失ってからこそ気づく価値 ― 大山のぶ代さんが伝説の声優第1位に
基本的に、オリコンやビデオリサーチなど既存の芸能メディアが行う視聴率や調査みたいな情報は、あまり好きでなく、信憑性を疑って見ていることが多い私であるが、今回、このランキングには納得という言葉以外出てこない。
「この声優なくして、このアニメなし」という伝説の声優がいるかという質問で、26年間ドラえもんの声優を続けた大山のぶ代さんが第一位にランクインしたという。
ドラえもんは、私にとっても思い出深い作品で、大人になったとはいえ、テレビ朝日による世代交代という暴挙(私は少なくともそう感じた)により、大山のぶ代さんの声がドラえもんの声として聞けなくなるとのニュースを聞いた時は、非常に寂しさを感じた。
ヤフーなどのコメント欄を見ていると、やっぱりドラえもんの声は大山のぶ代さんしかいないというようなドラえもんからの引退を惜しむ声が多く見受けられた。
多くの大人はドラえもんを今見たいと思っているわけではないだろうが、ドラえもんは26年間も全く同じ声優陣で続いたきただけに、自分の子供たちにも自分が見て来たアニメと全く同じ声優陣で語り継いでいきたかったという人々も多かったのではないだろうか。
以前にもブログで、ドラえもんという作品の凄さと大山のぶ代さんの話をしたことがあり、そこでも触れたのだが、私は、2005年の声優交代とその後のドラえもんの作品のあり方が、大山のぶ代さんのドラえもん像の下で育った世代には違和感をもって受け止められていることも、今回の「この声優なくして、このアニメなし」というランキングで1位にさせた要因なのではないかと思う。
もちろん、大山のぶ代さんの功績が素晴らしいという話が前提なのだが、この点、私たちが見て来た藤子・F・不二雄先生と大山のぶ代さんのドラえもんの世界と言うのは絶妙な社会風刺がされており、漫画やアニメというサブカルチャー的なものというより、教育教材としての要素もある良質の映像作品だったと私は評価している。
そこで、今回はドラえもんの映画作品をいくつか振り返りながら、藤子先生はもちろん、声優、大山のぶ代さんあってのドラえもんだと思うことを再認識したい。
1.バブルへの警鐘も織り込む ― のび太の日本誕生
具体的に例示すれば、ドラえもんの映画史上最多の観客動員数を記録した映画「のび太の日本誕生」が公開された1989年頃(公開は3月)は、冷戦の終結期であり、その年の12月3日には、ソ連のゴルバチョフ書記長とジョージ・H・W・ブッシュアメリカ大統領とのヤルタ会談により冷戦が終結したという時代背景があった。
そういう冷戦終結に至る時代背景下で作られた同作品は、のび太たちが家出をしようにも空き地も山奥もすべて、誰かに所有権があるため、家出ができず、スネ夫が、「こんなのおかしいじゃない。後から来た人間が勝手に自分の土地にしただけじゃん」という指摘をするところから人間がまだ日本にいない時代に行って家出しようという形で物語が展開し、ドラえもんやのび太たちは、太古にユートピアを作っていく。
おそらく、作者の藤子先生はそこまで意図したわけではないと思うが、私はこの作品の中にある種の戦争や領土争いをはじめ、当時の日本における土地バブルに対する皮肉が込められている気がしてならない。
つまり、同作品の最初の方に出てくる、「どこへ行っても自由な土地がない」という部分については、バブル最盛期だった1988年、1989年の日本人の土地に対する異常な過熱ぶりを皮肉にしており、同作品の後半の展開で、未来から来た犯罪者が大昔の人を使って世界征服をしようとしているという話がでてくる部分では、いつまでたっても人間が征服欲を抑えきれず、奴隷化して、欲望を満たそうという戦争や弾圧への批判が込められていると感じるわけである。
さらに、同作品では、自分の育てたペットと別れを惜しむのび太のペットへの愛情なども描かれており、バブル期に乗じて買われたペットが捨てられるなどの問題に対する皮肉が込められているのではないだろうか。
このように、藤子先生により作られ、大山のぶ代さんが演じたドラえもんには、単なるアニメとしての面白さ以上に、子どもへの教育教材としての価値があったと思う。
2.環境汚染の怖さを伝える ― アニマルプラネット、雲の王国
その後に作られた、「ドラえもんのび太のアニマルプラネット」(1990年公開)では、動物たちと人類との対比によって、より明確に、人間の自分勝手さと環境汚染問題をいち早く取り上げ、警鐘を鳴らしている。この作品の中では、太陽エネルギーや地磁気エネルギーなどクリーンエネルギーの紹介が随所にみられ、この時代にこれだけの発想をもって、クリーンエネルギーの利用を謳っていることに驚きすら感じる。
映画の中では、ニムゲという人類型の宇宙人の文明が核戦争によって滅びたという話はもちろん、のび太のママの口から、地球においても一年で日本の半分の土地に当たる森林が伐採され、砂漠化していることなどが指摘されており、この時点での鋭い環境問題に対する考察はすばらしく、現在でもこの作品には教育教材として高い価値があるだろう。
