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June 2009

06/30/2009

海外メディアが見る現在の日本の政治状況

日本の政治というのは、あまり海外から注目されないので、外国人記者が書いた記事というのは見つけるのもなかなか苦労する。

今回は、現在の日本の政治状況を海外の記事はどう伝えているのか紹介しようと思う。

まず、アジアタイムズ電子版の6月20日付記事は、オーストラリア、アデレード大学のPurnendra Jain教授の記事で、「さよなら自民党、こんにちは民主党」と題して、現在の日本の政治状況を紹介している。

この記事が面白いのは、1993年の自民党の衆議院選敗北と非自民による細川政権誕生の時と2009年の現状を比較し、現状の野党である民主党が政党としてより強固ものになっていると指摘している点である。

例えば、1993年の時点では7つの政党による連立政権だったが、このときは自民党から離党した政治家と非自民の野党が急きょ、あわてて作った連立政権であり、その連携が弱かったのに対し、現在の民主党の政治家はもともとの出身政党にこそ違いがあるが、民主党という1つの同じ政党に、十分な期間在籍し、民主党の議員と言うアイデンティティーを持っていると記事は指摘している。

また、民主党について、政権交代可能な政党として明確な立場を打ち出し、今までで一番大きな野党にまで成長していると紹介。仮に、民主党政権が誕生すれば、第二次世界大戦以降続く一党独裁政治に終止符を打てると記事は伝えている。

さらに、民主党のリーダーシップについても記事は言及している。

小沢氏の秘書が関わったとされる政治献金事件について、1990年代の出来事が問題になったと指摘、当初は小沢代表が辞任を拒否したが有権者の反応を素早く察知して、小沢代表は辞任し、新たな鳩山体制は有権者の信頼を得ていると評価している。

他方で、GDPが170%も落ち込んでいることを指摘し、これにより予算の赤字が益々進むことから、自民党のシンボルである大型公共事業政策の代わりに、民主党が掲げる生活保障、社会福祉分野での減税政策を増税なくしていかに財源を確保するのかについて、十分な説明が必要と述べている。

ただ、記事は「日本国民が既に消費税の増税について承認しており、民主党も早く正直になるべきだ。」という指摘もしている。この点については、日本の現状を正しくとらえているか多少疑問が残るところであろう。

新聞各紙の世論調査で、2009年1月の時点では、消費税反対が依然半数以上いたと記憶しており、国民が増税を承認しているという評価は正しくない。

面白いのは、この記事が、民主党内の議員の考え方がバラバラであるということを指摘した上で、しかし日本の有権者には、民主党に政権を担当させるチャンスを与える以外に選択肢が無いと指摘している点である。

なぜなら、民主党が参議院の過半数を押さえている以上、安定した政治運営には、自民党が再び2/3以上の議席を確保することは考えられないので、民主党が衆議院で過半数を獲得する以外に方法がないというのである。

記事は、仮に民主党が政権を担当できないような状況になれば、政治的な混沌状態に陥るだろうと指摘しつつ、世界第二位の経済を誇る先進国の国民が自らをそのような政治的混沌状態に陥れるような判断はしないはずと述べている。

自民党内では鳩山邦夫氏や、離党した渡辺善美氏のように、政界再編を望む動きや麻生総理に代わる別のリーダーを建てようという動きがあるようだが、下手な動きをすればするほど、日本の政治を空転させ、しわ寄せが全て有権者たる国民に来ると言うことを政治家は自覚すべきかもしれない。

駆け引きなどいわゆるポリティカル・ゲームは、メディアにとっては格好のネタであり、面白いだろう。しかし、ポリティカル・ゲームを楽しんでいるほど有権者に余裕はないのではないかというのが私の実感である。

この海外記事が指摘する大部分は正しいような気がする。特に、有権者に選択肢が無い状況だと言うのは事実だろう。

私はかねてより、衆議院と参議院で多数政党が違う状態は、適度な緊張関係をもたらし、望ましい状態と考えてきた。しかし、最近は考えが多少修正されている。というのも、政治家が未熟な日本に限って言えば、衆参で多数政党が違う状態は、無謀な緊張関係の身をもたらし、適度な緊張関係による政治の運営と言う状況は望めないようである。

今後、日本に二大政党制が定着し、議員数が減り、そして、成熟した政治家が増えて初めて私の望むような適度な緊張関係が生まれるのかもしれない。

いずれにしても、世界第二位の経済大国という名誉ある地位に汚名をつけたり、その地位を返上しなければいけなくなる事態に陥らないように、賢い行動が有権者には求められているようである。

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06/29/2009

政治家が本当に向いている方向を自ら分析する必要性(郵政問題からの考察)

今回、この話題を取り上げるべきかかなり悩みましたが、取り上げることにします。

鳩山邦夫氏の総務大臣辞職に関する話題です。

なぜ迷ったかと言うと、記事が長くなる可能性があるためです。そして、今回も長くなりました。

おそらく、このブログの読者には意外性を持って受け止められる方が多くいると思いますが、私が唯一麻生太郎総理大臣を評価する点を挙げるとすれば、今回、鳩山邦夫氏を事実上更迭したことです。

もちろん、タイミングは遅すぎました。しかし、西川社長の去就問題において、彼を更迭したという結果は評価しています。

マスコミの反応や一部国民の声などを見ていると、「彼は正義を貫いた」などと言って評価している声も多く見受けられますが、私見からすれば、ナンセンスとしか言いようがありません。

以前も指摘しましたが、鳩山氏の一連の行動は、無責任かつ官僚政治の復活、ひいては国民の無知に付け込んだ衆愚政治につながる行動ばかりだと私は思っています。

まず、かんぽの宿問題では、タブロイドを中心に、西川社長、小泉元首相、竹中元大臣、オリックス(宮内会長)、ゴールドマンサックス、アメリカ政府との密接な関係があるなどと言う陰謀説が流れていますが、私個人は、基本的に陰謀論は信用していません。

仮に、西川社長をはじめ郵政グループの幹部がオリックスへ便宜を図っていれば、これは背任罪として、特捜部が動きます。そうした問題にメスを入れるために特捜部が存在するのです。しかし、特捜部がこの問題について動く気配はあるとの話は今のところ聞きません。

不透明な手続きがあったのは事実ですが、私の知る限りの事実で、背任等の事件性認定できないと思いますし、法律上違法な点も現在のところ、野党が特別背任罪での告発したようですが、国民の世論を考慮した行動に過ぎないように思います。

では、なぜ、これだけメディアが注目して大きな問題になったのでしょうか。

私は、国民の無知に付け込んで、鳩山前総務大臣が郵政民営化の阻止に動いていたからだと思います。

彼は、郵政省や特定郵便局長等の関係者の利益を復活させるべく淡々と有権者を洗脳しようという臭い芝居をしていたということだと私は評価しています。

その理由は、端的にいうと、3つあります。

1つは、そもそもかんぽの宿売却において、不動産価格を下回る売却自体が一概に不当とはいえないこと。

2つ目は、西川氏のみの進退に固執していたこと。

3つ目は、鳩山邦夫氏の今までの言動から推察できる政治姿勢です。

まず、以前にも竹中氏の批判を紹介しましたが、かんぽの宿はそれ自体の不動産の価値が高いとしても、事業としては不採算事業です。つまり、郵政グループがこれを持ち続けることは、赤字を増やし、郵政グループの会社財産を食いつぶし、ひいては郵政サービスの悪化につながります。

より単純化して簡単に説明すると、次のような状況を考えてみてみると良いと思います。

まず、あなたは300万円で新車を買いました。しかし、3年もすれば下取り価格はかなり低くなります。それに車には保険等のコストがかかっており、あなたは日常では電車通勤をしているのでほとんどペーパードライバー状態だとしましょう。車を使うことは月1回あるかないか。

このような状態で、車を持ち続けても何の利点もありません。売ろうと考えるのが妥当でしょう。

不採算事業というのは、持っているだけで債務が発生するのであり、かつ、そのままの状態では利用価値が低い状態であることを意味します。上記単純化した例でいう宝の持ち腐れの車と同じです。

これに対して、「かんぽの宿は1つ1つは不動産価値が高いはず。売るなら、正規の値段で売るべきだ。」という反論があるでしょう。

では、考えてみてください。

買った300万円の車はほとんど運転していなかったのですが、車には小さな傷がいくつかあります。当然です。物は古くなれば、劣化します。雨水により、さびも少々あります。これを分解して、なかの部品は新品同様ですから、売れば高く売れるかもしれません。しかし、だれもそんな売り方はしないでしょう。当然、車1つとして売ります。

事業譲渡というのも同じことです。事業とは、「一定の営業目的のために組織化された有機的一体として機能する財産」です。これを一体として譲渡することに意味があるのであり、個々の財産に分割すれば、事業の譲渡ということにはなりません。

事業譲渡を行う最大のメリットは、従業員等をそのまま移行できます。しかし、譲り受ける方だって、不採算事業を譲り受けるわけですから、不動産価格だけで評価して買ってくれと言われればそれはお断りと言う話になるのが当然です。

手続的な面での不透明さがあったのは事実でしょう。私も手続き面が妥当とは思いません。しかし、これだけで背任に当たるような法律違反のある問題とは言い切れない以上(野党は告発していますが、背任罪は犯罪の成立を認定するのが他の犯罪に比べて難しいので、よっぽどの証拠がない限り、起訴して公判を維持するのが困難という性格があります。)、再任を阻止して、経営責任を問うべき問題かは賛否が分かれるところでしょう。

次に、鳩山前総務大臣が、西川社長の去就にだけにこだわるのもおかしな話です。

仮に、かんぽの宿の問題やその他の経営上の責任が現郵政グループにあるとするならば、その他の取締役の再任も認めないとなるのが自然なはずです。

なぜなら、日本郵政は委員会設置会社だからです。

まず、日本郵政の取締役全員に、執行役である西川氏の業務執行を監督する義務があります(会社法416条1項2号)。

次に、委員会設置会社ですから、業務の執行は代表執行役と執行役が行い(会社法415条)、取締役から構成される監査委員会(これを構成する監査委員である取締役)はそれらの執行役および取締役の業務執行を監督・監査する義務があります(会社法404条2項1号)。

また、同じく取締役から構成される指名委員会は、取締役の職務執行の状況を見て、取締役を選任・解任すべきかという株主総会の議案を提出します。

今回、指名委員会は西川氏の取締役再任が適当であると判断した以上、本当に経営責任を問うのであれば、代表執行役を兼務する西川氏だけでなく、他の取締役も十分な監視義務を尽くしていないはずです。

少なくとも、監査委員会または指名委員会に属していた取締役の再任を拒否すべきではないでしょうか。

しかし、西川氏一人だけ辞めさせて、何が変わるのでしょうか。

私は何も変わらないと思います。本当に責任追及をしたい、郵政民営化を正しい形に持っていきたいという正義感から出た行動であれば、監視義務を十分尽くさず西川氏再任を決めた指名委員会の委員長である牛尾治朗氏、委員である、高木祥吉氏、奥田碩氏、丹羽宇一郎氏の取締役再任も阻止しなければ、筋が通りません。

本当に国民の財産として郵政関連事業を守ろうとしているのか、官僚とりわけ郵政関係者の利益を守るためなのか非常に疑問が残るわけです。

鳩山前総務大臣は、「正義」と言いますし、彼の元秘書だったジャーナリストも恩義があるのでしょうか、口を揃えたように、正義に反するから強硬な姿勢に出たと今回の騒動を美化します。

しかし、これに騙されてはいけないと私は強く思います。正義を貫くことと、駄々をこねることは違います。

最後に、鳩山氏の前歴を見ていれば、彼の言動は、官僚が求めているようなすべての時計の針を小泉改革前に戻そうとする駄々っ子と同じように思えて仕方ありません。

まず、彼が法務大臣の時、彼は数多くの失言をし、死刑執行のペースが早くなりました。これに対し、朝日新聞が死神とたとえると、彼は世間に向け、「左翼的な朝日新聞がいかにおかしいか」という議論にすり替え、問題の本質から目をそむけさせました。

つまり、死刑執行のペースの問題を死刑廃止論への批判と話をすり替えたのです。世論は、死刑廃止に反対する意見が過半数を占めていますし、当時(2008年4月~6月頃)は丁度、光市母子殺害事件の死刑判決が出た時期で、この事件における被告人の態度および弁護人の訴訟戦術への批判が再度メディアに報じられ、喚起されていた時期です。

死刑執行のペースに対する疑問を死刑制度廃止論者の「戯言」とでも思わせるかのように、巧に当時の風潮を利用したのではないでしょうか。

変なコラムを載せた朝日新聞も朝日新聞ですが、私は鳩山氏を境に、死刑執行を急ぎ過ぎる傾向に法務省が至ったのではないかという危惧しています。皆さんもご存じの宮崎勤死刑囚の事件ですが、鳩山氏は再審の準備がされている死刑囚であるにもかかわらず、その執行を異例なスピードで行いました。

その後、法務大臣は保岡氏を経て森英介氏に代わるわけですが、この間もスピーディーな執行が続いており、先日紹介した冤罪の可能性がある再審準備中だった飯塚事件の死刑囚の執行が森英介大臣の下で行われるに至っています。

つまり、鳩山氏が大臣となったことで、法務官僚が死刑執行をやりやすくなり、冤罪の可能性のある事件にも、再審の機会すら与えずに執行してしまうことが許される土壌を作ってしまったのではないかと考えています。

もちろん、「宮崎死刑囚に対しては、冤罪の余地がない」という反論もあるでしょう。

しかし、弁護団が再審請求の準備をしているということは、何か減刑に当たりうる事実があると判断して行っているはずですし、それを主張させその当否を判断した上で死刑執行を行っても良かったのではないでしょうか。

むろん、そういう事実がなければ、裁判所は再審を棄却するでしょうし、再審制度が死刑執行を遅延するために利用されるのは妥当ではありません。

しかし、宮崎死刑囚の執行は、再審準備中の事件にしては早すぎるのであり、それが前例となって、性急な執行を可能にする風土を法務省に作っているとすれば、最近、冤罪がこれだけ指摘される中で、あまりにも、慎重さを欠いているのではないでしょうか。

鳩山氏の問題はこれだけではありません。

志布志事件では、「冤罪とはいえない」という不必要かつ不適切な発言をしました。

彼は、法務省で使っている冤罪の定義には当たらないと弁明していましたが、社会通念上、あれを冤罪事件と呼んでなんら不思議はありません。

にもかかわらず、あえて「冤罪ではない」とまるで法務官僚のように事件の影響を限定的にしたいという意図があるかのような不必要な発言をすること自体おかしいのです。

法務省の長として、志布志事件という前代未聞の人権侵害が行われたことに対し、まず率先して遺憾の意を示すべきでしょう。法務官僚や捜査機関を擁護するように受け止められかねない発言をすることは、おかしな正義感の持ち主だと思ってしまいます。

そして、総務大臣になって以後、草なぎ剛氏の公然わいせつ事件で「最低の人間」呼ばわりです。彼が行ってきた数々の失言に比べれば、そこまで罪質が悪いわけではないですし、こうして糾弾すべきかも疑問であるのに、正義感を振り回して、多大な抗議を受けました。

振り返ってみれば、飲酒をして、我を忘れて裸になって騒いでしまったという程度の事件で、不起訴にもなりました。そこまで大騒ぎすることでもないでしょう。現在では草なぎ氏はもう復帰して普通にCMに出てますが、それに対する抗議が出ているとも聞きません。

おそらく、鳩山氏は、総務省の官僚的思考で、「テレビのデジタル化が現在予定通り進んでいないにもかかわらず、この事件で、キャンペーンCMを打てなくなり、予定通り上手くいかなくなる。なんてことをしてくれたんだ。」とでも思ったのでしょう。

総務省の官僚としての利益保護のための発想で、その怒りを代弁し、かかる発言をしたのではないでしょうか。

このように、彼の問題発言の経歴を振り返れば振り返るほど、官僚の利益を保護する視点からの不適切発言が目につくわけです。分析すればきりがありません。

もちろん、今回のかんぽの宿問題を含め、郵政民営化には賛否があるでしょう。

ただ、我々は、郵政解散選挙で、それに賛同して、2/3を小泉自民党に与えた事実を忘れてはいけません(ちなみに私は当時、郵政民営化をすべきと言う積極的な判断に至る事実を認めることはできなかったので、自民党には投票してませんでしたが・・・)。

少なくとも、今の自民党の衆議院議員の2/3は郵政民営化に賛成するという国民の信託を受け、それ以後郵政民営化を争点とした直近の民意がわかる選挙はないのですから、郵政官僚および特定郵便局長の団体等郵政民営化反対の利益保護のために今回の正義感を振りかざした騒動を起こしているとすれば、選挙での国民の信託に対する背信行為も良いところです。

これに対しては、マスメディアで言われる世論が郵政民営化そのものについて当時と変わっているとの反論もあるでしょう。

しかし、客観的に疑いのない世論は、選挙での国民の信託以外にありえません。衆議院選挙以降の国政選挙で郵政民営化の是非が再度争点になっていない以上、やはり郵政民営化そのものを否定する自民党議員の動きは背信的だとおもいます。

もちろん、小泉改革が100点満点とは考えていません。一方で、現在の疲弊した日本の状況について、諸悪の根源が小泉改革だという論法にも違和感を覚えます。なぜなら、往々にして、こうした絶対悪を作り出して批判するのは、国民を真実から目をそむけるのに適しているからです。衆愚政治の手法ですね。

個人的な評価ですが、,小泉改革は、イギリスでいうサッチャー改革、アメリカでいうレーガンの経済改革と同じ意味合いがあったと思っており、50~60点はあげるべきだと思っています。

今ではサッチャー改革もイギリス国内では不評ですが、国際的には評価が高く、あれがあったがために、トニー・ブレア前首相による第三の道が成功してきたのも事実でしょう。また、アメリカでは、レーガンの政策は未だに保守系はもちろんリベラル系の学者にも評価する人がいます。

そう考えると、一概に規制緩和や既得権益のメスを入れて、自由市場の原理を導入しようとしたことをすべて否定するのも物事の本質を見誤りかねないのではないでしょうか。

私は、タブロイド的な陰謀論を唱え、小泉改革をすべての悪の根源と信じ込まそうとし、振り子の針を戻そうとする人々がいることに注意しなければ、日本社会は本当に崩壊すると思っています。

ゆとり教育の問題もそうですが、日本はある改革や新しい試みにより弊害が生じると、すぐ判断を急いで、前に戻そうという先祖がえりの民度があるのでしょうか。そして、すべての若者の問題をゆとり教育のせいにして、思考を停止させてしまっています。

いつもそういう議論が活発化してしまい、「どう手当(修正)をして、より良い姿を見出そうか」、「時代の変化にどう対応してきたかを検証すべき」という議論があまり行われません。

おそらく、野党が未熟で、新たな問題に立ち向かうというよりは、「ほれ見ろ。反対してたのが正しかったのだ。」という子供のような主張をするためなのかもしれません。もしかすると、メディアがそういう煽り方をしているのかもしれません。

はっきりした原因はわかりませんが、やはり時計の針を戻したり、リセットしようとするのは、テレビゲームではないのですから、やってはいけないことですし、歴史上、それをしようとした国家はその試みが失敗するか、衰退することが多いのではないかと思っています。

メディアは、次回選挙では、民主党を中心とする野党が勝利するだろうという予測をもって日々の政治ニュースを報道していますが、私は疑問を感じています。

「民主党が勝つなら投票しなくても良いや」という効果が生じるでしょうし、野党の候補も気を抜いて選挙活動してしまいます。小沢氏が引き締めを図っていたのも、そういう弊害が民主党内に実際に起こっているからでしょう。

自民党にしろ、民主党にしろ、その他の政党にしろ、有権者は、官僚の思うつぼにならないように、賢く投票行動を決しなければなりません。

メディアが言っているから正しいではなく、これだけの情報化社会なのですから、自ら政治家の過去の言動を調べ、自分なりに評価していくことが最も重要なのです。

私は、日本社会を今後良くするには、

①政治家が官僚、利益団体の既得権益保護のために、時計の針を戻すのではなく、小泉改革がメスを入れた既得権益に対し、今後どこまで本格的に切り込めるか、

②しわ寄せを感じている国民の負担をいかに軽減するか

という2点が争点となってくると考えています。

私は、サッチャーや小泉元総理の行った、中流階級(ミドルクラス)に痛みが伴う改革から、ミドルクラスに恩恵を与えられる改革を政治が主導していかなければ、日本経済の復活はありえないと思っています。

つまり、トニー・ブレア英国前首相が1997年頃に主張し、実行した「第三の道」に通じる「日本版の第三の道」を提唱し、実現できるかに日本の運命はかかっているのではないでしょうか。

なぜならば、日本の経済を支えている9割の企業は中小零細企業であり、労働者の労働力であり、ミドル・クラスが日本の経済を支えてきたからです。

その為には、健全な競争の土壌を作るため、既得権益を排除し、法で保護されている官僚・公益法人はもちろん、弁護士自治が与えられている弁護士業界、強力な利益団体として力のある医師会および医療・医薬業界、公共事業や入札事業から未だに多大な恩恵を受けている土木業界、情報通信業界などの在り方にメスを入れていく必要があるでしょう。

なんだかんだいって、小泉改革の既得権益排除から巧に逃れた人々や団体は存在しますし、小泉改革によって作られた新たな既得権益もあるでしょう。さらには、既得権益や特権をこの機に乗じて奪還しようとしている人々や団体もたくさんあります。

もっとも、これらのメスがその業界の中小企業にしわ寄せが来る形ではなく、大企業が社会的責任を果たすような仕組みが考えられる必要があると思います。そのためには、コンプライアンスや企業の社会的責任に対する国民の厳しい監視も必要です。

いずれにしても、鳩山氏の辞任問題を取り上げると、話が大きくなり、このように長くなってしまうことが予想できたので、本当は書きたくなかったのですが、以上が私の考える今回の問題点です。

このように考えを巡らせると、その他色々な意見があるでしょうが、私はやはり鳩山邦夫氏の主張には賛同できないわけです。

西川氏後継、首相が提示=鳩山前総務相明かす-郵政人事
6月15日22時5分配信 時事通信

 鳩山邦夫前総務相は15日、総務省で離任記者会見を行い、麻生太郎首相から今春の段階で、日本郵政の西川善文社長の後継候補を記したリストを受け取っていたことを明らかにした。鳩山氏を更迭した首相も当初、西川氏交代に傾いていたことは関係者の話で分かっているが、鳩山氏の証言により、首相判断の「ぶれ」が一層鮮明となった。

 首相は同日夕、首相官邸で記者団が事実関係をただしたのに対し、「コメントはありません」と述べ、リストについての説明を避けた。一時は西川氏交代を考慮したかどうかに関しても「今お答えした通りだ」として、明言しなかった。

 鳩山氏によると、首相は「西川後継の人事でお悩みではないかと思う。ついては、自分なりの考えで後継にふさわしい人が何人かいるから、リストを同封します」との手紙を送ってきた。

 会見で、鳩山氏は「社長交代は既定路線と安心し切っていたのがばかだった」と語るとともに、「首相はすごくナイーブ。いろんな人がいろんなことを言って、それを聞き入れた結果が西川続投だったのではないか」と、首相を重ねて批判した。

 さらに「間違っていたら政府として口を挟み、誤りを正さないといけない」と述べ、西川氏は辞任すべきだと改めて主張。「かんぽの宿」譲渡問題について「氷山の一角。国民の共有財産を守るために(今後も)命懸けで戦う」と強調した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090615-00000161-jij-pol

さて、鳩山氏は「ナイーブ」と称したそうが、この本来の英語の意味の使われ方として使ったのであれば、麻生総理は「世間知らず」ということになりますね。

鳩山邦夫という鳩山一郎総理の孫として裕福な家庭に育った人間に、世間知らずといわれたのならば、ミドル・クラスの抱える不安は到底理解できないのかもしれません。 

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06/28/2009

フジの「妻よ!松本サリン事件」を見て

26日(金)にフジテレビ系列で放映された、ドキュメンタリードラマ、「妻よ!松本サリン事件 犯人と呼ばれて・・・家族を守りぬいた15年」を見て、改めて、人間の思いこみに対する罪の大きさと冤罪に苦しむ家族の実情、さらには、家族を犯罪行為により失う辛さ、そして、被害者と加害者の関係など色々なことを考えさせられた。

当時、私を含め日本中の人が、地下鉄サリン事件がオウム真理教の犯行だとわかるまで、河野義行さんが犯人であるとの思い込みを持っていたと思う。

事件に直接関係ない者にとっては、どうしても事件の印象が風化し、当時の過ちを忘れがちになってしまうが、このドラマは15年目という節目に、松本サリン事件と言う重大な冤罪事件を思い起こしてくれたように感じる。

このドラマは単にドラマ化されたというよりも、節々に河野さん家族のインタビューが交えてあり、事件を再度検証するドキュメンタリーとしての要素も強かった。

既存の報道では伝わってこない家族の葛藤や警察の見込み捜査、自白強要の問題点をわかりやすく、描いており、久しぶりの良質なドラマだったと思う。

河野義行さんを演じられていた石黒賢さん、妻・澄子さん役の松下由樹さん、長男・仁志さんを演じていた浅利陽介さんの演技もなかなか素晴らしいものだった。同番組の制作レポートはこちらで参照できる。

番組で流された当時の映像を見て、衝撃だったのが、当時、子供たちは15歳前後で事件に遭遇しており、重たい症状だった両親に代わって、メディア等に答えるシーンである。その姿は痛々しく、メディアや警察、さらには世間の冷酷さを痛感させられた。

やはり、頭ではこの事件を理解しているつもりであったが、河野義行さんや家族のコメント、さらにはドラマで描かれているシーンを映像として見ると、事件の傷跡の深さと家族の奮闘を改めて思い知らされた。思わず涙してしまうことも多々あった。

今回見逃した方はぜひ再放送等で見てほしい番組である。

27日(土)で、この事件は、15年目に突入したわけだが、私たちはこの事件から教訓として何を学び、その教訓を生かしているのであろうか。このドラマをみて、私はふとそのような疑問を自問自答した。

まず、警察は果たして変わったであろうか。

番組でも描かれていたように、当時の長野県警は、毒ガスの残留物のレベルが強いということだけを持って、河野義行と妻の澄子さんを事件の容疑者として断定し、毒ガスが何であったのかという最も重要な結果が出る前から、「刑事のカン」ともいうべき信用性のない根拠で、断定的な見込み捜査をしていたわけである。

そして、虚偽や信用性のないポリグラフ検査の結果をもって、さらに河野義行さんが犯人であるとの嫌疑を強め、本人はもちろん、15歳前後の未成年の家族に対しても、自白の強要を行っているのである。

2003年に起った冤罪事件である志布志事件は、1994年の松本サリン事件より9年後の事件であるが、松本サリン事件の河野義行さんに対する長野県警の姿勢同様、鹿児島県警は、被疑者に対し、断定的な捜査を行い、自白を強要していることが明らかになっている。

まさに、長野県警と同じ過ちを鹿児島県警は9年後に犯しているのである。初動捜査において、無実の人の嫌疑を誤って掛けてしまうことがあったとしても、自白の強要に至るのは、絶対に犯してはいけない一線であると松本サリン事件から学んだはずの警察が、全く同じ過ちを犯してしまったといえよう。

また、名倉正博防衛大教授の痴漢冤罪事件でも、警察は科学捜査や目撃者の捜索等の裏付け捜査を十分にせずに、被害者の供述のみの断定した見込み捜査をしているのであって、ここでも松本サリン事件の教訓は全く活かせていないのである。

そして、依然として、警察は取り調べの全面可視化には、捜査の支障があるといって、応じようとしない。これでは、今でも自白の強要を捜査の一環として行っていますと言っているようなものである。

なぜなら、アメリカでは、ミランダ・ルールというものが採用され、逮捕時に被疑者に権利の告知をしなければ、その後一切の被疑者の供述は証拠能力を欠くものとして、公判証拠から排除される厳格なルールを採用し、かつ、弁護士が取り調べにおいて立ち会う権利が認められているが、そのアメリカでは、これが捜査の支障であるという主張は通らず、可視化を否定する動きはほとんど存在しないためである。

にもかかわらず、警察は一部可視化に留めようとしている。一部可視化では、自白に至る経緯が十分に覚知できず、映像等が捻じ曲げて利用される高度の蓋然性があり、百害あって一利ない。

「疑わしきは被告人の利益に」という大原則は、捜査機関にとって、空虚な言葉でしかないというのが、日本の捜査機関の現状なのかもしれない。

次に、果たして、メディアは変わったのであろうか。

河野さんの長男、仁志さん(30)が番組内のインタビューで、「もう少し私の心が弱ければ自白していたかもしれない。」という趣旨の発言がすごく印象に残っている。当時、仁志さんは15歳であった。そのような未成年がメディアはもちろん、警察への対応をしていたと思うと、心が痛む。

また、番組内では、当時もっとも幼かった14歳の次女に対し、事件直後メディアが両親の様子などを聞き出そうとしている取材シーンも映しているのであるが、両親が重体であるという不安と悲しみに耐えつつ、答えている姿が何とも痛々しい。

この事件を契機に、マスメディアは、メディアスクラムという言葉を使い、メディアの暴走、過熱報道の問題を痛感したはずである。警察が流す情報をそのまま垂れ流し、真実とは異なる事実が独り歩きし、河野義行さんを犯人へと仕立て上げていくプロセスを身を持って体験したはずである。そして、多くのメディアが事件後、訂正報道と公式謝罪をした。

しかし、この反省を今のメディアが活かせているかは甚だ疑問である。もしかすると、この事件のことすら、忘れ去っている報道関係者も多いのではないだろうか。

最近の事件で、同様の問題が生じたものとしては、香川県坂出市での祖母と孫が殺害された事件で、父親を犯人であるかと思わせるような報道が問題になったのは記憶に新しい。とりわけ、「報道のTBS」を自称するTBSの朝の番組の司会者、みのもんた氏は、この事件で、あたかも父親が犯人であるといわんばかりの発言をし、父親に謝罪した。

これだけではない。小沢一郎氏の秘書逮捕のときも、一部のメディアが、小沢氏の秘書が一貫して否認しているにもかかわらず、自白したという誤報をしていた。

つまり、メディアの警察の垂れ流す情報をそのまま検証や裏付なく垂れ流すという性質は、松本サリン事件以降、一向に変わった兆しは認められないのである。

最後に、我々、視聴者である国民はどう変わったのであろうか。

松本サリン事件では、河野義行さんを犯人と決め付け、本人と家族に対し、執拗な嫌がらせがあったことが明らかになっている。15歳前後の子供に対し、電話で人殺し呼ばわりしたり、想像を絶する嫌がらせが当時なされたいたと思うと、いかに視聴者が、野次馬的無責任な姿勢で事件を見聞きしているかということを痛感させられる。

前述の香川坂出殺人事件では、インターネット上で、メディアの論調に煽られ、あたかも刑事気取りで、被害者の父親を犯人と断定し、醜悪な書き込みが多数散見されたことを思い出す。

