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03/01/2009

アメリカの司法テレビ番組について2

先日に引き続き、過去のブログ記事(別のブログのもの)を再度紹介する。

昨日のアメリカの裁判テレビ番組についての話の続きである。

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昨日、ジャッジ・ジュディーというアメリカのテレビ番組について、このブログで紹介した。

それについて、アメリカ法曹協会(American Bar Association、以下ABA)が警鐘を鳴らす論文を発表していることを知ったので簡単に紹介したいと思う。。

私は、「こうした番組がPRとなり、法的手段が積極的に活用されていくのは、好ましいと思う一方で、裁判と仲裁の違いなど正しい知識を持った上で、国民がそうした制度を活用するようになることが必要だと感じている。」と指摘したが、これとほぼ同じ視点から、ABAも警鐘を鳴らしているのである。むしろ、ABAの指摘からすると、害の方が多かったようだ。

論文の題名は、「Syndi-Court Justice:Judge Judy and Exploitation ofArbitration (無政府法廷の判事:ジャッジ・ジュディーと仲裁の利己的な利用)」というもの。以下が概要(元の論文を約するには長いので、読んだ内容を私なりにまとめたものである)。
http://www.abanet.org/dispute/essay/syndicourtjustice.pdf

まず、ジャッジ・ジュディーに代表されるテレビ法廷番組は、そのセットが実際の法廷を忠実に再現して、あたかも法廷であるような印象を与えるが、これは実際の法廷ではなく、裁判官でもない。彼らは仲裁人に過ぎない。仲裁人は、法定の民事訴訟手続きや実際の実体法や判例等には拘束されず、仲裁人の思うがままに行動できるという点において、実際の法廷における裁判官とは異なる。

しかし、問題は、テレビ番組が実際の法廷であるかのような印象を視聴者に与えてしまい、多くの視聴者
が、実際の法廷だと勘違いしたり、実際の法廷もテレビ番組のように行われるという誤解を招いたりするという点である。これは、(陪審員制度が導入されているアメリカにおいて)司法制度に重大な影響を与えてしまっている。

そもそも、テレビ番組で行われている無政府の法廷(政府の司法権に準拠しない法廷)では、当事者が事前に仲裁合意契約を締結し、仲裁人として、テレビ番組が指定する者を選定することから始まる。テレビ制作側は、契約において、仲裁合意の内容を一方的にして指定し、変更ができないように決めている。したがって、仲裁合意の範囲内で、好き勝手に仲裁人は振る舞い手続き好きに進めることができるのである。

はじめに、この種の番組の仕組みについて説明する。テレビ局側は、まず、インターネット等の応募で、一般人からネタとなる紛争を抱えている人を集め、テレビに映りながら、紛争機会の解決を与える。
出演のインセンティブとして、実際の紛争として当事者間で問題となっている請求額(訴額)とは別に、応募者に一定の報酬を支払ったり、番組内での"判決"次第で、さらに報酬を上乗せするなどを行い、一般人から出演者を確保している。

また、ジャッジ・ジュディーにおいては、訴額についても番組側で負担している。
仲裁人であるジャッジ・ジュディーには、判決を下す上で(仲裁判断をする上で)、2つの選択肢がある。1つは、出演料以上の金銭的支出を当事者のいずれか一方が行うという"判決"を下す場合、その超えた部分については、番組側が支出する。もう1つは、仲裁人が、なるべく、出演料を超えない範囲で当事者に支払を命じるという方法である。したがって、仲裁人であるジュディー氏は判断内容の合理性等を弁解する法的義務はないので、判断が番組の支出を減らすために理不尽に行われることもある。

次に、こうした無政府の法廷に対する実際の司法制度における法的性質や状況について検討するが、不透明と言わざるを得ない。無政府の法廷の判断に不満のある当事者が、司法裁判に訴えるケースがあるが十分な判例の集積はできていないのが現状である。

当初、株式会社Doo Wop Shoppe対ラルフ・エドワーズ事件において、裁判所は、仲裁費用を紛争の第三者であるテレビ制作側が負担するという形式は、実際の仲裁形式ではなく、仲裁判断は無効であるとの判決を示した。

しかし、その後、Kabia対Koch事件では、裁判所は、ニューヨーク仲裁法やブラック法律辞典には、第三者が仲裁費用を支払ってはいけないという規定はないとして、前の事件での判断とは異なる判断をしている。

また、「民衆の裁判(The People's Court)」という番組で、裁判官役を務めた仲裁人Edward Kochに対し、損害賠償請求訴訟が提起された事件では、仲裁人は、仲裁合意契約の免責条項により免責されるとの判断がニューヨーク州第2地方裁判所で示されている。この免責に関する判断は、ニューヨーク州の実体法や手続法に照らしても合理的ではあるが、無政府の法廷によって生じる無数の問題点を示唆している。

そもそも、仲裁は私的自治の手続的反映の1つとして、認められているのであり、非公開の手続きにより進められるべきものである。したがって、そのような仲裁と、何百万人の視聴者に見られながら進められる無政府の法廷とは根本的に違いがある。

しかし、法的には仲裁であるとされているため、仲裁人たる"裁判官"はどのような判断でどのような手続きを踏んだかにかかわらず、仲裁契約により不法行為責任が免責されてしまい、さらには、仲裁であるため、上訴が許されず、確定判決と同様の効果を持ってしまうのである。

さらに、裁判の場合、裁判官が非常識かつ高圧的態度で当事者を侮辱した場合、公開の法廷であるため、その一尾始終を傍聴人が目撃し必要な手段を講じることができるが、テレビ法廷番組では、そのような場面はカットされてしまうため、必要な手段をとるための証人の確保すら困難となる。