「ドラえもんのび太のドラビアンナイト」(1991年公開)では、多少メッセージ性は弱められたものの、アラビアンナイトの世界を舞台に、年老いたシンドバットのキャラクターを通じて、時には戦う勇気が必要であることや諦めない心などをのび太が説くシーンなどがあり、これも教育教材としての価値が高かったように思う。
さらに、1992年公開の「のび太と雲の王国」では、天上人がいるという設定で、地上の人間によって絶滅させてしまった動物の保護や環境破壊をテーマにして、地上の人間のあり方を激しく批判するシーンがあるなど、環境問題に対していち早く警鐘を鳴らしていたように思う。もちろん、1990年の「アニマルプラネット」でも取り上げられていたが、「雲の王国」では、より具体的な地上世界の人間(我々)の環境破壊に対する功罪を鋭く突いていた。
この作品で非常に印象深く残っているのが(自分でもブログを欠いててスイスイでてくることに驚いているのではあるが)、天上人に地上人であるのび太やしずかちゃんが非難され、地上を洗い流す計画の是非が問われているシーンで、しずかちゃんが素直に人間の過去の過ちを認め、自分たちがこれから変えていくというのでもう少し待ってほしいと訴えるシーンと、ドラえもんが自らの命を犠牲にして、地上人の天上国破壊を止めさせるシーンである。
こうした藤子先生や大山のぶ代さんをはじめとするドラえもん旧声優陣の新しい世代に対するメッセージと期待は、この映画を見た子どもや大人も強く心に残っているのではないだろうか。
ここまで見て来ただけでも、ドラえもん作品の教育教材としての質の高さは解っていただけるだろう。
他にも、1993年公開の「ブリキのラビリンス」では、機械に頼りっきりになっている人間を題材にし、利便性ばかりを追求する我々の現代社会への反省と警鐘という強いメッセージが込められている。携帯電話やパソコン、ワンタッチの便利な機械に慣れてしまっている今の我々には、それがなければ生活が困難になってしまっているという点で耳の痛いところではないだろうか。
そして、こうしたドラえもんの作品を多くの子供や大人に広めたのは、もちろん、藤子先生の作品の高さというのもあるが、やはり、ドラえもんというキャラクターに対する国民的な愛着を可能にした、声優、大山のぶ代さんの存在なくしては、語れないだろう。
3.失って気がつく価値
さて、当初から、まだまだ現役で行ける声優陣が、ある意味、テレビ朝日の一方的な形で、引退に追い込まれたという進生がぬぐえない、世代交代が起きてから4年ほど経ったが、新たな声優陣には悪いが、ドラえもんは改悪されたといっても過言ではないだろう。
結局、26年間大山のぶ代さんらとともに気づかれてきたアニメドラえもんにおける藤子先生の世界観がやはり悪い意味で壊されてしまい、作品全体がチープになったような印象を受ける。
これは、以下の記事が掲載されているヤフーのコメント欄などを見ても同じような意見を持っている人が多いようである。
もしかすると、年月が経てば、新しい声優陣も定着するという反論もあるかもしれないが、仮にこのような意見をもってテレビ朝日が世代交代を進めたとすれば、大きな誤りだと私は思う。
なぜならば、大山のぶ代さんのドラえもんが愛されたのは、単に長くやっただけではなく、彼女が様々な形で思考錯誤して、国民に愛され、親しまれるドラえもんのキャラクターを構築してきたからであり、そこには、確固たる理念があったはずだからである。
例えば、のび太をジャイアンがいじめるときも、「のび太のくせに」とか、「こんにゃろー」とか何となく愛らしい言葉を使うように声優陣は気を使っていたといわれている。また、ドラえもん自体も大山さんがかなりそのキャラクターに温かみを持たせるために、「僕」という一人称を使ったという話も出ている。
こうした努力があったからこそ、大山のぶ代さんのドラえもんが愛され続けて来たのであろう。
やはり、多くのドラえもんを知る人も(もしかすると世代交代を進めたテレビ朝日も)、大山さんの声を失って初めてその貴重な存在を再認識したのではないだろうか。
だからこそ、今回のランキング調査で大山のぶ代さんが他ならぬ1位に選ばれたのだと思うのである。
世代交代から4年たっても、未だに違和感があると言い続ける人が多いのは、新しい声優陣が大山のぶ代さんらが藤子先生の作品を微修正し、アニメという大衆文化向けに、築き上げてきた国民に愛されるドラえもんの世界観を崩してしまったことに問題があるのであろう。
「大山さんの声以外は、自分の親しんだドラえもんではない」という抵抗感を払しょくするのは、大山さん以上の努力が新しい声優陣に求められるということなのかもしれない。
いずれにしても、やはり、テレビ朝日の性急な世代交代の動きや芸能人の声優化による作品のレベルの低下は、大山さんのドラえもんに慣れ親しんだ我々視聴者にとっては、看過しがたいものであったということだろう。
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