また、あらゆる否認事件に対して、慎重に事件報道を考えるという人はごく少数であり、多くの人は、逮捕・起訴が決まれば、犯人であると断定してしまい、「疑わしきは被告人の利益に」なんていう刑事の大原則を意識して事件報道に接する一般人はごく希であろう。

私たち視聴者も松本サリン事件の教訓を活かしているとは到底言えない状況だろう。

しかしながら、被害者である河野義行さんは、警察、メディア、我々視聴者より一歩も、二歩も先を歩いているように感じる。

番組の中で、河野さんは、オウム真理教の元信者でサリン事件の噴射機製造に関与し、殺人幇助罪で刑期に服した藤沢元受刑者と今では「友達」といえる関係にあるという。

河野さんは、「人間と人間という関係に被害者と加害者というのがなくなって良いのではないか。これからどう生きるかを考えるべきではないか。」という趣旨の発言をし、反省して謝罪に訪れた人には、加害者であっても等しく接しようとしている。

そんな河野さんについて、長男の仁志さんは、加害者との関わりに釈然としない気持ちを持ちつつも、「(加害者とそうでない者とを)等しく接することのできる父を尊敬している」というコメントをしていた。

私が被害者の立場になったときに、河野さんのようなことが果たして言えるのか。おそらく、言えないだろう。

河野さんは、被害者でありながら加害者扱いされるという意味で、二重の被害者の立場を味わった人である。それにもかかわらず、こうした発言をできることに私は驚くと同時に、人間としての凄さを感じずにはいられなかった。

フジテレビのドラマを視聴し、私は、松本サリン事件から15年目という節目において、事件の教訓を再認識し、これを活かさなければならない義務があると強く思った。

河野さん、河野さんの家族、そして、弁護を担当された永田恒治弁護士の苦労には、他人ながら、本当に頭が下がる思いである。そして、昨年亡くなられた澄子さんの存在がいかに家族を支え続けたかを痛感した。

冤罪を作り出そうとした警察、マスコミが反省し再発防止をすることはもちろん、その情報の受け手である我々、国民こそがこれを機会に、マスメディア報道への懐疑的姿勢を持ちつつ正しい判断ができるように心がける必要があるだろう。

こうしたドラマが再放送され、DVD化され、多くの人が接することができることを切に願う。

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なお、河野さんが事件から14年を振り返る著書があるので、紹介しておく。

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06/27/2009

社民党は実務色を出した方が良い!?(移植法改正に思うこと)

臓器移植法改正案が26日、参議院で審議入りした。

これに関連し、社民党の福島瑞穂党首が、めずらしく(?)感心する指摘をしている。

それは、衆議院を通過した臓器移植法改正案(以下、「A案」という)について、法律として失格であるというのである。

私も、このA案はもちろん、臓器移植法には違和感を感じていたので、福島党首の指摘には、「なるほど、私が感じていた違和感はこれだったのだ。」と思った。

詳細は下記の記事をみてくれれば明らかなのだが、臓器移植法には、6条で、「遺族」や「家族」という文言が使われているのだが、それらについての明確な定義がない。つまり、家族、遺族の範囲が不明確である。

今までは、脳死状態にある本人が臓器移植を望む意思が書面により明確にされている場合に限っていたため、さほど臓器移植の同意をめぐり争いが生じることはなかったかもしれない。

しかし、A案では、遺族の承諾があれば、脳死状態にある本人の事前の意思が明確な場合でなくても、臓器移植が可能となる。

A案の条文

6条1項

  医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。

 一 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。

 二 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。

6条3項 

臓器の摘出に係る前項の判定は、次の各号のいずれかに該当する場合に限り、行うことができる。

 一 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないとき。

 二 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき。

こうして見ると、A案では、6条の1項では、「遺族」という文言を使い、3項では「家族」という文言を使っているのだが、これらがどうして違うのか、これらの文言が意味する範囲(定義)は何かが全く示されていない。

そうすると、原則として、脳死状態になった本人の同意がなくても、「家族」の同意があれば、臓器移植が可能となってしまうため、この「家族」の範囲がだれなのかを明確に定義しなければ、後に臓器移植をする現場で、家族、遺族が誰なのか、家族、遺族の範囲はどこまでなのかで混乱が生じかねないのではないだろうか。

通常、家族などの文言を使う場合は定義規定を置くのが通常であるし、普通は、親族(民法725条1号~3号)という民法上に定義のある言葉(6親等内の血族、配偶者、3親等内の姻族)を使うのが通常である。

他方で、A案は、6条の2という条文を追加し、「移植術に使用されるための臓器を死亡した後に提供する意思を書面により表示している者又は表示しようとする者は、その意思の表示に併せて、親族に対し当該臓器を優先的に提供する意思を書面により表示することができる。」と定めている。

つまり、明らかに、民法上の親族とは別概念として、家族、遺族という文言を使っているのではないかと思わざるを得ないわけである。

そうすると、仮に「親族」以外の者が、「家族」、「遺族」であると称している場合に、医療現場でそれを判断することができるのか、内縁関係にある場合に、「家族」に含まれるのかなど様々な問題が生じかねないのではないかとの疑問がわいてくる。

福島社民党党首の指摘も、弁護士だけあって、法律家の視点であり、こうした懸念に基づいているのではないかと推察する。いつも、安全保障問題では首をかしげたくなる発言も多い同党首であるが、さすがに弁護士だけあって、鋭い指摘である。

ここで、読者の皆さんに考えてほしい問題は、こうした未熟な法案が現に存在し、かつ、これだけ注目を集めているのに、衆議院を通過してしまっているということである。

少なくとも、この法案に賛成した議員は、こうした混乱を懸念して、定義規定を明確にしようとかいう動きがなく、フリーハンドで、未熟な法案を通してしまっているのである。いかにも立法者として失格ではないだろうか。

臓器移植を容易にしたいという待機患者やその支援者の気持は理解できるが、この未熟な状態で法律化することは、やはり後日の紛争を増やすだけではないかという強い懸念が生じてしまう。

マスコミは、こうしたことを十分に報じない。私が見る限り、これを報じているのはヤフーニュースに情報を提供している「医療介護CBニュース」のみである。

この点、同じく社民党の阿部知子議員らが提出していたC案について、マスコミは、脳死判定を「厳格化」するものとだけ伝えられているが、法案を改めてみる限り、脳死判定を制度化して、透明化したものというのが正しいだろう。

阿部議員は医者出身であるため、実務家としての専門知識があるのでろう。非常に詳細な定義規定や判定のための要件規定を置いており、後の紛争や現場の混乱を防止するという点では、一番優れている法案のように思う。ただ、これも、「家族」や「遺族」という文言の定義をしているわけではないので、不適当だと個人的には考える。

家族や遺族等の法律上の定義についてまとめた資料として、総務省消防庁のホームページにある資料が解りやすいので、興味がある方は、こちらを参照してみてほしい。

こうしてみると、社民党はもう少し実務色を前面に出して、一部の人にしか受けない外交問題や憲法議論をするよりも、質の高い法律案を作る議員政党であるというイメージ戦略の転換を図った方が良いような気もする。

何かと言えば、護憲、護憲というだけでは、こうした法律への取り組みを知らない一般人へは、政党としての存在意義をアピールできないのではないかと思うのである。

いずれにしても、今、国会で議論されているのは、「脳死は人の死」かという単純な問題ではない。

よく、この種の議論では、法律で、「脳死は人の死」と定義するかどうかだけ注目される。

これは、臓器移植法6条1項、2項をどう規定するかという話なのだが、間違ってはいけないのは、およそすべての法律において、「脳死=人の死」とこの法律によって定義されるがごとき話ではないということである。

少し、詳細すぎる議論になるので、もう少し我慢してお付き合いいただきたいのだが、現行法とA案の違いは以下に集約される。

現行法(一部省略)

第6条 医師は....ときは、この法律に基づき、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる
 
  前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。

A案

第6条 (省略)

前項に規定する「脳死した者の身体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体をいう。

つまり、法律条文を見る限り、一般法の概念として、脳死とは人の死を意味するという定義規定を置いているわけではないことはもちろんのこと、臓器移植法改正の中で、上記のような定義が置かれているにすぎない。

マスメディアが、しきりに、法律で、「脳死は人の死」と定義することになると言っているのはプロパガンダ以外の何物でもないと言っても過言ではないかもしれない。

おそらく、多くの人は、この法案が成立すれば、刑法上の人の死も脳死になると考え、「脳死状態の人に危害を加えても、死体損壊が成立するにすぎず、殺人罪が成立しないのではないか」とか、「脳死状態の人を介護するのは、死体損壊か」なんていう疑問を持ったりするかもしれない。

しかし、改正されているのは、臓器移植法にすぎず、刑法上の「人の終期」の概念に直接影響を与えるものではない。

また、間接的な影響を受けるにしても、従来同様改正案は、「脳死体」という表現は使っておらず、あくまで、「脳死した者の身体」という表現を維持しており、脳死=人の死というのが明確化されているとはいえないだろう。

刑法上は、仮にA案での改正があっても、人の死の判断は三徴候説(自発呼吸の停止、脈の停止、瞳孔反射機能等の停止から心臓死を人の死、終期であるとする考え)が実務上の通説であることに変わりはないと思われる(刑法上、脳死説を主張している人は、この法案により、刑法上も脳死を人の終期と考えることになるという学者はいるだろうが)。

なぜならば、理論的には、脳死説もあり得るとは思うが、やはり、価値判断として、脳死状態の人に危害を加えて、心臓死状態に陥れておきながら、殺人罪が適用できないという事態は、具体的妥当性を欠くのではないかと思うからである。

つまり、脳死状態に至ったとして、人としての刑法上保護する価値が失われたとまでいえるのかという疑問が払拭できないということである。

脳死説の学者は、脳死状態に至れば、脳細胞が破壊され二度と回復しないことを人の死期の論拠として挙げる。

しかし、脳のメカニズムが100%明らかになっているわけではないのであり、かつ、現に、脳死判定を受け臓器移植直前で脳死判定の取消しに至り、普通の生活ができる状態にまで回復した例がアメリカではあることからすれば、依然、刑法上は三徴候説が妥当であろう。

なお、刑法学者の方が三徴候説(心臓死説)の立場から今回の改正法案について考察したブログとして、中山研一元京大教授のブログが参考になる。

また、私と似たような観点から、マスメディアが報じるA案の解釈に疑問を呈している人気ブログとして、企業法務戦士の雑感という方の「臓器移植法『A案』解釈の不思議」という記事もわかりやすい。

この問題は、安易にマスメディアが作る議論のレールに乗っかると、結構問題の本質を見落としてしまう良い例なのかもしれない。

したがって、私は、脳死が人の死かどうかという議論以前に、社民党の福島党首が指摘するように、法律としての未熟な点をどう考えるかの方が、後日の紛争や現場の混乱を考えると優先すべきなのではないかと思う。

結論として、私見は、参議院で提出された修正案(E案)が一番良いと考える。理由は、未熟な国会議員に任せておくと、とんでもないことになりそうだからであるε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…。

残念ながら、この国では、立法者である国会議員に任せるより、1年かけて、実務家、専門家による法案作りをさせる方が、まともな法律になるのではないだろうか(国会議員への皮肉をたっぷりこめて・・・)。

なお、各法案を改めて比較して考えてみたい人は、minajumpという方が管理人をされている「社会学と生命倫理の迷い道」というブログの『臓器移植法改正案について』という記事を読まれると、整理されていてわかりやすいと思う。

参考までに、脳死の問題を深く考えたいという人には以下の本が参考になるだろう。

哲学者、梅原猛氏の本は哲学の立場から、脳死を人の死とすることに反対されているので、著書もその立場から書かれている。

次に、「割と」中立的な立場で、欠かれているのはこの本である。メディアがなかなか報じない臓器提供者の立場にスポットライトを当てている本である。著者は科学の歴史を専門とする学者である。

最後は、脳死を人の死として考えるべきという立場から、著名な移植医の著者が移植現場の状況について書いている本である。著者の相川氏は日本移植学会の広報委員長を務めているので、当たり前かもしれないが、臓器移植を推進する立場から構成されている。ただ、誤解が無いように言っておくと、相川氏は、以前問題になった宇和島徳洲会病院の万波医師のように、病気腎移植まで認めろとか、臓器移植をフリーハンドで認めろというような主張をしている方ではない。現に宇和島徳洲会病院の問題では、厚労省の調査班長として、問題があるという報告をしている。

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「家族」は法律用語でなく、A案に「欠陥」―社民・福島党首
 6月24日23時58分配信 医療介護CBニュース

 臓器移植法改正をめぐる動向が注目を集める中、「『臓器移植法』改悪に反対する市民ネットワーク」は6月24日、参院議員会館で勉強会を開いた。勉強会では、脳神経外科専門医の近藤孝医師が脳死判定の在り方などについて講演。18日に衆院を通過したA案反対派の議員や市民らも、A案の問題点や国会審議の在り方について意見を述べた。この中で、弁護士でもある社民党党首の福島瑞穂参院議員は、A案では「法律用語ではない『家族』や『遺族』などの文言が使われている」と指摘、「A案には、あまりに欠陥がある」と批判した。

 近藤医師は脳死判定基準の「竹内基準」について、脳死を判定する上で「十分ではない」と指摘。また竹内基準では、「脳死状態は絶対に慢性化することはない」と断言しているが、脳死状態の人が5年以上も生きる「長期脳死」などの事例があるとして、「これが誤りであることは長期脳死の症例が示している」と強調した。

 国会審議の在り方を批判する意見も出た。C案提出者の阿部知子衆院議員(社民)は、「4案も出ていたのに、審議時間が短かった」と指摘。さらに18日の本会議中、「必ず、A案に投票してください」「仮にA案が否決された場合、その後の投票では棄権せず、反対票を必ず投じてください」などと記した「メモ」を、A案提出者が回していたと明かし、「本会議場でこのようなメモが回されるのを見たことがない。国会という場をはき違えているのではないか」と述べた。川条志嘉衆院議員(自民)も、「A案(賛成派)の論理展開は強引だった」と批判。市民ネットワーク事務局の川見公子さんも、「(臓器移植法改正に関する)審議をすべて傍聴したが、本当にひどかった。なぜ脳死が人の死なのか、納得のいく説明がなかった」と述べた。
 また、生命倫理の教育や研究に携わる大学教員の集まりである「生命倫理会議」の愼蒼健・東京理科大大学院科学教育研究科准教授は、多くの政党が党議拘束を掛けなかったことに疑問を呈した。愼准教授は、臓器移植の問題は個人の死生観にかかわることで、党議拘束を外すべき問題だとすることで、「あたかも政治問題ではないかのようにしている」と指摘。しかし実際に法律が成立すれば、「われわれはそれに拘束されることになる」と述べ、党議拘束を掛けずに採決に臨んだ政党の対応を批判した。

 A案賛成派が臓器移植に関するWHO(世界保健機関)の「指針」の内容を歪曲しているとの意見も出た。阿部議員は、WHO指針で求めているのは渡航移植の禁止ではなく、正確には、臓器移植のために人を誘拐したり、臓器を売買したりする動きを規制することだと指摘。川条議員や愼准教授も、A案賛成派によるWHOの指針の取り上げ方を批判した。

 A案の「欠陥」を指摘する意見も出た。福島議員は、本人に拒否の意思がない場合、家族の同意で臓器提供ができるとするA案では、「家族」や「遺族」などの文言が入っているが、これは「法律用語ではない」と指摘。こうした文言では、具体的に誰を家族とするのか、家族間で意見が割れた場合にどうするのかなどが明確でなく、「ものすごくトラブルの起きる法案だ」と述べた。また、本人の意思確認の必要性を指摘する意見も相次いだ。

■独自案「E案」への理解求める―川田議員
 子どもの脳死判定基準などについて検討する「臨時子ども脳死・臓器移植調査会」の設置などを盛り込んだ独自案の提出者の一人である川田龍平参院議員(無所属)は、独自案を「E案」とした上で、「多くの議員に賛同してもらえるよう頑張っていきたい」と述べた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090624-00000015-cbn-soci

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06/26/2009

速報:マイケルジャクソンさんの死亡について

日本でも早朝、ポップ界の王様、マイケル・ジャクソンさんの意識不明、死亡情報が報じられている。

アメリカでも現在日本のメディアと同じように病院前から生放送でこのニュースを報じている。アメリカのABCニュースは、既に死亡したという報じ方をしている。

イギリスのガーディアン紙もロサンゼルス郡次席検死官、エド・ウィンター(Ed Winter)氏の話として、死亡を確認し、死因の調査を行っていると報じている。

享年、50歳だった。

以下のリンクで、ABCニュース生放送をインターネットで確認できる。

http://www.abcnews.go.com/Video/playerIndex?id=6046305

ABCニュースの報道によると、現在数百人のファンが囲んでいる病院前では、日本時間の午前8時20分現在、多くのメディアが、死因についての病院の公式発表を待っている状態にあるという。

アメリカ、イギリスの多くのメディアが既にマイケル・ジャクソンさんのこれまでの活動の軌跡を報道し、故人の死亡を惜しんでいる。

既に、ニューヨークのアポロシアター前では、人種問題との関係で、「マイケル・ジャクソンがオバマ大統領、人気司会者のオプラ・ウィットニー氏、プロゴルファーのタイガー・ウッズ氏ら黒人の象徴的な存在が登場する以前から、黒人の象徴的存在で、有色人種が受け入れられる文化を作った。歴史的象徴だった」という談話を、黒人の人権運動の活動家であるアメリカ、バプティスト教会の牧師であるアル・シャープソン(Al Sharpton)が発表している。

ABCニュースによれば、アメリカ・太平洋時間12:26 p.mに、ロサンジェルス消防署に緊急搬送の要請があり、救急隊員が着いてすぐに、呼吸が無いことを確認し、CPR(心肺蘇生)を行ったという。

USAトゥデイ紙電子版は、生前、マイケルさんが心不全を患っていたことをマイケルさんの弟、ジャーメイン・ジャクソン(Jermaine Jackson)さんの話として伝えている。

ガーディアン紙によれば、マイケル・ジャクソンさんは1億ポンドの借金を抱えており、50回のコンサートを予定していたらしい。ジャクソンファミリーの元スポークスマンだったアーサー・フェニックス(Arthur Phoenix)氏は、「私はマイケルが50回ものコンサートができる状態にはないと思っていた。精神的にも肉体的にも準備できていない。」と語っていたという。

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マイケル・ジャクソンさんのCDを紹介。

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いつもと違った形式で時事評論

今日は、いつもの1つの話題を深く掘り下げるというスタイルの記事から、いくつかの話題に短く論評していくスタイルに変えてみようと思います。

1.自民党が東国原宮崎県知事に出馬要請

自民党もここまで堕ちたかと残念になりました。自民党はもう悪あがきをせずに下野した方が良いでしょう。このようなポピュリズムや衆愚政治に走ることは百害あって一利ありません。

宮崎県知事は国政に意欲があるようですが、私は彼の淫行歴、暴行、傷害事件による事実としての前科(法的意味での前科は前科調書に残るものを言います。)を含めた経歴と知事としての実績をすべて考慮しても、まともな政治家とは思っていません。

確かに、マスコミを利用するのは長けているでしょう。しかし、彼の公共事業理論は旧来の道路族の主張と変わらず、全くもって賛同できません。私は宮崎県民ではないので、詳しくはないですが、地元の名物をPRしているだけで、目立った改革実績は見えてきません。同じタレント出身と言われる橋下大阪府知事とは、本質的に改革や政治に取り組む姿勢と知識が異なると思います。

なお、衆愚政治に走りがちな国民性を危惧していたのですが、ヤフーの意識調査を見ていると6割が、自民党総裁に相応しくないと回答しており、まともな民度だとひとまず安心しました。ああいうポピュリズムに乗らない民主主義の浸透が重要でしょう。

マスメディアは、連日この報道をメインで取り上げ、総務大臣説が浮上していますが、彼のような改革マインドが低く、政治・改革実績もなく、4年の任期すら務めていない人間に、国会転出という話がでること自体、自民党のレベルが低いとしか言いようがありません。

一部では、総裁候補ということであれば、宮崎県民が納得するのではという報道もされていますが、仮に納得するような県民民度であれば、レベルが著しく低いことを露呈することになるでしょう。

2.公正取引委員会がセブンイレブンジャパンに排除命令

妥当な命令だと思います。法的議論以前に、見切り販売を禁止するという営業方針そのものが、食の不足、食糧問題が叫ばれる21世紀において、企業の社会的責任を果たしていないのではないでしょうか。

15%を負担するという案を出していますが、同じように見切り商品の販売を禁止するような強制と取られかねない働きかけをすれば、今回の命令の趣旨を十分に理解して対応しているとは言えないでしょう。

このニュースで重要なのは、セブンイレブン・ジャパンが負担する金額がどれくらいになるかよりも、こうした時代に逆行する行為がクローズアップされ、企業の社会的責任を果たしていないというレッテルを貼られた企業損失はどれくらいなのかです。

セブンイレブン・ジャパンは今回の排除命令(リンク先に公取の資料あり)について真摯に向き合い、見切り販売について、企業の社会的責任を果たすべくビジネスモデルの転換を考える必要があるように思います。

3.初代消費者庁長官に官僚OB

これだけ天下りの批判が強いのになぜ官僚OBを選ぶのでしょうか。世論に対する意識が低いことを示しています。

消費者問題で著名な活動をされている方々は沢山いるはずです。それらの人々をおして、その官僚OBが適任であるという明確な理由を提示する説明責任が政府に問われることになるでしょう。記事にあるような、権限の発動には官僚OBが最適というのでは、説明していることになりません。

私に任命権があるならば、消費者問題の訴訟活動で有名な宇都宮健児弁護士や前全国消費者団体連合会事務局長で、現在、雪印乳業株式会社社外取締役の日和佐信子氏、内部統制・コンプライアンスで実績のある國廣正弁護士などの消費者問題分野での実績のある方に就任を打診するだろうと思うのですが・・・政府の考えることは理解できません。

4.佐川急便、制服にハーフパンツ

アメリカの宅配業者では夏場はハーフパンツ姿が既に定着しています。重たい荷物も炎天下で運ぶわけですから、ドライバーの健康状態への配慮を考えれば、もっと早く導入しても良かったように思います。国内業界初ということですが、日本には無駄な既成概念がたくさん蔓延っています。こういう改革はドンドンやるべきでしょう。

もっとも、公官庁担当の方はダメということのようですが、公官庁を特別扱いする必要はないように思います。なぜなら、彼らがクールビズ等を推進しているのですから、ハーフパンツ姿がだらしないというのであれば、背理だからです。

こういった動きが広がると良いですね。

5.松本サリン事件、もうすぐ15年経過

27日に15年目を迎えます。ついこないだのようにも感じます。この事件で、メディアスクラムの問題が注目を集めました。河野さんに対するメディア、視聴者、さらに警察の当初の扱いを思うと、冤罪というのは容易に生じてしまい、恐ろしいものだと改めて感じます。

警察、検察、メディアはとりわけ社会的権力としての影響力を改めて自戒する必要があるでしょう。そして、国民も改めて予断排除の原則をもって、事件報道に接しなければならないと思います。

この話題については、後日また考えをまとめて記事にするかもしれません。

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06/25/2009

日本はイランの不正選挙抗議デモに対する弾圧を強く非難すべき

イランで痛ましい事件が起こっている。

日本ではほとんど軽くしか扱われないイランの民主化デモと弾圧のニュースについて今日は触れてみたい。

イラン 相次ぐ記者の拘束 ネットが伝える「真実」
6月23日8時1分配信 産経新聞

 大統領選の結果をめぐる改革派の抗議行動が続くイランで、ジャーナリストの拘束が相次いでいる。当局は外国人記者の取材活動を制限しており、デモ隊と当局側の衝突の様子はインターネットの動画サイトなどを通じて知るほかない。米ネット各社は22日までに、ペルシャ語サービスの追加など“支援”の姿勢を打ち出し始めた。

 フランス通信(AFP)によると、パリに本部を置く国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団(RSF)」は21日、イランで大統領選の前後に拘束されたジャーナリストが計33人に達したと発表。「イラン・イスラム共和国は今や、ジャーナリストにとって、中国と並ぶ世界最大の監獄になった」などとする声明を出し、拘束者の即時解放を要求した。

 イラン外務省報道官は20日、米国の対外ラジオ短波放送「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」と英BBC放送を「米英政府の代弁者となり、イラン民族の分裂をねらい動乱を扇動している」と名指しし、BBCのテヘラン常駐特派員に国外退去を命じた。米誌ニューズウィークの男性記者は容疑不明のまま拘束されているという。

 外国メディアの取材が制限される中、国際社会の支持を求める改革派支持者らはインターネットを駆使して騒乱の現状を発信している。米CNNによると、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)大手「ツイッター」上に「ネダ」と呼ばれる16歳の少女が民兵の銃撃で死亡したとされる情報が公開された。動画投稿サイト「ユーチューブ」には、この少女とみられる人物が路上に倒れ、数人の男性に介抱される様子が流された。

 米インターネット検索大手グーグルはペルシャ語の翻訳サービスを開始。傘下のユーチューブでは通常は削除対象となる過激な暴力描写が含まれる映像も、イランの抗議行動関連に限って規制を解いている。(川越一)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090623-00000095-san-int

はじめて、断っておくべきと思うのだが、私は欧米政治には詳しい自負はあるが、中東問題はどちらかというと欧米的視点から考察する傾向強いかもしれないので、読者もその点は理解して読んでいただきたい。

さて、このニュースを読んで、イラン情勢についての私見を述べようと思ったため、Youtubeで犠牲者の動画を確認したが、未成年者等に不適切な画像があるので、ブログにはリンク等は紹介しない。

私はまさにイランにおいて歴史が変わる大事件が起こっていると感じた。つまり、中国で起こった天安門事件と同じ状況が今イランで行われているように思う。

デモの強制鎮圧を進める権力とそれを報じようとする海外メディア、それに対するさらなる圧力。唯一違うのは、当時とはインターネットという改革派の学生にとって真実を世界に広める最大の武器があることだろう。

イランの国内の状況は、イスラエルや欧米の政治と切っても切れない関係にある。中東関係については、詳しくは、昨年の最後のニュース評論という記事で、イスラエル情勢の解説の中で、私の歴史理解に基づく解説をしているので、そちらを参照してほしい。

当初、オバマ米国大統領のこの問題に対する姿勢が非常に弱かったので、私は民主化運動が早期に鎮圧され、国際社会からの支援をイランの改革派の学生たちが得られないのではないかと懸念していたが、すでに欧米では、イラン政府に対し厳しい対応が出始めている。

中東問題に敏感なイギリス政府は、自国の在イラン外交官を引き上げさらには、英国内のイラン外交官の追放(ペルソナ・ノン・グラータ)に踏み切ったようである。

イギリスのテレグラフ紙の電子版も伝えているのだが、オバマ大統領は、当初、選挙での不正が叫ばれているにもかかわらず、イラン政府を強く非難することに慎重であった。これには、アメリカが内政干渉をしているというイラン政府の批判をかわす狙いがあったようである。

しかし、一転して、方針転換をし、現在強く非難し始めた背景には、Youtube上で上記動画により、国際社会に武力鎮圧の現実が発信されたことに加え、共和党や評論家から、政府により人が殺されているにもかかわらず、イラク政府を非難する姿勢が弱すぎるとの批判が噴出したためのようである。

強く非難しているのは、アメリカやイギリスだけではない。

ロイター通信電子版によれば、ドイツのメンケル首相は20~21日の週末にかけて、イラン政府に対し投票の再集計を要求し、それに対しイラン政府が内政干渉と強く反発したものの、22日(月)には、ドイツ政府として、「これは表現の自由、思想良心・宗教の自由、および普通投票、秘密投票に参加するという基本的な人権の問題であり、国際法の法令遵守の問題である」との声明を出し、イラン政府を強く非難していた。

さらに、アメリカ、ニュージャージー州のメディアは、ドイツのメンケル首相は、「人権と公民権は切っても切り離せない関係にあります。だからこそ、ドイツは人民の側、言論の自由を求め平和的に集まり、平和的抗議活動をしていた人々の側に立つのです。したがって、私はイラク政府首脳に要求します。人々が求める集会を許可し、抗議活動に参加した人への暴力を停止し、逮捕した人を解放しなさい。」と強い非難声明を発表していると報じている。

ロイター通信電子版は、デンマーク政府も22日(月)にイラン大使を国外追放し、EUの議長国であるチェコは、EU全体で、今回の弾圧行為に対する非難として、加盟国に駐在するイラン大使を国外追放することへの検討に入ったことを伝えている。

さらに、中国の新華社通信電子版は、フランス政府が23日(火)に、二度目のイラン外交官国外追放を行ったことを伝えている。フランスの外務大臣のコメントとして、「多くの死者を出したイラン政府による残酷な抗議活動弾圧に対する批難を再び強く主張する。内政干渉だというイラン政府の反発は全くもって受け入れらないない」との強い非難声明を出している。

世界中の民主主義を基本とする政府を有する国々が、これだけの関心を持って強い非難声明を出し、かつ、イラン外交官の国外追放という行動に歩調を合わせているのは、国際法で守られるべきはずであるイラン人の人権と民主主義が著しく弾圧されているためである。

仮にも常任理事国入りを目指すという我が国の政府はこの問題についてどう考えているのだろうか。

私が知る限り、政府の関係者は、自民党の総裁選のために「宮崎、宮崎と言っている知事」に馬鹿げた要請をしたりと自分たちの選挙のことばかりに奔走しているようで、全くと言っていいほどこの問題に対する関心は低すぎる。

さらに、私が唖然としたのは、外務省のホームページに掲載されている中曽根外務大臣のコメントである。

(外務大臣)イランの大統領選挙後の情勢について申し上げたいと思いますが、先週も申し上げましたが、我が国は6月12日に行われましたイラン・イスラム共和国大統領選挙の結果を巡るこの対立というものは、イラン政府とイラン国民の英知と努力によって解決されるべきものと考えており、その取り組みの動向を注視して参りました。その中で抗議行動が展開されている中、死傷者が出ていることを強く懸念しています。我が国はこのような犠牲者が出る事態は回避されなくてはならず、平和的解決を強く求めるところです。また我が国はイランの制度においてこの事態がどのような形で適正に処理されるのか、引き続き多大な関心を持って事態を注視して参ります。その過程で双方の意見や言論が適切に尊重されることが重要だと考えています。

(問)死傷者が出たことを懸念ということでしたが、イラン政府に対して何らかの働きかけを日本政府はするお考えはあるのでしょうか。

(外務大臣)これは一義的にはイランの政府とイラン国民との間で解決されるべき問題であると考えています。これは選挙後の混乱ですので基本的にそう考えています。事態は今、ハメネイ最高指導者の演説などもありまして、事態は動いているところですので、事態の進捗をよく見ながら、我々としても今後どうするかということは検討していきたいと思います。

