しかし、やるからには、まず、名古屋、大阪、東京が敗北した理由を徹底的に分析すべきであり、かつ、近時のIOCの傾向を専門家を交え国際的な視点から十分な議論をすべきでしょう。

にもかかわらず、ある種の内輪の論理的な視点(オバマ大統領のノーベル平和賞受賞というニュースで、平和活動に弾みがつくといった稚拙かつ世間知らずな視点)から、十分な計画なく、この手の議論が先行してしまっている感は否めません。

そして、このまま突っ走れば、広島市長、長崎市長は、石原都知事と同じ間違い起こすことになるのは、当然の帰結といえるのではないでしょうか。

独裁的リーダーも恐ろしいですが、世間知らずで浅はかなリーダーも非常に恐ろしいということかもしれません。

さて、上記記事でもちょっと触れたこの本、稀に見る良著でした。新しい発見があったというよりは、最近読んだ本の中で最も共感できる本というべきものでした。オリンピックの話題とは関係ないのですが紹介しておきます(なお、近日中にこの本になぜ共感できたか記事にしてみようと思います。たぶん、近日中・・・)。

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10/11/2009

オバマ米大統領がノーベル平和賞受賞も、唯一の被爆国の国民は納得できないと8割が回答

オバマ大統領の受賞コメントです。

This morning, Michelle and I awoke to some surprising and humbling news. At 6 a.m., we received word that I'd been awarded the Nobel Peace Prize for 2009.

To be honest, I do not feel that I deserve to be in the company of so many of the transformative figures who've been honored by this prize -- men and women who've inspired me and inspired the entire world through their courageous pursuit of peace.

But I also know that throughout history the Nobel Peace Prize has not just been used to honor specific achievement; it's also been used as a means to give momentum to a set of causes.

That is why I've said that I will accept this award as a call to action, a call for all nations and all peoples to confront the common challenges of the 21st century. These challenges won't all be met during my presidency, or even my lifetime. But I know these challenges can be met so long as it's recognized that they will not be met by one person or one nation alone.

This award -- and the call to action that comes with it -- does not belong simply to me or my administration; it belongs to all people around the world who have fought for justice and for peace. And most of all, it belongs to you, the men and women of America, who have dared to hope and have worked so hard to make our world a little better.

So today we humbly recommit to the important work that we've begun together. I'm grateful that you've stood with me thus far, and I'm honored to continue our vital work in the years to come.

Thank you,

President Barack Obama

色々言ってますが、言葉のみで何の実行もしていない人間が、大統領として核兵器の削減ということを言っただけで、得られる賞ってとんでもなくチープな賞ですね。

そう感じている人も多いのではないでしょうか。

そして、これを喜んで受ける大統領も、話題性と人気取りしかできない政治家という馬脚を現した感じがします。

どことなく我が国にもいた、首相数名に似ている気がします。

ヤフーの意識調査では、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞に80%が納得できないと答えています。

ライブドアの世論調査では、81.5%の人が納得できないと答えています。

インターネット調査は多少若い世代に偏った意見がでますが、ユーザー層がYahooとLivedoorで多少異なることを勘案しても、ほぼ同じ結果で、8割の日本人(唯一の核兵器による被爆国の国民)が納得できないと回答しているのは、かなり重大なことだと思います。

核兵器削減を提唱したことで受賞したわけですが、唯一の被爆国である日本人の8割がこの受賞に疑問を持っているというのは、何と皮肉なことでしょう。

また、佐藤栄作元首相が非核三原則の提唱などで受賞した平和賞ですが、日本ではその密約問題が浮上しています。

ノーベル平和賞に限って言えば、何の価値もない政治的玩具と言ってしまっても過言ではないでしょう。

まさに、「Rediculous(馬鹿げている)」という言葉がよく似合う受賞ニュースだったと思います。

アメリカでもこのニュースで喜んでいるのは、単純な思考をする人が割と多い、オバマ支持者と一部の理想主義者だけではないでしょうか。

私の数名の海外の友人たちも、このニュースを聞いて、ノーベル平和賞の程度の低さに呆れているようでした。

なお、イギリスメディアは早速、「一人のアメリカ人男性が何もせずにノーベル平和賞を受賞した」との題名で、辛辣な批判をしています。

あと、アメリカが衆愚政治に陥っているのがよくわかる情報も追加しておきます。

アメリカの政治専門メディアサイトによれば、オバマ大統領の受賞に懐疑的な共和党党員に対し、オバマ支持の民主党全国大会の幹部が、「オバマ大統領の受賞を批判するのはテロリストと同じだ」という暴論を述べたそうです。 

オバマ民主党政権からすると、今回の受賞に納得できないと答えた8割の日本人はテロリスト扱いなんですね。

アメリカも恐ろしい国家になったものです。異なる意見への寛容を訴えた米国民主党はどこ得いってしまったんでしょう。

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10/09/2009

橋下大阪府知事のメール問題から考察する民主主義の弱点

今日は、大阪府の橋下知事の反論メールに対する処分について。

これについては、今回、処分が法的にどうこうというより、政治的な視点から、民主主義の恐ろしさというテーマで、議論したいと思うわけです。

そもそも橋下知事は、就任当初、「異論、反論があるのであれば、率直にぶつけてほしい。」と職員に対して、訴えていました。

今回のメールが民間出身の副知事による、「非常識」という指摘ですが、メール内容が、意図的なのかそうでないのかは別として、断片的にしか公開されていない中で、「非常識なのかどうか」は判断できません。

したがって、これだけで、処分を正当化する理由の説明責任を果たしているとは言えませんし、上述した当初の方針を変更している点についての、府民に対する説明は欠如しているというべきです。

しかし、不思議なの(私は無知の知を知らない典型で恐ろしいとさえ思うのですが)は、これだけ断片的な情報でしかないのに、マスメディアや一般の方の反応に、無批判で橋下知事を支持してしまう声が結構あるということです。

仮に、メール内容が侮辱に当たるようなものではないとすれば、職員の意見を聞くと言っていた姿勢とは、180度異なる行為であり、風通しの良い組織を作るのとは逆に、萎縮効果を生じさせる重大な行為だと思います。

さらに、最大の問題は、副知事がその内容を閲覧できている点です。

知事本人以外の人間が閲覧でき、その者の意見に従って処分を決めているのは、風通しのよい組織にし、不祥事がある場合の職員の内部通報という意識の向上に逆行する萎縮効果すら生じさせると私は思います。