また、仲裁人である"テレビ判事"が仲裁合意の管轄を超えて、判断をしてしまう点にも問題がある。ジャッジ・ジュディーはかつて家庭裁判所の判事であったにもかかわらず、家庭裁判所の専権事項である親権の判断について、仲裁判断をテレビでしてしまい、それが実際の法廷において覆される事態に至っている。

こうした中、特に問題なのは、裁判手続きがテレビ番組の法廷のように行われると多くの視聴者が誤信している現実があることである。これは、テレビ番組の制作方法によるところが大きい。
ジャッジジュディーにおいては、番組の冒頭やCMの前後で、ナレーションが入り、「当事者は現実のものであり、事件は実際の事件であり、ジュディー裁判官の判決が確定判決となる。この番組はジュディー裁判官の法廷である。」とのコメントが流れる。

その他、ジュディー裁判官が家庭裁判所の判事だったという説明やCM明けに「実際の事件、実際の当事者」というナレーションが繰り返し流れている。終いには、廷吏と思わしき人物が起立を促し、事件番号を読み上げて裁判仕立てのテレビ番組が始まるのである。

そして、番組の最後のエンドロールで、数秒間、仲裁であるとの免責と注意書きが現れるが、この注意書きも録画して画面を停止しないと読めない程度の早さで消えてしまうため、視聴者が誤解する原因となっている。ジャッジ・ジュディーという番組は意図的に、実際の法廷であるかのようなイメージを視聴者に送っているのである。

実際の裁判官は厳格な手続法に基づいて、手続的保障の理念の下、丁寧に訴訟指揮を行うのであり、好き勝手に仲裁を行うジャッジ・ジュディーのような場面とは全く異なる。
しかしながら、高視聴率が災いし、多くの視聴者はこうした番組に影響され、裁判官はより積極的な釈明をして、率直に物事を言うべきであると考えてしまう傾向がある。

そして、問題は、視聴者がこうした番組を見ることで、本当の法廷での審理に対し、一種の劇場的なやりとりを期待してしまい、テレビ番組のドラマと区別がつかなくなってしまっている点にある。つまり、こうしたテレビ番組が一般国民にとって、法律を勉強する重大な道具になってしまっているのである。

この傾向は、とても重大な危険性を有している。なぜなら、テレビ番組の無政府法廷はあくまで仲裁であり、仲裁だからこそ柔軟な行動を仲裁人がとっているにもかかわらず、これが実際の法廷を反映させている姿だと視聴者が誤って学んでしまっているためである。

ある調査では、陪審員制度にも、一連のテレビ番組の影響がでているとの指摘がある。この調査によると、ジャッジ・ジュディーをよく見ると回答した人の実に約7割~8割が、裁判官は、刑事事件についても事前に意見を持っているべきで、それを積極的に陪審員に開示すべきと回答し、また、積極的に釈明権を行使し、当事者や証人に対しても攻撃的になるべきだと回答しているのである。

他方、番組を見ていないと回答した人で、同じ回答をした人は約3割程度にとどまっている。特に著しい差が出ているのは、裁判官が当事者ないし証人の尋問に介入し黙らせるべきかという質問に対し、番組をよく見る人の73.8%がすべきと回答しているのに対し、番組を見ていない人は13%にとどまっている点である。

こうした陪審員の認識に重大な影響を与えており、実に番組を良く見る人の3/4が、テレビ番組の無政府の法廷における仲裁人の行動が適切と答えている点は、見過ごすことができない問題である。

以上のような問題点を解決する手段としては、議会による立法が待たれる。法律で、視聴者が認識できる程度の一定時間、番組は裁判ではなく仲裁であることを明示したり、過剰に実際の法廷であるかのような印象を与えるナレーションを禁じ、むしろ、仲裁であることの説明をナレーションで入れるなどを義務付ける必要があるだろう。

そして、テレビ番組に登場する法廷は実際の司法制度における裁判手続きとは全く異なるものであることを視聴者に喚起しなければならないだろう。

こうしたテレビ番組が人気になることは理解できる。仲裁人は法の支配に従うのではなく視聴者により受け入れられやすい常識に従って判断をするし、当事者は番組が旅費を含め紛争解決に必要な費用を負担してくれるので、紛争解決のために利用したいという願望に駆られる。また、テレビに出たいと考える視聴者も多いだろう。

しかしながら、こうした無政府の法廷は、司法制度がどのように機能するかについて誤った知識を与えてしまう点において、著しく問題である。こうした法廷は、一般国民の司法機能に対する認識を弄び、重大な影響を与えている。視聴者に対し、これは仲裁であって、司法権の発動たる裁判所の法廷ではないということを認識させるメカニズムをなくして、健全な国民の司法参加は大きく歪められるだろう。

この論文を読んでも、「まさか?テレビ番組と実際の裁判を誤解するなんてありえない」と思う人も多いと思う。

しかし、一般のアメリカ人と話した際に、この番組で議論してしまったことがある。

というのは、相手の方はこの番組のジュディー裁判官は本当の裁判官で、あれも本当の法廷だと言い切るのである。

私は、仲裁であり、裁判ではないことを説明したのだが、「彼女はロースクールも出ているし、家庭裁判所の裁判官を30年やった人だ。君は、彼女がロースクールに戻る必要があるといいたいのか」と最後まで屁理屈をこねて、裁判ではないということは認めてくれなかった。

こうした番組を現実なんだと妄信している人もいるのである。

もちろん、その人はその辺の一般人だったので、専門知識に乏しいとしても、私には本当に驚きであった。

後日、私の親友のアメリカ人でロースクールにいる友人にこの話をしたら、ありえることだろうと言っていた。

もしこんな番組が始まったら、日本ではこんな誤解はありえないともいえないだろう。

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