(問)言論の自由が尊重されることが重要だというご発言でしたけれども、現状で言論の自由が尊重されていないような事態が起きているというご認識でしょうか。例えば外国のメディア等も含めて、自由な取材が難しい、許されないという事態が続いていまして、或いは反政府派の意見表明が自由に行われるかということにつきましても懸念があるかと思いますけれども、そのようなことを踏まえた上でのご発言でしょうか。

(外務大臣)このような混乱といいますか、どちらか一方が悪いということではなく、やはり秩序も大事だと、一般的に申し上げると秩序ある行動も大事だと思いますし、言論の自由も確保されなければならないと思います。国際社会が注目する中で行われた大統領選挙、その結果生じている今回の事態でありますので、事態の収拾を出来る限りオープンな形で図り、そして、国際社会の懸念に応えて欲しいと考えております。今、お話がありましたように、外国のプレス関係者の国外退去や拘束それ自体、私共も懸念しています。

認識不足も甚だしいのではないだろうか。「どちらか一方が悪いということではない」なんていう唖然とする発言を平気で行い、外務官僚はそれをそのままホームページに載せ、さらに、日本の主要メディア、とくにテレビは、自民党の馬鹿げた出馬依頼と宮崎県知事の馬鹿げた発言には、無駄に時間を割いているくせに、人命が失われ続けているというイランの弾圧問題については、何らこれを重大視して報じない。

この馬鹿げた発言と国際感覚の欠如は、天安門事件で学生たちを弾圧した中国政府およびイランで民衆の平和的抗議活動を弾圧し続けているイラン政府と全く変わらないと言っても過言ではない。

以前、村上春樹氏が私は常に弱い民衆の側に立ち、壁に卵を投げ続けるという趣旨の発言をしていたことを思い出す。

今こそ、世界第二位の経済大国である、日本政府、日本のメディア、そして、日本国民も遠い国の話として、無関心な態度をとるのではなく、この問題に関心を持ち、死者を出し続けているイラン政府に対し、強く抗議して、外交官追放等の行動に出るべきではないだろうか。

日本人として、日本の民主主義の真価が今問われているような気がしてならない。

それでも、私には関係ないと思う人はぜひYoutubeでイランで起こった悲劇的な状況の一旦を見てもなおそう言えるのか考えてほしい。

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最後に、イランの女性人権活動家でノーベル平和賞受賞者のインタビュー記事を以下で紹介する。

イラン 「政治制裁を」ノーベル平和賞エバディさん
6月24日11時34分配信 毎日新聞

 イランの女性人権活動家でノーベル平和賞受賞者のシリン・エバディさん(62)は23日、ブリュッセルで毎日新聞などのインタビューに応じ、欧州連合(EU)など国際社会に対して、デモ隊を弾圧するイラン政府との外交関係を格下げし、対話を凍結する「政治制裁」を科すよう求めた。イラン大統領選挙の結果に抗議するデモ隊と治安部隊の衝突について「最後は市民が勝利する」と強調した。

 エバディさんは「抗議行動の根は選挙問題よりも深い。人権侵害、女性差別、宗教差別、部族差別、検閲に加え、高失業率で人々は貧しくなっており、不満を募らせている」と指摘した。その上で、「デモ隊の主要グループの一つは女性たちだ。(1979年のイスラム)革命以来、女性に差別的な法律が多数できたためだ」と抗議デモにおける女性の役割を強調した。  

 また、政府が武力でデモ隊を封じ込められるのは「短期間だけだ」と指摘し、「国民を殺してしまうことはできず、最後には人々が勝利する」との見通しを示した。抗議行動がイランの体制変更につながるかどうかについては「将来、何が起きるかを分析するのは時期尚早だ。国民が今、欲しているのは再選挙であり、他の要求は出てきた時に論議することになる」と述べるにとどめた。

 国際社会に対しては「平和的な抗議運動がいかに武力と暴力で応じられているか、イランから届く映像を見てほしい」と訴えた。経済制裁には「苦しむのは常に国民だ」と反対しながらも、「暴力が続く限り、欧州諸国はイランと交渉したり、会合を持つべきではない」と語り、EU加盟国に駐イラン大使を召還し、外交関係を代理大使レベルに下げるよう促した。

 エバディさんは22日から23日にかけブリュッセルでEUのソラナ共通外交・安全保障上級代表、加盟27カ国大使、フェレロワルトナー欧州委員(対外関係担当)と会談した。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090624-00000010-maip-int

なお、私はまだ読んでいないのだが、現在のイランの状況を深く考える上で、面白そうな本を発見したので、掲載しておく。

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06/24/2009

足利事件に関与した下級審裁判長への誹謗中傷は筋違い

最近知ったのですが、ネット上で、足利事件に関与した裁判官の実名を挙げ、批判する書き込みが多いようです。

その多くが評論の域を超えた誹謗中傷になっており、私が以前の記事で懸念した事態に至っています。

私のブログにも、そうした書き込みがいくつか散見されたのですが、ブログの方針上、公開はしません。

とりわけ、書き込みの多くは、足利事件に関与した裁判長裁判官を批判するものが多いのですが、多くの人は批判されて当然と思うかもしれませんが、1つ注意すべきことがあります。

それは、最高裁以外の裁判官については、その裁判長裁判官が事件において、有罪または再審請求棄却という判断を個人的にしたか否かはわからないということです。

裁判所法11条は、最高裁について、「裁判書には各裁判官の意見を表示しなければならない」と規定しています。つまり、最高裁では、法廷意見(多数)、補足意見、意見、反対意見が付され、どの裁判官がどう考えて判断したのか明らかになります。

これに対し、下級裁判所の合議事件についてはこうした規定は存在せず、判決で示される判断は、合議において決まった過半数の意見に基づき作成されます。

これも裁判所法に規定があります。

(評議の秘密)

第75条 合議体でする裁判の評議は、これを公行しない。但し、司法修習生の傍聴を許すことができる。

 評議は、裁判長が、これを開き、且つこれを整理する。その評議の経過並びに各裁判官の意見及びその多少の数については、この法律に特別の定がない限り、秘密を守らなければならない。

(評決)

第77条 裁判は、最高裁判所の裁判について最高裁判所が特別の定をした場合を除いて、過半数の意見による。

 過半数の意見によつて裁判をする場合において、左の事項について意見が三説以上に分れ、その説が各〃過半数にならないときは、裁判は、左の意見による。

  1.数額については、過半数になるまで最も多額の意見の数を順次少額 の意見の数に加え、その中で最も少額の意見

  2.刑事については、過半数になるまで被告人に最も不利な意見の数を順次利益な意見の数に加え、その中で最も利益な意見

つまり、下級審の合議では通常裁判官3人により、受訴裁判所が構成されるので、陪席裁判官2名が有罪・死刑判断をして、裁判長裁判官が無罪判断をする場合もあり、この場合は、裁判長裁判官の意見に関わらず、過半数の有罪判断に基づいて判決が下されます。

これを朗読するのは、裁判長裁判官ですが、必ずしも判決と同じ判断をその裁判長が個人的に信じて行ったかは知り得ません。なぜなら、前記の裁判所法75条1項により、評議は公行されず、2項によりその内容について、秘密を守る義務があるためです。

たしかに、足利事件の裁判所の判断が誤っていたことが明らかになったのですから、どうしてそういう判断の誤りが生じたか冷静かつ深く分析する必要があります。

しかし、各裁判官がどういう判断を個人的にしたかは下級審においてはわかりえません。

にもかかわらず、関与した裁判長裁判官が有罪・死刑判決を下したとして、実名を挙げ誹謗中傷するのは、社会的制裁における冤罪の可能性すらあると私は考え懸念しています。

つまり、裁判長裁判官一人が無罪と信じていても、陪席2人が有罪・死刑と評議で決すれば、裁判長裁判官は有罪・死刑判決を朗読せねばならず、いかんともし難いわけです。

もし、そういう事情があって、有罪判決を朗読しているにもかかわらず、実名を挙げ裁判官を攻撃しているとすれば、これは立派な社会的制裁における冤罪に加担することになるでしょう。

もちろん、私自身、菅家さんの17年間の苦しみを思うと、なぜ鑑定結果を信じ過ぎたのかという疑問も感じますし、振り返ると、下級審、最高裁の判断は理解しがたい面が多々あります。菅家さんが謝罪してほしいと思う気持ちは当然でしょう。

有罪判断をした裁判官が個人の意思に基づいて、謝罪するというのであれば、大いにしたらよいと思いますが、国民が事件に関与した裁判官を悪と決め付け、誹謗中傷している風潮には著しい危惧を感じてしまいます。

もっとも、当時の最高裁の裁判官については、誹謗中傷に至らない程度で、その個人的意見を批判することは可能ですし、大いにすべきと思います。

なぜなら、最高裁については、そうした批判を制度として担保するために、裁判所法11条で意見の表示が定められ、憲法上国民審査が制定されているためです。

しかし、下級審の裁判官に対して、国民がすべきことは関与した裁判官に対する誹謗中傷ではなく、どうしてそういう判断になったのかという検証ではないでしょうか。

もちろん、裁判官は権力そのものですから、こうした批判に耐えなければいけませんし、それを覚悟で職務を執行しているとは思います。

ただ、今回、あまりにも、「裁判長=判決と同じ意見を個人的に持っている」という誤った理解をした誹謗中傷が多いので、その危惧を込めて記事にしました。

なぜ私がこれだけこのことを問題視したかというと、袴田事件という死刑判決が出た事件(リンク先は松山大学の田村教授のホームページ)があったのですが、このときに一審の裁判官だった熊本典道先生が判決を書くことおよび守秘義務との関係で悩み続けたという話があるからです。

熊本先生は、陪席裁判官だったと記憶していますが、無罪との心証を持っていたにもかかわらず、過半数で有罪判決となったため、この事件の判決書きの担当だった熊本先生が個人の信念に反して死刑判決を書かなければなりませんでした。

その後、賛否はありますが、熊本先生は、裁判官をやめ、守秘義務も破り、袴田被告の無罪を信じて今も再審請求などの弁護活動をしています。

こうした裁判官が現にいること、裁判所法に規定の存在を考えると、足利事件の下級審裁判官について、単純に誹謗中傷に走ることには強い疑問を感じざるを得ません。

したがって、私見をまとめると次のようになります。

①事件に関与した下級審の裁判長裁判官が有罪判断をしたかどうかはわからないので、特定の裁判官を悪と決め付けて批判すること、さらには、誹謗中傷に走るべきではない。

②もっとも、下級審判断の問題点を検証することは大いにやるべきである。

③最高裁裁判官は全員一致で有罪判断をしているので、その判断を批判することは言論の自由として大いにやるべきである。ただ、誹謗中傷は許されない。

④当時の捜査関係者(警察関係者、検察官)について、誹謗中傷は許されないが、批判することは当然である。

ちなみに、当時の捜査担当者のブログが炎上したという話も聞きました。その捜査担当者は、産経新聞の取材に対し、再鑑定の決定が出たときも、自分たちがした捜査に間違いはないと言っていたそうです。

私は、誹謗中傷には賛成しませんが、警察および検察も権力そのものであり、冤罪を作り出した機関そのものですから、④に示したように社会的批判にさらされるのはやむを得ないことだと思います。

この捜査関係者はブログを削除したそうですが、退職しても自分の行ったことへの責任は付きまとうでしょうから、DNA鑑定の誤りがはっきりした以上、個人的には、菅家さん本人に直接謝罪することをした方が良いと思います。

なお、当時の捜査関係者が表彰を返納したそうですが、冤罪を犯しておきながら表彰されるなんてのはおかしな話ですから、これも当然でしょう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090622-00000948-yom-soci

以下リンクにある記事と松山大学の田村譲教授のホームページが袴田事件について詳しく書いてあるのでぜひ興味がある方は読んでみてください。

http://www.news.janjan.jp/living/0711/0711075288/1.php

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hakamada.htm

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06/23/2009

足利事件の再審開始決定に関する問題点について

ついに、22日午前11時25分頃、累計訪問者数が30,000人を超えました!

とりわけ、定期的にブログをチェックしてくれる読者の皆様には、感謝申し上げます。

また、おかげさまで、登録から4日目にして、ブログ村政治ブログ法律法学部門で1位(31サイト中)、5日目にして、海外生活ブログ国際生活部門で10位(137サイト中)にランキング付けされました。

政治ブログとしては、現在55位(1633サイト中)です。

これからも不定期の更新になるとは思うのですが、極力毎日、幅広い事柄について、私見を紹介できればと思います。よろしくお願いします。

それでは、今日の本題に。

以前にもブログで取り上げた足利事件の再審に関するニュースが流れました。

<足利事件>抗告審「裁判官交代を」…弁護団が申し立て
6月22日20時41分配信 毎日新聞

4歳女児が殺害された足利事件で、釈放された菅家利和さん(62)の弁護団は22日、再審請求の即時抗告審を審理する東京高裁の矢村宏裁判長ら3人の裁判官について、交代を求める忌避の申し立てをした。高裁(矢村裁判長)は即日却下。23日午前に再審開始を認める決定を出す見通し。

 弁護団は証人尋問などを通じ捜査や当初のDNA鑑定の検証を求めたが、高裁は実施せずに再審開始の可否について決定を出す方針を示した。忌避申し立てで弁護団は「事件の真相を究明するための徹底審理をせず、公平な裁判を期待できない」と主張したが、矢村裁判長は「訴訟を遅延させる目的のみでなされたことが明らか」と退けた。

 刑事訴訟法は、裁判官が事件当事者と関係があるなど不公平な裁判をする恐れがある場合に忌避を申し立てられると定める。しかし、審理を遅らせる目的のみで申し立てたことが明らかな場合は、同じ裁判官が簡易却下でき、裁判手続きは停止されない。【安高晋】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090622-00000086-mai-soci

これについて、簡単に解説をしたいと思います。

現在の状況は、再審請求を東京高裁に行っている状態で、法律的には未だ菅家さんの無罪が確定している状態ではありません。東京高裁が再鑑定を実施したのは、刑訴法445条に基づく事実の取り調べとして行ったものです。

弁護団は、この事実の取り調べとして、証人尋問等を要求しているわけですが、これを行うか否かは裁判所が必要であると判断したときのみ行われることになります。

つまり、取り調べの範囲・方法等は裁判所の合理的裁量に委ねられている(池田・前田、刑事訴訟法p462)と言うことになります。

本件では、検察側が無罪を求めるわけですから、再審開始決定について争いが無く、「再審開始の請求が理由があるとき」(刑訴法448条1項)に当たるため、これ以上の事実の取り調べが必要がないということで、証人喚問等を行わないことになる見込みです。

そこで、弁護人は、冤罪の原因を追及するために、裁判官の忌避の申し立てました(刑訴法21条1項)。通常は、東京高裁の別の裁判官により、申し立てを棄却する決定が出されれることになるのですが(刑訴法23条1項)、今回は簡易却下(刑訴法24条1項)取られました。

これは、訴訟を遅延させる目的のみでされたことが明らかな忌避の申し立てに当たるとして、忌避を申し立てられた裁判官自身で忌避申し立てを却下する制度です。多くの場合は、訴訟の引き延ばしに忌避申し立て制度が濫用されるためにこのような制度が設けられているわけです。

なお、忌避事由というのは客観的に除斥事由(①裁判官が被害者であるとき。②裁判官が被告人又は被害者の親族であるとき、又はあつたとき。③裁判官が被告人又は被害者の法定代理人、後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人又は補助監督人であるとき。④裁判官が事件について証人又は鑑定人となつたとき。 ⑤裁判官が事件について被告人の代理人、弁護人又は補佐人となつたとき。⑥裁判官が事件について検察官又は司法警察員の職務を行つたとき。⑦裁判官が事件について第二百六十六条第二号の決定、略式命令、前審の裁判、第三百九十八条乃至第四百条、第四百十二条若しくは第四百十三条の規定により差し戻し、若しくは移送された場合における原判決又はこれらの裁判の基礎となつた取調べに関与したとき。ただし、受託裁判官として関与した場合は、この限りでない。)に準ずる事実がある場合に認められるわけですから、「真実を闇に葬り去る、おそれが極めて濃厚」というのでは、認められないと言わざるを得ません。訴訟の遅延ということで、簡易却下されるのは法律的には仕方ないでしょう。

おそらく弁護人は、再審の名誉回復機能を重視して、裁判所が「事実の取り調べ」をもっと行い、真実究明を徹底してほしいという狙いがあるのでしょう。

それに対し、東京高裁の受訴裁判所(事件を担当する裁判官3名)は 、再審決定をするだけの十分な理由があるので、これ以上の事実の取り調べ不要と言う判断をするのでしょう。

再審決定がされると、確定判決の審級に応じて、さらに審判を行うことになります(刑訴法451条1項)。本件は最高裁の上告棄却判決、第二審の東京高裁の控訴棄却判決により原判決である第一審の宇都宮地裁の判決が確定したことになっていますから、宇都宮地裁が再審の審判を行うことになると思います。

だとすると、この再審の審判の中で、事実を解明するれば良いと考える人もいるかもしれません。

しかし、再審の審判では、検察側が無罪論告を行うとしているので、無罪判決が出され、事実上、どうして冤罪に至ったのかという検証をする機会がなくなってしまうわけです。

そこで、弁護団は、再審開始決定前の東京高裁による「事実の取り調べ」により、証人尋問等を行って、真相追及をしたい考えなのだと思います。

この無罪論告を行った場合の再審公判については、中日新聞の記事が解りやすいので、以下で紹介しておきます。

実際、下記の中日新聞の記事にもありますが、再審の名誉回復機能が果たされない場合も多く、裁判所を相手に冤罪の検証をするのが困難だという現実があります。

法律的には、東京高裁は事実の取り調べをこれ以上必要ないと判断するのは正当ではありますが、17年の菅家さんの苦痛を思えば、なぜ冤罪が生じてしまったのかという検証なくこの事件の刑事裁判が終わってしまうというのでは、具体的妥当性が図られているかは疑問が残るところでしょう。

仮に、今日(23日)に行われる再審開始決定前に事実の取り調べが終了してしまえば、菅家さんに残されている方法としては、再審の審判の中で、真実を究明するわけですが、宇都宮地裁の裁判官がどこまで菅家さんの気持ちや再審の名誉回復機能を重視するかというところにかかってくると思います。

今後、冤罪事件の防止(とりわけ、飯塚事件のような死刑判断が出た場合の執行の在り方)、および、冤罪が明らかになった後の名誉回復方法などをもっと検証する必要があると思います。

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再審で「無罪」論告、早ければ年内に判決 菅家さん釈放
2009年6月5日 夕刊

栃木県足利市で1990年、保育園女児=当時(4つ)=が誘拐、殺害された事件で、検察当局は、再審請求中に釈放された菅家利和さん(62)=無期懲役が確定=の再審公判に備え、新たな有罪立証をせず、異例の無罪論告をする方針を固めた。早ければ年内にも、菅家さんが再審無罪の判決を受け確定することが確実となった。

 有罪認定の有力証拠となったDNA鑑定の信用性が、最先端技術による再鑑定で否定されたことに対し、検察当局は「無罪を言い渡すべき証拠に当たる」とする意見書を既に東京高裁に提出。十分に反論する証拠がないと判断したとみられる。

 今後の手続きでは、弁護団も12日までに再鑑定結果への意見書を東京高裁へ提出。裁判官、検察官、弁護人の三者協議を経て、高裁が再審開始の可否を決める日時を指定する。

 開始決定が出れば、検察側は受け入れ、確定判決を出した一審の宇都宮地裁でやり直しの審理が始まる。再審になっても検察側は通常、あらためて有罪立証を試みるが、今回は無罪論告をする方針のため、審理は多くても2、3回で終わる可能性が大きい。

 弁護側は菅家さんが“自白”に至った経緯を検証するため、取り調べをした警察官や検察官らの証人尋問を求めるとみられるが、裁判所が認めるかどうか注目される。弁護側が「謝罪」を求めた場合の検察側の対応も問題になりそうだ。

 検察側が無罪論告をした再審事件では、強姦(ごうかん)容疑などで誤認逮捕された富山の冤罪(えんざい)事件のケースがあり、公判は計4回開廷。再審開始決定からわずか半年で無罪が確定した。誤判に至る実態解明のため弁護側が求めた取調官の証人尋問申請は裁判所に却下された。

 足利事件の確定判決では、菅家さんが90年5月、足利市内のパチンコ店から女児を近くの河川敷に誘い出し絞殺した、とされている。

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009060502000261.html

以下の冤罪をテーマにした映画を再度紹介したい。レンタルビデオでもいいので、ぜひ見て日本の司法の問題、裁判員として司法参加する上での注意すべきことは何かを考えてほしい。

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06/22/2009

検察審査会とは?

17日に、メディアで大きく取り上げられていましたね。検察審査会というのは、皆さんニュースで聞くことはあるのですが、それが何かあまり知られていないのではないでしょうか。

我が国では、刑事事件については、検察官のみに公訴権が与えられています(刑訴法247条)。これは起訴独占主義といわれるものです。

したがって、ある事件の疑いがある場合に、起訴するかどうかは一義的には、検察官の判断に委ねられるわけです。

しかし、検察官が常に起訴すべきものを適切に起訴できているかは疑わしいでしょう。そこで、公訴権の行使に際し、検察機構とは独立した第三者的立場で、国民の意見を反映させる仕組みが設けられているわけです。

それが、検察審査会というものです。

あまり知られていないのですが、裁判員制度の開始に伴って、検察審査会法も一部重要な改正がなされました。

以前は、検察審査会の決議に法的拘束力はなかったのですが、5月の改正法施行により、以下のように変わりました。

  【改正前】

  41条 検事正は、前条の規定により議決書謄本の送付があつた場合において、その議決を参考にし、公訴を提起すべきものと思料するときは、起訴の手続をしなければならない。

  【改正後】

  41条 検察審査会が第三十九条の五第一項第一号の議決をした場合において、前条の議決書の謄本の送付があつたときは、検察官は、速やかに、当該議決を参考にして、公訴を提起すべきか否かを検討した上、当該議決に係る事件について公訴を提起し、又はこれを提起しない処分をしなければならない。 

  検察審査会が第三十九条の五第一項第二号の議決をした場合において、前条の議決書の謄本の送付があつたときは、検察官は、速やかに、当該議決を参考にして、当該公訴を提起しない処分の当否を検討した上、当該議決に係る事件について公訴を提起し、又はこれを提起しない処分をしなければならない。

  検察官は、前二項の処分をしたときは、直ちに、前二項の検察審査会にその旨を通知しなければならない。

  41条の2 第三十九条の五第一項第一号の議決をした検察審査会は、検察官から前条第三項の規定による公訴を提起しない処分をした旨の通知を受けたときは、当該処分の当否の審査を行わなければならない。ただし、次項の規定による審査が行われたときは、この限りでない。

   第三十九条の五第一項第一号の議決をした検察審査会は、第四十条の規定により当該議決に係る議決書の謄本の送付をした日から三月(検察官が当該検察審査会に対し三月を超えない範囲で延長を必要とする期間及びその理由を通知したときは、その期間を加えた期間)以内に前条第三項の規定による通知がなかつたときは、その期間が経過した時に、当該議決があつた公訴を提起しない処分と同一の処分があつたものとみなして、当該処分の当否の審査を行わなければならない。ただし、審査の結果議決をする前に、検察官から同項の規定による公訴を提起しない処分をした旨の通知を受けたときは、当該処分の当否の審査を行わなければならない。

  41条の6 検察審査会は、第四十一条の二の規定による審査を行つた場合において、起訴を相当と認めるときは、第三十九条の五第一項第一号の規定にかかわらず、起訴をすべき旨の議決(以下「起訴議決」という。)をするものとする。起訴議決をするには、第二十七条の規定にかかわらず、検察審査員八人以上の多数によらなければならない。

つまり、検察審査会が2回、「起訴相当(不起訴不当)」であると判断した場合は、その判断を検察官の公訴権の判断よりも優先させる仕組みに変わったわけです。

検察審査会は選挙人名簿(有権者)の中から選らばれた一般市民のより構成されるので、市民感覚として、起訴が相当であると判断した以上、その意思の反映を公訴提起段階でも、反映させようというものです。

より簡単なイメージ図は、最高裁のホームページにあります。

したがって、今回の二階経済産業大臣の政治団体による政治資金規正法違反事件は、第一段階において、東京地検特捜部の不起訴判断が妥当ではない、つまり、起訴相当であるという判断が出たわけです。

今回の審査会の決議内容は、審査申立人の代理人をされている阪口徳雄弁護士のブログで公開されている。

この決議を見る限り、被疑者である国沢氏については、「十分な証拠があるのに起訴猶予」という指摘がされているし、その余の被疑者についても、「捜査が尽くされているとは到底言えない」とのかなり厳しい指摘がされています。

安易に不起訴判断をした東京地検特捜部は自らの首を絞める結果になったかもしれません。これで、国策捜査だという批判はさらに高まるでしょう。

特に、国沢氏に対する起訴猶予判断については、自白して反省しているので不起訴という理由が挙げられているようであるが、日本で禁止されている司法取引が事実上されているという批判すら起きかねず、これが国民の目にどう映るか、検察の信用が落ちかねない事態に至るという最悪のケースも想定されそうです。

また、先日逮捕された厚生省の局長の関与が疑われる郵便代金制度の不正利用問題ですが、これについても、民主党の政治家の関与が疑われており、さらには国策捜査疑惑が出始めています。聞いてみると、その政治家は小沢氏に近い有名な衆議院議員だということです。

これも否認事件ですから、マスメディアはやはり慎重に報道すべきですし、十分な証拠がない限り、検察関係者が垂れ流した情報をそのまま報道するのは自制すべきでしょう。

検察は今まで以上に国民の厳しい目にさらされているという自覚が必要かもしれません。他方で、マスメディアに一方的な情報をリークするようなことをして、説明責任を問われると、公判を通じて説明するという従来の手法では、もう国民は納得しない状況にあると考えるべきです。

そして、そういう国民の司法参加を望んだのは、司法制度改革を進めた法務省であり、検察であり、裁判所であることも忘れてはいけません。

さて、検察審査会や裁判員に参加することについては、自分にはやはり関係ないことと思っている人も多いだろう。この記事を契機に興味を持った方などがいれば、次の小説をお勧めします。

この本は、一般人である主人公に突然検察審査会への参加通知が届き、刑事事件に円が無かった人間が、それに参加して犯罪のミステリーを解いていくというミステリー小説なのだが、司法に対する関心を高める上では読みやすい本だと思う。興味があれば値段も高くないので、読んでみてはいかがでしょうか。

自民二階派の不起訴不当議決=西松パーティー券購入問題-検察審査会
6月17日11時7分配信 時事通信

 自民党二階派の政治団体「新しい波」が西松建設のダミー団体からパーティー券代約830万円を受領した問題で、東京地検特捜部が会計責任者だった国会議員らを不起訴とした処分について、東京第3検察審査会は17日までに、不起訴不当とする議決をした。起訴猶予とされた同社前社長国沢幹雄被告(70)=政治資金規正法違反罪などで起訴=については起訴相当とした。議決はいずれも16日付。
 同法違反容疑で告発した大阪市の市民団体が、処分を不服として審査を申し立てていた。
 議決は、嫌疑不十分で不起訴とされた当時の会計責任者らについて「記録を見る限り、捜査が尽くされているとは到底言えない」と検察の捜査を批判。「さらに踏み込んだ捜査が期待される」として、処分の再考を求めた。
 小沢一郎民主党前代表の政治団体に対する偽装献金事件で起訴されたことを理由に、起訴猶予とされた国沢被告については「十分な証拠があるのに起訴猶予は納得できない。この事件として責任を取るべきだ」と指摘した。
 東京地検の谷川恒太次席検事は「議決については内容を十分に検討し、適切に対処したい」とコメントした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090617-00000066-jij-soci 

さて、自民党は、小沢代表だけでなく自分のところの議員についても同様の動きをするのであれば、わかるのですがどうも都合のいいことだけ言っていると思ってしまうのは私だけでしょうか。

なお、参考人招致をするというのは国政調査権の発動として、事件を調べると言うことですが、これについても司法権との関係で慎重さが要求されます。特に現在裁判所での審理が進行中の事件ですから、裁判所の訴訟指揮や審理内容に影響を与えるようなことになれば、司法権の侵害であり、憲法で定める裁判官の独立に抵触します。

行うのであれば、裁判所とは異なる目的で調査するということをはっきりと説明する責任が国会に生じるのであり、国民はこの点もしっかり監視しておく必要があるでしょう。

小沢氏の参考人招致も=自民・菅氏
6月21日18時25分配信 時事通信

自民党の菅義偉選対副委員長は21日、宮城県東松島市で講演し、西松建設の違法献金事件の公判で、小沢一郎民主党代表代行の事務所が公共工事の談合に関与したと検察が指摘したことに関し、「小沢氏は今まで全く関係ないと言ってきたが、(関与が)明確になっているから皆さんに説明する責任がある」と指摘。「小沢氏が説明しなければ、参考人として出てもらうことも当然求めなければならない」と述べ、国会招致も辞さない姿勢を示した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090621-00000061-jij-pol 

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06/21/2009

最近のスーザン・ボイル(Susan Boyle)さんについて

日曜日なので、軽い(?)話題を1つ。

スーザン・ボイルさんのその後が気になっている人も多いでしょう。

現在、番組のUK国内ツアーをこなしているようですが、やはりストレスが依然としてたまっているようで、いくつかの公演への参加を見合わせたりしているようです。

BBCニュースによれば、審査員の一人だったサイモン・コーウェル氏が、番組全体を振り返り、ボイルさんに対する対応に間違いがあったことを認めたそうです。

記事によると、サイモン・コーウェル氏もボイルさんが予選に登場した時、「彼女は良い線いくだろう。」とは思ったそうですが、世界中に彼女の話題が配信され、世界的なボイルさん現象が起こるほどのことは予想しておらず、ボイルさんへの適切なケアを十分行うことができなかったと振り返っています。

コーウェル氏によれば、決勝戦での結果発表の際、すぐにボイルさん表情からいかに落ち込んでいるかというのが解り、彼女が勝利できなかったことについて気持ちの整理をどうしたらいいかわからない状態にあると思ったそうです。

また、最近ボイルさんの家族との間で、ボイルさんを「Britain's Got Talent」に出したことが本当に良かったのかどうかを考える機会を持ち、結論として家族は出場して良かったと答えてくれたそうです。

ただ、心配な情報もあります。タブロイド、ミラー紙の電子版は、ボイルさんが現在のツアー中に、ホテルで、「私の猫はどこ?」と30分近く叫ぶ姿が目撃されており、情緒不安定な印象を与える行動があったことを伝えています。

テレグラフ紙電子版によれば、コーウェル氏もこうしたボイルさんへの精神的負担がある状況は把握しているようで、ボイルさんが望むのであれば、2つのCDをレコーディングする契約も破棄し、ボイルさんにとって一番いい方法を考えることすると家族にも約束しているそうです。