たとえば、雪印で、2000年頃から、偽装問題や食中毒事件が発生し、不祥事が多発した結果、会社の存亡にかかわる事態に至ったのは、記憶に新しいと思います。

この時の最大の問題が、不祥事が現場や本部長レベルで行われ、隠蔽し、取締役にまで十分な情報が上がっていなかったことです。そこで、この事件を境に、コンプライアンスという言葉が世間でも広まりを見せました。

その後、雪印乳業は生まれ変わって、消費者の信頼を再度獲得するために何を行ったか。その1つが内部通報制度の確立でした。つまり、コンプライアンス担当の取締役に直接不正に関する情報が入り、それも完全な秘匿扱いにして、内部通報者の保護と信頼の確保が可能な制度設計をしたのです。

大阪府内の内部通報制度がどうなっているのかは私にはわかりかねますが、少なくとも、どの組織においても、組織の長に直接情報を入れることができる状況は確保されているはずです。

にもかかわらず、組織の長が日頃、自分のところに来たメールを他に公開するだけでなく、それを他の重役と相談して、メール内容を理由に処分してしまえば、職員との信頼関係、内部通報を促進できるような関係は築けません。

なぜなら、内部通報者は任意に意を決して行うわけですから、自分の人生や生活を賭してしまうかもしれないという恐怖や不安が必ず生じます。

そのときに、「直接意見をすれば、処分されるかもしれない」、「知事以外の人間が自分の内部通報のメールを見るかもしれない」という不安感情が通報者に生じるのは明らかであって、これが萎縮効果となるわけです。

今回のメール処分事件を浅い視点で一見すると、「失礼なメールを職員が送ったのだから処分されてもよい」と考える人も多いかもしれません。

しかし、重要なのは、そうした単純な視点で思考停止してしまい、今回の処分行為を「リーダーシップの表れ」とか、「強い姿勢で良い」とかと勘違いしてはならないということです。

むしろ、この事件に接したときに、「あれ?本当にこういう処分の仕方で、大阪府、ひいては、大阪府民にとって、中長期的に利益があることなのだろうか」という懐疑的視点でニュースを見る必要があると私は思います。

日本は内部通報制度に対する意識が、民間組織はもちろん公官庁においても非常に低いです。

公益通報者保護法があることをほとんどの人間は知らないでしょうし、知っていても、いざ自分が内部通報者の立場に立った時に、このよくわからない法制度を利用して、内部通報をしようという勇気のある人がどれだけいるでしょうか。

そういう状況を考えると、大阪府という組織が不祥事を絶対に起こさないパーフェクトな組織であれば格別、そうでないのであれば、こういうメールのやり取りに関する問題で、処分するというのは、果たして、組織にとって利益になるのでしょうか。

知事の権力や権威を示すという意味では、効果があるでしょうが、それが何の意味を府民にもたらすのか、私にはわからないわけです。

失礼な内容であれば、直接呼び出して注意すればいいのであって、処分という権力的行為に走る姿勢が、橋下知事の浅はかさを露呈していると私は思いました。

なお、橋下知事の内部告発受付制度自体に対しては、2008年5月の時点で、公益通報者保護の活動やオンブズマン活動で活躍されている阪口徳雄弁護士が御自身のブログで批判的考察をされていらっしゃるので、興味のある方は読んでみると良いでしょう。

さて、今回このブログ記事で考えてほしいのは、それだけではありません。

最初にも書いたように、「民主主義の恐ろしい弱点は何か」について考える材料としても、橋下知事は格好の題材なのです(ええ、皮肉がたっぷりこもっています)。

そこで、皆さん、古代の政治思想論にもつながる話なのですが、民主主義という政治体制の恐ろしい弱点は何でしょうか?考えてみてください(考える時間の目安、1分)。

さて、どんな解答が思いつきましたか?

1つの解答例ですが、プラトン(Plato)の記述にあるソクラテス(Socrates)の考えによれば、民主主義という政治体制の一番の弱点は、独裁者を生み出すことだと指摘しています。

プラトンのいうソクラテスの考え方によれば、民主主義は独裁者を生み出す衆愚政治を招き、専制君主政治、暴君政治に移行するというのです。

この古代政治哲学者の指摘は、その後の人類の歴史を見れば、全くその通りと言わざるを得ません。

まず、20世紀は民主主義国家が増えましたが、同時に独裁国家も多数存在しました。その代表例が、ナチスドイツのヒットラーによる独裁体制の確立です。

ヒットラーは何ももともと独裁者だったわけではありません。極めて素晴らしい人権を謳っているワイマール憲法を有するドイツにおいて、その民主主義の下に、独裁者ヒットラーが着実に力をつけ、誕生したのです。

最近では、ジンバブエのムガベ大統領をはじめ、もともとは民主主義が確保された政治制度から、独裁者は生まれ、民主主義が形がい化し、独裁政治による弾圧と粛清が対白人に対する形で始まり、しまいには自らの政治の反対勢力に対する露骨な形で、生じるようになり、選挙での著しい不正が問題になっています(ムガベも当初は露骨な弾圧はせず、ジンバブエの奇跡と称されるほどの良い政治家でしたが、晩年は権力の維持に固執して違法な手段に出たため、180度変化してしまいました)。

つまり、民主主義というのは万能ではないので、有権者が為政者をフリーハンドで支持したりせず、監視できなければ、必ず独裁的リーダーが誕生してしまいます(なお、誤解のないように言っておきますが、独裁的リーダーはヒトラーのような違法な手段により権力を得た独裁者とは本質的に違います)。

独裁的リーダーは、短期的には強権を発することで、有権者の過熱的な支持を受けるのですが、晩年は反対派の弾圧に走ります。

現在の日本でこれに当たりうる政治スタイルを持っている人間は、小泉純一郎元首相や橋下大阪府現知事だと思います。

小泉元首相は、マスコミという衆愚に訴えるツールとして最も影響力を行使しやすいものを巧みに利用し、反対派をその理由のいかんを問わずに、抵抗勢力と位置付け、国民からの信託を背景に、戦う姿勢を示してきました。独裁的リーダーシップの典型といえます(小泉改革が悪かったかどうかは別として、リーダーシップのあり方を話しています)。

同様に、橋下大阪知事は、小泉元首相ほど計算され巧みさと緻密さを欠きますが、マスコミを利用し、反対派と戦う姿勢を示したり、過激な発言をすることで、思考停止した有権者を中心に、「何かやってくれるかもしれない」というような根拠のない期待感を有権者に植え付け、強いリーダーシップを演出しています。

これらの独裁的リーダーシップ(何度も言いますが、彼らの政治的実績はここでは問題にしていません)は、私は民主主義における最大の恐怖と弱点をついたもので、衆愚政治に向かう非常に危険なものだと考えています。

そして、独裁的リーダーは必ず衰退し、大きな負の遺産を残します。それは、監視を怠っった有権者へのツケといっても過言ではありません。

この負の遺産は、様々な形で表れるでしょう。例えば、典型例としては、不正な支出であったり、公用財産が不適切かつ不透明な方法により競売されたりという金に絡む問題から、人権の蹂躙(法的に保護された法益を不正に侵害する)に至るなど。

ここで、私が言いたいことは、独裁的リーダーシップを好む政治家を盲目的に信用したり、フリーハンドで支持することは、有権者が自ら思考を停止し、監視を怠ることになり、不正や不祥事を見逃す温床を作ってしまうという危惧なのです。

そして、独裁的リーダーの下での不正や不祥事の発覚は非常に難しくなります。なぜならば、有権者が盲目的に支持しているので、小さな不正や不祥事があまり重要視されず、後々に大きな問題として顕在化する場合が多いためです。

橋下知事の場合は大きな負の遺産に当たるような問題は顕在化していませんが、私は、彼の独裁的リーダシップを見ていると、非常に危うさを感じます。

例えば、ワッハ大阪移転に絡む吉本興業への圧力は、ある種の公権力による財産権侵害(契約上の正当な利益の侵害)に至る可能性もあると思います。

そして、今回の反論メールに対する処分も、当初の彼の「言いたいことは何でも言ってくれ」という主張と反し、権威づけ、見せしめ的処分ではないかと感じるわけです。

組織における不祥事というのは、組織の長が積極的に関与する場合だけでありません。見逃してしまうことも多いわけです。そして、見逃したとしてもその責任は組織の長にあります。

そうすると、前述したような萎縮効果をもたらす今回の処分問題は、本当に、大阪府という不正や不祥事、無駄の多い組織を浄化させるという橋下知事の公約を実現させるうえで、本当に適切だったのかはわかりません。

今回の問題を有権者が接したときに、「メール内容が失礼かどうか」なんていう問題の上っ面だけで、今回の処分行動を評価するのではなく、彼の政治的リーダーシップの在り方や不正の温床に切り込む内部通報者制度の運用への影響など多角的な視点で評価することが大切だと思います。

為政者に対する監視を怠ったツケは有権者に必ず返ってくることは、人類の歴史上明らかなのです。

以下お勧めの図書ですが、中でも、3つ目の「国家」の下巻が一番良いと思います。

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10/07/2009

メディアの危機管理意識の低下(フジ、TBS、NHKの不祥事からの考察)

最近、テレビメディアを舞台とした不祥事が甚だしい。

まず、先日取り上げた、フジテレビのアナウンサー、長谷川豊氏の生放送中の不適切発言(卑猥なニックネームを連発したり、「こいつ」という見下し表現を連発したり、滝川クリステルさんを外人とののしるがごとき発言を行った)は、以前、このブログで取り上げたように、言葉を扱うアナウンサーとしてのプロ意識が著しく欠如した事件である。

こうした生放送における不祥事は、フジテレビだけではない。

ライブドアニュースによれば、10月3日にTBS系で放送されたテレビ番組内で、タレントの島田紳助氏が生放送中に若手芸人を恫喝したと思われるシーンが流れ、インターネット中で騒動になっているという。

島田紳助といえば、以前このブログでも取り上げたように、他人のマネージャーに暴行を加えたとして、大問題になったことがある。皆の記憶に新しいだろう。

事実上の前科(法的な意味の前科とは別)がある、芸能人が、社会的影響力のあるテレビの生放送中に、暴行事件を起こしていたとすれば、許しがたい問題であろう。

ただ、これにはマスメディアをはじめ、視聴者にも責任があるだろう。

2004年に女性に対する暴行という社会通念上看過しがたい事件を起こしておきながら、謹慎期間もわずか2カ月で、1,2年後には、それを不問に付すかのように、一切事実の経過は報道されず、テレビでも以前以上に高慢な姿を披露してきた。

私は今年の6月頃に指摘したのだが、それを許してきたテレビ局が第一義的に悪いにしても、その番組に疑問を持たず、思考停止して、面白ければ何でも良いという視聴者の側にも問題があるだろう。

素行の悪い人間、不祥事を起こした人間に対し、芸能人だというだけで甘すぎはしないだろうか。

いずれにしても、TBSは公共の電波を使い、ある程度視聴率の高い番組内において、ゴールデンタイムに、視聴者に違和感を持たれるような状況を生放送中に生じさせてしまい、世間を騒がせているのであるから、主要メディアとして、しっかり説明すべきであろう。

生放送にハプニングはつきものであるが、生放送中の司会者タレントによる共演者への暴行事件なんてあってはならない前代未聞の不祥事である。

そういう危機管理(日頃素行の悪いタレントは使わないとか、万が一の場合を常に想定しておくとか)ができないのであれば、生放送などをする資格はないといっても過言ではないだろう。

仮に、報道されている内容が事実で、単なる共演者の態度の問題で生放送中にキレて醜態をさらしていたとすれば、プロ意識の非常に低いタレントであり、そういうタレントを起用する番組のスポンサー企業に対する不買運動すら私は生じても良いのではないかとすら思う。

当事者間でその後争いがないとしても、放送倫理上、生放送中の暴行行為というのは、看過しがたい問題ではないだろうか。

最後に、NHKの不祥事にも触れておきたい。NHKが偏向報道だとして抗議している人々に対して、不問にするように働きかけるなどの行為を行ったという話である。

これについては、不問にする働きかけの度合いによるのではないだろうか。原告数が1万人という訴訟沙汰にも発展している事件なので、今後の推移を見守る必要があるが、仮に問題が生じているのにそれを隠すための働きかけをしていたとすれば、さすがに公共放送としての機能を営むNHKとしては、著しく不適切な行為だろう。 