また、コーウェル氏は、番組内で、子供の出演者に対する対応がキツ過ぎたという反省も述べています。

有名になり注目が集まるのはわかるのですが、タブロイドの報道はやはり品位を書く下劣なものが多く、しつこい取材攻勢も想像が容易にできます。

日本のメディアも、海外のことで関係ないと思うのではなく、ボイルさんとパパラッチの在り方なども参考にして、過熱報道に走らない自制心を養う機会にしてほしいものです。

ボイルさんにとって一番いい生活が一日も早く確保されることを願っています。

さて、恒例(?)のCD紹介コーナーです。既にご存じの人も多いと思いますが、Britain's Got Talentの第1回優勝者のポール・ポッツさんの新しいCDが発売されています。

この中に収録されている曲になんとミュージカル「Cats」でおなじみの『メモリー』が収録されています。ボイルさんも準決勝で歌ったあの曲です。おもしろいのは、ポッツさんはそれをイタリア語で歌っているのです。

もともとは、メモリーは女性歌手が歌う曲で、かなり高音が要求されますが、ポッツさんは素晴らしい歌声で歌いあげています。一度聞いてみると良いかもしれません。

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6月17日の党首討論について(番外編)

前編後編と2日に渡った党首討論の評価が終わり、ホッとしています。

にほんブログ村というブログ人気ランキングサイトの政治部門で、1位を取っていらっしゃる美爾依(みにー)さんが私の党首討論の評価をブログで紹介してくれたおかげも相まって、ボイルさん人気の時と同じくらいアクセスが増えており、人気ブロガーの影響の大きさを再認識した。

美爾依さんにはこの場を借りて、お礼に代えさせていただきたいと思います。また、定期的に私のブログを見に来てくださっている読者の方々、様々な視点から真面目なコメントをいただく皆様にも、同様にお礼を言わせていただきたいです。

さて、今日は、党首討論に関連し、クエッションタイムに当たる議長姿勢についても一言評価したいと思います。

今回の党首討論は、衆議員の国家基本政策委員会の合同審査会において行われ、議長は、二田孝治氏が行っているが、単なるお飾り的で議長としての役割を果たしていないと言わざるを得ません。

私は、クエッションタイムに当たっては本場イギリスのように、三権の立法府の長である衆議員議長が執り行うべきであり、議長は議事に当たってしっかりと指揮権を発揮すべきだと思います。

例えば、イギリスの有名な元下院議長、ベティー・ブースロイド(Betty Boothroyd)氏は、ヤジや不規則発言に対し、厳格な姿勢で臨んでいます。

こうした、厳格な議場指揮がなければ、真剣な討論はできないでしょう。

三権の長のうち、立法府の長である議院の議長が議場を指揮し、行政の長である内閣総理大臣が説明責任を果たして初めて、党首討論(クエッションタイム)が通常の予算委員会等での総理大臣の答弁とは違う、有意義なものになるはずです。

日本のクエッションタイムも、議長が「○○君」とどこから声を出しているのかわからないような不思議な声で議場を指揮したり、「不規則発言はやめてください」とお願いするような注意の仕方をするのではなく、「静かにしなさい!」と議長が指揮権に基づいて、不規則発言をした者を怒りつけたり、退場を命じる場面があっても良いように思う。

ところで、産経新聞の党首討論の評価はあまりにもお粗末である。

党首討論 説明責任に徹した首相 スローガン目立つ鳩山氏
6月17日23時36分配信 産経新聞

 麻生太郎首相と鳩山由紀夫民主党代表の2度目の党首討論(国家基本政策委員会合同審査会)が17日、開かれた。日本郵政をめぐる混乱による支持率急落を受け、鳩山氏は「首相は判断が『できない』『ぶれる』『間違える』の3つだ。首相の器としていかがなものか」と攻めの論戦を挑み、公共事業の無駄遣いや社会保障費削減などを追及。首相は「こう振ったら何兆円が出てくるごとくのような話は現実味を欠いている」と反論した。7月冒頭解散が現実味を増し、論戦の行方は次期衆院選を左右しかねない。久々に緊迫感の漂う論戦となった。

 党首討論の45分間。首相は笑いもせず、怒りもせず、淡々と政府・与党の政策を説明し続けた。内閣支持率急落を受け、気持ちが吹っ切れたのか。まるで理論家で知られる与謝野馨財務相が首相に憑依(ひょうい)したかのようにも見えた。

 鳩山氏はまず、支持率急落の引き金となった日本郵政の西川善文社長の再任をめぐる鳩山邦夫前総務相の更迭劇に矛先を向けた。

 鳩山氏「間違った方のクビを切ったのではないか。こんな判断では国民が『首相の器』としていかがなものかと思って当然ではないか」

 麻生首相「日本郵政は政府が100%株式を持っているとはいえ民営化された会社だ。民営化の趣旨から言っても政府の人事介入は特に慎重であるべきだ」

 ここで鳩山氏は「私どもが政権を取ったら日本郵政の西川さんにお辞めいただくしかない」と明言してみせたが、首相はこれを逆手に取った。

 「民間会社の人事を世論で決めるのか。うかつにやるべきでない」

 これこそが問題の本質といえよう。確かにかんぽの宿譲渡問題は不透明な部分が多く、西川氏は説明責任を怠ってきた。首相も「西川氏の行状」という表現を使い、西川氏への不満をにじませた。

 だが、世論を背景に政治が人事介入を繰り返せば、民営化する意味はない。何より自民党は、民営化の是非を問うた先の衆院選を否定することになる。「正義」を振りかざし、西川氏に辞任を迫る邦夫氏を更迭した理由はここにある。

 残念なのは、首相が今回のような分かりやすい言葉で自らの考えを説明してこなかったことだ。もし早い段階で首相が自らの意向を説明していれば混乱は避けられたかも知れない。

 前回(5月27日)の党首討論で首相は西松建設の違法献金事件を追及する「攻め」の作戦に出たが、世間は「友愛」を切々と語った鳩山氏に軍配を上げた。今回も「民主党の疑惑を追及すべき」との声があったが、首相は取り合わなかった。「政権・与党の矜持(きょうじ)」とは政策の説明責任にある。首相もようやくその重さを自覚したようだ。

 首相は「社会保障費を手当する財源として消費税は避けて通れない。財源をきちんと提示してこそ政策は実現しうる」と述べ、税制抜本改正の必要性を重ねて強調。北朝鮮に対する国連安保理決議に基づき、公海上の貨物検査(臨検)を行うための新法について、鳩山氏から「できるだけ早く結論を出すことを約束したい」との言質を引き出したことも評価できる。

 一方、鳩山氏は相変わらずスローガンばかりが目立った。現政権に「官僚任せ」「人の命より財源なのか」とレッテルを張り、自らを「国民と一緒に歩む政治」「人の命をまず大事にする政治」と称した。耳触りはよいが、民主党は、野党であることに存在意義を見いだしていた旧社会党ではないはずだ。目前に首相の座が見えている人物が「政権をとっても4年間消費税の増税はしない」と軽々に断じてよいのか。

 もう一つ、残念なのは、またも安保・外交論議が棚上げされたことだ。首相は最後に「われわれは日米安保条約を確固たるものにするのがもっとも大事だと考えている」と力説し、鳩山氏の見解をただしたが、時間切れとなった。

 ただ、首相が「財源」「安全保障」にテーマを絞った党首討論を呼びかけ、鳩山氏が「異論はない」と応諾したことは喜ばしい。次回は衆院解散前の最後の党首討論となる公算が大きい。政権の座をかけ、堂々とした国家論を交わしてほしい。(石橋文登)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090617-00000638-san-pol

保守系の新聞であることを差し引いても、こんな論評しかできないのかと悲しくさえなる。朝日新聞のプロパガンダもさることながら、保守系の産経も負けず劣らずのプロパガンダを行っている。

もちろん、思想や価値観の違いで、どちらの討論が説得的だったかという結論に違いが生じるのは仕方がない。

しかし、麻生首相のあのような回答で、説明責任を果たしていると言えるのであれば、いくら価値観が保守的で近いなどの理由があろうとも、産経新聞はメディアとしての政治に対するチェック機能を完全に放棄していると言わざるを得ないのではないだろうか。

日本のメディアの質が著しく低下していると思えてならない。

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06/20/2009

6月17日の党首討論について(後半)

昨日取り上げた党首討論の評価だが、思った以上に労力がかかり、途中で投げ出したい気持ちでいっぱいなのだが、読者がいる以上、一旦始めたので最後までやろうと思う。

4.鳩山氏の再質問(医療問題と財源)麻生総理の回答(19分31秒~27分51秒)

さて、鳩山代表の絶好の見せ場となったのがこの場面である。

「私は今お話をうかがって、人の命より財源の方が大事かなと。やはり私は人の命をまず大事にする政治というものを作る。」

この発言は、切り返しとしては、そこそこの高得点を与えるべき反応だと私は評価している。麻生総理が、医師不足問題に適切な説明をせずに、財源論で誤魔化そうとしたのを鋭く突いた一言であろう。

しかし、私の合格点には達していない。まず、絶好の攻撃のチャンスなのに、鳩山氏の発言には気迫が無い。イギリスやアメリカでこのような場面があれば、発言者は語気を強め、政府の見識のなさを痛烈に批判する。国民に対し、怒りを共有しているという姿勢を示すわけである。

しかし、鳩山氏の場合、味気が無い。どことなくお坊ちゃんの反応で、「総理の見識の甘さ、問題に対するリーダーシップの欠如を追求するぞ」という気迫が見ている側には伝わって来ないのである。

以下の動画はイギリスのクエッションタイムで、今年の5月9日に行われたものだが、野党第2党のニック・クレッグ(Nick Clegg)党首が、教育問題を追及している姿である。

クレッグ党首が労働党政権下での教育水準が低いことについて質問した際に、ブラウン首相は「10年間で2倍以上の支出をしている。これだけの支出をするのは保守党や自由民主党の政権下ではありえなかったはずだ。」と自らの実績を強調し、教育水準が十分な状態に達していると反論している。

日本と違うのは次である。

クレッグ党首は、ブラウン首相の回答を受けて、真っ先に、「(教育水準が十分な状態にあるとの考えに固執するブラウン首相の)頑固な姿勢は、リーダシップではありません。愚行です。」と攻撃し、その後与党議員から飛んできたヤジに次のように応酬した。

私は少なくとも、ブラウン首相に面と向かって言った。あなた方は陰で悪口をいうだけではないか。

ヤジに対する鋭い仕返しであり、見ている国民は労働党内で「ブラウンおろし」の動きがあるのを知っているので、「なるほど、皆が言いたいことを代弁してくれた」という感想を持つのではないだろうか。

この辺が、ディベート文化が根付いているイギリスと日本の違いであろう。

せっかくのチャンスを無駄にして、鳩山代表は、医療体制の不備の問題をさらに追及して、具体策のない政府には任せておけないという主張をすることなく、麻生総理の言った財政論に乗ってしまうという大きなミスを犯したと言ってもよいだろう。

これは結局、鳩山代表の側の準備不足が原因であろう。

というのは、政府のどの政策を批判するのかというターゲットを絞り込まずに、漠然とこの分野について追及するという程度の戦略で臨んでいるため、麻生総理の誤魔化しの議論に乗ってしまい、結局何を追及しているのかわからなくなっているのである。

このあと、鳩山氏は財政論に移っていく。

そして、「官僚任せ」、「消費税の前に無駄を省く」という抽象論に陥ってしまうため、国民からすれば、白けてしまうのではないだろうか。何億円だとか、何兆円だという財政論は、国民からすれば、わかりにくく、身近な問題でないため、これにより支持率が変わることはないだろうし、抽象論に終始すれば、保守系メディアが「抽象論。具体策なし。やっぱり任せられない。」と批判をする。

民主党からすれば、「無駄をなくせ」という主張は国民受けが良いと思っているのかもしれないが、国民は当然のことであって、それをどうやるかを聞きたいのであり、それを示せない以上、こういう議論に乗らずに、具体的問題に対応した政府の政策に代わる対案を示すような議論をすべきだったと考える。

したがって、医師不足問題の追求をあっさり辞めてしまったのは大きな失点である。

次に、麻生総理の答弁を見てみよう。

細かい金額を挙げて議論しているが、こうした財源論に当たってこのような金額を挙げても、一般の国民は何について話しているのかわからない。

鳩山代表は「無駄をなくせば増税議論はしなくてもよい」という主張をしたのであるから、麻生総理としては、いかに自民党政権が無駄の削減に努めているかを示す事実を提示したりして、無駄遣いを抑止してきた具体策を示して、政府としての説明責任を果たすべきだった。

しかし、民主党の掲げる数値目標らしき数字を批判するだけで、政府としての実績を一つも説明できていない。

これでは議論がかみ合わないし、説明責任を果たしていないことになる。

民主党の主張を批判するのであれば、まず、「我々はこれだけ無駄を省いて削減してきた。」という実績を強調した上で、「民主党は数字遊びしているだけで、必要なものと不要なものの区別すらできておらず、具体的に削減すべきものを示しきれていない。」などの批判をすればよかったのに、そうした議論は全くされていないのは残念である。

5.鳩山代表の再質問(財源論)と麻生総理の回答(27分52秒~36分15秒)

冒頭麻生総理の認識を正し、官僚の用意した文章が棒読みだという威勢のいい批判は良いと思う。こういう指摘は国民の印象に残りやすい。

しかし、鳩山代表はまた余計な話をダラダラとしてしまう。

冒頭の批判の後、直に、「無駄を省くために、民主党のいう項目別での試算検討を政府としてやらないのか」などのジャブを繰り広げ、無駄削減への政府の姿勢を追及すべきだったのだが、「細田幹事長が公開質問したのが失礼」とか余計な話を持ち出しているのである。

ここは、麻生総理が民主党の示した試算方法を理解した上で批判しているのかを問いただして、「自民党は無駄を省くための試算も官僚任せで、野党との議論に真剣に向き合おうとしていない」という痛烈な批判ができる絶好のチャンスだったはずである。

しかし、自らそのチャンスをどぶに捨てており、ディベート戦術の甘さが伺える。

ただ、その後は鳩山代表も挽回している。

話を政府の無駄削減の努力という点に戻して、そこをターゲットにして攻撃を仕掛けているのは、明確でわかりやすい。

また、与党自民党内での無駄使いの指摘の例(河野太郎議員の話)を持ち出し、政府としてそういう与党内の声にすら応える姿勢があるのかという追及は、見ている方も「なるほど、気になるところだ」と思ったはずである。

具体例を挙げて攻撃し、ターゲットを絞ることを初めてここにきてできていると言えよう。

では、麻生総理の回答はどうであろうか。

随意契約に対する説明、民主党の試算がどんぶり勘定という趣旨の指摘は良いのであるが、もう少し端的かつ明確に話をすべきであって、何について説明しているのかが解りづらい。不明瞭な説明をすると、誤魔化しているという印象を与えてしまう。

麻生総理は、説明の仕方、話し方を根本的に考え直さなければ、いつまでたっても誤魔化しているという受け取られ方をされてしまいかねない。

さらに、無駄削減の努力についても、抽象論に終始している。努力しているということは誰でも言えるのであり、国民はどういう努力をしているのかという実績を知りたいはずである。

ここでも、具体的な削減の実績例を1つも示すことができておらず、説明責任は一切果たしていない。野党の財源試算を抽象的と批判するのであれば、政府の無駄を省いてきたという実績は少なくとも具体的に説明すべきであった。

また、アニメの殿堂についても、自分が企画したわけではないと責任逃れのような主張をしており、これはやってはいけない論法である。なぜなら、その案を少なくとも補正予算に乗せているのは麻生政権だからである。

「それが無駄なのかどうか」、「無駄なものとして削減すべきという政府与党内の声をどう受け止めているのか」を丁寧に説明することが求められているにもかかわらず、説明をしていない。

麻生総理は、「運営等々は、民間に基本的にやってもらうのが筋だということを申し上げてきておりますので、思いつきで、何もやっているというわけでは全くないことだけは、私としては、誤解を招かれるような話になりすぎていると思っております。」と回答している。

しかし、争点は「民間が運営すべきかどうか」ではなく、あくまで、「そういう箱ものが無駄であるのかどうか」、「与党内の無駄だとする声にどう政府として認識しているのか」である。

これもトンチンカンな回答をしているのであり、ここで議論がかみ合っていないのは、麻生総理自身が回答に際して、争点を理解しきれていないためであろう。

6.鳩山代表の再質問(無駄使いと生活保障)と麻生総理の回答(36分16秒~46分30秒)

鳩山代表は冒頭次のように述べている。

私は、アニメの殿堂のことは、申し上げたのは、(自民党の)河野太郎先生がそれは不要だということで申し上げた。自民党の中から不要だという話が出たということで、そのことを政府としてどう考えているのかということを申しあげた話であります。  

そこに117億円かける。今、安倍(晋三元)首相の時からという話がありましたけれども、補正予算ですよ。

補正予算で組むのは、緊急的に本予算が終わった後、緊急的に必要になるところに組まれる予算でなければならないのに、なんで安倍首相の時からの問題が起きて、考えられていたものが突然、補正予算に組まれるのかということが、どう考えたっておかしいでしょ。

この部分の鳩山氏の批判はかなり良い。

当初の質問に対して、麻生総理が答えておらず、誤魔化していると言う点や、この計画を補正予算でやるべきことなのか(今やるものとしては無駄のなのではないか)という鋭い指摘で、かなり説得力がある。

残念なのは、この発言をした後に、すぐに着席して、麻生総理の弁明を聞くべきだったのに、その後、色々なことを言いすぎて、「話がまた逸れた」、「ターゲットを絞り込めていない」という印象を与えてしまっている点である。

次に、鳩山代表は、若年層の自殺問題を取り上げている。

自殺率などの話を出すのは国民にショッキングな情報を与えることで、政府の対応を批判するものとして有効ではある。

しかし、若者の自殺の話を持ち出すのであれば、もっと怒りすら見せて強く、威勢良く批判すべきであり、本当に国民の痛みや怒りを共有しているのか疑念が生じてしまう。とりわけ、「お坊ちゃん」というイメージがついているのだから、感情の出し方を工夫しなければ、視聴者へのアピールは十分な効果が挙げられない。

もっとも、この問題を持ち出して麻生総理の認識を問うたこと自体はかなり良い姿勢だと思う。

では、麻生総理の回答はどうか。

ここにきて最後に気が抜けたのがひどい回答をしていると言わざるを得ない。

「生活困窮者が現に出ている」、「自殺率が異常に高い」という指摘に対して、政府として、その問題に対し、今どう取り組もうとしているのかという姿勢を全く示しきれていない。

2万円等の現状の給付では、不十分と言う指摘がされているのだがら、ここで現状の実績を主張しても意味がない。

今やっている現状の施策で十分というデータを示すか、今後どうのような施策で取り組んでいく覚悟なのかを国民に訴えなければ、「麻生総理はやっぱり金持ちのボンボンだから国民の痛みがわからない」という趣旨の批判を受けかねないのではないだろうか。

この問題については、とりわけ慎重に回答すべきだっただろう。しかし、麻生総理は、総理大臣として、現状の問題に対する具体策も示すことができていないのである。

さらに、時間が無いと言いつつ、鳩山氏の質問に回答するどころか、話題にも上がっていない防衛の問題を持ち出している。これでは、生活保障に対する批判から逃げて、論点をすり替えたと思われても仕方がない。

次回、防衛分野の話をしようとかいう類の話は、限られた時間内ですべき問題ではないはずである。

最後の最後で、争点から逃げたとの印象を与える大失態をしているといっても過言ではない。

これに対し、鳩山氏が、「なにか突然に安全保障の話を最後にふられて、聞いておられる国民の皆さんもあぜんとされたんではないかと思いますが。」という指摘は相手のミスを逃さず、かなり有効な指摘である。

この指摘をあえてしたことにより、「なんで防衛の話が出てきたんだ?」と思っていた視聴者に、「そうそう、その通りだ」という共感する間を与えており、鳩山代表に好意的な評価をする人が増えるという効果があるだろう。

しかし、ここで、もう少し「説明責任を果たそうとしていない。」、「政府は具体策を持っていない。」等強く批判して終わるべきであったと思う。なぜなら、上記指摘だけだと、「皮肉屋だな」というだけの印象で終わってしまいかねず、かえってマイナスの効果を生じかねないためである。

さらに、その後、淡々と選挙演説みたいな主張をしているのはなんとも尻つぼみで終わっている印象を残してしまっているのは残念だ。

これは以前にも紹介したトニー・ブレア英国前首相が野党時代のクエッションタイムでの攻撃スタイルである。

鳩山氏はなかなか皮肉を込めた発言は得意なようだが、批判に際してもっと語気を強めて、国民の不満を代弁しているという強い批判スタイルを持つ必要があるかもしれない。

7.結論(私見による最終評価)

以上のように、丁寧に見てきたわけであるが、鳩山代表はせっかくのチャンスを生かしきれない場面が多々あり、また争点や攻撃となるターゲットを絞り込めない質問が多い。

これでは国民の政府に対する不満や疑問を代弁する野党党首としての役割を十分に果たしているとは言えない。

他方で、麻生総理は鳩山氏の質問がぼやっとしている点を除いて考えても、あまりにも回答が雑であり、国民に向けて説明しているという意識がかなり低い。

また、問われていることに答えないため、「誤魔化している」、「議論がかみ合わない」、「議論から逃げている」という印象ばかりが目立ってしまう。

以上のディベートスタイルを中心に評価すれば、それぞれ100点満点中、麻生総理32点、鳩山代表、50点と言ったところであろう。

麻生総理について言えば、最後の防衛の話を唐突に持ってくることがなければ、40点くらいは評価しても良いかなと思ったが、最後の発言は完全に逃げの印象を与えてしまっており、30点台という低い評価をした。

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最近、「ディベートに興味があるのだがどうしたら上手くなれるか?」とか、「社会問題に関して、英語で議論できるようになりたい。」という声を聞くことがある。ディベートの本質は英語でも日本語でも変わらない。

私見は、表現能力の育成が最も重要であると考える。このことは実践的な英語力を身につける上でも同じく必要で、「どういう言い回しをすべきなのか」、「どういう表現が自然で相手にわかりやすいのか」というのは良い表現から真似ることで身についていくものだと考えている。

そこで、英語で社会問題を議論できる程度になりたいと考えている人には以下のテキストを紹介しようと思う。

たまたま昔手に入れて読んだテキストなのだが、お勧めの理由は2つ。①コンパクトで読みやすいこと、②幅広いトピックを扱っており、英語の表現力を身につけやすいことである。私が持っているのは、2002年度に出版された以下のものである。

しかし、2009年1月に最新版が出ているので、もし買うなら、それをお買いになる方がより最新の問題提起がなされているので良いと思うが、アマゾンでは、定価1995円なのに、5000円近くで売られているので、セブンアンドワイなどでお買いになることをお勧めする。

http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32187973

「日本語でのディベート力を上げたい」、「そういう能力が欲しいという方に良い本があるか」と聞かれることがあるのですが、私のディベートに対する理解は、大学時代の友人で、全米ディベート大会2位のアメリカ人の友人から学んだもので、いわゆる指南書みたいなものは読んだことが無いので、紹介すべき本は今のところ思いつきません。

ただ、ディベートだけでなく、仕事での会議・交渉や就職活動での面接で優位に立つためには、自分の言いたいことをいうのではなく、相手が問うていることが何かを把握して、説得的に話せる表現力を身につけることが重要だと思います。これはディベートで要求される基本的能力です。

したがって、日々の生活で、表現方法や表現力を意識していると、自分の能力が上がると同時に、相手の表現力に騙されない力も身につくような気がしています。もっとも、ディベートは説得力を競う戦いですが、会議や交渉、面接は違うので、くれぐれもディベートの姿勢でこれらには望まないように(笑)。

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06/19/2009

6月17日の党首討論について(前半)

以前、このブログの読者の方に、日本のクエッションタイム(党首討論)についてはどういう評価をするのかと聞かれたため、その質問への回答という意味も込めて、6月17日に行われた党首討論についての私見を発信しようと思う。

そもそも党首討論とはどうあるべきかについての私の見解は既に記事にしてあるので、ぜひそちらの方を参照されると、以下で示す、私の評価の基準がどういうところに着目しているのかがより分かりやすくなるだろう。

便宜上、党首討論の流れに沿って、評価していくことにする。

なお、先に一言言っておかなければならないのだが、この評価は当該党首討論を2回見た(?)上で行っている。はてなマークを付けたのは、一回目見ようとしたときに、始まって10分もしないうちに、眠ってしまったためである。つまり、それほど面白みに欠ける、レベルの低いものだった。

なので、以下は気力を振り絞って見た2回目(?)の感想である。

1.冒頭の鳩山氏の問題提起と麻生総理の回答について(0~4分54秒)

まず、冒頭の鳩山氏は最初の質問に入るまでに、2分6秒かかっている。

この間、何を話しているかと言えば、麻生総理の郵政に対する判断を批判するのに時間を費やしている。「判断ができない、判断がぶれる、判断が間違える。」などキャッチフレーズ的なものを使っている点は国民の印象に残りやすいく評価は高いのだが、質問をする前にこれを使ってしまったのは落第点である。

つまり、まず、鳩山代表は、クエッションタイムという本来の制度上、問題提起に当たり、素早く麻生総理に対し、郵政人事問題に対する説明を求めるべきで、批判は麻生総理の回答を待った上で、行うべきであったにもかかわらず、ダラダラと自分の主張を始めてしまっているのである。

クエッションタイムは、裁判でいう証人尋問や当事者尋問に似ていると思うのだが、まず、政府の長である首相に争点に関する主張させなければ、スタートとしては不適切である。

本場イギリスのクエッションタイムで、野党の党首がはじめに質問をぶつける場合、余計なことを話してもせいぜい30秒以内に質問を終了し、総理大臣の回答に移る(もちろん一般論としてであり、そういう決まりがあるわけではない)。なぜならば、首相の回答がなければ、批判すべき対象が定まらないためである。

次に麻生総理の回答についてである。

麻生総理は、2分48秒を費やし回答しているのであるが、鳩山氏の質問に対し答えるべきは、判断がぶれているのかどうかという点に集約されるはずである。

にもかかわらず、民営会社への人事権の行使について、ダラダラと余計なことを話して時間を費やし、この問題において、どういう事実の経緯があり、どういう判断に基づいて、鳩山邦夫氏を事実上更迭したのかという説明を一切していない。これでは全く説明責任を果たしていない。

また、余計な部分である人事権の行使の主張も、内閣総理大臣または内閣として、郵政会社への人事権の行使はすべきでないとの趣旨の発言をしているようであるが、株主が国である以上、内閣が株主として、株主総会に諮られる取締役人事議案に株主権を行使するのは当然できるのであり、必要があればすべきである。

すなわち、麻生総理の説明は、業務執行に対する介入は極力避けるべきという話と株主権の行使として、株主総会議題たる取締役人事に対する介入の話を混同して説明しているのである。

したがって、麻生総理のかかる余計な発言部分は、まるで会社の仕組みを分かっていないのではないかという印象を与えかねない。これもまた落第点である。

なお、面白いのは、麻生総理の回答中の与謝野大臣の顔が「なに言ってんだこの人?よ余計なこと言わなければいいな。」というような表情をしていることである。与謝野氏本人が本当に何を考えていたかは不明だが、思わず笑ってしまう。

2.鳩山代表の質問(郵政問題と北朝鮮)と麻生総理の反論について(4分55秒~11分47秒)

麻生総理の回答に対し、鳩山氏は1分38秒を使って、西川社長を辞めさせるべきという主張をしている。この中で、社民党と国民新党と告発をしたとかいう話をしているのだが、これも無駄な時間である。

もし西川社長の責任を追及するのであれば、具体的な数字を示して、如何にかんぽの宿の売却に係わる入札が不適切であったかの情報をを国民に喚起し、その上で、「民主党が政権を取れば間違いなく経営責任を問うが、なぜ今人事案拒否という株主権の行使をできないのか」と迫るべきである。

にもかかわらず、質問や追及すらせずに、次の話題(北朝鮮問題)に移ってしまっている。これでは、国民の声を代弁しているとは言えないし、野党第1党として果たすべき役割を果たしているとは言い難い。

さらに、約1分30秒を使い、北朝鮮の船舶貨物検査について、法案を早く出すようにと言っているのだが、こんなことを党首討論で話すべきことではない。

野党が同意でき、争点になっていない問題であれば、別の場面で説明が可能であって、わざわざ50分前後の時間的制約のある党首討論で、「法案を早く出してください」などという話をする必要性は乏しい。

では、これに対する麻生総理の回答を見てみよう。

鳩山氏が争点の絞れない質問をしてしまったがために、約3分30秒もダラダラとした回答時間を与えてしまっている。

次に、麻生総理は、郵政の問題に再度、反論しようとしているのであるが、これについても、会社の根本的仕組みが分かっていないと思わせる発言をして、失敗している。

例えば、「われわれとしてはそれは少なくとも取締役という会の決まる前までにいろいろ株主として発言をする、またそれに対していろんな話をするというのは、決して間違っていないとは思います。」と発言しているのだが、株主権を具体的に行使する場面は、株主総会での人事案の賛否においてであり、取締役会決議がなされた後でも、当然株主として発言することに何ら問題はない。

また、仮に麻生総理が言っているのが、個々の業務執行について介入すべきでないという話であれば、確かに通常の会社の場合は、業務執行権限は取締役会にあり、株主が業務執行をどうすべきと具体的な指摘をするのは不適切である。

しかし、郵政会社は委員会設置会社であるため、業務執行権限は取締役会にもなく、執行役にある。

そうすると、取締役会決議の前後で、株主として介入すべきかすべきでないかという問題に違いが出てくるわけではないはずである。

結局、麻生総理が言う郵政会社の取締役会決議とは、何についての決議を差しているのかが不明瞭であるため、こうした会社の仕組みを解っている人が見れば、会社の仕組みそのものを全くもって理解していないのではないかという印象を与えかねず、これも落第点の回答である。

また、民営化の趣旨について言及があったのは良いのだが、その趣旨を総理自身どう考えているのかしっかり説明した上で、鳩山邦夫前総務大臣を事実上更迭した理由を明確に説明すべきであった。

麻生総理の口から、大臣更迭の経緯や理由について、明確な説明がないのが一番の問題であろう(ちなみに、私は更迭したという結論については評価していますが、その話は別の機会に・・・)。

北朝鮮問題についての回答も、アメリカ大統領をブッシュ大統領と言い間違えるなどミスが目立つ。

そのときの与謝野大臣が「え?」というような顔をして、その後苦笑しているのだが、なんとも身内の大臣に答弁を苦笑されるとは情けない。

本来であれば、せっかく北朝鮮問題への政府としての意気込みを示せる重要な機会である。

にもかかわらず、誰に電話しただのと無駄な情報を提供しているあたりが、「国民に答弁を見られている」、「クエッションタイムはとりわけ国民への情報発信、説明責任の場だ」という意識の欠如として、現れているように思えてならない。

3.鳩山氏の質問(医療問題)麻生総理の回答(11分48秒~19分30秒)