和解交渉の範囲内での動きなのかどうかも考える必要があるが、現在の報道を前提にすれば、どうやら臭い物には蓋をするが如き動きのようで、偏向報道という問題に向き合う姿勢として、看過しがたい重大な問題があるように思われる。

いずれにしても、最近のマスコミは、不適切な問題をたくさん残していることはもちろん、それに対して真摯に向き合う姿勢が欠如しているように思われる。

フジにしても発言したアナウンサー本人の訂正や謝罪発言は聞こえないし、TBSはYoutube上にアップされた問題の動画を削除することには長けているようだが、生放送中の暴行行為という問題に対して真摯に向き合い、問題に対する説明責任を果たそうとする姿勢は垣間見ることすら現在のところできない。

NHKの働きかけが上記のようなものだとすれば、こちらも論外といってよいほど、不適切な対応である。

マスコミのモラルハザードが既に生じているのは知っていたが、企業として、公共放送としての危機管理の意識がここまで低いというのは、驚きですらある。

私はよく欧米と比較すると、日本には稚拙な面があると思うことがあるのだが、もしかすると、その稚拙さに寛容な土壌をメディアが作ってきたのかもしれない。

そろそろ成熟した社会のためにも、成熟したメディアへの改革を望む声が大きくなってもよいのではないだろうか。

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反省ナシ?紳助また傷害? 生番組で若手芸人へ鉄拳制裁
10月6日16時57分配信 夕刊フジ 

 TBS系で3日に生放送されたクイズ形式の特番「オールスター感謝祭」で、司会の島田紳助(53)が若手芸人に“鉄拳制裁”をしたとネット動画で話題になっている。

 問題のシーンは、スタジオでシルク・ドゥ・ソレイユが実演していた最中に流れた。

 クイズ回答者のタレントたちが並ぶひな壇の階段を上がった紳助が、お笑いトリオの「東京03」に詰め寄ってもみ合いとなり、周囲が止めに入る様子が映し出された。音声には「コラァ!!」という怒号も。放送後、映像はすぐに動画投稿サイト「ユーチューブ」にもアップされた。

 生放送中に、いったい何があったのか。番組関係者が明かす。

 「『東京03』は生放送が始まる前、紳助へのあいさつが不十分だったようで、番組中も、やる気がないように映った。紳助は日ごろから、お笑い芸人のしきたりや礼儀に厳しく、我慢できなかったようです。同じ吉本の後輩は、そんな紳助の性格を熟知していますが、事務所の異なる彼らはピンと来なかったのでしょう」

 その後も、スタジオ内ではテレビに映らない場面で、タレントの間にピリピリした空気が流れていたという。

 この騒動について、番組に出演していた漫才師、オール巨人は自身のブログで《(紳助は)何か少しカチンと来たのでしょうね。でも大丈夫ですよ。少し怒った後に打ち上げも一緒に行って最後は握手をしてハッピーエンド》とフォロー。

 「東京03」は、TBS系で放送された今年の「キングオブコント」で優勝した若手実力派だが、紳助には天狗になっているように映ったのだろうか。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091006-00000004-ykf-ent

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10/06/2009

イギリス司法の大転換

このブログの多くの人にとっては、あまり影響のないことだが、非常に歴史的なことなので、この話題を今日は取り上げてみたい。

イギリスで、最高裁判所が誕生したというのである。

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これはブレア政権時代から進められていた改革の一つで、私がイギリスにいた頃、まさに議論されていた話であったので、それだけに興味深い。

イギリスでは現在に至るまで、アメリカ合衆国憲法や日本国憲法のような成文化された憲法を作るべきではないかという議論がなされており、イギリス最高裁の誕生は、成文法憲法誕生に向けた第一歩となるのかもしれない。

初代長官はフィリップ卿(Lord Phillips)である。

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ただ、この写真は、貴族院が終審裁判所の機能を担っていた今年9月31日以前のフィリップ卿の裁判官としての正装姿であって、最高裁でもこうした伝統的な格好をするのかは不明であり、その点も注目したい。

日本の最高裁判事は15人だが、イギリスは11人により構成される。なお、アメリカは9人である。

BBCによれば、イギリス最高裁が扱う最初の事件は、民事事件で、テロリストを支援していた容疑で逮捕され、刑事事件で係争中の原告Xら5人は、英国財務相によりXらの資産が凍結されたことが、人権(日本でいう憲法29条の財産権)の侵害であると主張しているようである。

おもしろいのは、イギリスには日本のような憲法典が存在しないため、どの条文が争点になっているという説明ができず、漠然と人権侵害という主張になっているのである。

本件の争点は、政府に凍結権限があるのかどうかなのであるが、2006年に凍結権限をイギリス政府は行使しているが、その根拠づけをおこなう国内法は存在しておらず、国際連合の安保理決議がその根拠になっていると、被告である国側は争っているようである。

日本ではある意味、負け筋の国際法を持ち出した漠然とした国側の主張なのであるが、不文法ならではのイギリスにふさわしい(?)事件のようにも思える。

600年近い伝統のあるイギリスで、これだけ抜本的な改革ができるのであるから、日本でも本格的な司法改革が必要だろう。

もともと民主党は2001年頃に、開かれた司法や法曹の一元化などを提唱して、現在の法曹人口年間3000人という政府の政策よりも3倍以上の数を掲げていたのであるから、それを踏まえて、しっかり既得権益打破に努めてもらいたい。

ちなみに、イギリスとアメリカは異なり、訴訟社会というイメージは比較的少ないが、弁護士の数はかなり多い。実際、それほど訴訟社会ではないが、司法へのアクセスは容易であり、日本のように「先生」とお世辞でも崇められる存在ではない。

弁護士が増えれば訴訟社会になるというのは、思い込みにすぎない。

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英、1日に最高裁誕生=上院と分離「司法の新時代」に
 【ロンドン時事】英国で1日、最高裁判所が誕生する。同国では過去600年以上にわたり議会上院が最高裁の役割を果たしてきたが、立法と司法の機能を明確に区別すべきだとの声が高まり、6年前から新設が検討されてきた。審理の様子がテレビ中継されるなど、伝統を重んじてきた同国の司法の舞台は様変わりしそうだ。
 新しい最高裁は、ロンドン中心部の国会議事堂の向かいにある建物で活動を開始。旧最高裁判事を兼務していた上院議員ら12人が判事を務めるが、正式任命後は全員議員職を離れる。「開かれた司法」を目指し、メディアからの要請に応じて審理内容を公開するほか、訴訟手続きなどについて説明する専用ウェブサイトも特設された。(2009/09/30-20:12

http://www.jiji.com/jc/zc?k=200909/2009093001020&rel=y&g=int

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10/05/2009

法曹の質の低下の問題に対する考察

法曹人口の増加により弁護士の質が低下しているという話があるが、法曹人口の増加に関わりなく、既存の法曹界全体の質が低下しているのであって、そのツケを若い弁護士たちに押しつけているのではないかと感じることがある。