ここでは、鳩山代表が約3分45秒かけて、医師不足の問題、社会保障費の問題を追及することになる。

まず、冒頭、麻生総理の北朝鮮に関する回答の前置きが長いと批判したのだが、「これをいうなら、自分の前置きも短くしろよ。」という批判が聞こえてきそうである。

次に、医師不足の例として、救急搬送でタライ回しにされた患者の例を挙げているのだが、これは高く評価できる。

具体例を挙げて、どういう不都合が生じているのか、国民に身近な問題として感じさせるには非常に有効かつ適切な方法である。

ただ、これも話すタイミングを間違っている。

まず、麻生総理に医師不足の問題についての認識を聞き、その上で、問題が切迫しているという印象を与えるべく、これらの例を出して、政府の対応が遅いことを批判すべきである。絶好の攻撃のチャンスを自ら失っているといえよう。

これに対し、麻生氏は約4分間の回答をしている。

この回答で一番気になるのは、医師不足の問題について、政府が有効な政策を打ち出せないでいることを露呈してしまっている点である。

まず、自ら麻生総理は、鳩山氏の医学部の定員増加という案に賛同するかどうかすら回答せずに、新しい医師を作るには10年かかると答え、この10年間の間の措置として、引退した医師や看護婦に戻ってもらうという案を説明している。

しかし、具体的にどういう整備を行っているのが、数字も一切示していない。地域間格差があると回答しながら、地域間格差の是正についての具体案も一切示していない。

これでは、タライ回しになって患者が死亡するという問題が国民の生命、身体に関わる切迫した問題であるとの認識が欠けているとの印象を与えてしまう。

さらに、麻生総理は、この問題の根本的解決に向けた具体的政策を示しきれておらず、このような答弁では、政府がこの問題について無策だと思われても仕方がない。

ここまでの議論を見ていると、鳩山代表も麻生総理も入念な準備をしてきたとは言えず、ディベート戦略からしても、お粗末すぎる。

ただ、鳩山代表の方が、「判断ができない、判断がぶれる、判断を間違える」と言ったような印象に残りやすいキャッチフレーズを使ったり、医療問題において、具体例を挙げて、国民への印象に残りやすい点で、前半は僅差でリードしていると言えるだろう。

前半戦の評価としては、48点(麻生総理)対52点(鳩山代表)と言ったところだろうか。

さて、かなり長くなってきたので、続き(後半の約20分についての評価)はまた明日にしようと思う。

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06/18/2009

国会議員の定数削減について(コメントへの返信として)

今回は、先日紹介した記事に対して、読者の方から頂いたコメントが非常に問題提起として良いと考えたので、そのコメントに対する返信の意味も込めて、国会議員の削減の是非について私見を紹介します。

まず、いただいたコメントは以下のようなものでした。

 地方議員の削減とありますが、国会議員の削減も同様にお考えでしょうか?
 私は民主党や自民党の掲げる国会議員の削減、しかも比例での削減という案には反対です。
 民意を汲み取る仕組みを逆に縮小させて、大政党のみ優位になるのが必然だからです。
 議員を減らして今以上に官僚に頼らなければ仕事をできなくするよりも、選挙制度を改革して議員の質を高める、このことの方が重要ではないでしょうか。
 他にも人件費抑制をいうなら政党助成金を廃止するべきだと思います。
 また、比例削減は昨今評判の悪い世襲議員の割合を今以上に増やす可能性も十分ですね。
 一件、国民の利益と見える、議員も痛みを伴う、という話は口当たりが良いですが、安易な削減はちょっと待った方が良いかと思われます。

私は、国会議員も削減して良いと考えています。ただ、削減方法(選挙区制をどう考えるか)は慎重にすべきです。

個人的には、適切な国会議員の定数として、衆議院議員は400名、参議院議員は100名で十分と考えています。

コメントしていただいた方のお考えにある「議員削減が官僚主導につながる」という考えには根本的に同意しかねます。なぜなら、そのような因果関係は諸外国を見ても存在しないと思うからです。

まず、アメリカでは、上院が100名、下院が435名+6名の投票権のない議員で構成されています。アメリカは日本の人口の2倍ですし、人種の構成も日本以上に複雑です。

しかし、官僚に支配されている形跡または政治が主導力を発揮できないという痕跡はありません。むしろ、議員の人数が少ないので、有権者は自分の選挙区出身の議員が十分な活動をしているか監視しやすく、かつ議員もそれを意識した議員活動を常に行っています。

また、アメリカ議会は開会中、原則として24時間審議できる状態にあります。憲法上、例外である夏季休会を除いて、3日以上休会できません(合衆国憲法第Ⅰ条第5節)。C-Spanなどのケーブルテレビ局が夜中も議会の審議状況を放映しているのを見たことがある方も多いのではないでしょうか。

実際、大統領の教書により促された立法よりも、各議員により主体的に提案された議員立法が数多く存在します。

とりわけ、上院議員は各州2名が定員ですから、その州の代表者としての顔です。州の有権者に対する情報の提供はもちろん、自らが主体的に有権者の懸念事項への活動に取り組む姿勢が日本とは比べ物になりません。

具体的に言えば、連邦議会議員の各ホームページを比べればわかります。

日本の国会議員のホームページは、自民党から共産党までほとんどすべて、スローガンや抽象的な情報のみで、何も情報発信していないに等しいです。

例えば、自民党で政策通として知られる与謝野馨氏のホームページには、政策集というコーナーがあるのですが、彼が具体的にどういう主張に基づいて、どういう政策を実現してきたのかという実績が一目でわかるようにはなっていません。

最近国民受けが良い民主党の岡田克也氏のホームページもアメリカの政治家との比較では落第点です。ブログでかなり情報発信しているのはわかりますが、ホームページを見て、どの分野の問題においてどういう主張をし、どういう実績があるのか、つまり、どういう法案を提出し、どういう法案にどういう理由で反対しているのかが一目でわかるようにはなっていないのです。

ブログのすべての記事を読んで彼の政治活動を評価するほど暇な国民はあまりいないでしょうから、有権者が「この人、どういう考えて●●分野について活動しているんだろう」と疑問に思ってホームページにアクセスしたときに、一目でその分野の考え、法案提出・賛成実績等がわかるようになっていなければ、意味がありません。

共産党の志位和夫委員長のホームページも、色々な主張があることがわかるのですが、問題点、争点、分野ごとに、どういう考えに基づいて、国会ではどういう成果を上げているのかが全くもってわかり得ません。国会でどういう質問をしたかなどを載せているのですが、有権者にとっては、どういう法案を提出しているのかという政治的成果(実績)を知りたいのであって、「これに反対しました。」「こんな質問をしたら、こんな回答が返ってきました」というような情報は成熟した政治家のアピール方法としては不十分です。

社民党の福島瑞穂党首のホームページも、共産党の志位委員長と同じ問題点を抱えています。自身の主義主張を色々のせているのはわかるのですが、分野ごとに一見してわかりやすい状態にはありません。共産党よりましだと思えるのは、「議員立法」というセクションで、自分の提出した(もしくは関わった)法案を紹介している点で、実績のアピールをしようという姿勢はわかりますが、全くもって少なすぎます。

日本の抱える社会問題はかなり多いのですから、分野別に詳細な考えや実績をまとめなければ、有権者に何を考えて活動しているのかわかり得ません。マニフェストと称するセクションでも、抽象的なことしか言っておらず、実践能力があるのか判別がつきません。

このように、日本の政治家のHPの多くは、スローガンであったり、キャッチフレーズであったり、抽象的な主張のみを掲載しており、自己満足的であって、有権者に優しい情報提供にはなっていません。

しかし、アメリカの政治家のHPは違います。

例えば、ヒラリークリントン氏が上院議員のときのHPは、農業、外交、消費者問題、経済問題、中絶、環境問題など幅広い分野についての同氏の考えが詳細に示されていました。

現職を例に挙げれば、2000年の大統領選挙で、民主党の副大統領候補だったジョー・リーバマン上院議員のホームページでは、イラク問題から、環境問題、教育問題についての同氏の考え、法案・活動実績が詳細に示されており、日本の議員のHPなどに多いキャッチフレーズのみや一部の問題に対する情報提供とは違います。

これはリーバマン上院議員だけが行っているのではありません。

オバマ大統領と争った共和党のマケイン上院議員も同じように上院議員としてのホームページに幅広い問題について、問題ごとに整理された、同議員の立場を示す情報が数多くアップされています。

さらに、大統領選には関与しておらず、日本では有名ではない上院議員も、上記の有名な上院議員と同じように、争点ごとに詳細な自身の見解を上院議員としてのホームページに掲載しており、情報発信能力が日本の議員とは格段に違います。

例えば、カリフォルニア州選出の上院議員、バーバラ・ボクサー(Barbara Boxer)議員のホームページを見てみると、それがよくわかります。

アメリカの有権者だって、日本の有権者と同じように、議員のブログをすべてチェックしたり、候補者のホームページを何時間もかけて分析するほど暇ではありません。有権者としての判断能力だって、大して差はないはずです。

では、なぜこのような違いがあるのでしょう。それは、上記にもあるように、議員数が少ないため、有権者にとって、誰が自分の州の代表者か、自分の州の代表者はきちんと仕事をしているのか、一目瞭然でだからです。

だからこそ、アメリカの連邦議会議員は、忙しい有権者に一目で、活動実績、主張がわかるように、懸案事項ごとに整理して、工夫しながら具体的な法案実績や具体的な主張を詳細に乗せ、情報発信しています。

つまり、無駄な議員を減らすというのは、人件費の削減という問題以上に、適切な情報提供の発信能力がある、民意に敏感で自覚ある議員のみを残らせることにつながるのではないでしょうか

これに対し、インターネット等を見ていると、議員定数維持論者は、「議員定数については、アメリカのマネをすべきではない。イギリスを見てみろ」という主張をしています。

確かに、イギリスは、完全小選挙区制で、下院議員は646名で、貴族院は738名です。これをみると、日本より多いと思いますが、イギリスの貴族院は選挙を得ておらず、現在でも廃止論が根強くあります。ちなみに、トニーブレアは、貴族院の廃止に近づける措置として、世襲制の貴族院議員の投票権を廃止する改革をしました。

そこで、選挙を受けている下院議員の646名が問題になるわけですが、現に共産党の議員や関係者の中には、この事実をもって、民主党の議員削減案に反対という論法をしています。

しかし、これは非常にミスリーディングです。この主張は、「イギリスの議員定数に問題が無い」、「イギリスは官僚の肥大化の問題が無い」という間違った認識を前提にしている主張だからです。

近年、イギリスでも下院議員は多すぎるので、減らすべきという世論がかなり高まっています。例えば、2009年4月11日付けのテレグラフ紙電子版は「私たちは本当に646名の下院議員が必要なのか?(Do we really need 646 members of parliament?)」と題した記事を掲載しています。

記事は、「この疑問への答えはNOに違いない。」と述べ、諸外国の人口と議員数の比較を行った上で、いかにイギリスの下院議員数が多すぎるか、それにかかる人件費やその他の補助費が無駄に使われていることを批判し、少なくとも10%削減すべきとの見解を示しています。

イギリスの議員数の多さは他国と比べても突出しており、現地ですら見直し議論が起こっている状況で、議員定数について言えば、イギリスは目指すべきモデルとして不適切です。

さらに、イギリスは日本に比べれば、官僚支配が無いように思われますが、アメリカと比較すると、官僚機構はかなり肥大しています。つまり、議員数が多いからと言って、政治家主導につながるとは言えない悪い例と言えそうです。

例えば、現状でいえば、ブラウン政権が官僚的であるという批判が野党保守党からなされています。というのも、元々ブラウン首相の政治的な主張は、前任のブレア前首相と異なり、より左派的なもので、経済学的にもケインズ主義の立場で、いわゆるオールド・レイバー(Old Labour)に近いわけですが、ブラウン首相になって以降、悪しき労働党の伝統である公共部門の肥大化が再度問題になり始めています。

ブラウン首相が就任して3か月後の2007年9月28日には、ガーディアン紙の電子版が「官僚的な大惨事(A Bureaucratic disaster)」と題した記事を書いており、その記事では、英国法務省の組織である犯罪者管理局(National Offender Management Service)について、2004年に議会による審議すら経ずに設立され、組織が肥大化し、予算規模も2年間で555%にも拡大していることや十分なサービスが提供されていないことが指摘されています。

つまり、設立に際して、議会での審議を得ていないわけですから、あれだけ議員がいても官僚が暴走する行為を止められない例の1つと言えます。

さらに、米国のシティー・ジャーナル2007年冬号で、英国政治が専門のマンハッタン・インスティチュートのフェローであるセオドア・ダリンプル(Theodore Dalrymple)博士は、「英国は今や教員よりも教育官僚(日本でいう文科省)が支配している。病院のベットの数より、保険・医療サービスに携わる行政官の数の方が多い」と、イギリスが官僚の肥大化に陥っていることを批判しています。

また、日本と同じで、官僚がポストを渡り歩くため、問題が起こった場合に、責任を持つ人間がいないという指摘もなされています。

さらに、イギリスの官僚機構の弊害は民間の文化交流にも生じています。今年5月9日付のガーディアン紙電子版は、イランの映画監督アッバス・キアロスタミ(Abbas Kiarostami)氏は、イギリス・ナショナル・オペラのモーツアルトのオペラ、「コシ・ファン・トゥッテ」の監督のため、イギリスに訪問予定でしたが、英国外務省のビザ取得における対応があまりにも官僚的で、バカにしていると怒りを表し、監督を降りて訪英をキャンセルするというニュースを報じています。

この中で、同監督は、「すべての書類を提出し、私の指紋も提出したが、その2時間後に再度同じ書類を提出するように言われた。それに従い、書類を再度提出したが、在テヘラン英国大使館はさらに、私の再度提出するように言ってきた。一度提出しており、指紋が変わるはずがないというと、この指紋採取は世界中にいる5000人の犯罪者と照合するために必要だという説明をしてきた。人を馬鹿にするのも甚だしく、今回訪英をキャンセルしたのはすべて英国外務省の官僚的な対応によるものである。」という発言をしています。

このように、イギリス政府の官僚体質は世界的に有名です。一説によれば、イギリスの官僚は日本の官僚をモデルにして、いかに既得権益を守るかを真似ているという話があるくらいです。

公共政策学などの分野でよく出てくる概念に、Private Financial Initiative(PFT)というものがあり、日本ではイギリスをモデルに民間主導の経済原理を入れる方法論として、注目を浴びていましたが、これもイギリスの官僚が天下り先を確保するために日本から学んだ方法の1つであると評価する学者も現にいます。

したがって、繰り返しになりますが、イギリスのように政治家が多ければ、官僚主導にならないとか、官僚の既得権益を打破できると考えるのは間違いです

確かに、マーガレット・サッチャー元首相やブレア前首相は、政治主導による改革を行い、サッチャーは労働党のキャラハン元首相から、ブレアは保守党のメージャー元首相から政権を奪取しました。

これら2人は、ブレア政権に関する著書で有名なアンソニー・セルダン(Anthony Seldon)氏に言わせれば、「開拓者型リーダー(Pathfinders)」であり、彼ら独自の強いリーダーシップがあったので、官僚機構を押さえつけることができ、官僚の肥大化を抑止できていたと言っても良いでしょう。

したがって、リーダーシップをモデルにするのはやるべきだと思いますが、制度的に、イギリスのように政治家が多ければ、官僚主導から政治主導に代わるという安易なものではありません

次に、議員定数の削減、とりわけ比例代表区の削減が少数政党に不利になるという主張も賛同しかねるところがあります。

というのも、イギリスは完全小選挙区制ですが、選挙制度による不満は第三政党で、少数政党である英国自由民主党(UK Liberal Democrats、以下、Lib Demという)からは聞こえてきません。

Lib Demは1992年の政党として初めての選挙で20議席を獲得して以降着実に中央政治において、議席数を伸ばしてきました。

確かに、現在でも、Lib Demは、646議席中、63議席しかないのですが、近年は地方議会選挙やEU議会選挙で議席数を伸ばしており、最新の英国世論調査では、次の選挙で労働党を超え、第二政党になるとまで世論調査で支持を受けていると報じられています。

さらに、BBC2の報道番組が2008年9月に、無党派層を集めて、それぞれのリーダーの評価を行った世論調査において、現在のLib Dem党首であるニック・クレッグ(Nick Clegg)議員は、労働党のブラウン首相や保守党のキャメロン党首よりリーダーとしてふさわしいという結果も出ています。ちなみに、英語が得意な人は上記リンクをクリックしてぜひこの番組を見てほしいです。

つまり、近時のLib Demに対する評価は、少数政党であっても、小選挙区制度であっても、政策や主張、そして党首のリーダシップが支持されるような内容であれば、必要な得票を得て、議席を確保できるのではないでしょうか。

以前から指摘していますが、私は、日本の少数政党が、自分たちの議席が伸びないのを選挙制度のせいにして、自らの政策の在り方を顧みなかったり、国民に広く受け入れられる主張をする努力をしない現状に危惧を抱いています。

したがって、国会議員を削減するという上で、比例代表を廃止するという手法には賛同しなけますが、他方で、少数政党が主張するように、比例代表には手をつけるなという主張にも賛同しかねるわけです。

以上から、私は、①政治家の数が多ければ、官僚主導を打破できるという因果関係は認められず、むしろ議員数が減った方が自覚ある議員を残すことにつながるでしょうし、②比例代表を削れば少数政党が不利になるというのも、少数政党の努力次第でいかにでも生き残る道はあるはずと考えています

なお、政党助成金の問題は別の機会に私見はどう見ているか紹介できればと思います。

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06/15/2009

チャンス・ステグリッチ(Chance Steglich)君の歌唱力にも注目

【追記:2009年6月16日】

ボイルさんですが、日曜日にマンチェスターで予定されていたコンサートに参加しなかったため、体調などが心配されていたようですが、月曜日のスコットランド、グラスゴーでのコンサートには参加して、Britain's Got Talentで披露した2曲を歌ったようです。

以下のウェブ上ではYoutubeの動画としてコンサートの様子が紹介されています。

http://www.inentertainment.co.uk/20090616/video-susan-boyle-glasgow-bgt-tour-2009/

さらに、イギリス、ウエストエンドでは、ボイルさん効果によって、ミュージカル、「レ・ミゼラブル」の売上が46%の上昇しているそうです。

http://broadwayworld.com/article/The_Susan_Boyle_Effect_Boosts_UK_LES_MIZ_Box_Office_20090616

また、すでに日本のメディアでも報じられているそうですが、英国メディアのテレグラフ紙は、Britin's Got Talentの決勝戦で、ボイルさんが負けた原因として、Youtube上での詐欺行為が関係するとの記事を報じています。

記事が指摘する疑惑は、非公式に掲載され、かなりの人が見ていたYoutube上の動画で、ボイルさんへの投票するための電話番号の字幕を故意に変更し、その変更先の番号が優勝者であるDiversityへの投票番号になっていたというものです。

さらに、通話が込み合い、数百名の視聴者がボイルさんへの電話投票ができなかったとの抗議も寄せられているとそうです。

これに対し、ITVのスポークスマンは、テレビ画面上ではっきり番号を掲載していたので、故意に何者かが変更を加えた動画を掲載することは難しいはずと回答し、Youtubeのスポークスマンは、間違った番号が掲載されていたか否かわからないが、Youtube上の説明書部分にはITVに全責任があると回答しているそうです。

この疑惑をタブロイドでなく、一般紙のデイリー・テレグラフ紙が取り上げるのですから興味深いです。

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スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんの話題以来、音楽に興味のある方の訪問が多いので、私がYoutube上で発見した素晴らしい歌声を披露している海外の人を紹介しようと思う。

以前にも記事で少しだけ取り上げたのだが、アメリカの高校生、チャンス・ステグリッチ(Chance Steglich)君の歌唱力はプロ並みである。

今回、ブロードウェイの俳優が歌う同じ歌と比較しながら紹介していこうと思うが、歌唱力だけでいえば、高校生ながら決して引けを取らないとは私は思う。

まず、スーザン・ボイルさんで広く知られるようになった、ミュージカル・「レ・ミゼラブル」のマリウス(Marius)という役が歌う『Empty Chairs at Empty Table』を聞いてもらいたい。

この曲は、フランス革命下で、マリウスは他の学生とともに反政府活動に参加する。政府軍の装備には適わず、多くの学生が命を落とす中、主役のジャン・バルジャンが育てた娘(自分の子供ではない)コゼットと恋仲に堕ちた青年、マリウスを救出する。

その後、意識を取り戻したマリウスが、戦い、命を落とした学生の友人たちを想って歌う歌がこの曲である。

この歌は、高校生のチャンス君の歌である。

次の動画はプロのブロードウェイ歌手、Hugh Panaroが歌う歌である。数多くのミュージカル俳優がこの役を演じこの歌を歌っているが、彼はその中でも非常にうまくこの歌を歌いあげる俳優の一人である。

そして、次の映像がこのマリウス役をイギリスのWest EndとBroadwayでオリジナルキャスト(初回の配役)として演じた歌手、マイケル・ボール(Michael Ball)氏が歌うレ・ミゼラブル20周年記念コンサートの歌である。

チャンス君の歌声は、ブロードウェイの俳優の2人が歌う動画と比べると、演技力、感情の込め方、強弱の付け方等の技術的なところでは多少劣るところもあるが、声の質、声量は高校生の素人が歌っているとは思えない能力の高いものだと思う。

これは生まれ持った才能なのかもしれないが、単なる歌のうまい青年が歌っているというよりは、スーザン・ボイルさんやコニー・タブロットちゃんのように、声そのものに透き通る優しさと遠くまで通る力強さがある。

他の多くの人には無い「聞きやすさ」が声にあり、素晴らしい才能である。

具体的には、特に、この歌の後半部分の「Oh, my friends, my friends, don't ask me.」という部分の伸ばし方、声量は非常にレベルが高い。

他方で、ブロードウェイ俳優の二人が歌うように、「Phantom Faces at the Window. Phantom Shadow on the Floor.」と言う部分はもう少し、他のパートとの違いを出して、強弱をつけて歌いあげられると、より感情が現れやすくなるはずである。

さすがに、マイケル・ボール氏の歌声は、コンサートという特別の演奏環境にあることを差し引いても、声にまろやかさがあり、メリハリが上手い。

それにしても、17歳でこれだけの声の質、声量があるのは本当に驚きである。

また、以前にも紹介したのであるが、チャンス君が歌うジョゼフ・アンド・アメージング・テクニカラーコートというミュージカルで歌われる『Close Every Door』は、この曲以上にレベルが高い。おそらく、動画の映像は、高校で演じられた同ミュージカルの1シーンである。

この歌なら、ブロードウェイ等に出てきて歌っていても、素人とは気がつかないかもしれない。

今後、強弱の付け方、演技力、感情の込め方など技術的なところが訓練されれば、一層素晴らしいブロードウェイ俳優になるのではないだろうかと思わせてくれる。

Youtubeを見ていると、海外では、こうした自己表現がかなり多くなされている。

以前の記事でも指摘したが、日本ではなかなかこうした主体性のある芸術表現の場が少ないためか、Youtube上でもこうした日本人の高校生などがミュージカルやオペラの歌を歌っている動画などはあまり見かけない。

こうした現象を見ていると、欧米に比べ、日本では芸術性を発揮する場が非常に少ないのではないかという危惧がある。

今回は大学の制度と言う観点から意見を示してみたい。

私は音大卒ではないので、詳しい日本の事情を知っているわけではないことをはじめに言っておくが、海外では、総合大学にPerforming Artsという学部が多数存在する。

そして、そうした学部に通う学生向けの奨学金や財団が多く存在し、若い段階からの人材発掘が進んでいる。

しかし、そうはいっても、総合大学で、音楽を学ぶので、音楽一辺倒という生活ではなく、他の学部生との交流も必然的になされる。

また、海外の大学の場合は、最初の一年目は全員が大学の寮に入らないといけないという総合大学も多い。これは親元を離れ、学生の自主的な生活を促すとともに、そうした学業以外の時間において、多様な人材交流の機会を与える場といしての位置づけもある。

日本ではまだまだそうした大学文化は少ないし、音楽を志望する人は音大に行くことが多く、単科大学だけの生活になってしまっているのではないかと思うわけである。

音楽だけで生活できるようになる人はごく一部であることなどを考えると、就職難や不景気から音大ではなく、経営部や経済学部に行くことにして、芸術性の追求をあきらめざるを得ない状況があるのではないだろうか。

仮に、総合大学で、Performing Artsを専攻として学びつつ、経営学やその他の学問を副専攻として学べる環境があれば、就職が不利になると憂ぐこともなくなる。

さらに、学生奨学金制度(とりわけ無償型)が海外に比べると少ないことなどを考えると、若者の教育機会の充実こそ今やらなければならない日本の課題の1つのようにも思われる。

私が通った大学にも、将来ミュージカル女優などを目指す友人がいたし、ダンスがうまい黒人の友人は、現在もダンスを勉強しつつ、音楽等のエンターテイメント産業で働いている。

教育水準が良く問題となり、数学や理科のレベルが上がったとか下がったとかいうニュースは耳にする。しかし、それが本当に若者の教育レベルの評価基準として妥当なのか、すべてを把握できているのかは疑問である。

もしかすると、そうした多様性を勘案すれば、日本の大学生と欧米の大学生を比べると、歴然とした差が既にあるのかもしれない。

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06/14/2009

東京都議会選挙を契機に考えてほしい問題(地方議員数の削減を)

都議会選挙が始まるようで、ぜひ皆さんに今回考えてほしいトピックがあるので、昔のヤフーブログ時代に掲載した記事なのですが、再度掲載しようと思います。

一部内容を変更して加筆している部分もありますので、一度読んだことがある人も再度読んで、コメント等をしていただけると嬉しいです。

日本はとにかく無駄な人間が政治家として多すぎるようです。私の出身地の市の人口は、10万人以下です。しかし、議員の数は20名以上もいます。

これに対し、カリフォルニア州にあるストクトン(Stockton)という市は、人口が約28万人です。

では、市議会議員の数は何人いるでしょうか?

日本の基準でいえば、人口が倍以上いるわけですから、40名近くいても不思議ではないことになるでしょう。

しかし、なんと、6名しかいないのです。

市内が6個の選挙区に分かれており、それぞれ1名ずつ選出する方式を採用しており、私の出身地の市より約3倍も人口がいるのに、議員の数は約1/3ということになります。

疑う人は、以下のリンクで確認してみてください。

人口:http://www.stocktongov.com/EconDev/pages/population.cfm

市議会議員:http://www.stocktongov.com/citycouncil/index.cfm#members

いかに日本に無駄な議員がいるかこの数字だけでも驚愕した人は多いのではないでしょうか?