メディアの社会部もこうした問題について上っ面な批評しかしない(実際には十分な知識がないため、できないというのが本当のところかもしれない)。

そもそも、質の低下といっても、2種類ある。

1つは、既存の弁護士による不祥事の増加に関わる質の低下。

もう一つは、新規参入者(法曹人口の増加時代の人々)の知識的な問題としての質の低下である。

しかし、多くの場合に、これらを全く同視して、「質の低下」と論じることはいささか問題の本質を見誤らせるのではないかと危惧している。

まず、前者の問題については、弁護士をはじめとする専門職における職業倫理意識の低下とそれに対する実効的制裁の欠如が、以下の記事にあるような状況を招いているのではないだろうか。

特に、懲戒権を弁護士会に委ねる現在の弁護士自治には限界があるように思われて仕方がない(司法書士の場合は、司法書士法48条により管轄する法務局に懲戒権限あり)。

実際に、普通の労働者であれば、戒告などでは済まないような悪質な事例も戒告止まりだったりすることはよくある。1回の悪質な行為も、せいぜい業務停止数か月が良いところで、悪質な行為を数回繰り返して初めて退会命令なり、除名処分がやっとでるというのが懲戒処分の相場である。

最近は、一部の弁護士会で、悪質な事例において、厳しい処分を加える傾向が増えつつあるが、やはり身内同士での懲戒には限界があると言わざるを得ない。

また、このインターネットの発達した時代にあっても、懲戒処分は、一般人であれば誰も見ていないような官報や日弁連発行の「自由と正義」という雑誌にしか掲載されず、自分の依頼する弁護士の過去の懲戒状況が一目でわかる状態にはない。

懲戒処分の効力を失った過去の事例については、有志の方が作ったインターネットブログ、「弁護士と戦う」などでしか確認できないのである。

従来のように、入口を狭くして、一度司法試験に受かってしまえば、後は性善説に立って、どんな大きなミスでもよっぽどのことがない限り、退会や除名という処分には至らないという身内の論理はもはや通らないのではないだろうか。

やはり、私見としては、懲戒権を裁判所なり、行政はもちろん弁護士会とは独立した機関に委ねるべきと思うのであるが、なかなかそういう発想には弁護士自治にこだわる業界の論理では、受け入れられないだろう。

ただ、社会通念からすれば、弁護士というのは法律業務をある種独占できる地位にあるわけで、社会的権力になりうることからすれば、その身分の規律を身内に委ねるのは、権力の均衡上、問題があるのではないだろうか。

私は、司法の独立を確保するために、憲法上、特に裁判官に保障される身分保障とは、わけが違うのであって、弁護士に厚い身分保障を与える必要はないと思う(裁判官は司法、立法と時に対立しなければならないのであり、身分保障は与えられるべきだろう)。

次に、後者の問題については、確かに、「相殺の抗弁が提出された場合に、引換給付判決となる」というような解答が司法試験を通過した司法修習生の卒業試験である司法修習生考試(通称、二回試験)において、なされたという話は聞く。

相殺が債権の消滅原因であるという根本的な民法の理解ができていない解答であり、確かに、質の低下が危惧されるところである(もしかすると、同時履行の抗弁と勘違いしていたのかも知れないが、それはあまりにもお粗末な勘違いであろう)。

ただ、こうした見当違いの解答をする人間が通ってしまうことを問題視して、合格者人数を減らせという論理はいかがなものであろうか。

一定の法的素養があるのであれば、司法試験段階では合格としておいて良いのであって、修習生になった後の二回試験段階で、最終的に、それでも基礎知識の欠如が著しい者を排除すれば良いだろう。

実際、司法修習生には公務員として月約20万円の給与が支払われるのであるから、この期間に遊ばせていること(最近は就職活動期間になってしまっているとの指摘もあるが・・・)が問題なのであって、司法修習をする意義は実務家としての基礎知識を身につけることであるとすれば、この二回試験を厳しくして、質の低下の歯止めをかければよい。

司法試験以上に、二回試験に向けて勉強をさせるというスタンスが本来の制度目的に適合しているのではないだろうか。もし司法試験で厳格化するというのであれば、司法修習期間そのものが不要という話になるだろう。

しかし、法科大学院には教育の質にばらつきがあるのであって、だとすれば、司法試験を一定の法的素養があるとして通ったのであれば、二回試験を厳格化することで、あとは修習期間中に合格者がいかに勉強するのかという自己責任の問題とすれば、質の確保はできるだろう。

司法試験に通ったからといって、ご褒美のハネムーン期間を1年与えてしまっているのが問題なのではないだろうか。

実際、就職難が指摘されているが、弁護士だから弁護士事務所に入らなければならないこともないだろう。有資格者であっても、一般社員と同等の地位で、通常の会社に対して就職活動をすれば良い。

なにも、弁護士だからと優遇される必要はないだろう。イギリスやアメリカは有資格者であっても、日本のような「先生」扱いをすることはあり得ない。

待遇を良くすべきなのは、その人物が弁護士だからではなく、その人物が優れているからであるはずである。

この問題に限らず、地位をもって優秀とみなすという国民文化が官僚をつけ上がらせるし、既得権益による甘い汁を吸わせることを許してきたのではないだろうか。

もちろん、法科大学院側の問題を見直すことも重要だが、「法曹の質の低下」の問題が既存の弁護士の既得権益を確保するために、新規参入者阻止という話になると、最終的に不利益をこうむるのは、司法アクセスが容易でない一般国民ということになるのであって、そうした動きを国民は注視する必要があるだろう。

今回の過払い金事例に関するトラブルは、「法曹の質の低下」は法曹人口の増加という要因が諸悪の根源ではない、別途の理由が存在することを示している良い事例だろう。

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過払い返還請求トラブル急増…日弁連が異例の指針
10月4日9時3分配信 読売新聞