これを根拠に議員数を減らせという主張をすると、必ず政治家は次のような必死の弁明をします。

議員を減らせば、市民や国民の要望に応えられない。

でも果たしてこの弁明に正当性はあるのでしょうか。もう少し検討してみましょう。

まず、ストクトン市の例ですが、これが特異な例と言うわけではありません。アメリカの地方議会はどこもこの程度の人数で運営しています。

そこで、東京都と大都市と言うことではほぼに近い状況にあるニューヨーク市を例に見てみましょう。ニューヨーク市の人口は821万人であるのに対し、東京都の人口は1297万人(2009年5月時点)です。およそ、東京都の人口がニューヨーク市の1.6倍と言うことになります。

ニューヨーク市には、47名の市議会議員がおり、東京都議会の議員数は127名です。

単純に人口と比較して、ニューヨーク市の基準で考えれば、本来都議会議員の数は、75名となるはずです。

つまり、52名も無駄な議員がいると言えるのではないでしょうか。

ただ、市と都という違いがあると反論されそうなので別の観点からも見てみましょう。これを私の出身地の自治体と比べてみるともっと悲惨です。

ニューヨーク市は、私の地元の80倍の人口ですが、議員数は2.5倍に過ぎないのです。この数字は本当に驚きではないでしょうか。

ちなみに、ニューヨーク州議会はアメリカ建国時代から、アメリカで最も非効率的かつ肥大化した官僚的州議会であるという悪名が高いことで有名のです。ニューヨーク州には、州上院(State Senate)と州下院(State Assembly)の2つの立法機関があり、前者の定数は62名、後者は150名となっています。ただ、これは、非常に悪名の高い州議会制度なので、これと比較して東京都は少ないから良いという結論はいかがなものでしょう。

話を戻しますが、アメリカは日本よりも国土が大きいので、当然有権者も点在しています。にもかかわらず、地域的な違いを強調したりして、市民の声を反映しやすくするという主張から、議員数を増やすようなことはニューヨーク州議会などの一部例外を除いて、基本的にしていません。

だとすると、アメリカは市民の声を無視している非民主的国家ということになるのでしょうか。

それはあり得ませんね。

単に日本の地方政治家が自己の保身で議員のイスを減らしたくないだけではないでしょうか。もし、本当に市民の声が聞けないというなら、それはその政治家の怠惰の証でしょう。

また、日本の地方選挙制度にも大きな問題があります。

日本の地方自治体の選挙の場合、市町村レベルでは、たとえば、市内全体で議席20個を30人で争うというような形で行われます。これでは、市民も自分の選んだ候補者という意識は希薄になりがちです。

他方、アメリカでは、市内をいくつかの選挙区に分け、そこに議席を1つずつ配分します。こうすることで、市民はどの議員を自分の選挙区として選んだがわかるため、自分たちを代表する市議会議員という意識は持ちやすいのではないでしょうか。

もちろん、都道府県レベルでは日本も同じように区や市町村ごとに選挙区を作っていますが、区議会、市町村議会の議員選挙ではそういうことはなされていません。

そうした選挙区制を改正するなどして声を以下に反映するかという努力をせずに、議員数だけ確保しようとする現在の地方議会の在り方を我々はもっと真剣に考えなければならないのではないでしょうか。

とくに、アメリカ政治は連邦政治ばかり注目を集め、マスコミもこうした地方議会の在り方を分析したりはあまりしていないように思います。しかし、民主主義の本質はこういう地方選挙制度、地方議会制度にあるような気がします。なぜなら、そこが一番有権者にとって身近な存在でなければならないためです。

なお、日本の人口はおよそ1億2715万人であるのに対し、アメリカの人口は3億1465万人です。つまり、倍以上ですね。にもかかわらず、日本の国会議員の数はアメリカの連邦議会議員の総数より多いです。

タブロイド的に言えば、日本は官僚天国より以前に、政治家天国かもしれません。

全国市議会議長会という団体が、以下の情報を載せています。

http://www.si-gichokai.gr.jp/news2/news2pdf/060818.pdf

  • 全国の市議会議員の報酬が月41万5千円(議長報酬等は別計算している)で、年間は平均498万円。
  • 1つの市における議席数の平均が31.4議席。
  • 市の数は778市
  • 議席の総数が24,441議席。

明らかに議席数が多すぎるのではないでしょうか。

官僚をぶっつぶすとか、官僚から主導権を取り戻すという声は聞こえるますが、自分たち政治家の数を減らすという声はなかなか聞こえてきません。

上記の数字を基礎とすれば、単純計算で、議席を1つ減らすだけで、約500万円が削減できます。つまり、市議会議員を1議席減らせば、年間500万円の財源が恒久的に確保できることを意味しています。

もちろん、これは報酬のみなので、それ以外のお金(政策費など)を含めればもっと削減できるはずでしょう。

無駄が議員数の削減と言う議論がより活発化すること今の日本には必要かもしれませんが、自民党も、民主党も、公明党も、共産党も、社民党も、国民新党も、抜本的な数字を挙げて地方議員を削減するという明確な主張が今のところ無いのは残念なことです。

さて、最後は、恒例の(?)映画紹介です。今回は政治問題の記事に関連し、国は違いますが政治家の在り方を考える上でとても良い映画を紹介します。

邦題は「スミス都に行く」、原題は「Mr. Smith Goes to Washington」という映画です。

この映画は、1939年年に制作された古い映画なのですが、アメリカの政治制度や議会制度の仕組み、民主主義の本質とは何なのかを理解する上で非常に優れた作品です。

社会派ドラマでアカデミー賞11部門にノミネートされ、最優秀脚本賞を獲得しました。

この映画のストーリー中に、アメリカ議会に特徴的な『フィルバスター』という場面が出てきます。これは、アメリカの上院においては当時、憲法上の権利として、上院議員が1人で無制限に発言することが許された特権で、法案の可決に際して、この権利を行使して、多数決民主主義に歯止めをかけたものです。

現在では、上院の総議員数の2/3以上の同意があれば、フィルバスターを辞めさせて投票に移ることができるのですが、多数決民主主義の問題点、本当の民主主義とは何なのかを考える上でも非常に優れた作品です。

ぜひ、腐敗した日本の政治を考える前に、政治とは何か、民主主義とは何かという本質を考えてみるのはいかがでしょうか。

この映画は、そうしたことを考える素材として非常に優れた作品で、私のお気に入りの映画の1つでもあります。

ちなみに、アメリカの政治家でこの映画を知らない人はいないと言っていいほど、アメリカで政治を勉強した人は知っているはずの映画です。

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06/13/2009

第二の冤罪事件か?(飯塚事件について)

あまり知られてませんが、今後注目を浴びる事件であろう飯塚事件について話をする。

最近まで、Wikipediaにも掲載されていないほどで、法曹関係者でも知らない人間はいると言っても過言ではない事件であった。

足利事件の菅家氏がこの事件の再審請求に参加して、冤罪の可能性を追求するという報道が先日なされ、世間の注目を集めつつある。

さすがにWikipediaにある事実関係を紹介するのは、正確性が担保できないので、他のソースを使おうと思ったのだが、事実関係を適切に説明している他の資料は、著作権が発生する判例解説等にしかないため、このブログで詳細に取り上げるのを控える。

その判例解説とWikipediaにある記載の事実はほぼ一致しているので、事実関係については、一応のところ、上記Wikipediaのものを参照されると良い。

また、より正確性が担保され、バランスの取れたインターネット上の情報としては、松山大学法学部前学部長の田村譲博士(現代法が専門)が運営されているホームページがあるので、そちらを参照されることをぜひお勧めする。

このブログでは、飯塚事件の話をする必要上、簡略化した概要だけ説明する。

この事件は、足利事件と同じ時期に、科警研で、同じDNA型判別方法を用いた鑑定結果と状況証拠に基づいて、幼児2人を誘拐・殺害した罪で被告人が死刑判決を受けた事件である。

死刑判決が確定し、2年後の2008年秋頃に死刑執行がされたのだが、当時再審請求を準備中であったにもかかわらず、死刑執行がなされたということで、弁護士関係者の間では特に問題視された事件であった。

この事件が問題なのは、まず、通常DNA型の判定を行う場合に、再鑑定をする可能性があるので、資料を残しておくのだが、当時の科警研が全て最初の鑑定で使い果たし、再鑑定が不可能という状態で出された鑑定結果であり、その信用性が疑問視された。

次に、当時、大学教授が行った別のDNA判別方法では、被告人と残されたDNAとの型が一致しないという結果が出ていたのである。

さらに、被告人は逮捕段階から一貫して否認していた事件である。

にもかかわらず、福岡高等裁判所は、以下のような判断をしました。

(被告人および弁護人)は、DNA型の鑑定のような重大な結果を生じかねない性質のものについては、再検査が可能なように資料を残すなり、増幅したPCR資料を残すなりしておく必要があり、そのような措置を講じていない本件では、証拠能力を否定すべきであり、少なくとも信用性を否定すべきである、というのである。

確かに、資料を残すなどして再検査を可能にする方途を講ずることは望ましいが、資料が少なかったり、なかなか結果が出しにくい場合に全部使い切ることがあったとしても、やむを得ない場合のあることは否定できないところである。

そして、本件では、科警研の検査で資料をほとんど使っているが、検査の結果がなかなか出にくかったことなどを考慮すれば、残量が少なくなったのもやむを得ないという事情があること、殊更再鑑定を避けるために費消するなどの不適切な事情も見当たらないことからすれば、資料をほとんど使い切ったからといって、その故をもって証拠能力を否定すべきものと解されない。

また、鑑定の内容に照らしても、MCT118型についての信用性を認めることができる。

その後、最高裁でも原審の判断が是認され、死刑が確定した。

この事件が冤罪なのかはわからないが、

①事件として被害者が2名であることから、足利事件のように無期懲役ではなく死刑判決になったこと、

②被告人が一貫して否認していたこと、

③最新準備段階で被告人の死刑執行がなされたこと、

④DNA型の鑑定結果以外の有力な証拠としては、(a)被告人が所有する車両と同一と見られる車両の目撃証言、(b)被害者の衣服にあった繊維片の一部が被告人の車両の座席シートの繊維片と同一という認定がされたこと(もっとも、同一のメーカーのものかまでは断定できないと第一審判決は指摘している)があったこと、(c)被告人の車両に血痕および尿痕が残っており、これらが被害者の鼻血および失禁の痕跡と思われ、血液型は一致することという3点があること

が大きな違いである。

ただ、多くの人も感じたであろうが、上記(a),(b)の証拠の証明力はDNA型の一致という鑑定結果に比べれば劣るものであり、DNA型の一致という鑑定結果が事実認定において大きな役割を占めたことは言うまでもない。

この事件が仮に冤罪だとすれば、最悪のケースである。つまり、死刑執行がなされてしまい、無実の人が国家により殺害されたことになってしまう。

非常に疑問なのは、なぜ再審請求の準備がなされていることが明らかだったにもかかわらず、死刑執行をしたのかということ、および、MCT118型の判別方法に疑問が呈されているにもかかわらず、なぜ2006年の最高裁が寄り慎重な審理をしなかったのかということである。

一部の検察関係者や検察出身の弁護士の方は、この事件と足利事件は本質的に異なるだとか、この事件が知られ、冤罪議論が起こることで、死刑廃止論の機運が高まることを懸念する声が上がっているのも事実である。

ただ、足利事件とはやはりかなりの部分で似通っている特徴があるのは事実である。とりわけ、DNA型の一致という鑑定結果の証拠能力を排除したとして、(a)車両の目撃情報と(b)繊維片の一部一致(同一メーカーとは断定できないが)という証拠だけで、有罪認定できるのか、つまり、「有罪でないという合理的疑いを排除できるだけの証拠」があるといえるかは難しいところではないかと私見は考える。

また、(c)についても、地裁判決文を読む限りは、血液型の一致だけであり、被告人と犯行の関係性を推認するものではあるが、同じく、これを(a),(b)と併せて考えても、無罪である合理的疑いを排除できるかはなかなか難しいところではある。

第2審の福岡高裁判決も以下のように指摘しており、必ずしも被告人と犯行とを結びつける明確な物証がある事件ではない。

本件では、犯行現場を目撃されたり、死体や証拠物の遺棄状況を直接目撃されていないし、(目撃者である証人)Aも犯人を目撃しているといえるものの、当然とはいえ、頭部にはげた部分があることを目撃している程度にとどまり被告人が目撃人物と似ているかどうかについても明確にできない程度の目撃であること、死体等や遺留品から被告人のものであることが明らかに認められるものも存在せず、被告人車内からも、それだけで被害者と明確に結びつくような被害者の遺留物、痕跡なども発見されておらず、まして、被告人の自白もないことから,以上の情況をもって被告人が犯人であることが合理的疑いを超えて証明されているかどうかを検討しなければならない。

判決文が示す事実から考える限り、やはり、DNA型の一致という鑑定結果は非常に重たいものであり、その結果を覆す証拠が出てくれば、無罪である合理的疑いが生じるのではないだろうか。

今後、この事件の再審請求等の推移を注視していく必要があるが、読者のみなさんがこの事件に関する情報に触れたときに、以下の2点をとりわけ考えてほしい。

  • 1点目は、DNA型の不一致が立証できるかどうか。既に、再鑑定が困難な状況にあるので、どういう形で弁護団が立証していくのか。それにより、不一致の立証が成功したといえるかどうか。

  • 2点目は、DNA型の不一致が立証できたとして、この証拠を排除した上でも、死刑執行が既にされている被告人が無罪であるという合理的疑いを排除できるだけの証拠があるのか否か。つまり、上記に示した証拠、その他の状況証拠のみによって、有罪であるとの心証を持てるのかどうか。

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さて、私は死刑廃止論者ではありませんが、死刑問題を考える上で良い映画を1つ紹介します。「The Chamber」という映画です。名優ジーン・ハックマン(Gene Hackman)と若手の俳優でバットマン・アンド・ロビンではロビン役をしたクリス・オドネル(Chris O'Donnell)が主演の映画です。

チェンバーというのは、Gas Chamber(ガスによる処刑室と言う意味)のチェンバーから撮られた題名です。この映画には、冤罪の要素もあるのですが、死刑囚となったものと家族の葛藤も描かれています。ジョン・グリシャムが原作の話なので、なかなかストーリーは面白いものがあります。

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06/12/2009

足利事件の反省をどう生かすべきか

検察による謝罪だけで済まされるのかという疑問は当然湧いてきます。

そして、この点について、菅家さんと佐藤弁護士の見解も同じだったようです。

私は、裁判所の判断、とりわけ、2000年の最高裁決定と再審請求を棄却した宇都宮地裁の判断に対する批判も行われるべきと個人的には思います。

といっても、判断した裁判官を罷免にしろとかいっているわけではありませんし、そのような議論には反対です。

東京高裁での再審決定や宇都宮地裁での再審審理を通じて、どうして冤罪が生まれたのかを検討することはもちろん、上記最高裁決定と宇都宮地裁の判断は、どういう理由づけで棄却されたのかをマスメディアも慎重に取り上げて、現役・OBの裁判官や弁護士の見解を交えて、再度分析し、どうしてこのような判断に至ったのかという検証をすべきであると考えるわけです。

既に、多くの国民はこの事件を極めて例外的な事件と考えている風潮があるような気がしてなりません。

仮にDNA検査の精度が上がったことが冤罪証明の理由の一つであるとしても、最高裁の判断は2000年ですから、果たして2000年の時点での科学技術のレベルに照らして、DNAの不一致を発見することが困難だったのか、それとも意図的にそういったDNA検査の重要性を軽視してしまったのか等を検証する必要があるのではないでしょうか。

つまり、17年も無罪で投獄されることが理不尽なことは明らかで、どの時点で、検察および裁判所が慎重な審理をしていれば、冤罪を防げたのかという検証と議論をしなければ、同じ事件は着実に起こり得ます。

なぜなら、我々は人間だからです。

日弁連が、2008年に宇都宮地裁の再審棄却について、批判声明をだしており、これを見る限りは、一番遅くとも宇都宮地裁が再鑑定を実施していれば、1年以上早く冤罪は証明できたはずでしょう。

また、2000年の最高裁決定(最決平成12年7月17日・刑集54巻6号550頁)は、DNA鑑定の証拠能力を認めたリーディングケースとされてきましたが、この判断について汚点がついたのは確かでしょう。

つまり、一般論として、DNA鑑定の証拠能力を認めることは問題ないにしても、本件でその証拠能力を認めたことは慎重さを欠いたという指摘が当時から学者や弁護士実務家の多くによりなされており、結果的に最高裁の判断に誤りがあったと言うことは言わざるを得ないと思われます。

特に、上告趣意書で、①事実審係属時に使われたDNA判別方法であるMCT118法は発展途上の方法であり安定的ではなかったということ、②鑑定資料である保管状態が悪かったこと、③再鑑定の残存資料の保管がなされなかったこと、④データの集積が不十分であったことが指摘されており(鯰越溢弘・刑訴法百選<第8版>153頁)、こうしたことを考慮すると、最高裁の段階で、原審を破棄することが可能だったといえるのではないでしょうか。

実際、最高裁の決定の中に、「鑑定の証拠価値については、その後の科学技術の発展により新たに解明された事項等も加味して慎重に検討されるべきである」という文言も存在しました。つまり、科学技術の進歩により、従前の判断に間違いが生じるという事態を最高裁はこの時点で認識していたことになります。

しかし、かかる指摘があるにもかかわらず、最高裁は原審を破棄せず、裁判所が再度鑑定するなどの措置もせずに、判決が確定してしまったわけですから、結局安易に"科学的"証明を信用してしまい、この文言が単なる修辞語のような役割しかない果たしていないともいえるでしょう。

この問題は、結局のところ、証拠の証明力(証拠価値)問題となり、論理則・経験則の問題につながってしまうのでしょう。そうなると、裁判官だけの常識、経験則をどこまで信頼できるかという限界をこの事件は物語っているのかもしれません。

かといって、裁判員制度により国民が参加すれば、これを防げるかも疑問です。

したがって、裁判官の判断に間違いはないという奢りや根拠のない職業裁判官への信頼を今一度見直し、刑事事件の大原則である「疑わしきは被告人の利益」を徹底すべく、この事件を国民レベルで検証し直すことが必要でしょう。

以下の記事にある菅家さんの指摘、佐藤弁護士の指摘は本当におっしゃる通りだと思います。

菅家さんが17年間耐え続け無罪と言う真実を証明しようと声を上げ続けたこと、佐藤弁護士が諦めずに様々な活動をしてきたことには、本当に敬意と称賛の気持でいっぱいです。

明日は、菅家さんが今後活動していくという飯塚事件について話したいと思います。

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なお、何度も紹介しているが、ぜひこの映画を見ていない方は見てほしい。

<足利事件>最高検謝罪に菅家さん「絶対に許さない」
6月10日22時13分配信 毎日新聞

 足利事件を巡って最高検の伊藤鉄男次長検事が謝罪したことについて、釈放された菅家(すがや)利和さん(62)は10日の会見で「警察、検察は私の目の前でちゃんと謝罪することです。裁判官も同じです。絶対に許さない」と語った。

 菅家さんの弁護団は10日夜に会議を行い、菅家さんも同席。会議後、菅家さんは弁護団とともに東京・霞が関の弁護士会館で会見した。

 佐藤博史弁護士は「本当の謝罪なら、なぜ誤ったかを明らかにすることが大切だ」と語った。また、東京高裁での再審請求の即時抗告審では、捜査段階でDNA鑑定を実施した警察庁科学警察研究所の技師に対する証人尋問を求めていく方針を明示。「弁護側が求める証拠調べ請求にすべて同意していただきたい。早期の再審開始は許さない」と話した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090610-00000127-mai-soci

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06/11/2009

辻井さんの快挙

[追記:2009年6月12日]

ウォールストリートジャーナル紙の電子版は別の最新記事を掲載しました。この記事は、辻井さんが2歳でジングルベルを弾けたことなど日本でも報道されている内容に加え、やはり一部の評論家の厳しいコメントも紹介しています。

他方で、辻井さんの演奏を評価する審査員のコメントと辻井さんの演奏を見たピアニストで、南カルフォルニア大学ソーントン音楽学部(USC Thornton School of Music)教授のノーマン・クリーガー(Norman Krieger)氏のコメントも紹介している。

クリーガー氏は、「辻井君が選曲した曲の難しさに感銘を受けた。ベートーベンのハンマークラヴィーアソナタは物理的にも演奏するのが難解な曲として悪名高い曲である。」とのコメントとし、審査員のニューヨークの名門ジュリアード音楽院のピアノ学部長Yoheved Kaplinsky教授は、「辻井君は、公正で、率直で、美しい音楽家シップで我々を感動させてくれた」と述べ、盲目であることと受賞は関係ないと説明しているという。

また、APF通信電子版は、アマゾンジャパンの音楽アルバムランキングで、日本で人気の歌手の福山雅治のアルバムを追い抜き、現在2位になったことを紹介。さらには、辻井さんが演奏する際に、好きなオレンジ色と青色を思い浮かべながら演奏しているというエピソードを紹介している。

さらに、面白いことに、昨日紹介したウォールストリートジャーナルのベンジャミン・イブリー(Benjamin Ivry)の記事(下記参照)に対し、クラシック音楽評論家のスコット・キャントレル(Scott Cantrell)氏が批判記事をダラス・モーニング・ニュースの電子版に寄せているのである。

キャントレル氏はまず、一言、「私はこの記事は不愉快かつ不正確だと思う」と強い口調で断じている。

そして、キャントレル氏は以下のようなコメントを書いている。

16日にわたるコンテストをすべて見ているが、(WSJ紙に評論記事を寄せた)イブリー氏が実際にコンクール会場に出席して見ていたという形跡は一つもない。もし彼が、実際に出席していたのであれば、クライバーンコンクールの広報担当者すらしら気がつかなかったのであろう。

もし、彼の評論がインターネット上で見た演奏に基づいて評価しているとすれば、はれはそのことをまず前提として言うべきであろう。私は、移動上の都合から、ファイナリストの一人、Di Woさんの演奏の一部をインターネットで見なければならなかったのであるが、ネット上での演奏はトーンの質が落ちて聞こえ、これに基づいてのみ演奏を評価するのは、欠点があると言わざるを得ず、評論する上で、実際に見たのか、ネット上での閲覧なのかを明示すべきと私は思った。

イブリー氏の記事は、事実すら正しく示していない。彼は、ジョン・ジオーダノ(John Giordano)氏がフォート・ワース交響楽団を指揮していると述べているが、すでに退任し、後任のMiguel Harth-Bedoya氏が指揮者になって9年も経っている。イブリー氏はタカーク弦楽四重奏団がハンガリー出身であると説明しているが、元々のハンガリー出身者は2人しか残っておらず、同四重奏団は1983年からコロラド大学に在籍しているので、不正確な説明である。

イブリー氏が指摘するゴールドメダリストの辻井伸行君への留保(低い批評)のうち、その一部は理解できる部分もある。しかし、私たちの多くは、イブリー氏が「音楽的に成熟して感情的である」と評するDi Wuさんへの執着には賛同できないだろう。

(私が審査員なら)私はもう一人のゴールドメダリストであるHaochen Zhangに一票を入れるだろう。

テキサス北部のテレビ・ラジオ局KERAが運営するArts and Seekというウェブページにある記事は、こうした評論家の意見を紹介した上で、次のように締めくくっている。

「彼のクライバーンでの演奏が個人的に好きかどうかに関わらず、辻井さんはアジア出身者で初めて、盲目のピアニストとして初めて、ゴールドメダルを獲得したのである。」

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退院したボイルさんは元気になってきたようである。

スーザン・ボイルさんは現在金曜日からバーミンガムで始まる「Britain's Got Talent」のツアーコンサートの準備に忙しいらしい。

入院した理由として、過度のプレッシャーや過労、自信の喪失などもあったようである。

ところで、以前お伝えしたデミ・ムーア、アシュトン・カッチャー夫妻がボイルさんを結婚記念パーティーに呼ぶ計画があるという記事ですが、イギリスのテレグラフ紙電子版は、その報道を否定する記事を掲載している。

さて、日本でも多くのメディアが取り上げているので、記事にするか迷ったが、このブログでは、音楽に関する記事も多いので、辻井さんの話題を取り上げようと思う。

公式サイトの動画

http://www.cliburn.tv/client.aspx

美爾依(ミニー)さんと言う方が管理人を務める『カナダde日本語』というブログが非常に詳しく辻井さんについてYoutube上の動画を交えて、取り上げていらっしゃるので、興味がある方はそちらを参照されることをお勧めする。

そこで、今回、このブログでは視点を変えて辻井さんを海外のメディアがどうとりあげているのか注目してみようと思う。

まず、イギリスのガーディアン紙。記事は、「盲目のピアニストが一流のクラシック音楽の賞で共同優勝者に選ばれる(Blind pianist is joint winner of prestigious classical music prize )」と題して報じている。

二人の優勝者がアジア出身初の優勝者であることや辻井さんが2歳から音楽を奏でることができたことを伝え、優勝した辻井さんと中国の演奏者を称賛している。

盲目のピアニストと言うことに加え、歴史あるピアノコンクールで、アジア勢が初の上位を独占したという快挙が注目されている。

これに対し、金融危機の発信源となったアメリカの保守系ウォールストリートジャーナル紙は手厳しい。

「審査員は何を考えているんだ?(What Was the Jury Thinking?) 」と題した記事では、辻井さんの演奏レベルについて、学生レベル、2位の中国人演奏者は才能があるがまだ未完成と批判しており、審査結果が不透明だという記事を書いている。

さらに、記事には、辻井さんのオーケストラとの共演について触れ、その演奏を「惨事(Disaster)」と称し、指揮者の指揮が見えないソリストは演奏すべきではないとまで断じている。

批判は辻井さんだけに向けられているのではない。

ファイナリストに選ばれたブルガリアのエブゲーニ・ボザーノフ(Evgeni Bozhanov)氏(25)に対しても、「彼はけばけばしく、荒々しい演奏者であり、セミファイナリストで敗れたイスラエルの演奏者の方が演奏のレベルが高かった。彼がファイナリストに選ばれたのは驚いた」と選考を批判しているのである。

ただ、コンサートが開かれた地元ダラスのフォート・ワース・ビジネス・プレス紙電子版は、辻井さんの写真付きの記事で、アジア勢が上位を占めたことを報じているだけで、そうした受賞に関する批判は見られない。

シンガポールのThe Straits Timesは、審査員の一人で、ニューヨークの名門ジュリアード音楽院のピアノ学部長Yoheved Kaplinsky教授の発言として、「盲目かどうかは関係ない。辻井さんは彼の演奏によって優勝した。我々は他の演奏者と同じように彼を審査するように定められているし、辻井君自身もそのように審査することを望んでいた。」というコメントを紹介している。

私はピアノに関してはあまり詳しい方ではないので、どのファイナリストの演奏がベッターかという議論はできないが、審査員は一流の音楽家ばかりなので、その審査の結果の方が、金融危機にあたふたした保守派新聞のコラムよりよっぽど正当性があると私は思う。

また、芸術性の評価は万人に受けるものが良いというわけではなく一般人や観衆の投票になじむものでもない。こういう競い合いがあるものに一律に透明性を求めようとするのはいかがなものかとも思う。

アジア勢の快挙に水を差したいのか?と疑ってしまうのはゲスの勘ぐりかもしれないが、保守派のウォールストリートジャーナル紙であれば、ありえないことではないだろう。

もっとも、こういった音楽における芸術性は個人の趣向もかなり反映されるものなので、オールストリートジャーナルのコラムニストが気に食わない演奏者が最終に残ったという理解で十分だろう。

盲の天才ピアニスト辻井伸行さんが10月にコンサート
6月10日14時50分配信 両丹日日新聞

 先ごろのヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、日本人として初の優勝を成し遂げた全盲のピアニスト、辻井伸行さん(20)=東京都在住、上野学園大3年=のピアノコンサートが、10月12日に福知山市中ノ、市厚生会館で開かれる。市文化公演自主事業実行委員会の主催で、世界でいま最も注目を浴びているピアニストによる旋律を福知山で聴くことができる。入場前売り券は7月7日からの発売となる。

 委員会は2001年11月の厚生会館全面改修で、ピアノの名器スタインウエイが購入され、音響照明設備が一新されたことを機に、市民らが集まり結成。クラシックの良さを広く知ってもらおうと、国内外で活躍する演奏家を招いて、毎年コンサートを開いている。事業に対しては市が補助している。辻井さんへの出演交渉は1年前からスケジュールを確認しながら進めてきた。

 辻井さんは生まれながらに全盲で、幼いころに母親の口ずさむ歌に合わせておもちゃのピアノで演奏を始めたという。1998年に三枝成彰スペシャルコンサートで、大阪センチュリー交響楽団と共演しデビュー。00年に第1回ソロリサイタルを開いた。海外での活動も多く、05年にワルシャワで開かれた第15回ショパン国際ピアノコンクールに最年少で出場し、批評家賞を獲得した。

 ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールは、第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したアメリカ人ピアニスト、ヴァン・クライバーンを記念して創設された国際ピアノコンクール。62年の第1回から4年おきにアメリカで開かれている。

 辻井さんは中国、ブルガリアなどからの5人とともに決勝に進み、7日(日本時間8日)に発表があり、中国人ピアニストとともに見事優勝に輝いた。

 福知山でのコンサートは10月12日午後5時30分開場、同6時開演。指定席1500円、自由席1000円で、当日はそれぞれ500円増しとなる。前売り券完売の場合、当日券はない。チケットの販売は実行委員会事務局の市まちづくり推進課、厚生会館、オクムラ楽器、光陽堂楽器、三字屋楽器店、福島文進堂サンライズ店で取り扱う。問い合わせは同課=電話0773(24)7033=へ。

写真=ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで演奏する辻井さん(写真はヴァン・クライバーン財団提供)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090610-00000001-rtn-l26

辻井伸行さんのCDは既に販売されているので他の曲もぜひ聞いてみるのも良いだろう。アマゾンでは視聴もできる(短いが)。

まず、フジテレビの人気ドラマ「のだめカンタービレ」でも演奏されていたラフマニノフピアノ協奏曲。

そして、下のCDにはショパンやリストの曲が数多く入っている。辻井さんは決勝で、リストのハンガリアン・ラブソディーを演奏しており、その曲ももちろん収録されている。

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06/10/2009

注目のハリウッド俳優

連日、多少重たい話題を扱ってきたので、今日はライトな話題の記事にしたい。

私が注目しているハリウッドスターについてである。

皆さんは、ジェームズ・マースデン(James Marsden)という俳優をご存知であろうか。

この俳優、私は最近まで何となく見たことがあるなという程度で、全然気に止めていなかった俳優で、もちろん名前すら知らなかった。

しかし、意外なことにかなり有名な映画で、有名な役どころを演じていたことに最近気がついたのである。

マースデン氏は、「X-MEN」シリーズのサイクロップス役を演じていた。

Xmen

このときの演技はそれほど私が彼の名前を知りたいと思うほどのものではなかったが、その役どころのアメリカンヒーローとしてのイメージは上手く演じられていたと思う。

私がなぜ彼のことをこのブログで紹介しようと思ったかといえば、それはもちろん、彼が類まれな歌唱力を持っているためである。調べたところによれば、今まできちんとしたボイストレーニングを受けたことが無いということだが、マースデン氏は、2つのミュージカル映画で素晴らしい歌唱力を見せている。

その一つが、皆さんもご存じの2007年に公開された映画「ヘアスプレー」である。

マースデン氏は、ボルティモアのテレビ局で若者に人気のテレビ番組の司会者として、歌とダンスを披露しているのだが、長年ブロードウェイでミュージカル俳優として活動してきたのではないかと思わせる歌唱力とダンス、演技力を披露している。

いわゆる脇役なのだが、この役で、マースデン氏は、ハリウッド映画祭(Hollywood Film Festival & Hollywood Awards)で、ハリウッド・アンサンブル部門年次賞(Hollywood Ensemble Acting of the Year Award)を受賞している。

また、放送映画批評家協会賞(Critics' Choice Award)では、最優秀アンサンブル賞(Best Acting Ensemble)を他のアンサンブル出演者とともに受賞している。

もう1つの映画が、日本では2008年に公開されたディズニー映画「魔法にかけられて」である。

この映画でも脇役のエドワード王子という役を演じているのだが、その歌唱力は非常にレベルが高い。 

この映画で、マースデン氏は、2008年度のティーン・チョイス・アワードのコメディ―部門にノミネートされている。

今年の10月頃にアメリカで公開される映画、「The Box」では、日本でもおなじみのハリウッド女優、キャメロン・ディアスを主役級の共演をしており、今までのコメディ―要素の強い役柄ではなく、ミステリー映画で、彼の演技を見れるようである。

今年はすでに、3、4本の映画に出演が決まっているようで、日本でも注目を浴びる日が来るかもしれない。

いずれにしても、ミュージカルの経験がないにもかかわらず、非常に素晴らしい歌唱力を持っている珍しいハリウッド俳優なので、ぜひ彼が様々な場面で歌声を披露するシーンが今後出てくることを期待したいものである。

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06/09/2009

足利事件と京都教育大学のダブルスタンダード

【補足:2012年3月9日】

ココログの運営会社である@niftyより、本件記事に引用した産経新聞の記事に容疑者とされた人物の6名の個人情報(本名、住所、年齢等)が記載されていることから、修正をするように通知がありました。

本件事件について、私はその後の情報を追っていませんでしたが、インターネット上の情報によれば、刑事事件については、被害者との和解成立により、不起訴となった一方、被疑者とされた者のうちの一部が、同大を被告として、処分の無効確認訴訟(民事訴訟)を提起し、控訴審判決が確定しているところ、同判決は、処分は有効であるものの、集団暴行の事実そのものについては、その事実を認定していないとのことです。

当該控訴審判決を読んではいないため、当該暴行事件の存否に関する直接の言及は避けますが、少なくとも、当時の産経新聞をはじめとするマスメディアは、否認事件であるにもかかわらず、被疑者とされた人物の実名を報道し、結果、暴行の事実そのものが民事では認定できないという判決が出ていることは重く受けとめるべきでしょう。

民事の事実認定は、刑事事件における事実認定よりも緩やかです。その緩やかな民事においても、犯行事実があったとは認められないという認定がされているということは、この事件は、冤罪であったというべきではないでしょうか。

マスメディアが一旦実名を報道すると、その記事は、今回の私のブログを含め、あらゆる場所に、転載され残ります。

そうした影響の大きさを考慮すれば、産経新聞をはじめとするマスメディアは、これら6名の方について、名誉回復報道をすべきではないでしょうか。

なお、今回、引用した産経新聞の記事に含まれた個人識別情報を修正する一方で、記事そのものを残すのは、以下の記事にあるとおり、私は当初からこの事件に対する危惧をしていたことを残しておき、警鐘としたいということと、産経新聞に代表されるメディアが実名等により、冤罪の可能性の高い事件につき、いかに断定的に報じているかという歴史的事実を残しておきたいという意図によるものです。

[記事補足:2009年6月9日]

読者の皆さま

記事にある親告罪の部分につき、誤解を招く部分があるので補足します。

「本件は性犯罪事犯である。したがって、告訴権者の告訴がないと公訴を提起できない犯罪類型(親告罪)に当たる。」

この部分ですが、これはあくまで、性的自由に対する犯罪は原則論として親告罪となるというつもりで書いたのですが、何人かの方がご指摘くださったように、当初の記事のままでは、刑法180条2項により、例外的に、共犯の事件、集団強姦罪(178条の2)については、非親告罪となることを看過した文章に読めます。

本件は、178条の2(平成16年改正により追加)により集団強姦罪という準強姦罪の加重類型が新設されているため、180条1項の親告罪とする規定の適用がないため非親告罪となるわけです(180条1項は176条から178条までを適用対象としており、180条の2は適用対象となっていない)。

この趣旨は、親告罪とすることは犯人が適正な処分を免れることにつながり、犯罪を助長するということから、例外的に処罰することを重視しています。

当初の私の記事の意図としては、

①この加重規定以前に、そもそもの罪質としては、準強姦など性的自由に関する罪は親告罪とされている以上、原則論として、被害者の意思に告訴をゆだねるという価値判断がある点に着目すべきであること。

②だとすれば、被害者の通報等の処罰感情が明らかではないにもかかわらず、大学側が積極的に通報・公表するべきなのかについては疑問があること。

③性的犯罪が疑われる場合で、和姦の主張があったりや否認事件の場合、当事者間のプライバシーにかかわる問題であるため、犯罪の発生を判断するのが通常難しいこと。

以上3点を理由に、原則論である親告罪としての性質を重視して、大学側が通報しなかったことが非難されるべきではないという主張をするつもりでした。

しかし、御指摘を受けて、読み返してみると、かならずしも私の意図がきちんと読み取れるわけではないことに気が付きました。

原則・例外の前提知識が必ずしも一般に明らかなところではない以上、180条の規定の解釈をキチンと、読者にお伝えし、その上で、原則と例外を明示した上で、かかる議論をすべきだったと思います。誤解を招く文章になったことをお詫びし、私の元々の意図が伝わるように補足させていただきます。

なお、記事の趣旨からはそれるのですが、さらに補足しますと、大学の告発義務の有無も問題になるところです。つまり、刑訴法239条2項により、公務員の場合は「告発しなければならない」とされているためです。

これについては、通説は義務説の立場ですが、訓示規定説もあります。

また、国立大学の場合、独立行政法人化されたため、純粋な公務員ではなく国立大学法人法19条による「みなし公務員」となります。

通説の立場に立つのであれば、この「みなし公務員」であるため、刑訴法239条2項の告発義務があったという主張はありえるところです。

ただ、これに対しても疑問が残ります。

というのも、大学には国公立、市立を問わず、公共的な施設であって、在学生を規律する包括的権能を有するとされています(最判昭和49年7月19日、民集28巻5号790頁)。

そうすると、大学が(加害者とされる)在学生に対する教育上、生活指導上の見地、さらには、被害者の在学生プライバシー等を優先させて、告発義務を履行しないという判断は、職務上の正当性を満たし、義務違反は生じないと考えるのが通常妥当だからです。

したがって、この告発義務の見地からしても、必ずしも大学側の対応が間違いであったと糾弾することはできないと私見は考えます。

以上、補足させていただきます。重ねて御指摘有難うございました。

--------------

京都教育大学の学生ないし卒業生による準強姦事件(刑法178条2項)について私見を述べたい。

といっても、世の中が過激かつ断定的な意見や情報で一方的な流れになっていることへの危惧である。

マスコミは、足利事件を含め冤罪が確実に我が国の司法制度の中では生じていることを認識していながら、他方では、報道に慎重さを欠いている。

私が把握している限り、今回の京都教育大学の学生ないし卒業生を被疑者とする準強姦事件において、被疑者のうち、4名は否認している事件である。裁判員制度が始まった今、否認事件であれば、予断を生じさせる報道は慎むべきではなかろうか。

事実関係は、公判の中で明らかにすべきであり、国民の関心もその中で満たされるべきであって、公判前の一方的な警察、検察の情報を鵜呑みにすることがいかに恐ろしいか、先日の足利事件でも明らかだったであろう。

にもかかわらず、メディアも、そして多くの国民も、ダブルスタンダードを容認してしまっている。

準強姦罪とは、女子の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、姦淫した者は、3年以上の有期懲役に処するというものである。

非常に罪質が悪い犯罪であり、被疑者が仮に犯人であると裁判において「確定」すれば、もちろん法的責任だけでなく社会的責任を受けなければならないのは当然である。

しかし、否認事件であるにもかかわらず、犯罪があったと断定して報道し、視聴者もそれに乗っかっている姿は、非常にヒステリックな現象といっても良いのではないだろうか。

もちろん、有罪が確定すれば、犯人に対する非難はなされるべきであることはいうまでもない。

今回、被疑者が教育大学生だったということが、国民にとって衝撃であったことは明らかである。だが、被疑者の段階ではなんら批判にさらされるべき理由はない。

有罪が確定して初めて非難されるべきであろう。特に、否認事件であることをもっと慎重に考えるべきではなかろうか。

もしかすると、被疑者が否認しているのは、「罪を問われたくない」、「ごまかしたい」ということから否認しているのかもしれない。しかし、そんなことを言ってしまえば、冤罪の作り放題になってしまう。

御存じのとおり、足利事件では、有罪も確定したにもかかわらず、再審請求を第一審が認めなかったにもかかわらず、一転して無罪であることが17年かかり明らかになろうとしている。冤罪を着せられた菅家氏は、一旦は、自白まで強制されたことになる。

政府は、この事件をごく例外の事件として扱い、その影響を最小限にとどめたいという思惑があるようであり、検察にとっても、裁判所にとっても、その思惑は一致しているかもしれない。なんせ、最高裁さえ真実を見抜けなかったのであるから。

しかし、臭いものにふたをしていれば、いつまでたっても冤罪はなくならない。重要なのは、否認事件に当たっては、慎重にも慎重を期して、事実の認定を証拠に基づいて行うことであろう。

マスメディアが理解するのに高度すぎることは言っているつもりはない。

ただ、松本サリン事件、足利事件などを経ても、マスコミに報道姿勢に変化の兆しが一切ないことに、この国の将来を憂いでしまう。

話を京都教育大学の事件に戻すが、大学側の対応についても批判が集中している。

私個人、大学側の関係者が警察に通報しなかったことを「教育的配慮」とだけ説明したことには疑問がある。これでは説明になっていない。

ただ、おそらくマスメディアや大多数の意見とは異なるのであろうが、批判を覚悟で言うと、私は、大学側が警察に通報しなかったこと自体は何ら問題が無いと思っている。

本件は性犯罪事犯である。したがって、性犯罪事犯の場合、原則的には、告訴権者の告訴がないと公訴を提起できない犯罪類型(親告罪)に当たる。なお、本件そのものは集団準強姦罪にあたるので、例外的に非親告罪として取り扱われる点は付言しておく。

つまり、性犯罪に関して、親告罪を原則としていることは、被害者の精神的ショックが大きい事件なので、公訴を提起して、公の裁判をすることを求めるかどうかを被害者等の一定の告訴権者に委ねた犯罪類型であるためである

こういう性犯罪という原則的には親告罪となる事件の場合、被害者等一定の告訴権者の意思にゆだねるという価値判断を重視すべきである以上、大学側が事実関係を積極的に警察に通報することをする必要があるのだろうかというのが私の考え方である。

もちろん、被害者が大学に相談したのであれば、どういう方法があるのかをアドバイスや助言することはすべきであろうが、事実関係が明らかでないにもかかわらず、被害者に代わって通報したりする必要はないし、まして原則的には性犯罪が親告罪という性質を考えれば、公表だってする必要があったかは疑わしい。

にもかかわらず、マスメディア、得点稼ぎをしたい文科省や政治家は大学が公表すべきだったと非難の声を上げている。これでは、衆愚政治そのものではなかろうか。

大学側があえて、被害者に通報しないようにとか何らかの働きかけをしていたのであれば、もちろん問題である。ただ、私が知る限りはそう言った情報に接していない。

仮に、大学側がそうした動きをしていないのであれば、今回の大学が通報しなかったということに何ら責められるべき点はないと思う。

公表の点においても、同じことが言えるのではないだろうか。大学は有罪が確定すれば粛々とその加害者に対し、大学内の規範に従って処分すればよい。犯罪を犯した人間は、有罪と「確定」した人物であって大学ではない。

どうもこの国のお門違いなマスコミの批判、政府の衆愚政治を助長する動き、そして、国民の意識の低さには恐ろしさすら感じてしまう。

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※ 引用記事につき、本名等が記載されている部分について、上記の理由から、被疑者とされた者の氏名を、アルファベットに置き換え、住所・年齢は削除し、所属していた部活についても、全て○○と置き換えて、修正します。

また、本件については、大学の処分を争った無効確認訴訟(民事訴訟)において、高裁判決では、処分は有効とする一方、集団暴行の事実そのものを認定していないのであり、いわゆる、冤罪の可能性が高い事件であったことも再度付言しておきます。

女子大生を集団暴行 容疑で京都教育大生6人逮捕 大学側、公表せず
6月1日15時55分配信 産経新聞
 居酒屋で開かれた90人規模のコンパで酒に酔った女子大学生に、性的暴行を加えたとして、京都府警は1日、集団準強姦(ごうかん)容疑で、京都教育大(京都市)の学生6人を逮捕した。6人は体育会の○○部や○○部、○○部などに所属していたといい、同大学は3月末に6人を無期停学処分としたが、公表しなかった上、警察にも届け出ていなかった。

 府警によると、逮捕されたのは、4年生のA▽B▽C▽Dの各容疑者と、3年生のE▽Fの両容疑者。

 逮捕容疑は、今年2月25日夜、京都市○○区の居酒屋で開かれた学生ら90人あまりが参加したコンパで、酒に酔って前後不覚となった女子学生を店内の空き部屋に連れ込み、性的暴行を加えたとしている。府警によると、B容疑者は容疑を認めているが、A、C、Dの3容疑者は「合意の上だった」、E、F両容疑者は「触っていない」と否認しているという。

 女性の母親が3月下旬に府警に通報し、4月に女性が告訴していた。コンパの参加者が大人数のため、府警はほかにも犯行にかかわった学生がいる可能性もあるとみて捜査している。

 京都教育大の担当者は1日午前、産経新聞の取材に対し「処分の有無も含め、現段階では何もコメントできない」と話した。

 また、C、F両容疑者が所属していた○○部の男子部員は「状況が全くわからないので何も答えられない」。女子部員は「2人ともいい人で、酒を飲んでおかしなことをすることなど聞いたことはない」と話した。
 

 大学生による集団暴行事件では、平成15年に早稲田大のイベント企画サークル「スーパーフリー」のメンバーによる事件が発覚し、これを契機に集団強姦などの罪が新設された。また、18年には京大アメリカンフットボール部の元部員3人が集団準強姦事件で逮捕され、有罪が確定した。

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日本人のイメージを低下させる残念な行為

このニュース見ましたが、ここまで問題になっていたとは知りませんでした。

タダでもらえるというのに勝手に並んでおいて、誠意が無いと詰め寄る客は何を勘違いしているのでしょうね。

呆れてものが言えないとはこのことでしょう。

NYでは混乱が無かったといわれると、なおさら現在の日本人の文化レベル、民度、イメージが悪くなるのではないかと逆人心配です。

以前、WBCの際に、韓国が日本に負けた時に、韓国人のブログやネットでの常軌を逸したバッシングについて、私は、ひとりの行動がその国全体のイメージを低下させるという指摘を行いました。

今回のこの”客”の行動は、明らかに我が国のイメージを低下させる危険性のあるもので、非常に恥ずかしいとしか言いようがないでしょう。

この記事で指摘されている行為をした”客”である当の本人は自分の些細の行為がどれほど恥ずかしいものだったか、影響を与えるものだったかは気づきすらしていないでしょうが・・・。

影響を如何に小さく見積もっても、フランスの老舗宝石商の日本支社長は、よっぽどできた人でない限り、日本人を「浅ましい人種だ」とか「マナーが無い」とか、「低俗だ」と思ったかもしれません。

思われても仕方のない行動だと思います。メディアもこういう指摘をするのは良いのですが、もう少しどうして殺到する事態に至ったのか、どういう輩がこの種の情報を得て、マナーのない行動に出たのか報じてもいいのではないかとすら思います。

法律の世界では、社会通念というマジックワードをよく使いますが、こういうマナーの悪さを聞くと、今の社会通念がどういうもので、それに正当性の根拠があるのかどうかとふと疑問にすら思ってしまいます。

残念な話です。

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タダに殺到! 銀座を大混乱させた“ダイヤ騒動”の成否
2009/6/6 16:57

 「ダイヤ無料配布」で東京・銀座の街を大混乱させたフランスの宝飾ブランド「モーブッサン」。店の対応の不備を問う声がある一方、行列客の行儀の悪さにも批判が集まっている。なかには、ダイヤの引換券をネットで転売する者まで現れる始末。2500万円も投じた開店記念イベントは、果たして成功だったのか−。

 モーブッサンはフランスの「5大宝飾店」のひとつで、1827年創業の老舗。この名門ブランドが1日、銀座店で先着5000人に0.1カラットのダイヤ(5000円相当)を無料配布すると発表したことから、人が殺到。午前9時の開店前には1.5キロにわたる行列ができた。

 ダイヤはわずか1時間半で“売り切れ”たが、この日のうちに権利を得たすべての客に受け渡せないことが判明すると、長時間行列に並んだ人たちから不満が噴出。怒号が飛び交い、「誠意がねーよ」などと警備員に詰め寄る人も現れた。

 “無料ダイヤ騒動”は関係者の予想を超えるものだった。モーブッサンジャパンのヤニック・デリヤン社長(29)は「これほどの混乱は想定していませんでした」とポツリ。同様のイベントは米ニューヨークの店舗でも開催されたが、「そこでは大きな混乱はなかった」というだけに、日本の過剰反応が際だつ格好ともなった。

 アジア圏では銀座が初の路面店だが、今回の騒動を受け、デリヤン社長は「次に路面店を開設予定のシンガポールでは同じイベントはやらないと思います」と話した。

【うまく利用されただけ】

 実際、「無料」の触れ込みに釣られた人は多かったようで、「普段、銀座で買い物しないような客層もかなりいた」(同店関係者)。同店ではダイヤ譲渡と同時に5万−9万円の価格でリングなどにセッティングするサービスも行っているが、当日ダイヤを受け取れた330人のうち、セッティングしたのは全体の約15%。残りの約280人は無料ダイヤをそのまま持ち帰ったという。

 さらに、ダイヤとの引換券をネットオークションに出品する者も現れた。この事実には、デリヤン社長も「えっ…。そこまでは想定していませんでした」と言葉を失っていた。

 一連の騒動について、ネットの大手掲示板には≪なんと賎ましい≫と行列客のマナーの悪さを批判する書き込みがあふれている。ダイヤへの引換は15日まで行われるが、このイベントは成功したと言えるのか。

 ファッションデザイナーのドン小西さんは「ブランド生き残りのため、潜在的な市場を開拓する戦略。話題になったという点では成功」と話す。

 ただ、「ユニクロやマクドナルドなどの商品が生活に根づいているような一般層にアピールしても意味はない。最も下劣で低俗なPR手法で、フランスの名門ブランドのイメージは半分以上崩壊した。そういう意味では大失敗」とも。

 そのうえで「ファッションを上辺だけでとらえる人が物ごいのように群がるのは見苦しい。日本人の民度の低さと野次馬根性を見透かされて、うまく利用されただけ」とため息をついていた。

http://netallica.yahoo.co.jp/news/80795

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06/07/2009

リベラル勢力、共産党、社民党が生き残る道はあるか

真面目に主張しているにもかかわらず、笑ってしまうということは不謹慎だとは思うがよくあることではないだろうか。

共産党支持者がこのブログの読者の中にいれば、申し訳ないとだけ先に言っておこうと思う。

共産党の志位委員長が、政権政党を目指すと述べているらしい。

共産・志位委員長「政権党への成長」に意欲 8中総開幕
6月4日13時30分配信 産経新聞

 共産党の第8回中央委員会総会が4日、東京・千駄ヶ谷の党本部で始まった。志位和夫委員長は幹部会報告で、次期衆院選を「21世紀の日本の進むべき道が問われる歴史的選挙」と位置づけた上で、東京都議会選挙の告示日の7月3日までに全党的に態勢を整え、衆院選比例区で650万票以上の獲得を目指すなどの党方針を示した。

 志位氏は、共産党について「二大政党の悪政に立ち向かう唯一の政党だ」と強調し、自民、民主両党の双方を「異常な財界、大企業中心の政治、軍事同盟絶対の政治を共有している」と批判した。

 さらに次期衆院選で政権交代を目指す民主党について「官僚支配を打開してどうしたいのか。外交をどうしたいのか。民主党政権がどういう日本を目指すか、さっぱり見えてこない」と厳しく批判した。

 また昨秋以降、共産党が、これまで批判の対象としてきた財界幹部と会談したり、オバマ米大統領に、核廃絶を表明したプラハ演説を歓迎する書簡を送るなど“柔軟な対応”をしていることについて、「私たちが政権を担う党へと成長していく上で、初歩的だが意義ある一歩だと強調したい」と述べた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090604-00000567-san-pol

真面目に政権政党を目指していると言っているのか、冗談なのか良くわからないが、おそらく当の本人は真面目に言っているに違いない。

このニュースを聞いて、単に共産党のことだからと鼻で笑って済ませるのでは、読者の皆さんにも申し訳ないので、このニュースから私が考えたことを紹介したい。

おそらく、”従来の”共産党の存在意義が現在は非常に希薄になっているのだと感じる。これは、社民党も同じなのであるが、二大政党、政権交代という大義名分の陰で、少数政党になり下がった社民党や、万年野党の共産党は百害あって一利ないと考える人も多いかもしれない。それはおそらく民主党支持者に多いのではないだろうか。

つまり、論理はこうである。共産党や社民党が選挙で勝ち目がないのに小選挙区に出ると、リベラル票が流れ、民主党に不利になるという考えだろう。これはおそらく正しいし、実践的な見方といえる。

しかし、本当に共産党や社民党の存在意義はなく、百害あって一利ないのかはわからない。支持者にそんなことを言えば、そんなことないと大きな反論が来るに違いない。

ただ、私が一つ確信をもって言えることは、社民党も共産党も、過渡期に来ており、第三政党としての適格性を有するには至っていないということである。

私はある種、現在の状況は、1997年頃のイギリスの政治状況に似ていると思っている。ただ一つの例外は、野党にトニーブレアのような柔軟で、スマートで、雄弁で、リーダーシップ、実行力のある指導者はいないということだけである。

この頃のイギリスは、肥大した公共サービスにメスを入れたサッチャー改革による民営化・市場化政策により、一時的には経済的な恩恵を受けたが、その弊害により苦しんでいた。教育、社会福祉等の分野で、予算削減による質の低下が生じ、サッチャー元首相は一部からは「魔女」とまで罵られ、後を継いだメイジャー元首相も指導力不足がしてきされていた。

これを現在の日本に引きなおしてみよう。小泉改革の弊害により、教育、社会福祉分野は問題山積である。一部の人間は、小泉が全て社会を悪くしたと罵る。そして、後を引き継いだ、安倍、福田、麻生も指導力を発揮できずにきている。

非常に似た状況ではないだろうか。

そこで、イギリスでは、万年野党になり下がっていた組合の支配力が強い労働党を生まれ変わらせた、トニー・ブレアが登場することはご存じだろう。このブレア前首相の話はまたの機会にしようと思うが、当時のイギリスでもう一つ注目すべきなのは、第三政党の存在である。

イギリスには当時、社会民主党と自由党が存在した。両方ともリベラル勢力であるが、前者は、高福祉政策等の大きな政府を好む社会主義思想の強いリベラルであり、後者は小さな政府を好む自由主義思想の強いリベラル勢力である。

これらが生き残りをかけ、合併し、英国自由民主党が成立する。

英国自由民主党は、労働党が中道化(右よりになった)ことによる、左派の受け皿として、第三政党化を目指すが、ブレア政権下では、その存在意義に苦心して、なかなか受け皿となることができなかった。

これは、ブレア前首相が在任中比較的支持率が高かったため、労働党の支持率もそこまで落ちなかったことがおもな原因であると言えるが、他方で、英国自由民主党もブレア前首相に対抗できる強いリーダーがいなかったこと、現実味のあるリベラル政策を提唱するのが困難であったことなども原因といえる。

しかし、ブラウン首相に代わると、労働党の支持率もガタ落ちし、現在は第二位の支持率を得ている状況にある。

これを日本に引き直して、日本の将来を占ってみたい。

現在日本にある第三政党足りうる野党勢力は、社民党と共産党である。英国の事情とは違い、両党ともに社会主義思想を基本とするリベラル勢力である。また、防衛問題についても、イギリスとは違い、無防備な平和主義を好む傾向にある。

まず、第三政党になりうる適格の障害として、無防備な平和主義があるだろう。どんなに共産党や社民党が頑張っても、自衛に関する現実的な視点がなければ、政権政党になりうる存在には奇跡が起きてもなることはできない。

そこで、まずこれらの政党は、護憲の立場を保持しつつ、無防備な平和主義を改めて、平和主義的国家防衛の在り方を国民に提唱する必要があるだろう。さもなければ、どんなに良い政策を主張しても、政権政党適格は得られない。

次に、共産党と社民党は共通点があるのだから、合併の道を模索する必要があるかもしれない。そのためには、共産党が共産という名を改め、党是から共産主義の実現という死したスローガンを捨て去る必要がある。

第3に、民主党には、ブレアのような有能でスマートな強い政治家はいない。そこがチャンスである。社民党や共産党といったリベラル勢力の中で、党の方針を現実的なものへと変化させ、雄弁かつ強いリーダーシップを発揮できるスマートな人材を発掘し、党首に置けば、政権政党に代わるチャンスもありえるだろう。

しかし、これら3点を今の社民党や共産党が実現するのはほぼ不可能であろう。

だからこそ、共産党の志位委員長が真面目に政権政党になろうという発言をしていても、私は笑ってしまうのである。

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06/06/2009

スーザン・ボイル(Susan Boyle)さん報道に見る法律家の役割

イギリスの公的機関の対応は日本の公的機関の対応よりも迅速かもしれない。

ガーディアン紙電子版によれば、6月2日に、イギリスの報道苦情処理委員会(Press Complaints Commission、以下「PCC」という)が、全ての新聞各社に対し、スーザン・ボイルさんの健康状態に関する報道に当たり、詳細に報じすぎることで、彼女のプライバシー侵害をしないように自粛するように求める警告を行ったという。

ボイルさんのマネジメント等は、現在、サイモン・コーウェル氏が代表を務めるソニー・ミュージック・エンターテイメントの子会社、「SyCo社」が代表して行っているが、このSyCo社がPPCに対し、報道の自粛を警告するように要請したようである。

おそらく、今回の対応には、イギリスの法律家が関わっているだろう。

なぜそう思うのかというと、今回、SyCo社がPCCに要請した際に、メディア報道がプライバシー規制に関する法令のどの具体的条項に該当するかを指摘して行っており、こうした関係法令に詳しい法律家の関与が見て取れるためである。

ある自体が生じたときに、法的仕組みの中で、どういう対応が可能なのかどうかを瞬時に判断できる法律家が多数存在することは社会にとっても有益であろう。

日本のように、法律家が特別職扱いされ、訴訟や契約などの限られた局面でしか活動しないのと異なり、欧米では、法律家の数が多いため、色々な局面で法的知識を活かして活動がなされることが多い。

また、コンプライアンス(法令遵守)と企業の社会的責任というのが欧米社会では日本以上に重視される傾向がある。

環境保護団体等が企業に苦情を申し入れた場合に、日本の場合は無視したり、形式的な回答をすることが多いが、欧米ではそれを面倒な苦情処理と捉えるのではなく、いかにして企業にとって有益な結果をもたたすチャンスに変えるかという視点がある企業も少なくない。

このように、法律というのは企業のあらゆる活動の場面で必要になってくる知識であり、訴訟や契約の場合にだけ法律家がいればいいという日本社会の現状は、海外の司法状況に比べ10年以上遅れていると言っても過言ではないだろう。

もちろん、企業内部にいる法務部職員は、私が指摘しなくても法律家の役割が訴訟や契約に限られるものでないことは熟知していると思われるが、非法務部の大多数の人はあまりこのことを意識したことはないのではないだろうか。

今回のボイルさんとメディアスクラムに対する公的機関の迅速な対応の裏には、法律家の存在があるように思われ、日本社会でも公的機関や企業が迅速かつ適切な対応をするためには、法律家の関与がますます必要になるのは明らかである。

もっとも、私はあえて、「法律家」と今回言ったのであって、弁護士と言っていないことも付言しておく。つまり、弁護士をたくさん採用して、儲けさせろと言っているわけではない。

なお、みにーさんの情報提供で確認したところ、ボイルさんが退院したようだ。

デイリーテレグラフ紙によれば、既に、デミ・ムーア、アシュトン・カッチャー夫妻(Demi Moore and Ashton Kutcher)が9月の結婚記念パーティーにボイルさんを個人的に呼ぶことを計画しているらしい。同夫妻は、Youtubeでボイルさんが人気となる際に、Twitterというネットコミニケーションツールをつかって、ボイルさんの歌声を聞いて涙が止まらなかったと絶賛するなどその爆発的人気の火付け役となった人物である。

出演料として、30万ポンド(日本円で、約4500万円)を支払い、飛行機でハリウッドまで来てもらう計画らしい。

もっとも、現在はボイルさんの健康状態の関係で、契約には至っていないが、健康状態の回復後に今後話が進められるという。

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06/05/2009

ロビン・シュコルツ(Robin Schlotz)君も凄い才能を持っています

スーザン・ボイルさんもその一人であるが、世界には生まれながらにした素質・才能をもった人間というのが、数多くいる。

ドイツ人の少年、ロビン・シュコルツ(Robin Schlotz)君もその一人であろう。

一年ぐらい前に、モーツアルトのオペラ「魔笛」にある有名な曲、「夜の女王のアリア」をたまたまYoutubeで検索していたところ、発見した動画である。聞くところによると、すでに日本のテレビ番組でも取り上げられたらしい。

おそらく、この曲自体は、フジテレビ系列のドラマ、「のだめカンタービレ」で挿入歌として流れたことがあるし、以前、めざましテレビでは、ニューヨーク・メトロポリタンオペラで、日本人初のソプラノ歌手が歌った歌として取り上げられていたので、聞いたことがある人は多いと思う。

もちろん、男の子なのにこれだけの高い綺麗な声を出せるのは素晴らしいが、この少年の歌声も、技術という点や声の高さという点とは別に、観客に訴える不思議な魅力がある声だと思う。

この少年が、現在歌を続けているのかどうかは、不明であるが、当時は13歳で、2005年11月頃に、声変わりをして今では彼のこの歌を聞くことができないという。よって、この動画は非常気貴重な映像だろう。

このシュコルツ君は、ドイツの有名な合唱団、テルツアー少年合唱団(Tölzer Knabenchor) で、ソリストを務め、この合唱団の伝統で、ソリストはこの曲を父母向けのコンサートで歌うことになっているという。この映像も、父母向けのコンサートでの演奏で、一般公開されたコンサートでは歌っていないらしい。

これらの情報源はこちら(英語)。

このシュコルツ君のCDがあるようで、以下のもののようだ。

また、一昨年(初回)のBritain's Got Talentの決勝戦で、ポール・ポッツさんに敗れたが、イギリスやアメリカ、世界中で有名になったコニー・タルボット(Connie Talbot)ちゃん6歳も生まれながらの才能の持ち主だろう。

彼女も、決勝で敗れたが、世界的に注目をあびることになったのは、Youtubeによる効果が大きく、ボイルさん現象の予兆だったのかもしれない。

いずれにしても、Youtubeを通じて、色々な人が世界的に注目を浴びる時代になったのは本当に新しい現象であろう。世界的な人気を得るためにはYoutube上での一種のマーケティングみたいなものも今後は活発になるかもしれない。

日本からも、このような人材が世界的な注目を浴びるようなことになれば良いなと思う一方、今回のボイルさんをはじめとする個人への既存メディアの執拗な嫌がらせやメディアスクラムの問題を世界規模で考えていく必要があるのかもしれない。

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ちなみに、日本でも、コニーちゃんの日本版CDが最近発売になった。そして、すでに報じられているように、6月6日土曜日に初来日し、6日、7日と東京でイベントが開催されるという。

コニー・タルボット初来日、イベント開催決定
5月22日15時27分配信 リッスンジャパン

弱冠8歳の歌姫コニー・タルボットが、デビューアルバム『オーヴァー・ザ・レインボー』日本盤のリリースを5月27日(水)に控え、満を持しての初来日が決定した。

イギリスで話題のオーディション番組に出演し(当時6歳)、その歌声で審査員の度肝を抜いたコニー・タルボット。彼女の存在は瞬く間に大きな反響を呼び、デビューアルバムはイギリスのアルバムチャートインの最年少記録としてギネスブックに登録され、You Tubeの再生回数は5000万アクセスに届く勢い。その天使のような歌声はイギリスのみならず、アメリカ、アジアでも大きな話題を呼んでいる。

待望の来日イベントは6月6日(土)、東京ドームシティ・ラクーアガーデンステージで行われ、翌日6月7日(日)には、イオンモールむさし村山ミューでの開催が決定している。

また、ミニライヴ終了後にはサイン会(CD購入者先着で参加券を配布)を予定している。なお、観覧は両日ともフリーとなってるので、この機会にぜひ生のコニーちゃんに会いに行こう!

【イベント日程】
■日時:2009年6月6日(土)14:30開演・16:30開演(2回)
■場所:東京ド-ムシティ ラクーアガーデンステージ

■日時:2009年6月7日(日)14:00開演・16:00開演(2回)
■場所:イオンモールむさし村山ミュー1Fサウスコート

問)キングレコードストラテジックマーケティング本部
03-3945-2192

※サイン会参加方法につきましては、注意事項がございます。【キングレコード】オフィシャルサイト内の、コニー・タルボットのページをご覧下さい。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090522-00000005-lisn-musi

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06/03/2009

皆さん、お忘れでしょうか?