 払い過ぎた借金の利息を取り戻す「過払い金返還請求」が全国で相次ぐ中、返還請求者と代理人となる弁護士や司法書士との間で、トラブルが増えている。

 多重債務者からの相談に対し、報酬が確実に見込める過払い金回収しか引き受けない弁護士や、返還金の9割近くを報酬として不正に受け取った司法書士も。日本弁護士連合会(日弁連)は、過払い金回収だけの受任はしないよう求める異例の指針を公表。民間団体も悪質な司法書士の実態調査に乗り出した。

 日本貸金業協会の調査によると、会員業者が過払い分として債務者に返還したり、元本から差し引いたりしたのは2006年度が5535億円、07年度が9511億円にのぼった。返還請求者の9割に弁護士や司法書士がついていたという。

 一方、請求者と代理人との間でのトラブルも多い。ある消費者金融業者の代理人弁護士は「報酬は過払い分の2割弱が相場だが、なかには3割以上の報酬を求める弁護士らもいる」と打ち明ける。

 神戸の男性司法書士は昨年、多重債務者に約195万円の過払い金が返還されたのに、約170万円もの報酬を受け取っていたことが発覚。多額の報酬を不正に受け取ったとして監督する神戸地方法務局から業務停止2年の懲戒処分を受けた。

 日弁連の多重債務対策本部によると、東京都内のある弁護士は東北地方で過払い金回収などの相談会を開くCMをラジオで流した。仙台市の会場で自己破産を希望する参加者に対し、「地元の弁護士にお願いしなさい」と拒否。ほかにも複数ある借金のうち、過払い金が発生する分だけ受任する弁護士についての苦情が寄せられているという。

 日弁連は7月、「債務者の意向を十分に配慮する」「ほかに債務があるのに合理的理由なく過払い金回収だけを受任しない」などの指針を公表した。

 多重債務者の支援団体「大阪クレジット・サラ金被害者の会」(いちょうの会、大阪市北区)には昨年夏頃から、司法書士らに「ヤミ金融から借りている分は受けない」と断られた相談者が目立ち始めた。回収が困難で報酬も期待できないためとみられる。

 同会は5月から「悪徳司法書士」の被害を調査。テレビCMをしている大手司法書士事務所などについて、「過払い分がないので断られた」「返ってきた金額と報酬の内訳が不透明」などの苦情があるという。

 全国クレジット・サラ金問題対策協議会の代表幹事で指針づくりに携わった木村達也弁護士の話「債務者を借金漬けの状態から解放し、健全な生活を取り戻させるために過払い金回収を活用しなければならない。ヤミ金や他の債務整理を受けず金もうけにまい進する一部の人たちの姿勢は情けない。プロとしての自覚を持ってほしい」

 ◆過払い金返還請求◆

 消費者金融業者などは従来、出資法の上限金利(年29・2%)と利息制限法の上限金利(年15~20%)の「グレーゾーン金利」で融資する場合が多かったが、05年以降、最高裁がグレーゾーン金利を実質的に認めない判決を言い渡したり貸金業者が債務者の取引履歴の開示義務を負うとの判断を示したりしたため、返還請求が急増。来年にはグレーゾーン金利は撤廃される見込み。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091004-00000066-yom-soci

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10/03/2009

品位のかけらのないフジテレビアナウンサー(下劣な発言を生放送で行う)

タイトルどおり、フジテレビのアナウンサー長谷川豊は品位の欠片もない発言を公共の電波を使って行っている。

仮にもフジの平日朝のとくダネで、コーナーを担当したり頻繁に政治ニュースを扱う人間が、「こいつ」とか、「○○○○番長」とかいう卑猥な言葉を生放送なのに連発しているだけで、不快感を感じる。

いくら先輩とはいえ、34歳程度の若輩者が偉そうに、「こいつ」というのはどうも聞き苦しいし、不快である。名前を知っているのだから名前を呼べばよいし、団塊の世代の小倉智明氏だって、「中野」とか、「京子ちゃん」とか、「笠井くん」というのに、「こいつ」という表現自体、不適切であろう。

しかも、子会社(共同テレビ)のアナウンサーだった滝川クリステルさんを見下しているのか、彼女は日本国籍を有する立派な日本人であるにもかかわらず、「外人」と吐き捨てるかのように評している。

馬脚を現すとはまさにこのことで、日頃偉そうに政治家に対しいろいろ注文をつけ、麻生太郎前首相の失言などを取り上げたりしている人間が、このような節操のない発言を生放送で、発言していること、それを許しているフジテレビに体質に大きな問題があるのではないだろうか。

私は、外人という表現が差別かどうかという話をするつもりはない。

むしろ、私が問題としているのは、明らかに日本人である滝川クリステルさんの風貌を捉えて、吐き捨てるかのように、「外人」という言葉を浴びせ、ニュースの読み方が下手とののしるかのような発言方法が、その言語の意味にかかわらず、差別的な印象を与えるし、キー局アナウンサーでない人間を見下しているかのような姿勢にとらえられることを問題としているのである。

アナウンサーという言葉の重みを一番認識すべき職業にある人間で、しかも全国放送にたびたび登場するキー局の中堅局アナがこのように下劣で、これを許している風潮は、まさに、マスメディアの低俗化を示す良い例であろう。

本人が謝罪コメントを発表する予定はないというが、言葉を職業としているものとしての自覚がなさ過ぎではないだろうか。自分の発した発言は、自分で責任を取るべきで会社に守ってもらっていることがおかしな話である。

自覚がないアナウンサーはテレビ画面に出てほしくない。とくダネを降板すべきだろう。

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滝クリを「外人」と差別発言 フジテレビアナに批判集中
10月1日20時5分配信 J-CASTニュース

 人気キャスター滝川クリステルさん(32)をフジテレビの長谷川豊アナウンサー(34)がテレビ番組で「外人」と呼んだことが、「差別発言だ」として問題になっている。フジテレビも不適切な発言だったことを認め、「すぐに訂正すべきでした」といっている。

■「この間までやってた外人よりずっと上手い」

 問題の番組は2009年9月26日に生放送されたフジのCS局のバラエティー「フジアナスタジオ まる生2009」。フジのアナウンサーが本音と脱線トークで盛り上げる番組で、フジのCS放送の看板になっている。この日は「ニュースJAPAN」のキャスター交代の話題を取り上げ、長谷川アナが新キャスターの秋元アナをこんなふうに紹介した。