こういうことを書くと、ファンの方などから批判を受けるかもしれないが、あえて今回この問題を取り上げようと思う。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090527-00000046-spn-ent

芸能人の島田紳助氏がフジテレビ系列の26時間テレビの司会者をするそうである。このニュースを聞いて、普通の人は、「あーそうなんだ」と思うだけかもしれない。

ただ、私はこの方がテレビに出て、平然とした姿で司会をしている姿を見るたびに、2004年の傷害事件を思い出す。そして、この事件の結末がどうなっているのか、誰一人知らないのではないだろうか。

私も知っているわけではない。ただ、女性に傷害を与える程度の暴行を加え、大阪簡裁で、略式起訴を受け、有罪が確定している人間が、全く何事もなかったかのように、この5年間テレビに出演し、世間に知ったような口を聞いていることに、何も感じないというほどおバカになるわけには、私はいかないのである。

これは最近世間を騒がせた、SMAPの草なぎ剛氏の事件とは質が異なる。傷害罪という他人の身体に対する侵害行為を行ったとして有罪が確定しているのである。草なぎ氏の場合は、公然わいせつ罪で不起訴になったのであって、罪質が違うのは御理解いただけるだろう。

現に、2006年には4400万円の民事訴訟が起こっているわけである。その判決の結果は、私が調べた限りはわからないが、こういう事件がつい5年前に起った人物であり、そういう人物が平然と、従来通りの司会者のポストを維持できているのは、やはりテレビ業界というのは非常識な世界だと思ってしまうわけである。

「面白ければなんでもいい。」「才能があるから良い。」などと許してしまったり、過去のあった犯罪事実について、忘れてしまうのはいかがなものであろうか。

これは、アメリカでも同じであるが、いわゆる有名人に対し、処罰姿勢が甘いという問題があるような気がしてならない。

通常、社会的制裁を受けていることなどは刑事事件において情状としての斟酌事由になる。だが、裁判官が注意しなければならないのは、有名人の事件を扱う上で、社会的制裁の意味が、通常一般人の場合よりも生ぬるい場合があるということである。

現に、大きな犯罪や覚せい剤などで逮捕され、実刑判断を受けた人物も、有名人であれば、なんとか復帰できたりしているのである。これに対し、一般人の場合はどうであろうか、私は一般人の受ける社会的制裁は、有名人に比して、相当重いものがあると思う。

むろん、社会復帰を許すなと言っているわけではない。ただ、傷害事件のような罪質が悪い犯罪をした人物の過去の行動を忘れてしまい、反省しているのかどうかという検証を社会全体でしなければ、再犯の防止、被害者の救済という観点から、問題があるのではないかと思うわけである。

裁判員制度が始まる中で、そういった社会的制裁というのはどういうことなのかも、一般国民に関心を持って考えてもらいたいことの一つである。

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06/02/2009

スーザン・ボイル(Susan Boyle)さんに関連して

追記[2009年6月3日]:テレグラフ紙の電子版は、医師の話として、ボイルさんの入院が数週間に及ぶ可能性を示唆していると報じている。

これは、入院先の医師が一般論として答えたものだが、メンタルヘルス法に基づいて入院がなされた場合、精神的なダメージを与える危機的段階にあるとの判断によるものなので、数週間を治療に要するのが一般的であるとしている。

記事によれば、ボイルさんを巡っては、改めてアメリカのオバマ大統領が7月4日に行われる独立記念日のホワイトハウスの記念式典に招待した報じており、様々な予定が既に決まっているようである。

私は、ボイルさんはしっかり必要な治療を受けて、数週間なり休むべきだと思うし、あまり周りが色々過密なスケジュールを先走って入れるべきではないと思う。すでに、話題性という域を超えて、多くのファンがいるだろうし、焦るべきではないだろう。

また、私が一番危惧しているのは、ブラウン首相もそうだし、オバマ大統領もそうだが、本当に、彼女のことを想って談話を発表したり、招待状を送っているのかということである。

支持率が急激に落ち込んでいる英国首相が、人気取りのためにやったり、GMや北朝鮮など経済問題も外交問題も打開策が打ち出せず、支持率に陰りが見え始めた大統領が一時的に若者の関心をそらすなどのパフォーマンスのために、こうした行為をしているとすれば、非常にレベルの低い話である。

少なくとも、メンタルヘルス法により、入院しているのだから、政治家が便乗する姿にはどうしても違和感を感じざるを得ない。

日本の政治家にもパフォーマンスが好きな中身のない政治家が多いが、私が以前から指摘するように、小泉流パフォーマンスが好きなアメリカ大統領もついに馬脚を見せはじめたのかもしれない。

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昨日の報道により、ボイルさんの容態が心配な人も多いかもしれません。

ガーディアン紙の電子版は、ボイルさんの弟の話として、入院先のボイルさんは回復基調にあることを伝えています。入院先のボイルさんは、今どういう気持ちなのか、今後どうしたいのかなどを医師などに話すなどして、カウンセリングの治療を受けているようです。

ボイルさんの弟によれば、ボイルさんはだいぶ気持ちが落ち着いており、いつもの彼女の姿を取り戻しつつあるようですが、もう少し療養が必要とのことです。

今回の事態や精神科医の批判を受けて、Britain's Got Talentの番組製作会社は、出場者の精神的なケアやタブロイドメディア等からの保護など内部規範の見直しに取り掛かることを既に発表したようです。

とりわけ、決勝戦では100人以上の海外メディア関係者等がボイルさんの優勝の瞬間をとらえようと集まっていたこともあり、加熱した報道がボイルさんに精神的な重圧を与えていたようです。

また、ボイルさんはすでにチェコ王立交響楽団とのアルバムづくりや、6月11日の党が良番組の国内ツアーなどへの出演予定が決まっているとの報道もあるようですが、今のところ、数日の入院で療養し、今後どういう活動をしていきたいか決めることになると記事は伝えています。

回復基調にあるようで、本当に良かったと思います。

ところで、ボイルさんを知って、ミュージカルの曲などの興味を持った方も多いのではないでしょうか。今回ボイルさんが出場した際に歌った歌は、2つのミュージカルの曲です。

1つは、アンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカル「Cats」より、「Memory」。

もう1つは、キャメロン・マッキントッシュがプロデュースした「Les Miserables」より、「I Dreamed a Dream」。

これらの曲を最も上手く歌い上げているプロのCDを聞きたい人も多いでしょう。

私の完全な独断と偏見ですが、以下、私が今まで聞いたCDの中で最も上手く歌い上げているものを紹介します。

まず、Les Miserablesです。ロンドンやブロードウェイなどのオリジナルCDも出ていますが、私はこのCDが一番、Les Miserablesのそれぞれの歌の良さを引き出して歌われていると思っています。

これは、10周年の記念コンサートのときに録音されたものです。ジャン・バルジャン役はコルム・ウィルキンソンというベテランミュージカル俳優で、初回の上演の際にジャン・バルジャン役をやりました。

また、マイケル・ボールというロンドン初上演の際のキャストに加え、アメリカを代表するテノールのミュージカル俳優のマイケル・マグアイヤ、オーストラリアのフィリップ・クエストなど世界中でもっともこのミュージカルの配役を上手く演じたと言われる人を集めて行われたコンサートなので、聞きごたえがあります。

もちろん、ボイルさんの歌った「I Dreamed a Dream」は、ルーシー・ヘンシャルというイギリスの有名なミュージカル女優により演じられており、Youtubeなどでその映像を見たことがある人も多いでしょう。彼女はこの役をとても上手く演じています。

次に、CatsのCDです。私は、このロンドンオリジナルキャストがベストだと思っています。メモリーを歌う、グリザベラという猫の役は、ボイルさんが憧れたエレイン・ペイジさんが演じていますし、アンドリュー・ロイド・ウェバーの元妻で、オペラ座の怪人のクリスティン役でも有名になったサラ・ブライトマンも配役にいます。

さらに、このCDには、今やイギリスや一部の公演でしか演奏されない、「Growltiger's Last Stand including The Ballad Of Billy McCaw」という曲が収録されています。もともとはこの曲は常に演奏されていたのですが、時間の長さ等の関係から近年はこの曲が省略されてしまっています。

ただ、とても奇麗な曲なので、ぜひ一度聞いてみることをお勧めします。

ちなみに・・・

Britain's Got Talentの司会者、Ant and Decは、2002年のサッカーワールドカップの英国公式ソングを出していたことをご存じだろうか。ボイル人気でこの番組に注目が集まる中、司会者のAnt and Decも世界的にその知名度を広めたようである。このCDなかなか良い曲だと思うので、紹介しておく。

まず、下のYoutubeで試聴してみると良いだろう。なかなか面白いPVである。

以前の記事でも紹介したが、Ant and Decは、イギリスでは、一番人気のテレビ司会者で、出演料も一番高いと言われている。Susan Boyleさんと同様、イギリス人でこの二人を知らない人はいないだろう。

もしイギリス人の友人などがいれば、彼らについてどう思うか聞いてみてほしい。おそらく、「They are funny. I like them.」と答えると思う。

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アメリカ経済はまだまだ回復できない?!

以前、ある経済評論家の自動車に対する理論を紹介したが、これがいよいよ現実味を帯びてきた。

以前の記事はこちら

アメリカに大手自動車メーカーは1つで十分という理論だが、私はこの理論は2000年頃に聞いた覚えがある。残念ながら誰が提唱していたのかはっきり覚えていない。

もし、2000年頃にこの理論を提唱していたという人を知っている人がいたらぜひ教えてもらいたい。

この理論を聞いたときに、私は何人かにこの理論を紹介したが、私の親友であるアメリカ人の友人以外は誰一人、そんなことあるはずがないと応えていた。

この経済学者、先見の明があったのであろう。

ちなみに、私が調べた限りのアメリカ経済の将来に対する予測はこちらの記事を確認してもらいたい。もっとも、これは多くの日本の経済学者が同じような指摘をしているのを私なりにまとめたに過ぎないので、仮に当たっても私が発案者というわけではないが、このGM破綻のニュースを聞いて、この予測も当たるのではないかと考えている。

GMが破産法申請=米製造業史上最大の倒産-「国有化」で再建へ
6月1日21時9分配信 時事通信

 【ワシントン、ニューヨーク1日時事】米自動車最大手ゼネラル・モーターズ(GM)は1日、連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)適用をニューヨークの連邦破産裁判所に申請した。3月末時点の負債総額は1728億ドル(約16兆4000億円)。総資産は822億ドル(約7兆8000億円)で、米メディアによると、米製造業最大の倒産。過去の米企業破綻(はたん)では、昨年9月の証券大手リーマン・ブラザーズなどに次いで、3番目の大きさとなった。
 米政府は景気や金融市場への影響を最小限に抑えるため、301億ドル(約2兆9000億円)の追加融資を実施。最長でも3カ月の破産手続きを経て誕生する「新生GM」を実質国有化し、スピード再建を実現する方針だ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090601-00000195-jij-int 

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06/01/2009

Susan Boyleさんが救急搬送される

既に日本のメディアにより報道されているが、ボイルさんが精神的なストレスによる過労のため、修道会(Priory)の病院に救急搬送されたという。

ボイルさんは教会ボランティアをしていたので、その関連する修道会の病院に搬送されたようである。

ガーディアン紙によれば、搬送された修道会の病院は、ファッションモデルのケイト・モス(Kate Moss)さんや、音楽家のピート・ドハーティー(Pete Doherty)氏など有名人が通う病院で、精神科やアルコール中毒患者への治療を行う有名な病院だという。

イギリスのメディア、アメリカのメディアも速報で伝えている。

これに対し、イギリスのゴードン・ブラウン(Gordon Brown)首相が、審査委員のサイモン・コーウェル氏やピアーズ・モーガン氏に直接連絡を入れ、ボイルさんの容態が大丈夫かどうか確認したとスカイテレビの電子版は伝えている。

ロイター通信によれば、今回話が大きくなっているのは、ボイルさんを診察した医師たちが、彼女のストレスと疲れが精神的なダメージを彼女に与えていると診断し、メンタルヘルス法に基づいて、救急搬送したためである。

同法に基づいて、医者の要請により、救急搬送される場合には、警察官が付き添うことになっているようで、こうした事態から、ブラウン首相も介入したようである。

ただ、ガーディアン紙によれば、同法による要請を行った医者も認めているが、ボイルさんが任意に決断し、同医師がその決断を支持したということだそうである。

ロンドン警視庁の発表では、現地時間の5月31日日曜日の午後6時に救急搬送の要請があったとのことである。

CNNに報道によれば、入院は1,2日にわたる見通し。

この報道に、ボイルさんの地元の住民は大きなショックを受けていると別の記事が伝えている。近所に住むミシェル・マクケイブ(Michelle McCabe,)さんは、「アメリカにいる有名な俳優は何年もかけてメディアの注目を浴びるようになるが、それがボイルさんには7週間で生じてしまった。もっと彼女に対して番組が配慮すべきだった。」と嘆いている。

近所に住む別の地元住民、アネット・パターソン(Annette Paterson)さんは、「ボイルさんに起ったすべてのことを残念に思う。ボイルさんに対するメディアの扱いは酷過ぎた。恥を知るべき。メディアは彼女を利用するだけ利用したのよ」と怒りを交えて答えているという。

ボイルさんの場合、すでに知られているように、出生時の低酸素症による障害があるため、極度のプレッシャーをうまくコントロールすることができないのではないかという専門家からの指摘もあった。

例えば、先週から別のテレビ局、チャンネル4の番組に出演していた有名な精神科医は、ボイルさんの精神状態に危機的な状態にあるなど警鐘を鳴らし、Britain's Got Talentの番組プロデューサーについて、ボイルさんの健康状態を危機にさらして、自分たちの番組のために利用していると強く批判していた。

また、番組が終了しても、彼女へのメディア攻勢は激しくなる一方であった。例えば、決勝の結果が発表された後に舞台裏で、「こんな番組大嫌い」と叫んで、水の入ったコップを番組スタッフに投げつけたという一部タブロイド紙の報道があったりしたため、ボイルさんへの過剰なメディアスクラムが疲労の原因になったようである。

実際には、彼女はにこやかな姿で優勝したダンスチームを祝福し、司会者のAnt and Decにジョークを飛ばすなどしていたし、優勝したダンスグループ、Diversityもボイルさんが番組終了後にとても優しく祝福してくれたと語っている。

そうした本来、明るく優しい性格の彼女に、裏の顔を作り出そうとするタブロイド紙の取り上げ方が原因で彼女の疲労がピークに至ったとすれば、本当に残念なことである。

こうした事態について、ガーディアン紙は、ボイルさんの友人で、依然彼女の声楽の先生だったフレッド・オニール(Fred O'Neil)氏がBBCの朝の番組に出演し、「これはとても悲劇的な話しです。彼女は有名になりたかったわけではないし、有名なることが彼女を幸せにすることではなかった。ただ、歌を歌うことが大好きな無実な女性が、人気ゲームに巻き込まれてしまった。」と今回の事態を悲劇としか言いようがないと悲しんでいると伝えている。

さらに、ガーディアン紙は、スコットランドの第一首相のアレックス・サルモンド(Alex Salmond)氏が談話を発表し、「メディアの報道には、人を持ちあげるだけ持ち上げ、その後、引きずりおろすというのを好き好んでやる性格がある。」と述べ、メディアによるボイルさんへのプレシャーを強く批判したと記事は伝えている。

イギリスはパパラッチの本場であるが、それを利用するメディアの自制が必要かもしれない。イギリスではこうしたオーディション番組およびメディアの過熱報道に関するあり方が今後議論されそうである。

日本でもいくつかの掲示板では、彼女の容姿をこけ下ろす書き込みや、タブロイド紙の報道を真に受けた書き込みがあったりする。有名になると妬まれるというのはあるが、いくら匿名性があるからと言っても、あまりにも荒んだコメントが多く、日本社会にも多少の不安を感じざるを得ない。

<英国>歌姫スーザン・ボイルさん、疲労で入院
6月1日11時56分配信 毎日新聞

【欧州総局】英大衆紙サン(電子版)によると、テレビのオーディション番組に出演し、驚異的な歌唱力で世界的な反響を巻き起こしたスーザン・ボイルさん(48)が31日、「疲労」を訴え、ロンドン市内の病院に緊急入院した。スーザンさんは30日の決勝で優勝を逃し2位となったが、緊張がストレスになっていたようだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090601-00000032-mai-int

ユーチューブの歌姫 極度の疲労で緊急入院
6月1日10時43分配信 産経新聞

 【ロンドン=木村正人】英人気オーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」決勝で優勝を逃した英スコットランド地方出身の独身女性スーザン・ボイルさん(48)が5月31日、極度の疲労を訴えて緊急入院した。英大衆紙サンが伝えた。

 同紙によると、ボイルさんは宿泊先のホテルから救急車で病院に運ばれた。ボイルさんはパッとしない風貌(ふうぼう)と驚異的な歌唱力のギャップが受けて大手動画投稿サイト、ユーチューブを通じ世界的に有名になった。しかし、英メディアに追いかけ回されて警官に大声を出すなど、過度に神経質になっており、一時は決勝への出場も危ぶまれていた。

 同番組決勝では、若者のダンスグループ「ダイバーシティー」が優勝し、ボイルさんは2位に終わった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090601-00000526-san-ent

英歌姫、疲労で入院
6月1日18時12分配信 時事通信

【ロンドン1日時事】1日付の英大衆紙サンは、同国のオーディション番組で美声を披露し世界的な人気者になったスーザン・ボイルさん(48)が5月31日に極度の疲労でロンドン市内の病院に入院したと報じた。
 それによれば、ボイルさんは30日に同番組の決勝で優勝を逃し2位になったことで「精神的に落ち込んだ」という。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090601-00000124-jij-int

日本のメディアに一言。

時事通信は、通信社なんですからもう少し情報を集めるべきでしょう。この情報の少なさでは、誰もお金を出して情報配信してもらいたいと思わなくなりますよ。

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ボイルさん現象を分析する(コメントへの返信)

とても面白いコメントをいただいたので、返信の形ではなく、記事の形でそのコメントに対する私の見解を紹介しようと思います。

個人的にはコメントの内容に賛同できないのですが、このコメントは、今回のスーザン・ボイルさんの人気現象を分析することを通じて、アメリカ社会の本質や日本社会について考える上でとても良い材料となると思い、こうした形をとらせてもらいます。

以下のコメントは、「どんどん注目を浴びるスーザン・ボイル(Susan Boyle)」という記事に寄せられたコメントです。

>日本も、早く物欲主義がら抜け出せて、一般の人に>埋もれているこういう>才能が発掘されるチャンスが
>ある世の中になってほしいものですし

そうでしょうか?
根底に偏見が根強い国、人ほど彼女を評価すると思います。
私に偏見がなかったせいか、彼女の歌、ギャップで感動することはなかったですね。私の周りもそうです。
彼女はとてもうまいし素敵です。ただ普通にプロ並にうまい。スーザンさんほど上手に歌う人はプロにたくさんいるため、これほどの話題になるのはやはり偏見からではないでしょうか。
そういう意味では日本であまり話題にならないのは、ある意味、偏見のなさもあるかもよ

以下、私の見解とコメントに対する回答です。

Teraさん

はじめまして。コメント有難うございます。

>根底に偏見が根強い国、人ほど彼女を評価すると思います。
>私に偏見がなかったせいか、彼女の歌、ギャップで感動することはなかったです
>ね。私の周りもそうです。

確かに、一面においては、彼女の見た目が普通の人なのに、すごい歌を歌うという点で偏見があり、それとのギャップで感動ということはあるでしょう。

しかし、私は以前からこのブログで指摘していますし、他のコメントしてくれる方もそうですが、ボイルさんの歌声は、技術では測れない何か不思議な魅力があると思っています。

私は音大こそ出ていませんが、アメリカの大学で2年間、オペラ歌手の先生からボーカルスタディーを受けていました。なので、歌の技術という点では、多少うるさいと自認しているのですが(自分が声楽が上手いかどうかは別として・・・)、ブログでも指摘していますが、彼女の歌の技術はやはりアマチュアです。ただ、プロにはないまた普通のアマチュアにもない不思議な魅力のある声だと思うのです。

私は彼女の歌声を何度も聞いていますが、目を閉じて聴覚を研ぎ澄ませ、その歌声に集中すると、より彼女の不思議な声の魅力が鮮明になると思います。これは、彼女のもともとの素質、生まれ持った才能としての声の良さではないかと考えていますが、人に癒しを与える不思議な魅力ある声だと思います。

>彼女はとてもうまいし素敵です。ただ普通にプロ並にうまい。スーザンさんほど
>上手に歌う人はプロにたくさんいるため、これほどの話題になるのはやはり偏見
>からではないでしょうか。

私は、彼女が話題になるのは偏見からでは無いと思います。

おそらく、貴殿の言われる偏見というのを定義するならば、「その辺のオバサンなんかに人を感動させる歌なんて歌えない」とか、「小太りのおばさんが世界の注目を集めているから話題性がある」とかいう意味で偏見があるということなのでないかと思います。

ただ、彼女の話題性の原動力は、偏見ではなく、彼女の不思議な魅力ある声はもちろん、インターネットによる原動力と特にサクセスストーリーを好む世論にあるのだと私は思います。

つまり、既存主要メディア(特に、アメリカ)が取り上げるのは、

①インターネット(Youtube)で、過去6番目に再生回数が多いと言うほど注目を浴びていること、

②アメリカではYoutubeが選挙戦にも影響を与えるほどの強いメディア媒体になっていること、

③そして、アメリカンドリームの精神が根強く残っていること

以上3点が理由であると分析しています。

①②については、そのまま御理解いたただけると思うのですが、③については多少補足します。

アメリカという国の本質は、フロンティア精神(開拓精神)です。つまり、このフロンティア精神の本質は一攫千金を狙うハングリーさという要素があります。そして、アメリカンドリームはまさにフロンティア精神そのものだと言えます。

このアメリカンドリーム(またはフロンティア精神)は、アメリカ社会において、最も重要な価値であり、アメリカ合衆国の統一はこれによって、支えられていると言っても過言ではありません。

御存じのように、アメリカは他の国に類を見ないほどの人種、異文化のるつぼです。

これは世界中広しといえどもアメリカ以外にこれほど多様な人種が国民を構成している国家はありません。とすれば、アメリカには様々な異文化、異民族が混在しているのであり、常に衝突しうる状態であるともいえます。

そこで、これを1つの国家として、秩序維持するには、多様な文化が混在する国民に1つの価値を提供して統一を図る必要があります。それが、まさに、フロンティア精神の継承であり、アメリカンドリームという価値そのものです。

アメリカの1セント硬貨には、「e pluribus unum」という言葉があります。これは、ラテン語で、「多くから作られた一つ」とう意味で、さかのぼるとこ、1776年のアメリカ独立宣言が発表された時に、起草委員会のベンジャミン・フランクリン、ジョンアダムス、トマス・ジェファーソンにより考案されたといわれています。この「多くから作られた1つ」を統一する価値が現在でいう、「アメリカンドリーム」、すなわち、「フロンティア精神」という価値だと考えています。

(蛇足ですが、類似する異民族国家、中国が、中華思想や共産主義思想という価値で国の統一を図っているのと同じようなものだと考えるとより分かりやすいかも知れません。)

アメリカンドリームの例を挙げると、アメリカ国民の皆に愛される大統領、リンカーンは開拓時代の丸太小屋の中で生まれ、両親は開拓者の子孫の農民だったので、それほど恵まれた子供時代ではありませんでした。しかし、若いころから家を離れ、その後、いくつかの失敗を繰り返した後に、弁護士、政治家と成功していくわけですが、財のないところから成功していく姿はまさにアメリカンドリームです。

現代でいえば、引きこもりのように内気で、友人にはオタク扱いされ、馬鹿にされた少年時代を過ごしたスティーブン・スピルバーグが、今や世界的な映画監督になって成功するとか、同じように、コンピューターオタク扱いされていたビル・ゲイツが自分の才能だけで成功するとか、そういう普通の人が一攫千金するのがアメリカのフロンティア精神の体現であり、アメリカンドリームそのものといえます。

テレビ番組で、億万長者ドナルド・トランプ氏が司会をする一攫千金番組)「アプレンティス(The Apprentice)」が人気なのもこのアメリカンドリームという価値に合致しているためかもしれません。

私は、今回のアメリカでの熱狂的なボイルさんへの陶酔も、このアメリカンドリームの体現そのものとして、アメリカ国民に受け入れられていることに起因していると私は分析しています。

すなわち、ボイルさんという48年間誰にも注目されない普通の人が、隠れた歌声という才能を公衆の前で開花させ、成功していく姿はまさにアメリカンドリームそのものとして、アメリカ国民に共感されているのではないでしょうか。

したがって、偏見がどうのこうのというレベルの話ではないと私は考えています。

>そういう意味では日本であまり話題にならないのは、ある意味、偏見のなさもあ
>るかもよ。

日本で話題になっていないといえるのかは疑問です。

私の認識としては、かなり話題にはなっていると思っています。今日もフジテレビの「とくダネ」では番組のトップ扱いで、時間を割いて取り上げていたようですし、読売新聞の朝刊でも大きく取り上げられていました。

また、このブログは通常50人も閲覧に来れば良いくらいのものでしたが、この話題を取り上げるたびに、1000人、2000人の閲覧者が記録され、私にとっては異常な訪問者数を記録しました。また、アクセスログからわかるのですが、多くのメディア関係者の方もこのブログを参照してくださっているようです。そういう意味で、日本社会のボイルさんに対する関心はかなり高いと言っていいでしょう。

ただ、確かに、アメリカの熱狂ぶりや現地イギリスでの盛り上がりと比べると、話題性は低いかもしれません。

しかし、その話題性が低いというのは、相対的な話ですし、日本でも多くの人が彼女の歌声の不思議な魅力に感動したのではないでしょうか。

また、盛り上がりがイギリスやアメリカと違うのは、言語の壁も大きいでしょう。多くの日本人がこの情報に接しようとしても、英語という壁があるので、得られる情報が限られています。英語が苦手な人は特に情報を得るのに苦労するはずです。

そして、仮に、貴殿の偏見度の国別の違いにより、ボイルさんの取り上げ方が違うという見解に乗るとしても、これをもって、我が国の偏見が少ないという帰結になるには論理の飛躍があります。

私からすれば、日本は偏見に満ち溢れた社会と言っても過言ではありません。

例えば、刑事事件では、「犯人=容疑者=被告」という偏見をもった取り上げられ方です。松本サリン事件の教訓を一切活かしていません。裁判員制度が始まりますが、どれだけの人が「疑わしきは被告人の利益に」という原則を本当に理解できているか疑問です。

小沢一郎氏の秘書逮捕の報道もそうですが、検察が流す情報はいつも正しいという認識(偏見)がマスメディア、その受け手である国民にあり、情報操作されていることすら気が付いていない人も多いはずです。

また、身近なところの話でいうと、私のイギリス人の(現在はロンドンに在住)友人が日本に住んでいた時の話ですが、店などに行くと、他の客がその友人は英語しか話せないと思い、日本語で外国人の悪口(白人はすべてアメリカ人と思いこんでいるのか、彼をアメリカ人だと思って悪口を言っていたそうです)をおもむろに話し出し、非常に気分を害することになったという経験を何度もしていると言っていました。

不幸なことにその友人は日本語が堪能なので、すべて悪口を理解できたそうです。そういう経験がかなり頻繁にあったと聞きますし、そういう経験をした外国人の友人はかなり多くいます。

学歴や経歴に対する偏見もそうです。近年はだいぶ緩和されましたが、未だに学歴に対する偏見は根強くあります。

これまた私の友人の話ですが、京大出身で、官僚なのですが、やはり根強く東大の学閥があり、こんなことでは優秀な人材が辞めてしまうと嘆いていました。現に、法曹界もそうですが、学閥は根強くあります。最高裁の判事の経歴や大手法律事務所のパートナーの学歴を見れば、東大出身者で多く占められています(決して、東大出身者が多いのが悪いというわけではありません)。それには少なからず、採用段階等で、東大卒の方が他大より優秀だろうという偏見が存在すると思います(それが良いか悪いかは別の話です)。

経歴もそうです。「医者、弁護士、商社勤務=収入が高い」という偏見があるでしょうし、企業や公官庁内部でも、「Aさんは、○○に飛ばされた経験があるだ。」とか「Bさん、可哀そうに△△課に行くなんて、出世コースから外れたね」、なんていう話をよく耳にすることがあるのではないでしょうか。つまり、左遷組だという偏見があるわけです。

関西に行けば、未だに部落差別が存在します。例えば、京都の九条あたりには、スラムのような地域があり、部落差別の温床となってきました。未だに、その地域出身の人が就職したり、結婚する際には、どこからともなくその人が部落出身者であることを伝える情報が周り、邪魔をされるということが現に行われています。私もその地域を訪れたことがありますが、なんとも言えない雑然としたスラムの雰囲気があり、それが偏見の温床になっているのだなと感じた思い出があります。

数を挙げればきりがないですが、日本だって偏見社会と言ってもいいかもしれません。偏見があるかどうかは国によって違いはないでしょう。どのような国に言っても偏見はありますし、その度合いも基本的には変わりありません。なぜなら、偏見は先入観から生じるものだからです。人間である以上、先入観を捨て去るのは容易なことではありません。

唯一の違いは、その偏見についてオープンに語る文化があるか、そうでないかの違いだと私は思います。

以上、とても長くなりましたが、①ボイルさん現象に偏見は関係ないということ、②偏見が日本にはないというのは間違いだというのが、私の見解です。

この反駁を通して、アメリカ社会の本質や日本社会の偏見の在り方などについて、読者の興味関心が喚起できれば幸いです。

48歳の英歌姫、優勝逃す=でも前途は洋々?
5月31日21時8分配信 時事通信

【ロンドン31日AFP=時事】英オーディション番組で地味な外見に似合わぬ美声を披露し、一躍有名になったスコットランド人女性スーザン・ボイルさん(48)が30日、番組の決勝戦に出場したものの、優勝を逃し2位に終わった。
 優勝候補に挙げられていたボイルさんは、先ごろ行われた準決勝でミュージカル「キャッツ」の「メモリー」を歌ったが、ときどき調子を外すなどやや不安定な歌いぶりで、精神的プレッシャーに苦しんでいるとの見方が出ていた。また英メディアによると、滞在していたロンドン市内のホテルでかんしゃくを起こし、警察が介入する騒ぎもあったという。
 生放送で行われた決勝戦では、4月に初登場した時と同じミュージカル「レ・ミゼラブル」の「夢やぶれて」を熱唱し、改めて審査員や聴衆から喝采を浴びた。だが、100万人を超える視聴者の投票の結果、優勝し賞金10万ポンド(約1500万円)とエリザベス女王の前で演技する機会を手に入れたのは、10人組の若いダンサーグループだった。
 「最も優秀な人々が勝ったのであり、彼らの成功を祈っている」と勝者をたたえたボイルさんだが、複数のメディアは31日、世界的となった知名度を生かせばボイルさんは来年大金を手にできるかもしれないと伝えた。ニューズ・オブ・ザ・ワールド紙によれば、アルバム制作などのプランが進行中とされる。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090531-00000074-jij-ent

この記事にも一言。ホテルでかんしゃくを起こしたと書いていますが不正確です。BCCなどの報道では、二人組のタブロイド紙の記者が滞在先のホテルに押し掛けてボイルさんを追い回し、挑発する発言浴びせたので、ボイルさんが怒りを顕わにし、その場にいた警察官が記者を追い出して、ボイルさんに事情を聴いたという話なのに、まるでボイルさんが理由なく精神的不安定になったかのような記事の書き方です。

時事通信はもう少し正確な記事を配信しなければ、今でさえ難しい経営はさらに難しくなるのではないでしょうか。

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