  「こいつも、あのー、この間までやってた外人より、ずっと上手いですからね。あの、ちゃんと現場の事よくわかってますし。よく取材に行って、勉強してますから。こいつのニュースJAPAN、たぶん良いと思いますよ」

 「外人」というのは、キャスターを降板した滝川クリステルさんのこと。この長谷川さんの発言部分が動画投稿サイト「ユーチューブ」にアップされ、「2ちゃんねる」などの掲示板が問題視したことによって騒動に発展。09年10月1日には大騒ぎになった。もともと「ニュースJAPAN」の看板キャスターだった滝川さんの降板に異議を唱えるファンが多かっただけに、ネットでは、

  「降板する人に対して何で差別発言しているの」
  「おれのクリステルをけなすやつは許さない」

などと騒然となった。

■「すぐに訂正すべきでした」と番組運営部

 フジテレビワンツーネクスト運営部によれば、この番組は出演したアナウンサーに様々な出来事をフランクに話してもらうという構成。長谷川アナは滝川さんを攻撃するという思いはなく、いろんなフジの女子アナを紹介しているうちに出てしまった言葉だと説明した。フジテレビのアナウンサーはみんな仲が良く身内意識が強い。そうした中で行き過ぎた発言が出てしまった、とし、

  「外人は不適切な発言であり、この発言が出たときにすぐに訂正すべきでした。番組の制作サイドも反省しておりまして、番組の視聴者や不快になられた方に本当に申し訳ないと思っています」

と話している。ただ、長谷川アナの謝罪の予定はないという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091001-00000001-jct-ent

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10/02/2009

国際的PR力のある人材の発掘を(東京オリンピック誘致問題を題材に)

今日は、鳩山首相がコペンハーゲンに出発したというニュースがあったので、2016年の夏季オリンピックを題材に日本の国際的PR力の欠如という問題を取り扱ってみたい。

そもそも、東京でのオリンピック招致につき、一部賛否があるようではあるが、今日はその妥当性の問題は置いておき、日本の国際的PR力、とりわけ政治的発信力の弱さについて、私見を紹介しよう。

今回、鳩山首相が誘致に赴くことになった以上、国家元首クラスが登場するIOCの舞台で、国家の代表が自国での開催に自信を持って誘致を行うわけであるから、誘致が成功することにこしたことはない。

しかし、鳩山首相を含め、日本の政治的リーダーには、国際的なPR力が著しく欠如していると言わざるを得ず、東京オリンピックの実現は難しいだろう。

これは英語ができるか、英語が上手いかといった話だけではない。

国際的PR力とは、国際的に広く認知されている共通言語を駆使して、聞いている人に訴えかける能力だと私は定義する。

つまり、英語など世界中で一番多くの人が認知できる共通言語を話せることはもちろん、それを使ったスピーチ力、プレゼンテーション能力が求められるのである。

しかしながら、日本の政治的リーダーのほとんどが非常に内弁慶的な性格が強く、日本国内でしか通用しない手法や思考で、国際的な交渉を行っている点に問題がある。

例えば、オリンピックの誘致の旗振り役である石原都知事である。

東京という世界有数の大都市のリーダーであるが、同じ世界的都市のニューヨークの治安を安定させ、テロで混乱するNY市の早期復興で脚光を浴びたジュリアーニ前NY市長に比べると、彼には、国際的舞台で通用する品位もなければ、能力もない。東京という潜在的能力の高い地域を十分に発展させ、治安を維持するだけのリーダーシップもなければ、カリスマ性もない。

彼は単に団塊の世代に人気だった芸人、石原裕次郎という弟の知名度と、小説家としての知名度で、政治家をしているのであって、決して政治的リーダーとしての資質を備えているから、東京という巨大都市の長の座に君臨しているわけではない。

なぜ、私がここまで、石原都知事を低く評価するのか。

それは彼が典型的な内弁慶的で、明確なヴィジョンのない政治家であり、東京という資源豊富な潜在能力の高い都市を有効活用できていないためである。

まず、内弁慶ということであるが、これはより分かりやすく言うと、根拠のない自信に満ち溢れており、高慢で、日本国内では威張り散らしている一方で、海外の政治的リーダーと渡り合えるだけの度胸もなければ器量もないこととここでは定義しておこう。

石原都知事は、以前に「Noといえる日本」という時代錯誤も甚だしい、エッセイを書いていたことがある。

彼は、それに代表されるように、事あるごとに、「日本は素晴らしい」と根拠のない自信を振りかざし、「アメリカはろくでもない」とか「フランス語は数を数えられないから国際語失格」とか意味不明の高慢な主張をしている。

しかし、我々は、石原都知事が自ら「フランス語は国際語失格」と言い切れるほどの優れた外国語能力を駆使して、東京の素晴らしさを国際的にアピールしている姿を一度でも見たことがあるであろうか。

この問いに対し、おそらく彼ならば、日本人なら日本語でアピールすれば、十分と反応するだろうし、彼を支持する人々にもそういう非常に短絡的かつ内向きな思考をする人が多いだろう。

しかし、東京という世界有数の国際都市の長である人間が、英語すらろくに話せないというのでは情けないし、国際的政治舞台では、英語の話せない人間ははっきり言って蚊帳の外である。

今回のIOC総会のロビー活動にも、通訳をつけて臨んでおり、海外メディアには通訳を通して回答していたが、これではIOCの理事に「熱意」が伝わるはずがない。

従来型の金権体質から脱却を目指しているIOC総会においては、日本の古い接待の手法は今や通用しない。

投票権のある理事がが認識できる言語で、立候補をしている国や都市の政治的リーダーが熱いメッセージをただ読みあげるのではなく、スピーチ力とプレゼンテーション能力を駆使して、訴えなければ、誘致合戦に勝利することは、およそ無理な話である。

石原都知事も、これだけ東京オリンピックの誘致に税金と力を入れているのであろうから、ただニコニコと自己満足的な握手をするだけで終わったり、通訳なんか使ったりせず、少なくとも本番のごく短い数分間のプレゼンテーションでは、立派な英語力はもちろん、それを超えたスピーチ力を世界中に見せてくれるのだろう(皮肉をこめて)。

次に、今回期待が集まっている鳩山首相についても言及しておこう。

鳩山総理も、前任の麻生総理も、英語能力は既存の他の政治家に比べればある。

しかし、以前にも指摘したが、彼らには、英語で訴えかけるというスピーチ力やプレゼンテーション能力が十分に備わっているかは、国際基準からするといまいちである。

以下の動画はトニー・ブレア英国前首相が、環境問題を語っている姿であるが、使っている言葉が非常にダイレクトであり、かつ、表情やジェスチャー、言葉と言葉の間の間合いなどあらゆる表現力を適切に使っている。

この訴えかける姿は、その言葉と相まって非常に説得的であるし、惹きつける力がある。

また、以下の動画では、より迫力のある演説力で訴えかけており、なるほど、これが政治的リーダーのアピール力だと思わされる。

政治的リーダーにとっては、英語をはじめとする外国語はただ話せるだけではだめで、このように、訴えかる表現力が必要である。

私はこのブレア前首相のスピーチの上手さは、単に、ネイティブだからではないと思う。彼の類い稀な弁論能力の高さによるものである。

日本にはこういった弁論能力やスピーチ、プレゼン力の高い政治的リーダーが極度にすくない。世界の顔になれるリーダーがいない。

今回のIOC総会を機に、日本の政治的リーダーと海外の政治的リーダーのスピーチ力の違いなどに着目して、日本の国際的PR力の欠如という問題を考えてみてはどうであろうか。

最後に、国際的PR力の欠如の例として、海外では無名の日本の芸能人ばかりを招致大使に起用していることにも言及しておこう。萩本欽一や間寛平などを知っている外国人はほとんどいないだろう。

オリンピック招致そのものが失敗しても日本の国際的PRになれば、立候補した意義はあるだろうが、このような内向きな有名人起用では、それすら期待できない。

そもそも、国際的に通じる有名人(スポーツ界ではイチローくらいのものだが野球はオリンピック種目から除外されてしまったし出る幕はなさそうだが・・・)を含めて日本は人材発掘が遅れているのかもしれない。

テレビでは、北野武氏を使うべきという声などがあったが、これも見当違いだろう。

彼はフランスやイタリアなどでは映画監督として賞を受賞しているが、局地的な知名度でしかない。以前イギリスが起用したベッカム選手や、スピルバーグ監督、ジョージルーカス監督、ティムバートン監督など他の有名映画監督と比べると、まだまだその知名度は日本人が思っているほど低くい(おそらく、渡辺兼の方が知名度は高いかもしれない)。

そう考えると、国際的に通じる人材というのは日本では非常に限られている。

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16年夏季五輪 「必ず勝てる」招致へ意気込み…石原知事
10月1日21時50分配信 毎日新聞

 【コペンハーゲン江畑佳明】16年夏季五輪開催都市決定を前日に控え、東京オリンピック・パラリンピック招致委員会は1日、決定前最後となる記者会見を行った。石原慎太郎・東京都知事は「選手にとって一番好ましい環境が東京だと自負している。国際オリンピック委員会(IOC)委員が冷静な判断をしてくれれば、東京は必ず勝てる」と意気込みを語った。

 会見で石原知事は「いよいよ明日は決戦の日。我々は一生懸命努力してきた」とこれまでの招致活動を総括。「エモーション(情熱)が足りないと言われるが、子どもや孫にいい環境を残したいという思いが一番のエモーションだ」とも語り、改めて環境を重視する東京の開催計画をアピールした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091001-00000019-maip-soci

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10/01/2009

夜の楽しみが1つ消えた日

ちょっと話題としては、遅いが、どうしても、言いたいので、今日はこの話題から。

フジテレビのニュースJAPANの顔の一人、滝川クリステルさんが25日の放送をもって降板された。

これは私にとっては非常に衝撃的で、夜のニュースとしては、小谷真生子キャスターが務めるテレビ東京のワールド・ビジネス・サテライト(WBS)のとともに、とても楽しみにしていたのだが、その楽しみが1つ減ってしまった。

フジテレビのニュースJapanにおいて、滝川クリステルさんは、家族の介護で番組を休まれることが多かった松本方哉キャスター(7月27日に降板されたとのこと)とともに、なんとなく上質のニュースという雰囲気を醸し出しており、落ち着いた気分で見れる唯一のニュース番組だったように思う。

もともと、滝川クリステルさんにはそれほど興味があったわけではない。当初はワシントン支局などで活躍された松本方哉氏がキャスターを務め、日本の報道番組には珍しく、アメリカのABCニュースの記者や政治部長を番組に登場させて、アメリカ側の視点で、様々な問題を取り上げる「Inside America」など海外の話題を深く取り上げることが面白く、ニュースJAPANの価値はその差別化にあると思っていた。

クリステルさんも単なるお飾りのキャスターではなく、松本キャスターが家族の介護のため、番組を休まれている間もしっかりとメインキャスターとしてニュースをさばき、浮ついていない重みのあるニュースの読み方をしており、私は非常に感心していた。

個人的には、ABCニュースの政治部長だったマーク・ハルペリン(Mark E. Halperin)氏が2007年5月に同職を退いてからは、多少、Inside Americaも本来の趣旨である、アメリカの内側からの視点という部分が薄れ始め、松本方哉キャスターが番組を休んでいることもあって、ニュースJAPANの存在価値が揺るぎ始めたように感じるが、それでも、クリステルさんの安定感がニュースJAPANを支えていたように思う。

そんな中、7月末には、松本方哉キャスターの降板が発表され、9月25日には、滝川キャスターが降板。

これで、私の中でのニュースJAPANの存在意義が完全になくなってしまったのである。

後任も、私個人は全く知らない、印象もいわゆる典型的な女子アナで、いくら不景気とはいえ、あまりにも、「Inside America」というコーナーで鳴らしていたニュースJapanにとっては役不足の感が否めない。

しかも、松本キャスターに代わる存在感ある国際派のアンカーは置かないようであるから、まったくもってこの番組に見る価値はなくなってしまったというのが正直なところである。

今後は、逆に、テレビ東京のWBSを集中して見られる(チャンネルを付け替えて内容確認をしながら見なくてもよい)わけだが、日本のニュース番組から良質の番組が消えていくのは残念で仕方がない。

松本方哉氏やクリステルさんが築いたニュースJAPANのようなに、既存の番組とは差別化を図った報道番組が増えることを望んでやまない。

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